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第5話 真言坊の日常

今日は月初め、朔日(ついたち)。

真言坊では朔日に必ず行う決まりごとがいくつかある。

しかも昨夜は二組のお客様が泊まっているため、今朝はいつにも増して忙しくなる。


真言坊の料理人であり主人の榊郁人は、夜明け前から御師の務めを果たしていた。

御師とは、参拝者の案内や祈祷、宿坊の運営を行う宗教ガイドである。


ご神前の部屋には、木製の古い祭壇が静かに佇み、戸板神社の神様のお札が奉られている。

まだ薄暗い中、郁人は灯明の油皿をきれいにし、新しい油を注ぐ。

榊の水を入れ替え、檜の床を水拭きし、玄関先と鬼門に盛り塩を置くと、ようやく一息ついた。


続いて調理場で朝食の準備に取り掛かる。

本日の朝食は、真言坊特製の具沢山きのこ汁、だし巻き卵、鮎の甘露煮、青菜のお浸し、ひじきの炒め煮、きゅうりの酢の物、ナスの浅漬け、大根のぬか漬け、季節の果物のスムージーだ。


郁人は調理の流れを頭に入れ、まずは出汁とりから始めた。


そこへ紅がやって来た。


「郁坊、おはよう。」


いくつになっても子供扱いだ。


「だ、か、ら、俺のこといくつだと思ってんの?もう41歳だよ。いいかげん坊ってのやめてよ。」


「いいじゃないの。いくつになっても坊は坊なんだよ。」

紅は嬉しそうに笑う。


何を言っても無駄だと郁人は悟っている。


「人前でだけは気をつけてよ。」

郁人が釘を刺すと、蒼がやって来た。


「あっはよう。郁坊。」


お手上げだった。


郁人が手早く料理を仕上げ、紅と蒼が食事所へ運んでゆく。

お客様のチェックアウトが済み、お見送りをすると、ようやく三人の朝食の時間となった。


今日の賄いは、塩鮭、青菜のお浸し、だし巻き卵、山芋のぬか漬け、具沢山きのこ汁、梅干しだ。


「郁坊のだし巻きは美味しいね。」

蒼がアツアツのだし巻き卵を頬張る。


「私はこの山芋のぬか漬けが好き。いくらでも食べられる。美味しいね、郁坊。」

紅も口いっぱいにご飯を詰め込み、幸せそうだ。


そんな二人を見ているのは、郁人も嫌いではない。


朝食後は調理場と客室、庭の掃除が始まる。

食器を洗い終え、竹ぼうきを片手に外に出た。


真言坊の玄関先には、小さな池がある。

宿坊の裏山から湧き出る清水がこの池へと流れ込み、さらに宿坊横の小川へとつながっている。


池は細長く、周囲にはギボウシやツワブキが生い茂り、全貌はほとんど見えない。

というか──池は“ほんの一部しか見せていない”と言った方が正しい。


ある時、郁人は「これはきれいにした方がいい」と思い、池の周りの草を刈ろうとした。

その瞬間、蒼がすっ飛んできて草刈りを止めた。


「風情があるから草は刈るな。」

理由はそれだけだった。


その後も草を刈ろうとすると、紅か蒼がどこからともなく現れて止めるので、

郁人はそのうち諦めてしまった。


この池には一匹だけ鯉がいる。

白・赤・黒が入り混じった錦鯉だ。


人が通りかかると、餌を求めて水面に上がってくる。

口をパクパクする姿が、妙にかわいい。


紅と蒼はこの鯉を “おみず様” と名付け、たいそうかわいがっている。


おみず様は郁人が子供の頃からずっとこの池にいる。

噂では、もう何百年も生きていると言われている。


日中は郁人も餌をあげるが、夜の餌やりは紅と蒼の役目だ。

何か特別な餌を与えているのかもしれない。

何百年も生きる鯉の秘密は、この辺にあるのだろう。


池そのものも、実はどこかにつながっているのかもしれない──

そんな気配がある。


玄関先には大きな紅葉の木がある。

この木も、どうにも“普通ではない”。


ある秋の日のこと。

お客様が到着されて、この紅葉をたいそう褒めた。


「まあ、立派な紅葉だこと。これがいっせいに紅葉した時には、さぞかしきれいなことでしょう。」


紅葉は緑から赤へと変わり始めていたが、全体が赤くなるにはまだ時間がかかるように見えた。


ところが──

次の日の朝、おもてに出ると、例の紅葉が真っ赤に紅葉していた。


一晩で急に紅葉するなど聞いたことがない。

それでもお客様はたいそう喜び、紅葉と一緒に記念写真を撮って帰っていった。


それ以来、秋に来たお客様がこの紅葉を褒めると、

たまに一晩で真っ赤に紅葉することがある。


まるで、人の話がわかるようだ。


枯れ葉を集め、ごみを拾い、庭がきれいになると、空気が澄んだようで心もすっきりする。

紅と蒼も客室の掃除を終えたようだ。


その時、業者の移動販売カーがやって来た。


「毎度。今日のご入用はいかがですか?」


戸板神社は山深い場所に建つため、街まで買い物に行くには時間がかかる。

この移動販売カーが週に何度か村を回ってくれるおかげで、村人は本当に助かっている。


「こんにちは。そうだな、豆腐、牛乳、卵とベーコン、豚肉……それからそこの肉まんを下さい。」


野菜や果物、川魚は村の直売所で買える。


「毎度、どうも。」

販売員はにこやかに挨拶し、移動販売カーは次の宿坊へと走っていった。


午後3時になると、本日のお客様のチェックインの時間となる。

郁人はぼちぼち夕食の下ごしらえを始めた。


今日は活きのいい山女魚が入ったので、山女魚の塩焼きを作ることにしよう。

メインは地元牛の棒葉焼き。

天ぷらは新鮮な山菜を揚げる。


山菜のあく抜きや出汁とりをしていると、蒼が入ってきた。


「郁坊、お腹すいちゃった。何かない?」


「そんなこともあるだろうと思って、肉まん買っといたよ。蒸かすからちょっと待って。」


郁人は冷蔵庫から肉まんを取り出し、蒸し器に入れてコンロの火をつけた。

レンジの方が早いが、蒸し器を使うとより美味しい。


「熱いから気を付けてね。」


湯気が上がる肉まんを皿にのせて手渡す。


「あちっ……」

蒼は肉まんの紙をはがし、かぶりついた。


「うまい。この肉まん最高にうまい。」


そこへ紅も入ってくる。


「郁坊、何かいい匂いがするんだけど。」


蒼の肉まんを見るやいなや、目で訴えてくる。


「はい、はい。」

郁人はもうひとつ肉まんを蒸し器に入れた。


お客様の夕食が終わり、食器洗いが終わると、三人の夕食となる。

だいたいはお客様と同じような内容だ。


「この鯉の洗い、美味しいって評判だったよ。」

紅もその通りだと頷いている。


「シイタケはいつも通り肉厚だな。美味しい。」

蒼の好物はしいたけの炭火焼だ。


三人は毎日こうして宿坊を切り盛りしている。


それでも郁人は時々思う。

自分はまだまだこの宿のことを何もわかっていないのではないか、と。


もちろん、紅と蒼が鬼だということは知っている。

代々この真言坊の人間には知らされている。


郁人にとって二人は身内だ。

一緒に宿坊を切り盛りする親戚のおばさんのような存在──いや、それ以上だ。


子供の頃、神隠しにあった時のことはうっすら覚えている。

あの時も二人が迎えに来てくれた。


それだけではない。

二人はいつも郁人のことも、この宿坊も、この村も守ってくれている。


他に例えようがないほど温かい存在なのだ。


そして郁人も思う。

そんな二人を自分も大事にしなければ、と。

自分にできることがあれば、いつだって二人を助けるつもりだ。


こんな三人が働く宿坊が素敵でないわけがない。


真言坊は、予約が取りにくい宿坊と言われている。

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