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第1話 苦り虫

ここは真言坊──戸板神社の奥にひっそりと佇む、二部屋だけの小さな宿坊。

静寂が売りのこの宿には、もうひとつ“知られざる名物”がある。


「……苦り虫が入り込んだね。」

蒼が耳元で囁く。赤い瞳がわずかに光った。


「ああ、久しぶりの獲物だ。まあ、大した金にはならないけど。」

紅は首を鳴らしながら、どこか楽しげに答えた。


その夜、丑三つ時。

フロントの鐘がゴーン、ゴーンと鳴り響いた瞬間──まるで合図を待っていたかのように、客室の壁から黒い影がにゅるりと伸び出した。


影は生き物のように伸び縮みしながら、壁を這い、調理場へ向かう。

暗闇に溶け込んだその瞬間、闇の奥で“四つの目”がぎらりと光った。


逃げようとした影が廊下へ引き返した瞬間──

黄色く変色した鋭い爪が、壁ごと影を突き刺した。


「ぎッ……!」


影は必死にもがくが、蒼の爪はびくともしない。

やがて影は力尽き、黒いスライム状の塊となって垂れ下がった。


パチン、と電気がつく。

蒼は爪先にぶら下がった黒い塊を見せつけるように揺らした。


「小物だな。」

紅が物差しを当ててため息をつく。

「十センチ。五千円ってところか。」


蒼は黒い塊をペットボトルにスルッと収め、蓋をきっちり閉めた。


翌朝。

「おはようございます。佐々木様のお席はこちらです。」


紅が丁寧に案内する。

真言坊は二部屋しかないため、客同士が顔を合わせることはほとんどない。

その静けさが人気の理由だ。


料理が並ぶ食卓に、紅が味噌汁とスムージーを運んできた。


「きのこの具沢山みそ汁と、イチジクと桃のスムージーでございます。」


「まあ、どれも美味しそうだこと。ねえ、お父さん。」

奥さんが嬉しそうに声を弾ませる。


「鮎の甘露煮もある。これ、好きなんだよ。」

夫も昨日とは別人のように穏やかな声だ。


昨日来たとき、夫の眉間には深いしわが刻まれていた。

紅と蒼は「気難しそうな客だな」と身構えたものだ。

だが今朝の夫は、まるで憑き物が落ちたように柔らかい表情をしている。


「お前の好きなだし巻き卵もあるぞ。」

夫が言うと、奥さんは目を潤ませ、おしぼりでそっと目元を押さえた。


紅は静かに席を離れた。

──昨夜の“苦り虫”だ。


苦り虫は人間の負の感情を好む。

憑かれた者は不安や苛立ちが増し、周囲に当たり散らすようになる。

佐々木の夫もその被害者だったのだろう。


紅が調理場に戻ると、蒼が鼻をこすりながら聞いてきた。


「どうだった。」


「思った通り。奥さん、泣いてた。」


「そうか。元に戻って良かったな。」


蒼の声はどこか誇らしげだった。


朝風呂を楽しんだ佐々木夫妻は、チェックアウトの際に深々と頭を下げた。


「静かに過ごせて、本当に良かったわ。ありがとうございました。」


紅と蒼も笑みを浮かべて一礼する。


「良いお客様だったな。」

蒼がぽつりと言う。


「少しはお役に立てたかな。」

紅は昨夜の苦り虫を思い返しながら答えた。


──この二人、実は人間ではない。

御年約1400歳の赤鬼と青鬼である。


戸板神社が創建された当時、神社の影としてこの地に降り立ち、以来ずっと神社を守り続けてきた。


千年前に建てられた真言坊は、もともと神職専用の宿坊だったが、近年は一般客も受け入れている。


紅は女将として、蒼は中居として働きながら、今日も戸板神社の安寧を護っている。


──さて、これから二人の働きぶりを見ていただこう。

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