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第4話 狛犬

今では平穏な日常を送っている紅と蒼だが、

千四百年もの長い時を生きる中には、穏やかではない時代もあった。


今からおよそ五百年前──

歴史でいうところの戦国時代。


日本中が戦に明け暮れ、民は疲弊し、

戸板神社のある戸板村も例外ではなかった。


都から遠く離れたこの村は戦場こそ免れたものの、

世には山賊や野武士があふれ、

山深い村にも集団となって度々襲いかかってきた。


その度に、紅と蒼は鬼の姿となり山賊と戦った。


あえて鬼の姿で戦ったのは、噂を流すためである。


この戸板村には鬼が住まう。

この村に近づけば鬼に呪われる。


そんな噂が広まれば、山賊も近づきにくくなる。

紅と蒼は村を守るために、あえて“恐怖”を演出したのだ。


戸板村の鬼の噂は近隣に広まり、

大概の山賊はこの村を避けるようになった。


それでも、いつまでもしつこく戸板村を狙ってきたのが朽助の一味だった。


朽助は戦で食えなくなった足軽や雑兵、流れ者などを集め、

十人から二十人ほどの山賊衆を囲っていた。


夜半になると、朽助は子分を引き連れて村を襲ってきた。


その都度、紅と蒼が応戦した。

人間が束になってかかっても、鬼に傷を負わせることはできない。


蒼が大太刀を振れば、空気がいななき、

衝撃波で朽助は馬から転げ落ちた。


紅が火焔槍を突き出すと、

数メートルの炎が燃え上がり、

手下たちは転げ回って逃げ出した。


紅と蒼の相手ではなかったのである。


ある晩、蒼は突然カッと目を見開いた。

「来る。」

低く、しかし確信に満ちた声だった。


「大物だ。」

紅もすぐに起き上がり、息を整える。


二人は本堂の屋根に跳び乗った。

夜気が肌を刺す。

遠くから、およそ二十人ほどの賊が走ってくるのが見えた。


「どうせまた朽助の一味だろ。」

蒼は鼻で笑ったが、紅は眉をひそめた。


「でも、いつもと違う気が来る。」

紅の声には緊張が滲んでいた。


賊は村に近づくと、火矢を放ってきた。

矢の先には油が仕込まれ、炎が尾を引いて飛んでくる。


蒼は手水舎の水を口いっぱいに含み、

火矢めがけて勢いよく吹きかけた。

ほとんどの矢は火が消え、吹き飛ばされたが──

一本だけ、民家のかやぶき屋根に突き刺さった。


瞬く間に火は燃え広がり、村人たちが表に飛び出してきた。

女子供や老人が火消しに走り、自警団の男たちが村の門に集まる。


門の外には朽助はじめ賊どもがばらばらとやって来た。


「今日はちと多いな。」

蒼が顎を引いて言う。


紅は朽助の隣に立つ男を見て、息を呑んだ。

「あの右側のが気になる。」


朽助が声を張り上げた。

「やあやあ皆さん!今日は一味違うところをお見せしよう。何たって、この妙連法師さまが付いているからな!」


朽助は隣の修験者を見てにやりと笑った。


それを合図に、賊たちは門や塀を乗り越え、村へとなだれ込んだ。

自警団の男たちは槍やクワ、カマを手に賊に立ち向かう。


蒼は妙連法師と呼ばれた修験者の前に立ちはだかった。


白装束に篠懸をまとった男。

長刀をゆるりと構え、蒼と向き合う。

頬はげっそりとこけ、目は血走り、

その風体はもはや人ではなかった。


向かい合っただけで、この男がとてつもなく強いことがわかる。

だが、蒼は退くわけにはいかない。


蒼は大太刀を握り直し、妙連法師に切りかかった。

風のような速さ──

しかし法師は難なく太刀を避けた。


次の瞬間、蒼は相手を見失った。


背後に気配。

振り返ると、法師の長刀が蒼に向かって振り下ろされていた。


あまりの速さに反応が遅れ、

さらに長刀の穂先が伸びたように感じられた。


蒼の左腕から血が吹いた。

かすっただけのはずなのに、傷は深い。


「お前、人間じゃねえな……」

蒼がつぶやく。


法師がにやりと笑った。

その口は、耳まで裂けているように見えた。


蒼の負傷に紅が気づき、飛んできた。

「おい蒼、大丈夫か?」


「ああ。ただのかすり傷だ。」

そう言いながらも、蒼の顔には焦りがにじむ。


紅は男に向かって火焔槍を大きく突いた。

槍から炎が舞い上がる。

しかし男は紅の視界から消え、

次の瞬間、横から長刀が紅に振りかぶってきた。


とっさに避けたが、着物の袖が裂けた。


妙連法師の動きはあまりに速く、

紅や蒼のそれを完全に超えている。


二人は男を挟み、両側から攻撃を仕掛け続けたが──

勝敗は明らかだった。


紅も蒼も肩で大きく息をしながら男と対峙しているとき、

「コケコッコー」と一番鶏が鳴いた。


空が白み始める。


妙連法師は踵を返し、素早く馬に飛び乗った。

朽助を待つこともなく、来た道を戻り始めた。


「おい、おまえら!今日のところはこれくらいで勘弁してやらあ。いくぞ!」

朽助が叫ぶと、一味はそろって村を駆け出した。


火矢で二件の家が焼けた。

しかし、自警団が賊の侵入を防いだため、

今回の村の被害はそれほど大きくはなかった。


昼になり、紅と蒼は戸板神社の社務所へ向かった。

そこは自警団の集合場所になっている。


村の自警団は十人。

腕っぷしが強く、村人からの信頼も厚い源太と弥吉が中心だ。


「蒼さん、腕の調子はどうだい?」

源太が心配そうに声をかける。


蒼は軽く笑ってみせた。

「こんなの、大したことないよ。夜までには治っちまうさ。」


もちろん、内心に余裕などない。

妙連法師の一撃は、鬼である蒼ですら震え上がるほどだった。


源太は険しい顔で続けた。

「やつら、朝になったら慌てて帰っていった。ってことは──また今晩やってくるってことだ。」


自警団の面々は緊張した面持ちでうなずいた。


いろいろ話し合ったが、妙案はなかった。


女子供と年寄りは戸板神社の本堂に避難する。

自警団と紅、蒼が門前で朝まで食い止める。


村人たちにできることは、それだけだった。


作戦会議は終わり、日暮れまでは体力を回復させるために皆休むことになった。


源太が社務所を出ると、木の陰にお千代が立っていた。


「お千代ちゃん、どうしたんだい。こんなところで。」

源太は思わず笑みをこぼした。


お千代は源太の許嫁で、この秋には結婚する予定だ。


「源太さん……あたし、心配で。」

千代はうつむき、指先をぎゅっと握りしめている。


源太は胸が締めつけられるような気持ちになった。

「大丈夫だ。こっちには紅さんと蒼さんがいるんだから。いつも朽助をやっつけてくれるだろう。」


カラ元気だったが、千代を安心させたかった。

千代は頷いたものの、不安は拭えない。

村人は皆、今回の戦いが“いつもと違う”ことを感じていた。


「お千代ちゃんは、本堂でしっかり隠れているんだぞ。」

源太はそっと千代の頭を撫でた。


弥吉は集会が終わると急いで家に戻った。

家ではおばあが待っていた。


「お帰り。何か妙案はあったかい?」

おばあは握り飯を握りながら聞いた。


「女子供と年寄りは神社の本堂に隠れることになった。おばあも日のあるうちに避難するからな。」


「そうか……弥吉。」

おばあは寂しそうにうつむいた。


両親は弥吉が小さい頃に亡くなり、おばあが女手ひとつで育ててくれた。

弥吉にとって何よりも大切な存在だ。


このおばあのためにも、村を守らなければならない。

弥吉は拳を握りしめた。


「弥吉、握り飯作ったからな。弥吉の好きなたくあん入りだ。いっぱい食べて精つけるだ。」


「おばあ……そうだな。これ食べれば負けねえな。」

弥吉は握り飯を口いっぱいにほおばった。


日が暮れはじめ、自警団は門前に集まった。


蒼が皆を見渡し、低く言った。

「みんなは朽助一味をやってけてくれ。あの修験僧は俺と紅が相手をする。」


皆が大きくうなずいた。

村の命運がかかった夜が始まる。


日がとっぷり暮れた頃、再び朽助の一味が戸板村に現れた。


妙連法師の真っ赤な目は吊り上がり、

口は耳まで裂けている。

その姿は、もはや人の形相ではなかった。


紅がつぶやく。

「一体、正体は何なんだろうな……」


蒼は寂しげに言った。

「もしかしたら、どこかの神様かもしれないな。」


夜風が冷たく吹き抜け、村の灯火が揺れた。

戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。


「やあやあ皆さんお揃いで。この村はこの朽助様のものになるからなあ。今日からよろしくお願いしますよ。」


朽助は下卑た笑いを浮かべ、賊たちを従えて門前に立った。


再び賊が村に入り込んできた。

自警団は槍やクワを手に必死で応戦する。


紅と蒼は妙連法師を挟み込んだ。

奴の動きは昨日見ている。少しは読める。


蒼が大太刀を振ると、妙連法師は姿を消した。

「後ろだ!」

蒼が振り向くと、予想は的中。

大太刀をもう一振りすると、太刀が男の袖をかすめた。


「昨日よりは読めてきたぜ。」

蒼がつぶやいた瞬間、妙連法師は再び消えた。


「また後ろか?」

振り向く──いない。


その時、向こうの方で叫び声が上がった。


妙連法師が村人に襲いかかっていた。

源太と弥吉が男に飛びかかる。


次の瞬間──

長刀が大きく振り下ろされ、二人は切り込まれた。


「源太!弥吉!」

紅と蒼が駆けつける。


しかし二人に近寄る前に、妙連法師が刃を向けて襲いかかってきた。


紅と蒼は挟み込んで応戦するが、力の差は歴然。

食い止めるのが精いっぱいで、抑え込むことはできない。


太刀と槍を振りかざしては逃げられ、

上回る速さで切りつけられる。


寸前のところでかわしているが、

紅と蒼の体には幾多もの傷が刻まれ、もうぼろぼろだった。


それでも戦いをやめるわけにはいかない。


長きにわたり、この村を守ってきた。

村の人たちを、戸板神社を守ることが自分たちの役目。

それが生きる意味。


紅は戸板村に初めて降り立った日のことを思い出していた。


その頃、戸板神社本殿では女子供と年寄りが身を寄せ合い、

宮司が一心に祝詞を上げていた。


掛けまくも畏き

戸板の大御神の大前に

かしこみかしこみもうす。


今しこの夜半、

村に乱れ入りし荒ぶる気、

人の心を曇らせ、

清き道を踏みにじること、

まことに恐れ多し。


ここに集いし女子子ら、

老の身らを守りたまえ。


紅の御子、蒼の御子、

神域を守りし二柱に

力添えたまえ。


いま、戸板の御戸をひらき、

迷いし御魂を

清き道へとおかえしくださり、

導きたまえ。


かしこみかしこみもうす。


祝詞が終わると、御戸がガタガタと音を立てて動き出した。

皆が肩を抱き合い、御戸を見つめる。


音はどんどん大きくなり、

“ガタン”と地割れのような音が響いた。


御戸が大きく開いた。


瞬間──

御戸からまばゆい光があふれだし、

皆は目がくらんで何も見えなくなった。


光の中から、たなびく雲に乗った産土神とお供の者が現れた。

雲は光の塊となり、轟音と共に外へ飛び出した。


紅と蒼が妙連法師を挟み、大きく肩で息をしていると、

本堂の方がやけに明るい。


その明るさは、一瞬のうちに二人のところへやって来た。


金色のたなびく雲の上に、産土神とお供の者が乗り、こちらを見ている。


夜にも関わらず、辺りは昼間のように明るい。

村人も賊も皆、動きを止めて光に目を奪われた。


産土神が妙連法師をじっと見つめると、

妙連法師の体に亀裂が入り、

亀裂は大きくなり、体がぼろぼろと剥がれ落ちた。


剥がれ落ちた後に残ったのは、

やせっぽちの着物を着た貧相な男の子だった。


その後ろに、里山の景色が見えてきた。


田んぼのあぜ道に小さな道祖神が奉られている。

そこへ一本の花を持った小さな女の子がやって来て、花を供え手を合わせる。


雨が降り出す。

村人が菅笠を片手に走ってきて、道祖神が濡れないよう笠をかぶせ、手を合わせて戻っていく。


次に侍を載せた馬が走ってゆく。

侍は農民から食べ物を奪い、道祖神への供え物も奪ってゆく。


山賊が現れ、村人を傷つけ、女子供をさらってゆく。


騎馬武者が大勢現れ、村に火矢を放つ。

かやぶき屋根に火が移り、村中が火の車となる。


「わーっ!」

大きな泣き声が響いた。


さっきの貧相な男の子が天を仰いで泣いている。

大粒の涙を後から後から流し、しゃくりあげて泣いている。


産土神が手を差し出すと、男の子と道祖神は雲の上へ移った。


光と共に、産土神の一行は再び本殿の御戸へ戻っていった。


「すまなかったな。」

鈴のような産土神の声が夜空に響いた。


賊も村人も、みんな腰を抜かして呆然としている。


「今のうちだ。」

紅と蒼は朽助の一味を縄で縛り上げ、一目散に源太と弥吉のもとへ駆けつけた。


しかし──

二人はすでに息絶えていた。


「こんなことってあるかよ……」

蒼が怒鳴った瞬間、源太と弥吉の亡骸がゆらゆらと影をにじませ、

大きな光の塊になった。


光はだんだん縮み、

そこに残ったのは大きな石造の狛犬だった。


蒼がぽつりと言った。

「産土神でも、死んだものを生き返らすことはできなかったんだな……」


紅は狛犬を見つめながら言った。

「自然の理は、誰にもどうにもできないんだ。」


せめて亡くなった二人を狛犬にすることが、

産土神にできる唯一のことだったのだろう。


狛犬となった源太と弥吉は、

これからもずっと戸板神社と村を守っていく。


「あれは道祖神の神様だったんだね。」

紅がスルメをかじりながら言った。

火焔槍を振るう鬼とは思えないほど、いつもの穏やかな顔だ。


「あん時はほんと大変だったよな。」

蒼は熱燗をチビチビやっている。

湯気がふわりと立ちのぼり、戦の夜の緊張がようやくほどけていく。


「純粋な神様は、人間の愚かさに……悲しさと怒りで制御不能に荒ぶったんだ。」

紅はお猪口に酒を注ぎながら、遠い昔を思い返すように言った。


「そこへ修験僧が通りかかって、ビビビッと波長が合っちゃったんだよな。」

蒼はもうほろ酔いで、語尾が少しゆるんでいる。


真言坊の夜は静かで、囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てていた。


「こんばんは。」

そこへ、源太と弥吉が入ってきた。


「えっ、もうそんな時間か?」

蒼は時計を見て目を丸くした。


「蒼さん、もう冬至でずぜ。外は真っ暗ですよ。」

弥吉はニコニコと嬉しそうだ。


そう──

狛犬になったこの二人は、日が暮れれば元の人間に戻れるようになっている。


昼間は戸板神社の狛犬として村を守り、

夜になると真言坊に来て紅と蒼と酒盛りをする。

それが二人の新しい“生き方”になった。


「おう、源太、弥吉。今日も飲むか。」

蒼が徳利を掲げる。


「もちろんです!」

弥吉が笑い、源太も照れくさそうに座った。


紅はスルメを炙りながら言った。

「ほんと、あんたたちが来ると賑やかになるね。」


蒼が笑う。

「狛犬になっても、飲み仲間ってのは変わらねえな。」


真言坊の夜は、今夜も長くなりそうだ。

囲炉裏の火が揺れ、笑い声が響き、

外には冬至の冷たい風が吹いている。


しかしその風は、どこか優しかった。

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