風を読む者①
アトモス気象研究所の署長室で、所長の松島晴雄は書類に目を通していた。未見にはしわが寄っている。
研究所の新規プロジェクトで、官民合同の浮体式風力発電の研究をするという内容なのだが、クラウドファンディングの資金集めが思うようにいっていない。2025年に三菱商事が正式に風力発電の開発から撤退を表明したこともあり、再生可能エネルギーに対する世間の印象が思わしくないのが原因だった。
(化石燃料はいつか尽きる。原子力も絶対安全とは言い切れない。――だからこそ、新しい道を探さねばならないのだが……)
その時、ドアをノックする音がした。
「どうぞ」松島は音だけで、誰が来たのか分かった。
「失礼します」現場上がりの芯のある低い声と共に、予想通り吉村明統括部長が入ってきた。
「所長、先日主任研究員の沢村君から提出があった報告書の件ですが」
「ちょうど今目を通していたところだ。まあかけたまえ」松島は老眼鏡を外しながら、席を立ち応接用のソファに手を差し出した。
「で」真向いのソファに松島も腰かけた「資金か?」
「はい。どうしても、近年の再生可能エネルギーに対する世間の目も厳しくて……」吉村の表情にも曇りがあった。
「その辺は私からも政府関係者にあたってみよう。九州中央大学にも連絡してみる」
「お願い致します」吉村は頭を下げた。
ふと顔を上げると、松島の後ろの壁のコルクボードに、風配図(ウインドローズ・風向と風速の頻度を表した円グラフのようなもの)の古いスケッチに吉村の視線が吸い寄せられた。紙が黄ばんでいるのに、線だけは勢いを失っていなかった。
「所長、あれは……」
「ああ、あれか」松島は後ろを振り返りと、小さく笑った。「流石に目ざといな」
「どうしたんですか、あんな古いもの」
「さっき机を整理していたら出てきた。初心忘るべからずと思い、貼ったんだよ」
松島は立ち上がると、風配図に近寄り、そっと手を当てた。それは思い出を慈しむ優しい触れ方だった。
「お互い、若かったな」
「はい。その節はご迷惑をおかけしました。しかし、あれは私にとって一生の財産です」
「私もだ」松島は即答した。「あれが今のアトモス気象研究所を作ったと言っても過言ではない」
松島は窓の外を見た。初夏の雲が、強めの風に流れていた。
あの時の雲みたいだな、と松島は思った。
――時は三十年ほど前に遡る。
神奈川科学大学・生命環境学部大気科学科。
四年生の吉村明は、午前の気象力学の講義を終えると、研究棟の裏手にある小さなヨットハーバーへと足を向けた。
大学のキャンパスは相模湾を望む丘の上にあり、潮の匂いが風に乗って届いてくる。
当時はまだインターネットも一般には普及しておらず、気象データは研究室のFAXや気象庁の定時発表を頼りに解析していた。
だが、吉村には機器に頼らないもう一つの情報源があった。
――風だ。
ハーバーに近づいた瞬間、海から吹き上げる風が頬を撫でた。
吉村は足を止め、ほんの数秒、目を閉じる。
南南東。風力2。
午前のうちは落ち着いているが、遠くの雲の形から、午後には南の海風が強まり始める。
予想、ではなく『感覚』だった。
「主将、今日も出るんですか?」
艇庫で古いセイルを繕っていた後輩が、針を止めて声をかけてきた。
吉村は頷き、艇の状態を確かめながら言う。
「講義はもう終わりだからな。風がいい」
「先輩の『風がいい』って、だいたい当たるから怖いです」
「怖いって言うな。風は裏切らないよ。読むかどうかだ」
ヨット部の艇庫は木造で、壁には先輩たちが残した落書きのような航跡図が残っている。
油の匂いと潮の匂いが入り混じり、扉の隙間から差し込む光がマストを白く照らしていた。
セイルを積み込み、吉村は艇を押し出す。
水面は早春の光を反射してキラキラと揺れ、遠くでは漁船がゆっくりと湾を出ていく。
舵を握った瞬間、吉村の身体は自然と風上へ重心を移した。
海と自分が一本の軸で結ばれたような感覚が訪れる。
――風が、変わる。
わずかな風紋の揺らぎ、沖の白波の立ち方、鳥の飛ぶ高さ。
海と空が発する『前触れ』を吉村は逃さなかった。
「……今日は、午後にひと吹き来るな」
小さく呟く。
この日、研究室で解析した海面気圧のデータは、確かに午後から南風の強まりを示していたが、吉村はすでに海に出た瞬間にそれを感じ取っていた。
風を読む――それは彼にとって、学問より先に身についた『第二の言語』だった。
ヨットの訓練を終えた午後、吉村は濡れた髪をタオルで拭きながら、研究棟の資料室へと向かった。
古い木製の引き戸を開けると、独特の紙と埃の匂いが漂っていた。ここには、昭和期からの観測記録が山のように保管されている。
吉村は棚から風速計の旧型マニュアルを探し、奥の閲覧机に広げた。
来週、教授に内緒で計画している海洋境界層の自主観測の準備のためだ。
その時、後ろから静かな声がした。
「君、吉村君だね?」
振り返ると、見慣れない男性が立っていた。
三十代前半だろうか。白い研究者用のコートの袖をまくり、資料室の薄暗がりにも目の光が鋭く映っている。
しかし、声は柔らかい。
そのアンバランスさが妙に印象に残った。
「はい。どちら様でしょうか?」
「今春からこの学部に着任した、松島晴雄だ。気象動力学の講義を担当している」
噂では聞いていた。
東京管区気象台で海洋気象の第一線にいた男が大学に移り、次世代育成のために教壇に立った——と。
松島は吉村の机の上の資料と、メモ用紙に走る手書きの海図を見て言った。
「……沖に出る気だね?」
吉村は一瞬、言葉に詰まった。
教授にも部の顧問にも言っていない計画を、初対面の男にいきなり見破られるとは思わなかった。
「い、いえ……ただ勉強を……」
「嘘はつかないほうがいい」
松島は笑っていない。だが声は冷たくもなかった。
ただ、吉村を読むような眼差しだった。
「相模湾外縁の海上境界層データは、今週ずっと乱れている。測器の応答遅れか、海面温度が平年より高い影響か……。少なくとも、学生が単独で海に出る状況ではないよ」
吉村は息をのんだ。
そこまで読み切っているとは思わなかった。
「……ですが、風の状態を直接見ないと分からないことがあるんです。机上の資料だけでは——」
「風を読むのは挑むためではない」
松島は言い、閲覧机の向かいに腰を下ろした。
「風は、人を生かすために読むものだ」
言葉の重さに、吉村は返す言葉を見つけられなかった。
しかし、黙って引き下がるわけにはいかない。
彼はゆっくりと顔を上げた。
「……安全面には十分配慮します。沖には出ず、湾内で——」
「湾内でも駄目だ」
松島はきっぱりと言った。
「明日の午後は、南の海風が一時的に強まる。地上の気圧データでは分からないが、上空の温度場に微妙な気配がある……私が学生の頃、これで痛い目にあった」
その言い方に、過去の苦い経験と責任の重さが滲んでいた。
だが吉村も譲れない。
自分が風に触れて知りたいものがある。
「……それでも、私は出ます。風がどう動くのか、この目で確かめたいんです」
松島はしばらく吉村を見つめ、ふっと笑った。
呆れたような、しかしどこか満足気な表情でもあった。
「君のような学生が、一番危ない」
立ち上がると、松島は言い残して資料室を出ていった。
だがその背中は、「止めきれない」ことをすでに悟っているようでもあった。
初めての出会いは、穏やかでも友好的でもなかった。
だが、この瞬間、二人の長い物語の風が、確かに吹き始めていた。




