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風を読む者④

暴風は止む気配を見せなかった。

 上昇流と下降流が交互に襲い、艇は何度も転覆寸前まで追い詰められる。

しかし、その狂気の風の中に、吉村は わずかな規則を見つけ始めていた。

下降流が叩きつける直前、ほんの一瞬だけ、風が息を吸うように弱まる。その直後、南東から強い吹き上げが来る。

(……これは……ただの乱れじゃない)

風の乱流ではあり得ない、周期性を帯びた変動。

 台風外縁の縦渦構造が、わずかにずれて、波にも反映している。

(風が……道を作っている……)

海は凶暴だ。しかし風は——もっと正直だ。

吉村は濡れた頬を拭い、荒れ狂う海を睨んだ。

ある瞬間、気づいた。風の渦の縁で、波頭の向きが、他のどこよりも整っている場所がある。

不規則な海面の中で、ひとつだけ、波が素直に風に従って流れている細い帯。

風と波が同じ方向に揃う——本来なら、こんな状況ではあり得ない筋。

(……ここだ)

まるで海の上に一本の白線が引かれたかのように、吉村にはその風路が見えた。

艇を向ければ、暴風の斜め下に入り、危険半円を抜けられる。台風の進路から押し出される側に出られる。

生き残れる確率は、四割……いや三割程度だろう。しかし、ほかはゼロだ。

吉村は決断した。

「……行くぞ」

セイルを強風に合わせて切り返し、艇の角度を風の筋へと合わせた。

次の瞬間——艇は、まるで何かに導かれるように、暴風の中を走り出した。

風が背後から押す。波が前へ運ぶ。

その瞬間、吉村には確信があった。

(これだ……この筋しかない……!)

心臓が高鳴る。

 恐怖ではない。風と海が同時に見える、あの感覚。

彼は全身の力を艇に預け、風の道を追った。


一方その頃。神奈川科学大学の研究室では、松島晴雄が風配図の上に鉛筆を走らせていた。

ふと、松島の手が止まった。沿岸局と海象データを重ね合わせたとき、風の欠けた部分に気づいたのだ。

「……ここだけ、風向シアが弱まっている……?」

通常なら強風帯の中に、わずかに風速が落ち、風向が揃っている地点がある。

海象データとの誤差はわずか数度。数値的にはノイズにも見える。

しかし松島には、それがわかった。『風の道』だ。

「……吉村君……君なら見つけるな……」

彼は椅子から立ち上がった。

吉村明という男は、学部生でありながら単独観測を行う程、風に魅入られた男だ。あの暴風の中でも筋を読む能力があるに違いない。

……いや、読めるのは彼しかいない。

松島の胸に、重い責任と確信が同時にのしかかった。

(私は、この筋に救助隊を導くのか……?間違えれば、救助隊も危険に晒す。しかし——彼は必ずこの風を見つける)

「……これしかない」

松島は受話器を掴んだ。

「こちら神奈川科学大学、松島です。先ほどの場所に加えて——新たに特定した風の筋をお伝えします。救助艇は、可能ならこの方位へ向かってください。吉村は、必ずここにいます」

その声は震えていなかった。

 覚悟と責任の重さを含みつつ、それでも信頼の強さがあった。

風の地図を読み、海を読み、若き後輩を信じる。

 それが、かつて気象官として海と向き合い続けた松島の生き方だった。


そして海上では、吉村が選んだ風の道が、嵐の奥へと、一本の光のように伸びていた。

その先に、生き残る可能性がある。

吉村の艇は、暴風の細道をなんとか進んでいた。

 風と波が唯一噛み合う場所を捉えたことで、艇は辛うじて転覆を避けながら前へ押し出されていく。

だが、限界は近かった。マストはもう悲鳴を上げている。ブームは何度も叩きつけられ、金属疲労が音として伝わる。船体の梁が軋み、波衝撃を受けるたびに背骨が折れそうな音が響いた。

(……あと何回、この波を受け止められる……?)

答えは、考えたくなかった。猛烈な突風が吹けば、マストが折れるか、艇が横転して海に飲まれる。

それでも吉村は、絶対に風の道を読み続けた。

(まだ……まだ行ける……!)

だがその時——海が突然、形を変えた。

前方の波が異様に高く盛り上がり、その直下に強い巻き込みが生じている。

「ブローバック……!」

上昇流と下降流がぶつかり、波の山が反転する現象。これに巻き込まれれば、艇はひとたまりもない。

次の瞬間、艇が一気に持ち上げられ、海面から浮いた。

マストがきしみ、セイルが破れかけて裂ける音が響く。

艇は——落ちる。

「くっ!!」

吉村は全力で踏ん張った。

 だが落下の衝撃で、船底が半分沈み込み、片側が完全に海へ浸かった。

船体が傾いていく。これ以上は、もう耐えられない。

(終わった……のか……?)

そのときだった。

ドォォォン……!

 遠くから、重たいエンジン音が海を震わせた。波の向こうで、白い船が風を切って近づいてくる。赤いライン。白い船体。高出力のライトが、荒海を切り裂く。

海上保安庁の救助艇だった。

(え……?)

吉村が呆然としている間にも、救助艇は狂暴な波の中を迷いなく進み、風上側から吉村の艇へと、転覆を防ぐ形で大きく回り込んだ。

「こちら海上保安庁! 乗員の方、聞こえますか!」

スピーカーから叫ぶ声が、風を切って届いた。

吉村は必死で手を振った。

「助けてくれ!!」

 救助艇の乗員が素早く救命索を投げる。

 波に揺られながらも、吉村はなんとかそれを掴んだ。

「しっかり掴んで! 引き上げます!」

強風が吹き荒れる中、救助隊は驚くほど正確な動きで吉村を引き寄せ、ついに救助艇へ引き上げた。

デッキに倒れ込み、荒い呼吸を繰り返す吉村。

胸が苦しくて、声にならない。ただ、生きているという実感だけが、激しく脈打っていた。

「よく頑張りました。危なかったですね」

救助隊員が声をかける。

吉村はかすれた声で、辛うじて口を開いた。

「……どうして……ここが……分かったんですか……?」

救助隊員は一瞬だけ苦笑し、言った。

「——神奈川科学大学の松島さんから救助要請がありました。『吉村君はきっとこの風の筋を選ぶ』って」

吉村は絶句した。

風の音も、波の音も、一瞬止んだように感じた。

(……松島さん……)

震える指先で、濡れた前髪をかき上げながら、吉村は目を閉じた。

(……ありがとう……)


一方その頃、神奈川科学大学の研究室では、電話が鳴り、松島がすぐに受話器を取った。

「はい、松島です」

『救助成功しました。乗員ひとり、生存。意識あり。間違いなく、吉村明さんです』

松島は目を閉じて、深く、長い息を吐いた。

胸の奥に、熱いものが込み上げてくる。

(……吉村君……風が読めたな……よく……本当によく頑張った……)

窓の外では、まだ風が唸っていた。

だが松島の胸中には、ほんの一筋の光のような静かな風が吹いていた。


救助艇がゆっくりと港へ入ってきた。

 荒れ狂っていた海はまだうねりを残していたが、岸の防波堤が、その暴力を和らげてくれている。

港の空気は潮の匂いと油の匂いが混じり、どこか懐かしい温度を帯びていた。

吉村は救助隊員に支えられながら、まだ震える足でデッキを降りた。

地面を踏む感触が、まだ波の揺れを残していて、妙に重く、遠い。全身が痛む。

 しかし、生きて帰った。ただその事実だけが胸に熱く満ちていた。

そのとき。

岸壁の手前に、ひとりの男が立っていた。

白い研究コート。少し乱れた髪。どこか夜を徹して待ち続けたような、静かだが熱のこもった眼差し。

松島晴雄。

(……ぶん殴られるな)

 そう覚悟して、吉村は目を閉じた。

しかし、松島はゆっくりと歩み寄ると、大きくも優しい手で、吉村の肩にそっと触れた。

「……よく頑張ったな」

低い声。怒鳴りつけるでもなく、責めるでもない。

ただ、生還した学生を温かく受け止める、ひとりの師の声だった。

「最後まで風を読み、生きることを諦めなかった君の勝利だ」

吉村は息を飲んだ。

「松島……先生……」

言葉にならない。喉の奥が痛むほど、込み上げるものがあった。

「現場で培った感覚が活かされたな。私も、学ぶところがあったよ」

科学者であり、教育者である松島が学生から学んだと言う。その言葉は、嵐よりも胸を揺らした。

動揺する吉村の前で、松島はゆっくりと水筒の蓋を開けた。

 湯気がふわりと上がり、港の冷えた空気に溶けていく。

コップに注がれた紅茶は、驚くほど温かかった。

「唇が青いぞ。飲みなさい」

吉村は震える手でコップを受け取った。

 甘く、温かい。その一口が、今日の恐怖と痛みをすべて溶かしていくようだった。

(……松島さん……)

胸の奥底から言葉が溢れた。

「……ありがとうございます……」

涙が、溢れた。

 嗚咽が漏れても、松島は何も言わず、ただ横に立って見守ってくれた。

「今から病院へ行くのだろう。その水筒、持っていきなさい」

「……はい……」

返事は震え、かすれていたが、確かな尊敬と感謝がにじんでいた。

吉村は救助隊に促され、歩けたが、念のためと用意された車椅子に乗った。

車のドアが閉まり、車がゆっくりと港を離れていく。

松島は、その後ろ姿が見えなくなるまで、ただ静かに立ち尽くしていた。

(……吉村君。よく風を読んだ。よく、生きた)

風が、松島の白衣を揺らした。



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