第3話 神隠し
真言坊の料理人・榊郁人は、この宿坊の主人でもある。
そして彼には、“神隠し”の過去がある。
それは今から三十五年前──
郁人がまだ五歳だった夏のことだ。
太陽が容赦なく照りつけ、村の人々は額に汗を浮かべながら畑や田んぼで働いていた。
夏も折り返しの頃で、空気はむっとするほど熱い。
そんな中、郁人は近所の子供たちと一緒に、近くの小川へ水浴びに来ていた。
五、六人ほどの子供たち。
年長の子が年少の子の面倒を見ながら、木陰に流れる清らかな水で遊んでいた。
水しぶきが陽にきらめき、笑い声が川面に跳ね返る。
夏の午後らしい、のどかな光景だった。
“ゴーン、ゴーン──”
お寺の鐘が鳴り、そろそろ帰りの時間となった。
その時、年長の一人がふと気づいた。
「郁人がいない。」
場が一気に騒然となった。
日が暮れ始めているのに、周りを見渡しても郁人の姿がどこにもない。
年長者の一人が大人を呼びに走り、村人総出で捜索が始まった。
日はどんどん傾き、暗がりが迫ってくる。
「おーい、郁人坊やーい!」
「郁人、どこだー!」
人々はライトを片手に、川辺や草むらを探し回った。
焦りと不安が村全体を覆っていた。
もちろん、紅と蒼も郁人を探していた。
二人は郁人が生まれた時からその成長を見守ってきた。
親戚のおばさんのような存在であり、郁人は大切な子だった。
蒼が草むらで何かの匂いを嗅ぎつけた。
鬼は嗅覚が鋭い。
「おい紅、この匂い……」
紅も鼻を近づける。
「間違いないね。郁人坊のだ。……ん?」
紅が何かに気づいたように目を細めた。
「何かあったか?」
蒼ももう一度草むらの匂いを嗅ぐ。
「これは……天狗だな。」
「やっぱり、そうだよね。」
二人は顔を見合わせた。
天狗──
山の守り神のような存在で、悪さをするような者ではない。
しかし、匂いは嘘をつかない。
夜中になっても郁人は見つからなかった。
捜索していた村人たちは一旦解散となり、明朝また再開することになった。
郁人の両親は憔悴しきっていた。
その姿を見る周囲の人々も胸が痛んだ。
子の刻──
紅と蒼は天狗の匂いが残った草むらに戻っていた。
「天狗はそんな悪さするようなやつじゃないと思ってたけど。」
蒼が意外そうに言う。
「私もそう聞いてる。……何があったんだろうね。」
紅は草むらを見つめながらつぶやいた。
何か理由があるのかもしれない、と感じていた。
「天狗の郷にはどうやって行くんだ?」
蒼が頭を掻きながら聞く。
「聞いたことないな……」
紅はしばらく考えていたが、ふと顔を上げた。
「こんな時には──」
「宮司さんだな。」
二人は同時に答えた。
朝になるのを待って、紅と蒼は宮司を訪ねた。
「おはよう、おはよう。昨夜は大変だったそうだな。郁人坊は見つかったのか。」
宮司は心配そうに二人を迎えた。
二人は肩を落とし、首を振った。
「どうやら天狗にさらわれたようなんだ。」
「天狗じゃと。」
宮司は思いもよらなかったらしい。
「郁人坊の匂いと一緒に、天狗の匂いが残っていたから間違いない。」
蒼が断言する。
「そうかそうか……天狗か。天狗は悪さをするようなもんじゃないと思っとったが。」
宮司は髭をなでながら考え込んだ。
紅がすがるような目で言う。
「郁人坊を助けに天狗の郷に行きたいんだけど、入り口がわからないんだ。宮司さんなら何か知ってると思って。」
宮司はしばらく髭をなでつけながら考えていたが、何か思い出したようだ。
「わしがまだ子供の頃に、あの湧き水の“水の口”のところで誰かが天狗を見たと噂になったことがあったな。」
「水の口……」
二人は声を合わせた。
「何か手掛かりがあるかもしれない。行ってみよう。」
宮司に礼を言うと、二人はすぐに水の口へ向かった。
山にしみ込んだ雨が長い時間をかけて濾過され、岩肌からこんこんと清水が湧き出している場所がある。
村人が湧き水を貯めるために置いた石鉢があり、皆はその辺りを“水の口”と呼んでいた。
紅と蒼は“水の口”周辺を一通り見て回った。
清水が湧き出る岩の割れ目、近くに生えている木の洞、草むら──
どこにも天狗の郷の入口らしきものは見当たらない。
昨夜からの捜索で、さすがに二人も疲れていた。
石鉢に寄りかかり腰を下ろしたその時、石鉢と地面のすき間に風が吸い込まれていくのを感じた。
「ここ……」
紅が手をかざすと、確かに風が吸い込まれていく。
蒼も手をかざし、目を見開いた。
「ここだ。ここが入口だ。」
しかし、このすき間からどうやって入るのか。
紅がすき間に手を入れた瞬間──
紅の体がすき間の中に吸い込まれた。
蒼も慌てて手を伸ばしたが、そのまま二人とも吸い込まれた。
気がつくと、紅と蒼は二人並んで立っていた。
空は晴れ渡り、優しい風が頬をなでる。
周りを見渡すと、そこは森を抜けた丘の上だった。
目の前には畑が広がり、ぽつりぽつりと家が建っている。
「……あれが天狗の家だな。」
蒼が語気を強めた。
紅も覚悟を決める。
「いざって時には戦わないと。何としても郁人坊を取り返すわよ。」
二人は足早に道を進んだ。
すると、先の方を誰かが歩いている。
背中に大きな羽を付けた天狗だ。
「まずは丁寧に聞いてみよう。」
紅が提案する。
「そうだな。それでダメなら戦うしかない。」
蒼も同意した。
「すみません。」
紅がにこやかに声をかける。
天狗は振り向き、二人の姿を見ると驚いた様子だった。
「私たち、いなくなってしまった人間の子供を探しているんです。このくらいの男の子なんですけど、見かけたことないですか?」
紅も蒼も緊張していた。
天狗がどんな反応をするかわからない。
「人間の子供か。ワシは見たことはないな。何しろここは天狗の郷じゃから。」
二人が肩を落とすと、天狗は続けた。
「ワシは知らんが、ほれ、その二軒先の藤丸のところで聞いてみるといい。あそこには小さな子供がいるから、何か知っているかもしれん。」
二人は丁寧に礼を言うと、天狗は軽く会釈して去っていった。
「感じ悪くなかったな。」
「やっぱり天狗は悪いものじゃないってのは、本当だったわね。」
二人は教えてもらった藤丸の家に向かった。
家の入口には大きな藤棚があり、藤の花が見事に咲き誇っている。
紅と蒼が近づくと、風もないのに藤の花がゆらゆらと揺れた。
玄関に回り、蒼が声をかける。
「ごめん下さい。」
返事はない。
すると庭の方から子供の笑い声が聞こえてきた。
二人は声のする方へ進んだ。
庭には青々と育った芝生がきれいに整えられ、そこに郁人が手毬を持って立っていた。
紅と蒼は駆け寄り、郁人を抱きしめた。
「郁人坊、探したんだよ。」
「とにかく無事でよかった。よかった。」
突然抱きしめられた郁人は驚いて目を丸くしている。
「ぼく、露丸と遊んでたの。露丸、病気なんだよ。」
郁人は家の中を指さした。
差された方向を見ると、縁側の奥に布団が敷かれ、小さな天狗の子供が横になっていた。
そこへ藤丸が帰ってきた。
紅と蒼を見ると、申し訳なさそうに声をかけた。
「もしかして郁人坊の知り合いの方か?」
紅と蒼は怒りを抑え、冷静を装って言った。
「私はこの郁人坊の家のものです。昨日から郁人坊がいなくなり、村人総出で探しています。両親は憔悴しきって、ご飯も喉を通らないほどです。どうして郁人坊をさらったのですか?」
藤丸は大きな体を縮こまらせ、土下座して地面に頭をこすりつけた。
「申し訳ない。何と謝ったらいいものか……言葉がない。」
紅と蒼は顔を見合わせた。
藤丸は頭を下げたまま、郁人をさらった理由を話し始めた。
露丸──郁人と同じくらいの男の子。
健やかに育っていたが、一年ほど前に体調を崩し、そのまま回復することなく寝付いてしまった。
煎じ薬も“癒し翁”の診察も効果がなかった。
小さな子が毎日苦しそうにしている姿を見るのは、藤丸にとって耐え難いものだった。
そんなある日、“風読”が里に来ているという噂を聞いた。
藁にもすがる思いで行ってみると、こう言われた。
「悪い気に取り憑かれている。夜藤の花粉と淡峯山の雪解け水、それから人間の子供の涙を混ぜて額に垂らせば治る。」
花粉と雪解け水は手に入った。
しかし、人間の子供の涙だけはどうしても手に入らない。
露丸を助けたい一心で、藤丸は郁人をさらってしまったのだ。
「もちろん、涙をもらったらすぐに送り返すつもりだったが……」
郁人は露丸と楽しく遊んでいて、涙を流さなかった。
無理やり泣かせることもできただろうが、心優しい藤丸にはそれができなかった。
蒼は穏やかな顔になった。
「そういうことならさ、言ってくれればよかったのに。」
天狗の郷も日が暮れてきた。
辺りが暗くなると、郁人が心細くなったのか
「お家に帰りたい」
と言った。
やがて辺りが真っ暗になると、郁人はもう一度
「お家に帰りたい……」
と言い、大粒の涙を流した。
藤丸は用意してあった小瓶にその涙をひろった。
これで露丸の病も治るだろう。
郁人は蒼の背中におぶわれ、人間界へ帰ってきた。
しばらく泣いていたが、途中で泣き疲れて眠ってしまった。
村では郁人が川に流されたのではと、村人総出で川の捜索をしていた。
紅と蒼が「道に迷っていた」と言って郁人を下ろすと、両親は泣いて喜んだ。
みんなが喜ぶ顔を見て、紅と蒼も胸が温かくなった。
郁人が天狗の郷に行っていたのは、あちらの世界ではほんの二〜三時間ほどだった。
しかし、人間界では一日半も姿を消していたため、村では「郁人坊が神隠しにあった」と噂が広まった。
郁人はしばらくの間、天狗の話を両親にしていた。
露丸のこと、藤丸の家の藤棚のこと、天狗の羽のこと──
しかし、子供の記憶は移ろいやすい。
そのうち、郁人は天狗のことをすっかり忘れてしまったようだった。
翌日。
夏の盛りで、毎日太陽がギラギラと照りつけ、村人は暑さに疲弊していた。
しかし──
郁人が天狗の郷から帰ってきた“その翌日だけ”は違った。
冷たい風が一日中吹き続け、村人たちの疲れを優しく癒したのだ。
まるで山の上から天狗がそっと風を送り届けてくれたような、そんな心地よい風だった。
蒼が空を見上げながら言った。
「きっと、藤丸のお詫びのつもりなんだろうね。」
紅も天を仰ぐ。
「露丸、元気になったかな……」
蒼は吹き抜ける風に目を細めた。
「この風が、良くなったって証拠なんじゃないの。」
二人はしばらく風に身を任せた。
天狗の郷と人間界──
本来交わらないはずの二つの世界が、ほんの少しだけ触れ合った証のように思えた。
郁人の神隠しは、紅と蒼と郁人──
三人だけの秘密である。




