風を読む者②
その日の吉村は、なかなか寝付けなかった。
明日反対を押し切って観測に出るという背徳感からくる興奮もそうだったが、何より松島との出会いが眼底に焼き付いて、あの風の先を見通したような真剣な眼差しが瞼の奥から離れなかった。
(何者なんだ……)
確かに机の上に資料や手書きの海図はあった。しかし、それだけで明日の観測まで見破るとは、只者ではない。
とんでもない男に計画を悟られてしまった。
(多分、教授に進言するな)
だとしたら、明日は予定より早く出る必要がある。
ならばなおのこと早く寝なければならないのだが、そう思えば思う程、なかなか眠れなかった。
吉村は改めて、今回の計画を思い返していた。
吉村は生命環境学部大気科学科の学生としても優秀で、成績はトップクラス。その上でヨット部の主将としても活躍し、文武両道の手本のような存在だった。
しかし、ヨット部の活動の中で、疑問に思うこともあった。
授業で学んだ大気力学では説明できない突風、予報と違う海面温度と風向き——気象庁のデータでは出てこない風を、吉村は現場で何度も経験してきた。
(机上の解析や教科書には出てこない風があるのではないか)
そのことを教授に質問するも、一笑に付された。
「吉村君。現場が間違っているとは言わない。ただ、直観だけでは科学にはならないよ。まずは基礎データをしっかり読み込むことから始めなさい」
確かに今はまだ学生の身分で、基礎から学ばねばならないという教授の指摘は正しかった。仮説を裏付ける根拠も乏しい。
しかし、吉村には納得がいかなかった。
当時まだインターネットも高度な観測機器も一般的ではなく、衛星データは遅延が大きく、詳細観測は大学レベルでは困難だった。海上観測は気象庁か海洋研究所しか実施していなかった。海洋境界層の詳細データは公開資料が乏しく、大学の研究室は予算不足で設備が古い。
このままでは、空白域は永遠に空白のままになる。
丁度、九州南部に台風が接近していた。吉村はチャンスと思った。
(台風接近前の海上の境界層観測をしよう)
単独で小型観測機材を用いて実行しようと試みた。当然、情報が漏れるのを恐れ、教授はおろか親しい友人にも一切話していない。
その計画が今、間近に迫っている。
失敗するかもしれない。しかし、確かめずにはいられない。
(絶対成功させる)
直観は科学に発展しうる。そのことを証明する。
吉村の決心は揺るがなかった。
外は曇り、星のない夜は漆黒の闇だった。
翌朝四時。
まだ薄暗いハーバーには、潮の匂いだけが静かに漂っていた。
吉村は大学の寮を抜け出し、人気のない道を足早に歩いていた。
昨夜はほとんど眠れなかったにもかかわらず、身体は妙に冴えている。
背中のザックには、手作りの小型観測機材、温度計、風速計、そして紙の海図——すべてが詰まっていた。
ハーバーに着くと、誰もいなかった。
ただ、艇庫の木壁に当たる風だけが、コトン……コトン……と、控えめに音を立てている。
吉村は艇庫のカギを開け、ゆっくりと扉を押し広げた。
ギィ……。
灯りをつけず、暗がりのまま艇を確かめた。
昨夜、後輩たちが整備したセイルが綺麗に畳まれている。
陽の入らない艇庫の冷気が、肌にしんと触れた。
——風が違う。
吉村はふと立ち止まり、外へ出て空を見上げた。
空は曇っている。夜明け前の色にも関わらず、雲底がわずかに低い。
海面を撫でる風は弱いのに、上空だけがざわついているような……そんな分厚さを感じた。
感覚で分かる。これは昨日の風ではない。
(……やはり、来るか)
胸の奥がざわめく。怖さではない。ただ、風が何かを告げている——そんな気配。
艇を押し出そうとしたその時、吉村は思わず手を止めた。
研究棟のほうから、足音が一つ、こちらへ近づいてくる。
まだ早朝四時だ。
学生はもちろん、職員もいない時間だ。
足音は舗装路を踏みしめ、ハーバー入口の方で止まった。薄明かりの中、人影が見える。
吉村の心臓が鼓動を早める。
(……まさか)
風が吹き、影の輪郭がわずかに揺れた。白い研究コート。眼鏡の奥で光る目。
松島晴雄だった。
「……やはり、出る気だな」
波の音に混じって、その声は驚くほどはっきりと届いた。
吉村は言葉を失った。
松島は、吉村が朝五時の気象情報を確認してから出ると踏んでいたはずだ。
それなのに、彼はすでにここにいた。まるで一晩中、見張っていたかのように。
昨夜のあの鋭い眼差しが、また目の前に現れたのだ。
「昨夜、言ったはずだ。今日の海は、君が思っている以上に不安定だ」
松島の声には怒りはなかった。
ただ、予報士として、研究者として、そして——人として、吉村を止めたいという必死の覚悟が滲んでいた。
しかし、吉村もまた胸の内に揺るがぬ決意を抱いていた。
「……行きます。どうしても、確かめたいことがあるんです」
松島はすぐには返事をしなかった。彼の視線は吉村の手元のザックへ向き、それから空へと移る。
低い雲。ざわつく上空。
海にはまだ静けさがあるが、その下でうねりが蠢いているようにも見える。
そして松島は、静かに息を吐いた。
「君は、風に魅入られているようだな」
その言葉は、責めるようでも、羨むようでも、諦めるようでもあった。
「だが、風は優しくもあるが、同時に残酷だ」
「教授には話されたんですか」
「まだ教授には話していない……どうか、帰ってこい。生きて帰ってこなければ、観測報告にはならない」
吉村は真っ直ぐに松島を見つめた。
「必ず、戻ります」
言葉の震えは決意か、緊張か——本人にも分からなかった。
松島は最後にもう一度空を見て、静かに言った。
「……風を、侮るな」
そして彼は踵を返し、研究棟のほうへ歩き去っていった。
吉村は、じっとその背中を見つめた。
静寂の中、海から一筋の風が吹いた。
冷たく、細く、しかし確かな変化の予兆を孕んだ風だった。
(行くしかない……)
吉村は艇を海へ押し出した。
夜明け前の海は、まだ眠っているようだった。
だが、その深い静けさの奥に、確かに何かが目覚めようとしていた。
吉村のヨットは、まだ陽の昇りきらない相模湾を静かに滑っていった。
海は意外なほど穏やかで、夜明け前の薄い光が水面に帯のように広がっている。
セイルは軽く風をはらみ、艇は予定通り南南東に進路を取った。
湾を出るまでは順調だった。
風は安定しており、海面も昨日までの荒れ模様が嘘のように落ち着いている。
(……悪くない。むしろ、理想的な風だ)
そう思いながら吉村は、船尾の方位線と波の方向を照らし合わせる。
風波は北へ、うねりは南から。
台風が九州東方を北上している証拠だ。
しかし——湾外へと一筋のラインを越えた瞬間、空気が変わった。
いつの間にか、風の粒が荒い。海面のざわつきもわずかに強まっている。
それは予報にあった南風の強まりに違いなかった。
だが、そのタイミングがあまりに早い。
吉村は眉をひそめた。
(……昨日より、一〜二時間早い。上空の収束が強まっている?)
積乱雲の外縁部では下降流が突発的に生じることがある。それが海面に達すると、冷たい空気の壁となって押し寄せる急激なガストフロント(突風)となって吹き下ろす。
台風はまだ遠いはずだ。
だが、気圧の谷に引き込まれた湿った空気が乱れ始めているのかもしれない。
風はさらに強まり、艇は想定以上の速度で南へ押し出されていった。
「……まずいな」
小さく呟いたその瞬間、吉村は現在地を把握しようとGPS受信機のスイッチを入れた。
だが、小さな液晶画面には、ノイズのように点滅する表示が出ただけだった。
《NO SIGNAL》
(嘘だろ……)
焦りが胸をよぎる。だが、思い返せば当然だった。
台風周辺では電離層が乱れ、GPS信号が掴みにくくなることがある。
吉村も講義で学んだ知識だが、まさか自分がその渦中に投げ込まれるとは思わなかった。
すると、艇が急に大きく揺れた。
「うっ……!」
波の高さはまだ低い。しかし方向性が乱れている。
風波とスウェル(台風接近時の外洋でのうねり)が交差し、艇が不規則に跳ね上がった。
吉村は体勢を立て直そうと身を屈めた瞬間、腰に吊り下げていたアナログ羅針盤が、艇の傾きと共に揺れ——
カシャン。
乾いた音を立ててデッキに転がった。
「やばい!」
手を伸ばしたが間に合わず、羅針盤は艇の縁にぶつかって弾かれ、そのままデッキに叩きつけられて、ガラスが砕けた。指針が無残に折れている。外は曇天で星も見えない。
GPSは沈黙し、羅針盤は壊れた。
完全に位置を見失った。
一瞬、全身から血の気が引いた。
(落ち着け……落ち着け!)
パニックは判断を狂わせる。
吉村は深く息を吸い、海を、空を、風を見た。
風向——南南東から南へ。
雲底——先ほどよりさらに下がった。
うねり——周期が短くなり、波頭が白く裂け始めている。
波の向き——風波が卓越しつつあり、うねりの進行方向との差が縮んでいる。
(……南の風が巻き始めている。台風外縁の下降流だ)
脳裏で海図を思い浮かべる。湾口からここまでの航跡。風速の変化。波の方向。艇の速度から逆算される距離。
視覚情報が地図と重なっていく。
(東へ流されてはいない。まだ南側……)
風の分布を読むことで、吉村は方位を割り出そうとする。
人間の勘ではない。ヨット競技で苦しみ抜いて磨いた、身体で読む科学だ。
(行ける……いや、行くしかない!)
吉村はセイルを引き、艇の角度を調整した。
波を正面から受けず、しかし風を失わない絶妙なポジションへ。
まだ嵐には至っていない。
だが、その入口が目の前にあることを、吉村は痛いほど理解していた。
風が変わったのは、ほんの数秒のことだった。
南から吹き上げるはずの海風が、急に止まった。まるで海そのものが息を潜めたかのように、波頭が一瞬だけ静まり返る。
嫌な沈黙。
吉村は思わず顔を上げた。
(……来る!)
次の瞬間。
ドン!
凄まじい下降流が、空から叩きつけるように吹き下ろした。
台風外縁の積乱雲から生じたダウンバースト。空気の塊が落ちてくる、あの独特の圧。
艇が悲鳴を上げるように大きく傾いた。
「うわっ……!」
海水が容赦なく飛沫になって顔を叩く。
マストがきしみ、セイルは強風に煽られ弓なりに膨らむ。風向は南から東へ、そして一瞬で北東へと跳ねた。通常ではあり得ない急転。下降流と周囲の水平流の混合による、典型的な暴風シアだ。
艇は横から突き飛ばされ、転覆寸前の角度まで傾いた。
(……倒れるな! 絶対倒すな……!!)
吉村はセイルを緊急解放し、身体を風上側へ極限まで乗り出してバランスを取る。
ヨット部で何度も転覆寸前の艇を救ってきた経験が、ここで生きた。
海面すれすれまで傾いた艇が、ギリギリのところで踏みとどまる。
しかし風は容赦なく荒れ狂い、波はさっきまでの穏やかさが嘘のように牙をむいて襲いかかる。波頭は白く砕け、艇の側面を叩くたびに振動が走った。
(松島さん……俺は、絶対に帰る)
吉村は歯を食いしばりながら、ザックを足元に押し込んだ。
その中には、小型観測機材と今日の航跡のメモ——
命より大切ではないが、消えてはいけない記録があった。
艇がさらに横風を受けた瞬間、ザックがデッキの上を滑り、海へ転がり落ちかけた。
「あっ……!」
吉村は反射的に身を乗り出し、片手でザックを掴んだ。
身体が海へ引きずられそうになるが、必死に踏ん張る。
(これだけは……絶対に守る!)
たとえどんな嵐でも、今日の記録は後世の科学になりうる。
これは、風を読む者としての誇りだった。




