第2話 御戸
「吉井庵の美代子さん、寝込んで三週間ですって。」
「まあ……先月の女将会には元気に来てたわよね。」
「その後からみたいよ。」
戸板神社の寄り合い所は、今日も湯気の立つお茶と紙束の匂いで満ちていた。
月に一度の女将会。
パンフレット整理、手水舎や参道の花壇の手入れ、季節行事の準備──
そして、こうして井戸端会議で情報交換するのも、女将たちの大事な役目だ。
「なんでも、ずっと熱が下がらないらしいの。」
心配そうな声が重なる。
紅は手を止め、眉をひそめた。
ただの風邪なら三週間も寝込むはずがない。
──これは、何か“悪いもの”が憑いているかもしれない。
紅はその場で決めた。
美代子を訪ねよう。
翌日。
紅は真言坊特製の薬草入りリンゴジュースを手に、吉井庵へ向かった。
戸板神社の周りには宿坊が点在しており、吉井庵までは歩いて五分ほど。
朝の空気は澄んでいて、紅の胸に少しだけ緊張が走る。
リンゴジュースには、真言坊に代々伝わる薬草が煎じてある。
少々の悪いものなら、これで弱らせることができる。
「ごめんください。」
玄関から声をかけると、美代子の夫が出てきた。
目の下にくまができている。
「ああ、紅ちゃん。来てくれたのか。」
声に疲れが滲んでいた。
「美代子さんが寝込んでいるって聞いて。お見舞いに。」
紅はリンゴジュースを差し出す。
「これは……ありがとう。熱がずっと下がらなくてね。起き上がるのも辛そうなんだ。ちょっと顔を見てやってくれ。」
夫は紅を奥の部屋へ案内した。
「美代子さん、こんにちは。」
そっとドアを開けると、布団から美代子が顔を上げた。
「紅ちゃん……来てくれたんだ。」
声は弱々しい。
起き上がろうとする美代子を、紅はそっと制した。
「そのままで。かえってごめんね、具合の悪いところに来てしまって。ずっと寝込んでいるって聞いて心配で。」
「気にかけてくれて、ありがとう……」
美代子はすっかりやつれてしまい、話すだけでも疲れてしまう様子だった。
「季節の変わり目だから、もう少し休めばきっと良くなるわ。あまり話すと疲れるでしょうから、今日はこれで帰るね。」
紅は静かに部屋を後にした。
しかし胸の奥に、重い違和感が残った。
真言坊に戻ると、蒼が庭で草取りをしていた。
「お帰り。どうだった?」
蒼は立ち上がり、手についた土を払った。
「それが……何も見えなかったんだ。」
紅は腕を組み、深く考え込む。
「何も見えないし、何も感じなかった。でも絶対、何か悪いものが原因していると思うんだけどな。」
悔しそうに眉をひそめた。
蒼は手をポキポキ鳴らした。
その音は、鬼としての“戦闘準備”の合図でもある。
「じゃあ、行くか。今夜。」
紅は静かにうなずいた。
夜の闇は、鬼たちの本領が発揮される時間だ。
夜が更けるのを待って、紅と蒼は吉井庵へ向かった。
昼間の柔らかな空気とは違い、夜の戸板神社周辺は“向こう側”が近くなる。
二人はその気配をよく知っていた。
紅は二本角の赤鬼。
蒼は一本角の青鬼。
紅の目は金色に光り、蒼の目は深い赤を宿す。
普段は人間の姿に化けているが、鬼の姿に戻れば体長はゆうに二メートルを超える。
そのままでは人間に見られてしまうため、今夜は体を半透明にしていた。
闇の中なら、風の揺らぎと見分けがつかない。
吉井庵に着くと、二人は軽々と跳躍し、かやぶき屋根の上に静かに着地した。
屋根の上に降り立つと、夜気がひやりと肌を撫でる。
紅は目を閉じ、美代子の“気”を探った。
弱く、細く、揺れている──まるで何かに吸われているようだった。
二人はその気をたどり、屋根をすり抜けて部屋へ降りた。
美代子のベッドには、黒い巨大な塊が覆いかぶさっていた。
まるで墨をこぼしたような濃い闇が、美代子の胸元にまとわりついている。
紅と蒼の気配に気づき、黒い塊がゆっくりと振り返った。
その動きは人間のものではなく、影が自分の意思で動いているようだった。
攻撃の気配はない。
ただ、重く、苦しげで、まとわりつくような怨念だけが漂っている。
「この部屋じゃ動かせないね。」
紅は低くつぶやいた。
紅が人差し指を天井へ向けると、黒い塊はそれを理解したように、ふっと消えた。
屋根をすり抜けて上へ逃げたのだ。
紅と蒼もすぐに後を追った。
屋根に上がると、黒い塊は“薄っぺらい人型”になっていた。
風に揺れる紙のように、ゆらゆらと形を保っている。
蒼が腕組みしながら睨みつける。
「おまえさ、話せるのか?」
「……はな、せ、る……」
たどたどしいが、確かに声がある。
「なんで美代子さんに取り憑いてんだよ?」
蒼の声は怒りを含んでいた。
「……やまい……なった……くるしい……」
蒼が鼻で笑う。
「病?おまえ、もう死んでるじゃん。」
紅が静かに補足した。
「未成仏霊は、自分が死んだことをわかってないよ。何かの病で苦しんで亡くなったんだろうね。」
紅は一歩近づき、優しく問いかける。
「何が未練で成仏できないんだ?」
蒼も続ける。
「ほら、何が未練なんだって聞いてんだよ。」
しかし人型はゆらゆら揺れるだけで答えない。
紅はふと気づいたように言った。
「……もしかして、忘れた?」
人型は、ゆっくりと体を縦に揺らした。
蒼は怒りで爆発しそうだ。
「未練忘れるって何だよ!それで人に取り憑くってどういうことだよ!」
紅は困ったように眉を寄せた。
「未練を手放して成仏するのに、その未練がわからないんじゃ……どうしようもないね。」
そのとき、空がぼんやりと明るくなり始めた。
夜が終わる。
蒼が周囲を見回しながらつぶやく。
「こりゃまずい。明るくなってきたぞ。」
紅は決断した。
「仕方ない。いったん、こいつを連れて帰ろう。」
蒼も渋々うなずいた。
真言坊のラウンジに戻ると、人型はただ揺れているだけだった。
影のような体が、弱々しく波打っている。
「思い出したか?未練。」
蒼がぶっきらぼうに聞くが、反応はない。
紅は何かを思いついたように顔を上げた。
「宮司さんに聞いてみるってのはどうだろう?」
蒼もすぐに同意した。
「それいいかも。宮司さんなら何か知ってるかもしれないしな。」
今日中に成仏させなければ、夜にまたこの影と過ごすことになる。
それはさすがに避けたい。
紅は社務所へ走った。
宮司はお札書きの最中だった。
紅は息を切らしながら駆け込む。
「宮司さん、相談に乗ってほしいんだけど!」
「紅ちゃん、そんなに慌てて……何があったんだい?」
白髪白髭の宮司は、いつも通り穏やかな声で迎えた。
紅は昨夜の出来事を一通り話した。
宮司は紅と蒼の正体を知っている。
代々の宮司だけが知る秘密だ。
「宮司さん、未練を思い出す方法ありませんか?
もしくは無理やり成仏させる方法とか。」
宮司は机を指でとんとん叩きながら考えた。
「未練を思い出す方法か……まず、無理やり成仏させるのは無理じゃな。
未練を忘れるほど長い間この世をさまよっておったんじゃ。
二百年か三百年か……そんなもんに無理やりは効かん。」
宮司は髭を撫でながら続けた。
「匂いはどうじゃ?」
「匂い?」
「そうじゃ。匂いは記憶に直接つながる。
いろんな匂いを嗅がせて、生前を思い出させるんじゃ。
そうすれば未練も思い出すかもしれん。」
宮司は自分の思いつきに満足そうにうなずいた。
「早速やってみます!ありがとうございます!」
紅は言い終わる前に走り出した。
真言坊に戻ると、紅は息を整えながら蒼に匂いの話を伝えた。
「よしよし、早速やろう。」
蒼は腕をまくりながら言った。
普段は落ち着いている蒼だが、今はどこか焦りが滲んでいる。
人型をこのまま放置すれば、夜にまた騒ぎになる。
それは避けたい。
「宮司さんが、この人型は二百年か三百年前に死んだようなことを言ってたから……」
紅は人型を見ながら続けた。
「その頃にもあったような物の匂いを嗅がせよう。」
蒼はうなずきながら提案する。
「そうだな。食い物と、木とか花とか、自然の匂いか?」
二人はまず食べ物を用意した。
三百年前にも食べられていたもの──
みそ汁、炊き立てのご飯、納豆、梅干し、焼き魚、お茶、ぬか漬け。
真言坊の台所は一気に“昔の食卓”の香りで満たされた。
しかし、人型はただゆらゆら揺れるだけだった。
反応はない。
「ダメか……」
蒼が眉をひそめる。
次に二人は人型を外へ連れ出した。
人型は人間には見えないため、昼間でも問題ない。
ただ、影のように揺れながらついてくる姿は、どこか不気味だった。
まず自然の匂いを嗅がせてみる。
木立に立ち込める香り。
若葉の少し青臭い匂い。
小川を流れる水の匂い。
土の匂い。
かやぶき屋根の匂い。
どれも人型には響かない。
ゆらゆら揺れるだけで、反応はない。
しかし──
方々歩いている途中、人型がふと足を止めた。
「ん?」
蒼が振り返る。
人型の足元には、白い花をつけたドクダミが群れていた。
独特の強い匂いが、風に乗って漂う。
「何か思い出したのか?」
蒼が聞くと、人型はゆらゆらと体を縦に揺らした。
「どく……だ、み……くす、り……」
途切れ途切れの声が漏れる。
少し間をおいて、
「お……きく……」
と続けた。
紅と蒼は顔を見合わせた。
「お菊って人が、ドクダミで薬を作ってくれたのか?」
蒼が尋ねると、人型はまた体を縦に揺らした。
紅は胸が締めつけられるような気持ちになった。
「え、でも待って……お菊さんに未練があるんだったら、お菊さんはもうとっくに亡くなってるよね。」
未練の主がこの世にいないなら、どうしようもない。
紅はがっかりと肩を落とした。
蒼も頭を抱えた。
「どうすんだよ、これ……」
しばらく二人は黙り込んだが、紅が突然顔を上げた。
「……これも、宮司さんだ。」
蒼もすぐに理解した。
「そうだな。宮司さんなら何か方法があるかもしれない。」
紅は再び宮司のもとへ走った。
「宮司さん、宮司さん!」
紅は息を切らして社務所に駆け込んだ。
宮司はまだお札書きを続けていた。
筆を止め、紅を見て目を細める。
「どうだい、未練はわかったかい?」
「それを相談しに来たんです。」
紅は事の顛末を一気に話した。
「宮司さん、未練の人があの世に行ってしまっていたら……何か会わせる方法ありませんか?」
時間は刻々と過ぎていく。
夜までに人型を成仏させたい。
宮司は深く息をつき、渋い顔で言った。
「そうじゃな……ひとつ考えがあるにはある。」
白髭を撫でながら続ける。
「この戸板神社は、あの世とこの世を御戸で仕切っておる。
御戸の前でお菊さんを呼んでみて、もし出てきてくれれば成仏がうまくいくかもしれない。」
紅は息を呑んだ。
「ただし……わしもこんなことはやったことがない。
うまくいくかどうかは、わからん。」
宮司は慎重に言葉を選んだ。
紅は机に頭をこすりつけるようにして懇願した。
「宮司さん、もうそれにかけるしかないんです。お願いします。」
宮司はゆっくりと立ち上がった。
「よし……ではひとつ、やってみるか。」
宮司は覚悟を決めたようだ。
本堂の奥の扉がゆっくりと開かれ、普段は決して見られない“御戸”が姿を現した。
そこは、この世とあの世の境界──戸板神社の最も神聖な場所だ。
宮司が御戸の前に立つ。
その背後に紅と蒼、そして二人の間に人型が並んだ。
本堂の空気は、まるで冬の夜のように張りつめている。
息をするのもためらわれるほどの静寂が満ちていた。
宮司は御戸に向かって深く一礼した。
白髪白髭が揺れ、長年の神職としての重みがその所作に宿る。
大幣を左右へ、上へ、そして自身へと振る。
紙垂が空気を切るたび、見えない膜が剥がれていくような感覚があった。
宮司は息を整え、祝詞を読み始めた。
「かしこみかしこみ、この戸の内外をつなぐ道、影と光の境に坐す御霊。
迷い残した名を呼び奉る。お菊の御霊、今しばしこの世へ戻り来たれ。
未練の糸をたぐり寄せ、心の澱を解き放ち、安らかなる道へと導かん。
戸板の神、御境を守りし御力をもって、この霊を清め、影を影へ、
光を光へ返し奉る。
かしこみかしこみ、ここに御戸ひらき、ここに御戸とざす。」
祝詞が終わると、本堂の空気がさらに重くなった。
ほんの一瞬の静寂──その後、御戸がガタガタと震え始めた。
最初は小さな揺れだったが、次第に激しさを増し、
“ガタン”という大きな音とともに御戸が開いた。
まばゆい光が本堂を満たす。
その光の中から、ひとりの女性が姿を現した。
──お菊。
白い着物が光をまとい、まるで月の化身のようだった。
お菊は静かに人型へ近づくと、その周囲をクルクルと二周回った。
光が人型を包み込み、影がほどけていく。
次の瞬間、二人は御戸の向こうへ吸い込まれるように消えた。
ほんの一瞬の出来事だった。
しかし、その場にいた全員の心に深く刻まれるほどの強烈な光景だった。
宮司は腰を抜かし、その場にへたり込んでいた。
紅と蒼は顔を見合わせ、同時にうなずく。
「いや……すごかったな。」
紅が小さくつぶやく。
蒼も息を吐きながら言った。
「宮司さん、マジでやばい……」
二人は宮司の腕と背中を支え、ゆっくりと立ち上がらせた。
「わしも……なかなかやるの。」
宮司は足元がおぼつかないが、どこか誇らしげだった。
「本当に、宮司さんのおかげで助かりました。」
「これで今晩はゆっくり眠れます。」
紅と蒼は丁寧にお礼をのべ、本堂を後にした。
真言坊に戻り、遅い夕食を終えた二人は風呂に浸かっていた。
「夜までに解決して、本当によかったよな。」
蒼が湯に肩まで沈めながら言う。
「よかった。よかった。それにしても宮司さん、すごかったねえ。」
紅も湯気の中でほっと息をついた。
ふと紅が思い出したように言う。
「お菊さんが人型を連れていくとき、人型は元に戻ってたな。」
蒼がうなずく。
「後ろ姿、完全に人間だった。若い人だったな。」
紅は湯の中で目を閉じた。
「……あの世で、お菊さんと幸せになるといいね。」
次の日。
吉井庵の美代子が真言坊を訪れた。
「先日はお見舞いに来てもらって、ありがとうございました。おかげさまで、すっかりよくなりました。」
顔色はつやつやしていて、まるで別人のようだ。
「いただいた特製のリンゴジュースが効いたのかもしれないわ。あの次の朝にはもう熱が下がったの。本当に助かりました。これ、少しだけど。」
美代子は真っ赤なリンゴを置いていった。
紅と蒼は顔を見合わせ、同時に笑った。
「一件落着。」




