第9話:堅物騎士団長、鉄の忠誠を誓って専属護衛を志願する
――勝った。
私は心の中で、特大のガッツポーズをキメていた。
完全に勝負あった、と言ってもいい。
百キロを超える国宝級の金属塊を軽々と片手で持ち上げ、大理石の床板ごとド派手に叩き割って投げ捨てたのだ。
その上、「粗大ゴミ」「これで新しいオモチャでも買って帰りなさい」「うるさくて眠れないから失せろ」という、貴族令嬢としてどころか人間として完全にアウトな暴言のフルコースを叩きつけてやったのである。
(ふふ……ふははは! 見たかしら、あの筋肉ダルマのポカーンとした間抜け面!)
前世の社畜時代、私は理不尽なモンスタークレーマーや、やたらとプライドだけが高い取引先の役員を嫌というほど相手にしてきた。
彼らのような「己の立場やプライドを絶対視しているタイプ」が最も激怒する地雷――それは、「金で頬を張り倒されること」と「プライドを子供の小遣い扱いされること」だ。
国王直属のエリートである近衛騎士団長ともあろう男が、年下の公爵令嬢にガラクタ扱いされた挙句、施しのように金属の塊を投げつけられたのだ。
誇り高き武人なら、もはや怒髪天を衝いて腰の剣を抜くか、あるいは「この無礼極まる性悪女め、国王陛下に言いつけて貴様の首を刎ねさせてやる!」と怒鳴り散らしながら王宮へ駆け込むのが道理というもの。
(さあ、怒鳴りなさい! 憤慨して王宮へ駆け込みなさい! そして国王陛下とレオポルト殿下に『エレオノーラは近衛を愚弄する希代の悪女です! あんな女との婚約は今すぐ破棄すべきです!』ってチクるがいいわ!)
そうなれば、昨今の小麦買い占め(※なぜか美談化された悪夢)の帳尻も合い、貴族院からも「やはりあの女の気性は危険すぎる」と声が上がる。
婚約破棄。からの、辺境への国外追放。
南の島でのエンドレス有給休暇ライフへの黄金ルートが、今まさに目の前に一本の滑走路となって拓かれようとしていた。
「さようなら、騎士団長様。我が家の敷地から出たら、二度と敷居を跨がないでちょうだいね」
私は勝利を確信し、冷酷な笑みを浮かべたまま、優雅に踵を返した。
自室のデイベッドに戻り、先ほど中断された極楽のシエスタを再開するために。
――ガシャンッッッッ!!!!
その時、私の背後で、耳をつんざくような凄まじい金属音が炸裂した。
鋼鉄と白銀が擦れ合い、砕けた大理石の破片がジャリッと押し潰される、重苦しく、暴力的な音。
(……え? 何? まさか本当に頭に血が上って剣を抜いた!?)
さすがに物理的な暴力で切り捨てられるのは痛そうだし勘弁してほしい。
私はチート魔力による防御結界を無意識に展開しながら、眉をひそめてサッと振り返った。
そこに広がっていた光景を見て――私の思考は、完全にフリーズした。
「……は?」
マティアス・ヴァルデンが、倒れていた。
いや、倒れたのではない。
彼は――粉々に砕け散った大理石の粉塵が舞う床の上に、両膝を深々と突き立てていたのだ。
尖った大理石の破片が膝の装甲に食い込み、ギチギチと嫌な音を立てているのにも構わず、彼は両膝をつき、右の拳を自らの左胸――ドクドクと激しく脈打つ心臓の真上へと、骨が軋むほどの力で押し当てていた。
そして、その屈強な首を、これ以上ないほど深々と折り曲げ、額を砕けた床板スレスレにまで垂れ下げている。
騎士の最高礼。
国王陛下にすら、戴冠式や戦勝報告の場でしか捧げられないとされる、絶対服従と魂の恭順を示す儀礼――【臣従の誓い】の姿勢だった。
「……え、ちょっと……何やってんの、この人?」
私の口から、素っ頓狂な声がポロリとこぼれ落ちた。
怒号は?
抜刀は?
「貴様、不敬であるぞ!」というお決まりの糾弾のセリフはどこへ行ったのか。
なぜ、王宮最強の武人が、私の足元に散らばる瓦礫の上で、まるで神仏の像を前にした敬虔な巡礼者のように平伏しているのか。
「……お、おい、マティアス? 膝、痛くないの? 床、尖ってるわよ?」
「――っ!」
私の困惑交じりの問いかけに、マティアスの広い背中がビクッと大きく跳ね上がった。
ゆっくりと、まるで錆びついた甲冑を軋ませるような重々しい動作で、彼が顔を上げる。
「ヒッ……!?」
思わず短い悲鳴が出そうになった。
マティアスの彫りの深い精悍な顔面が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに崩壊していたからだ。
あの歴戦の猛者たる近衛騎士団長が。
社交界の令嬢たちが「冷徹な軍神」「近寄りがたい氷の槍」と噂していた男が。
琥珀色の瞳から、まるでダムが決壊したかのようにボロボロと大粒の涙を零し、分厚い唇を震わせながら、私のことを見上げているのだ。
絵面が怖い。シンプルにホラーである。
「エレオノーラ……閣下……っ!!」
空気を震わせるような、絞り出すような絶叫だった。
「我が身の……我が身の浅ましさ、愚鈍さ……恥じ入るばかりにございます……! このマティアス・ヴァルデン、貴女様の深淵なる御心に微塵も気づかず、あのような浅薄な法論を振りかざし、お説教などと……! 万死、万死に値いたします……ッ!!」
「えっ? あ、うん? いや、別に万死までは求めてないけど……」
「言葉を飾る必要などございません!」
ドンッ、とマティアスは自らの胸板を拳で叩いた。
甲冑の金属音がサロンに虚しく響く。
「先日の演習における我が団の不始末……部下の負傷、粗悪な装備による苦戦、そして財務省からの冷遇……! 私は誰にも言えず、己の無力さを恥じ、一人でその苦杯を舐めておりました! それを……それを貴女様は、一目で見抜いておられた……!」
「……はあ? 財務省? 負傷?」
「とぼけないでいただきたい……ッ!」
マティアスは床に転がる青白い燐光――ミスリル純塊に震える手を伸ばし、祈るようにその表面に触れた。
「これほどの至宝を『ガラクタ』と言い放ち、私の足元へ投げ捨ててくださった……! もし正式な寄付として下賜されれば、文官どもの横槍が入り、部下の元へ届く前に手続きの泥沼に沈むことを知っておられたからだ! 何より……『公爵家に施しを受けた』という事実が、誇り高き騎士たちの心を挫くことまで計算し尽くし……あえて、あえて己を『傲慢な悪女』に貶めてまで、我が団を救うための路を拓いてくださった……!!」
(……は? え? 何言ってんのこの人? 頭のネジ飛んでるの?)
私の脳内ツッコミが追いつかない。
計算? 財務省の横槍? 騎士のプライド?
違う、断じて違う!
私はただ、この男の長話が死ぬほど退屈で、昼寝を邪魔されてイライラして、地下倉庫の漬物石代わりに転がっていた一番重くて邪魔な金属を「これで黙って帰れ」と投げつけただけだ!
それ以上でもそれ以下でもない、純度百パーセントの八つ当たりである!
「閣下……! 『これで新しい剣でも鎧でも買って帰りなさい』……あの一言に込められた、現場で血を流す兵たちへの慈悲、そして『ボロい兵舎を建て替えろ』という、国家の盾たる軍への真の憂慮……! 己の名誉をドブに捨て、傲慢の仮面を被ってまで、なぜそこまで他者を救おうとなされるのですか……! 貴女様は……貴女様はどこまで孤独に、この国の痛みを背負われるおつもりなのですかッ!!」
ボロボロと溢れ出るマティアスの涙が、砕けた大理石を濡らしていく。
暑苦しい。
熱量が凄まじすぎて、サロンの室温が体感で五度くらい上がっている気がする。
誰かこの暴走機関車を止めてくれ。ブレーキをへし折ったダンプカーのように、勘違いの崖っぷちを全速力でダイブしていっている。
「いや、マティアス、本当に勘違いだから。私、ただの我儘で投げただけ――」
「謙遜は不要でございますッ!!」
ガバッと、マティアスが床に平伏し直した。
額を床板に擦り付け、両手を大きく広げて私の足元に捧げる。
「このマティアス・ヴァルデン、近衛騎士団長の地位を賭して誓いましょう! 下賜されたこのミスリルは、我が団の最高峰の刀鍛冶に預け、兵たちの新たな刃と鎧へと生まれ変わらせます! そして余剰の資金をもって、劣悪な兵舎を直ちに建て替え、兵たちの生活を立て直します!」
「あ、そう。まあ、捨てたものだから好きにすればいいけど……」
「そして――!!」
マティアスが勢いよく顔を跳ね上げた。
その琥珀色の瞳には、先ほどの困惑や怒りは微塵もなく、宗教画に描かれる聖人を前にした狂信者のような、ギラギラとした熱狂の光が宿っていた。
「我が命、我が魂、我が剣の切っ先は、今この瞬間より、ただ一人の主――エレオノーラ・フォン・グランヴェル閣下のためにのみ捧げられます!!」
「……はい?」
私の口から、本日一番の間抜けな声が出た。
ちょっと待って。今、なんて言った?
「近衛騎士団の職務の合間を縫い……いいえ、非番の全時間、さらには我が直属の第一小隊の精鋭を率い、これより公爵邸の警護を恒久的に担当いたします! 貴女様の御身を害そうとするあらゆる不届き者、隣国の刺客、政敵の毒牙……その全てを、このマティアスが肉片の一片も残さず叩き斬ってみせましょう!」
「いらない!! 何言ってるの、いらないわよそんなもの!!」
私は思わず後退りながら叫んだ。
近衛騎士団長が、公爵令嬢の私設護衛?
意味がわからない! 職権乱用にも程がある!
「あなた、王太子殿下の護衛でしょうが! 国家の要職でしょうが! なんで一貴族の令嬢の護衛なんかやってるのよ! 職場放棄よ、サボりよ、クビになるわよ!?」
「殿下には私自ら直訴いたします! 『エレオノーラ閣下の安寧を守ることこそが、王国の未来を守る最大の国防である』と申し上げれば、殿下も諸手を挙げて賛同されるはずです!」
「賛同するな!! あいつなら確実に『よくやったマティアス!』って満面の笑みで許可を出すに決まってるでしょうが!!」
目に見えるようだ。
あの重度のエレオノーラ信者と化したレオポルトのことだ。「そうか、マティアスもついにエレオノーラの気高さに気づいたか!」と涙を流して握手を交わし、近衛騎士団の予算から特設防衛部隊の結成費用をポンと決済する姿が容易に想像できてしまう。
「閣下……! どうか、このマティアスを貴女様の忠実なる盾として、お側に侍らせてください!」
「嫌よ! 暑苦しい! 近寄らないで!」
「ああ……なんという厳格なお言葉……! 未熟な私に、さらなる研鑽を積めと仰るのですね……! この身が粉々になるまで、貴女様の期待に応えてみせます!!」
通じない。
拒絶が全て「厳しい愛の鞭」として変換されている。
この世界の男たちの脳内には、一体どんな欠陥翻訳エンジンが搭載されているのか。開発者を呼んで小一時間問い詰めたい。
「お、お嬢様……っ!」
部屋の隅で事の顛末を見守っていた筆頭執事のクリストフが、ハンカチで滝のような涙を拭いながら歩み寄ってきた。
「なんと……なんと素晴らしい光景でございましょうか……! 粗大ゴミと化していたミスリルが、近衛騎士団の絶対の忠誠へと化けるとは……! 大理石の床板の修繕費など、金貨五十枚もあればお釣りが来ます! これぞ我が公爵家の至高の先行投資! 帳簿の神もお喜びですぞ……!」
「クリストフ、あなたまで頭が湧いたの!? これのどこが先行投資よ、ただのストーカーが増えただけじゃないのよ!!」
私が怒鳴り散らす中、背後からスッと黒い影が歩み寄ってきた。専属侍女のリディエである。
彼女は手元の手帳に羽ペンでサラサラと何かを書き留めながら、淡々と告げた。
「近衛騎士団長マティアス閣下による、公爵邸専属常駐警備の申請。受理の手続きを進めておきます。なお、閣下の体格に合わせた特注の待機用天幕を中庭に設営し、夜間巡回ルートの再編を行います」
「リディエ!? あなた何しれっと業務フローに組み込んでるの!? 却下よ、全面却下!!」
「お嬢様の安眠を守るため、野犬や不審者の排除には極めて有効な戦力かと存じます」
「一番私の安眠を脅かしてるのは目の前の筋肉ダルマでしょうが!!」
私の絶叫などどこ吹く風。
マティアスはリディエに向かって深々と一礼し、「恩に着る、侍女殿! 今夜から早速、閣下の寝室の真下の中庭にて不眠不休の警備を開始する!」と目を輝かせている。
寝室の真下に騎士団長が常駐?
地獄か。プレッシャーで二度と熟睡できないわそんなもの。
「マティアス、いいからそのミスリルを抱えて城に帰りなさい! 今すぐ! 一秒以内に出て行かないと、残りのミスリルであなたの頭をぶん殴るわよ!!」
「はっ! 直ちに兵舎の改革に着手いたします! 閣下、明朝の訓練後、再びご挨拶に伺います!!」
マティアスは百キロのミスリル純塊を、まるで愛しい赤子でも抱き抱えるかのように両腕で優しく抱え上げると、涙に濡れた顔に晴れやかな笑みを浮かべ、大股でサロンを去っていった。
廊下に響く軍靴の音は、先ほどまでの刺々しさは完全に消え失せ、誇らしげな凱旋行進のようだった。
バタン、と静かに扉が閉まる。
残されたのは、粉々に砕け散った大理石の残骸と、埃っぽい空気。
そして――頭痛薬を要求するように、こめかみを押さえてよろめく私一人だった。
「……嘘でしょ」
崩れ落ちるようにソファーへ座り込む。
手足を投げ出し、天井を仰ぎ見た。
「どうして……どうしてこうなるのよ……?」
整理してみよう。
事の発端:昼寝を邪魔されたから、嫌がらせで重い粗大ゴミを投げつけた。
期待された結果:「無礼者め!」と激怒され、国王にチクられて婚約破棄&追放。
実際の結果:騎士団長が感涙し、絶対の忠誠を誓い、公爵令嬢専属の親衛隊長に就任。
「外堀が……埋まるどころか、要塞化してるじゃないのよぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!」
王太子レオポルトが忠犬化し、王都の民衆が熱狂的な信者となり、今度は国家最高戦力である近衛騎士団のトップまでが私の「私兵」と化した。
こんな状態で、誰が私を断罪できるというのか?
誰が私に「悪女め、国外追放だ!」と言えるというのか?
もし誰かが私を追放しようものなら、民衆が暴動を起こし、騎士団がクーデターを起こし、王太子が「エレオノーラを追放するなら俺も王位を捨てる!」と言い出しかねない狂気の布陣が完成しつつある。
「嫌……! 絶対に嫌よ! このままじゃ、全方位から神輿に担ぎ上げられて、逃げ場のないまま『救国の聖女王妃』として玉座に縛り付けられちゃう!!」
毎日十六時間、国家の重要書類に目を通し、外交交渉で頭をすり減らし、軍の再編に頭を悩ませる――そんな地獄の過労死エンドが、すぐそこまで迫ってきている。
前世で栄養ドリンク片手に倒れた、あの惨めな最期が脳裏をよぎる。
二度目の人生でまで、身を粉にして働いて死ぬなんて、死んでも御免だ。
「……待ってられないわ」
私はガバッと顔を上げた。
緋色の瞳に、ぎらりとした決意の光が宿る。
「受動的に待っているからいけないのよ。相手の出方を待つから、深読みされて美談に変換されるのよ。……なら、こっちから仕掛けるまでだわ!」
「お嬢様……? 何か良からぬことを企んでおられるようなお顔でございますが」
リディエが眉をひそめて問いかけてくる。
私は立ち上がり、真紅のガウンをバサリと翻した。
「クリストフ! 馬車の手配をしなさい! 王宮へ行くわよ!」
「は、はひっ!? 王宮へ……!? 殿下に会いに行かれるのですか!?」
「ええ、そうよ! アポなしで乗り込んで、殿下の執務室のドアを蹴破ってやるわ!」
私は扇子をビシッと虚空へ突き出した。
もはや搦め手など使わない。
周囲の深読みなど許さない。
王太子の目の前に乗り込み、公衆の面前で、私の口から直接叩きつけてやるのだ。
『私は夜会をサボり、市場を買い占め、騎士団長に暴言を吐いた最低最悪の悪女です! こんな女、王妃にふさわしくありません! 今すぐ婚約破棄して、私を辺境へ追放しなさい!!』――と!
「待っていなさいよレオポルト……! 今度こそ、貴方の口から『婚約破棄だ!』って言わせてみせるんだから!!」
悪役令嬢エレオノーラの、自爆覚悟の王宮直接突撃作戦。
それが、さらなる特大の勘違いと、王太子の愛の爆発を引き起こす地獄の引き金になるとは知らずに――彼女は勇ましく、破滅への馬車へと乗り込むのだった。




