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風を読む者③

その頃、キャンパスの研究棟では、松島晴雄が研究室にいた。

夜明け前にもかかわらず、彼はすでに風向と海面粗度のデータを並べていた。

 早朝発表の気象情報を確認しようとして、ふと異変に気づいたのだ。

「……何だ、この風向の跳ね方は……?」

風向計の値が、本来滑らかに変化すべきところを、一気に三段階も跳ね上がっている。

下降流だ。それも、局所的で強烈なもの。

「まさか……」

松島は窓の外を見た。

 空の一部が妙に暗い。雲底が不自然な形で垂れ下がり、まるで重さを帯びた影のように沈んでいる。

胸が締めつけられた。

「吉村君……!」

気象官時代に何度も見た、海が豹変する前の空の顔だった。

松島は即座に紙の地図を広げ、風向・気圧・海面温度を手書きでプロットし始めた。

 彼の動きは早い。まるで吉村の行動を読むかのように。

「頼む……生きていてくれ」

その言葉は誰に向けたものでもなかった。

 ただ、静まり返った研究室に沈んで消えた。


その頃、海上の吉村は、容赦なく襲いかかる風と波の中で、たった一人、必死に艇を立て直そうとしていた。

海も空も吠えている。まるで吉村の挑戦を試すかのように。

暴風は、音ではなく重さとして吉村の身体にのしかかってきた。

下降流による突風は一度きりではなかった。まるで螺旋を描くように、風が何度も方向を変え、艇を押し倒そうと襲いかかってくる。

空の色もおかしい。黒でも灰でもなく、どこか緑がかった、不吉な重さを帯びた空。

 積乱雲の下部がちぎれたように垂れ下がり、低い雲が海面すれすれを走っていく。

雨はまだ落ちていない。だが、台風外縁の前触れが、すべての気配となって海上に満ちていた。

吉村はマストを押さえながら、必死に視界を確保しようとした。

 風は横殴りで、息を吸うことすら難しい。

「……頼む、持ってくれ……!」

艇は波に叩かれるたび、ギギ……と悲鳴のような音を立てる。

だが、もっと致命的なのは、方位が完全に消えたことだった。

GPSは沈黙。羅針盤は破損。空は雲で覆われ、太陽はもちろん天体観測もできない。この状況で生き残るには、風そのものを読むしかない。

(落ち着け……風は裏切らない……)

吉村は深く息を吸い、意識して五感を研ぎ澄ませた。

まず、風の方向を感じ取る。

最初の基準は、出航時の風だ。港を出たとき、風は東南東から吹いていた。旗の揺れ方も、海面の細かなさざ波も、確かにそう示していた。

そして今、艇を横殴りに叩く風は、明らかに北東へ回っている。

(やっぱり風が回った……台風の北側に入った証拠だ)

大気科学の講義で何度も見た等圧線のイメージが、自然に脳裏に立ち上がる。

 台風の風は反時計回りに回転する。東南東→東→北東へと変化するのは理屈の上でも正しい。

さらに、船底をドン……ドン……と叩く長い周期のうねり。

 これは突風によるものではない。もっと遠くから来る、台風中心の脈動だ。

(波は南から来ている……つまり北は、その反対)

吉村は船体を支えながら、灰色の空を睨んだ。

 低い雲は乱れて方向が一定しない。だが、中層にある薄い雲だけは、ゆっくりと北東へ流れている。

(あれが信頼できる風だ。上層は地形の影響を受けにくい)

風、波、雲——三つが一致して示す方向。

 すべてがある一点へ収束していく。

(北は……このラインだ)

吉村の脳内で、海図が立ち上がる。まるで透明な地図を風景の上に重ねるように、風向と波の化身が線を引いていく。

そのとき、波が突然、方向を変えた。それまで南から押し寄せていたうねりが、急に角度をつけて東から衝突するような動きになった。

「……風波とスウェルが、噛み合っていない……?」

風は台風の外縁へ引き込まれる形で東へ回り、スウェルは南東から来ている。この捻じれは、台風の進路の縁に入った証拠。そして、このままでは台風の危険半円へ吸い寄せられる。

(まずい……このままだと、南東に流される……!)

南東は最悪だ。台風の進行方向と一致し、風速が倍以上に感じられる危険半円。艇は間違いなく翻弄され、転覆する。

(避けるには……北に抜けるしかない!)

だが北へ進むには、今の風向を逆手に取り、艇を風上へ切りあがらせる必要がある。

普通なら無理だ。この突風の中でそんな操作をしたら、艇は簡単に横倒しになる。

しかし吉村には、ヨット部の主将として鍛え抜いた身体で読む風があった。

(行くぞ……松島さん、俺は絶対、生きて帰る……!)

吉村はセイルを 17°だけ絞り、艇を 45° 風上側へ切り返した。

艇が大きく揺れ、マストが悲鳴を上げる。

 だが——一瞬だけ風が緩んだ。

下降流が落ちきった直後、ほんの0.5〜1秒、風の隙間が生じる。

(今だ!)

艇はそのわずかな隙間を滑り込み、北寄りの生存風へ回り込んだ。

猛烈な突風の中で、唯一安全な風の筋を掴んだのだ。

艇速は一気に 7〜8ノット(約13〜15 km/h)に跳ね上がる。

吉村の手は震えていたが、その目は風を追い続けていた。

「……風よ、道を示してくれ……!」 

死と生の境界線を、吉村は風で越えた。


同時刻、神奈川科学大学・研究棟。 

松島は、研究室の片隅に置かれた古いアナログ式の 携帯風力計(ハンドアネモメータ) を取り上げた。

 窓際に立ち、荒れ始めた風を数回測る。

 そのわずかな数値の変動さえも、彼にとっては貴重な現地情報だった。

松島は、風向計のデータが短時間で 五十度以上 シフトしていることに気づいた。

「……これは……ただの南風の強まりじゃない……!」

彼が使っている研究棟の古い風向計のログは、一分ごとに記録される。

•06:14 SSE 12 m/s

•06:15 SE 16 m/s

•06:16 ENE 24 m/s(異常値)

•06:17 E 18 m/s

•06:18 S 20 m/s

この跳ね方は、十年前に松島自身が海上観測で経験したあの暴風と同じパターンだった。

「吉村君……風の核心に入ったな……!」


——風向が五度……いや七度東寄りに跳ねている。

 下降流由来のシアだ。吉村は、おそらくその帯に入った。

松島は手元の風配図に、その微細な変化を記録していく。

 風力、風向、瞬間風速、変化速度——

 本来なら海上のメソスケール観測なしでは不可能な解析を、彼は読み解きによって補っていく。

出航時刻は午前四時過ぎ。

 吉村の艇の平均速度、風の推力、南東への偏流。

 この時期の相模湾特有の黒潮系の反流まで考慮すれば、だいたいの位置は算出できた。

——だが、具体的な「点」には落とし込めない。

海は生きている。推定だけでは足りない。より高解像度の環境データが欲しい。

松島は迷うことなく受話器を掴んだ。

二回ほどコール音が鳴ると、電話がつながった。

「はい、東京管区気象台、海象解析班、瀬山です」

聞き慣れた後輩の声が響く。

「瀬山君、私だ。松島だ」

「——先輩? どうされました?」

「実はうちの生徒が海洋調査に出て、暴風帯に巻き込まれた可能性がある。今、手元のデータだけでは特定が甘い。そちらで取得している風向・風速の高時間解像度データ、潮流ベクトル、海面水温の速報値——入手できる分をすべてFAXしてくれないか」

松島の声には焦りはなかった。だが緊急であることが、瀬山にも即座に伝わった。

「はい、わかりました。番号をどうぞ。すぐ送ります」

松島が番号を伝えると、瀬山は復唱し、通話は短く終了した。

わずか数十秒後、研究室のFAX機が鳴り、次々と用紙が吸い込まれていく。

プリントアウトされたのは、海象データの解析速報。


三十分解像度の風向・風速(観測船および沿岸局)

潮流ベクトルのモデル推定値

海面水温の急変域(台風外縁の海上上昇流の影響)

レーダー反射強度の変化図


松島はそれらを風配図の上に重ね、素早く計算を始めた。

「……下降流の発生帯が、ここで切れている。なら吉村君は……この北側へ押し出されたはずだ」

彼の計算は早い。

 数字を読むというより、風の流路を立体として視るような作業だった。

風は単なる線ではない。速度と方向を持った空気の塊であり、海面との摩擦を経て形を変え、ときに命を奪う。

 松島の頭の中で、海上の風景が立体地図として浮かび上がる。

「……ここだ」

鉛筆の先が、一点に止まった。

細い線が複雑に絡む中、ひとつだけ風向と潮流が交差し、まるで進路のように海上へ延びている部分があった。

 相模湾東部、海岸線から十数キロ沖。

 潮流と突風の合成ベクトルが、そこで一つに収束していた。

その瞬間、胸の奥に強い確信が生まれた。

「吉村君……君は必ずこの風を選ぶ」

優秀な学生だからではない。ヨット部の主将だからでもない。

あの時、風に魅入られた者の目をしていたからだ。

それは若かりし頃の自分と同じ目立った。

松島は次々と送られてきた最新の風向データを重ね、解析図に補正線を描き足していく。

線は北へ、細く鋭く延びていく。その線と、吉村が進むべき方向が、完璧に一致した。

「恐らくこの周辺だ……。急がないと、風が変わる」

松島はすぐに受話器を取った。ためらいは一切ない。

「神奈川科学大学の松島と申します。うちの生徒が、海上調査中に遭難した恐れがあります。今から具体的な推定位置をお伝えしますので、救助艇をお願いします」

海上保安庁第3管区の担当者が緊張した声で応じる。

「わかりました」推定位置をお知らせください」

松島は、風配図と潮流データを参照しながら、

 緯度・経度の推定値、風向シフトの理由、台風外縁の下降流の影響を手短に、しかし明瞭に伝えた。

通話を切るや否や、すぐに風配図のコピーをFAXで送信した。

送信が終わった瞬間、松島はふうっと息をついた。

 窓の外では、不気味な雲が空を覆い、風が木々の枝を激しく揺らしている。

「……吉村君。どうか、持ってくれ」

その言葉は、祈りにも似ていた。


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