第10話:外堀が埋まる前に! 悪役令嬢、自ら王宮へ突撃して婚約破棄を要求する
――カタカタカタ、ゴットン。
車輪が規則正しいリズムを刻み、最高級のサスペンションが路面の微細な衝撃を軽やかに吸収していく。
グランヴェル筆頭公爵家の象徴である『覇竜と百合』の紋章が刻まれた豪奢な黒塗りの馬車。その贅沢な革張りシートに深く腰掛けながら、私は窓の外を流れる王都の景色を、獲物を狙う野獣のような鋭い目つきで睨みつけていた。
「……絶対に、絶対に阻止してみせるわ」
ぎりっと奥歯を噛み締め、手にした扇子を力任せに握りしめる。
膝の上に広がるのは、深紅と漆黒のコントラストが目に痛い、夜会用かと見紛うばかりのド派手なドレスだ。
襟元は鋭利にカッティングされ、肩にはこれ見よがしに黒鳥の羽根があしらわれている。名付けて『私は性格の悪い悪徳令嬢ですセット』。
普段なら「肩が凝る」「生地が重い」と即座に脱ぎ捨てて部屋着に着替えるところだが、今日ばかりは話が別だ。相手の視覚から徹底的に圧迫し、「こいつは危険な悪女だ」と直感させねばならないのだから。
「お嬢様、リップの色合いはこれでよろしかったでしょうか。血のような深紅をお望みとのことで、東方の妖花から抽出した顔料を重ね塗りいたしましたが」
向かいの席に背筋をピンと伸ばして座る専属侍女のリディエが、手鏡を差し出してきた。
鏡を覗き込むと、そこには息を呑むほどに冷酷で、近寄る者すべてを氷漬けにしそうな絶世の悪女が映っていた。
切れ長の緋色の瞳に、挑発的な真紅の唇。
完璧だ。どこからどう見ても、贅沢に飽き足らず権力を貪る希代の性悪女そのものである。
「素晴らしいわリディエ。この唇から吐き出される毒の言葉に、あのプライドの塊みたいな王太子も卒倒するに違いないわ」
「お嬢様の美しさは、確かに人の正気を奪うほどの魔性を秘めております。……ところで、アポイントメントの件でございますが」
「不要よ! アポなんて知るもんですか!」
私は扇子をピシャリと手のひらに打ち付けた。
「考えても御覧なさい! 悪役令嬢が! 相手を破滅に追い込むために! 『来週の火曜日の午後二時、ご都合よろしいでしょうか?』なんて丁寧な事前伺いを立てるわけがないでしょうが! 不意打ち、奇襲、強行突破! これぞ暴虐の限りを尽くす特権階級の特権よ!」
「承知いたしました。公爵令嬢としての治外法権を最大限に行使いたします」
リディエは一切動じることなく手帳をパタンと閉じた。
有能すぎて怖い。だが今の私には、その有能さが最高に頼もしかった。
――ガタガタと震えながら公爵邸で頭を抱えていた執事クリストフの顔が脳裏をよぎる。
『お、お嬢様ァァ! 王宮へアポなし突撃など前代未聞! しかも殿下の執務室へ乗り込むなど、国家への宣戦布告と受け取られかねませんぞォッ!』
クリストフはそう叫んで胃薬をラッパ飲みしていたが、知ったことではない。
宣戦布告? 大いに結構じゃないの!
むしろ受けて立とうじゃないの!
(……だって、もう時間がないのよ!!)
私はドレスの裾を強く握りしめ、心の中で血の涙を流した。
ここ数日の出来事を振り返ってみてほしい。
悪事を働いたはずなのに、なぜか世界が私の味方をしてくるという、地獄のような逆風が吹き荒れているのだ。
その一:夜会を「かったるいから」とドタキャンして部屋で肉を焼いた。
→結果:潜伏していた隣国の暗殺者が偶然捕まり、王太子レオポルトが「己を犠牲にして俺を救ってくれた」と涙を流して忠犬化。
その二:悪徳買い占め令嬢になってやろうと、王都の小麦と砂糖を買い占めた。
→結果:隣国の経済テロを未然に粉砕し、賞味期限切れを恐れて投げ売り&無料配布したら、王都の平民から「慈愛の聖女様」と拝まれる始末。
その三:昼寝を邪魔されてイライラしたから、説教しに来た騎士団長マティアスに国宝級の粗大ゴミ(ミスリル純塊)を投げつけて罵倒した。
→結果:軍の財政難を救った「深謀遠慮の軍神」と感涙され、国家最高戦力である近衛騎士団トップが私の私設護衛を志願。
「……何なのよ、これ。何の冗談なのよ」
恐怖である。
前世の社畜時代、私は理不尽なトラブルの責任を押し付けられることには慣れていたが、こんな「身に覚えのない特大の功績」を全方位から押し付けられる経験など一度たりともなかった。
王太子からの愛の重さはもはや成層圏を突破し、民衆の支持率は百パーセントを超え、軍のトップが私兵と化している。
外堀が埋まるどころの話ではない。
私の周囲に、誰も突破できない難攻不落の超巨大要塞が勝手に建設されてしまっているのだ!
(このまま手をこまねいていたらどうなる……?)
想像するだけで背筋に冷水が走る。
王宮と貴族院は「これほどの徳と才覚を備えた女性を逃す手はない」と色めき立ち、盛大極まりない国葬……じゃなくてロイヤルウェディングが挙行される。
そして私に与えられるのは――『王妃』という名の、二度と辞職を許されない超絶ブラック名誉終身雇用契約!
朝五時に叩き起こされ、夜中まで続く果てしない書類決済、貴族同士のドロドロした権力闘争の調停、隣国との神経をすり減らす外交儀礼、お世継ぎ問題のプレッシャー……!
有給休暇なし! 退職金なし! 定年退職は死亡時!
そんなの、前世のブラック企業で過労死した私への二重処罰じゃないの!!
「誰が……誰が働くもんですか!!」
私は窓枠をガタガタと揺らした。
私の夢は、南の島でトロピカルジュースを片手に昼寝を貪り、波の音を聞きながら誰にも邪魔されずにダラダラと過ごす、至高の不労所得ニート生活なのだ。
そのためには、何としても『国外追放』を勝ち取らねばならない。
(これまでの敗因は明白よ。私が『受動的』だったからいけないのよ!)
周囲の出方を待っているから、相手の都合の良いように深読みされ、美談へと変換されてしまうのだ。
男たちの脳内にある「エレオノーラ様=完璧な聖女」というフィルターを、物理的にぶち壊してやらねばならない。
そのためには――自ら乗り込み、公衆の面前で、逃げ場のない決定的な言葉を叩きつけるしかないのだ!
『私は最低最悪の悪女です! 王妃になど絶対になりません! 今すぐ婚約破棄して追放なさい!』――と!
「見ていなさいよレオポルト……! いくらおめでたい頭の貴方でも、本人の口から直接『嫌だ、お前と結婚したくない、私は性悪だ』って言われたら、プライドが許さないはずよ!」
王太子の誇りをズタズタに引き裂き、怒髪天を衝かせてやる。
怒り狂った彼が「この不届き者め、今すぐ辺境へ追放だ!」と叫んだ瞬間、私の勝利は確定するのだ!
「お嬢様、王宮の正門に到着いたします」
リディエの冷静な声に、私は唇の端を吊り上げた。
***
王都の中央にそびえ立つ、白亜の巨城――オーガスタス王宮。
重厚な鉄柵で閉ざされた正門の前には、槍を携えた衛兵たちが厳重な警備を敷いていた。
本来であれば、いかに高位貴族の馬車であろうと、事前の通行許可証を提示し、入念な身元確認と手荷物検査を受けねばならない。
だが。
「……ま、待て! あの馬車は……!?」
「ひ、引けッ! 門を開けろォッ!!」
漆黒の馬車に刻まれた『覇竜と百合』の紋章を見た瞬間、衛兵隊長は喉が裂けんばかりの怒号を上げた。
衛兵たちが蜘蛛の子を散らすように左右へ飛び退き、巨大な鉄門がギギギと全開にされる。
馬車は速度を一切緩めることなく、白大理石の石畳を猛スピードで駆け抜け、王宮本館の正面玄関へと横付けされた。
――バタンッ!
御者がステップを下ろすよりも早く、馬車の扉が内側から乱暴に蹴り開けられた。
現れたのは、深紅と漆黒のドレスを纏い、威圧感の塊のようなオーラを全身から放つ絶世の美女――エレオノーラ・フォン・グランヴェル。
「な、ななな……エレオノーラ閣下……!?」
「お出迎えの儀礼もなしに……一体何事だ……!?」
玄関ロビーに居合わせた近衛兵や儀典官たちが、一斉に息を呑んで後退る。
その視線の中を、エレオノーラは扇子を片手に、ハイヒールの鋭い足音を響かせながら大股で踏み込んでいった。
背後には、一切の表情を変えずに追従する侍女リディエ。
「エレオノーラ閣下! 本日はどのようなご用件で――」
慌てて駆け寄ってきた中年の式部官が、おずおずと声をかけようとした。
だが、エレオノーラは立ち止まりすらしない。
冷淡極まりない緋色の瞳で式部官を一瞥し、虫ケラでも払うように扇子の先をピッと振る。
「邪魔よ。どきなさい」
「ヒィッ!?」
ただの一言。
しかし、そこに込められた無自覚の古代級魔力の威圧感に気圧され、式部官は腰を抜かして床にへたり込んだ。
(ふふん、いい気味ね! アポなしで乗り込み、王宮の役人を足蹴にする! 完璧な悪女ムーブじゃないの!)
エレオノーラは内心で高笑いしながら、赤絨毯が敷き詰められた中央階段を一気に駆け上がった。
目指すは本館最上階、王太子執務室。
廊下を行き交う貴族や文官たちが、彼女の姿を認めるたびに次々と壁際に張り付き、深々と頭を垂れる。
「エレオノーラ様だ……」「救国の聖女様が、なぜ王宮に……?」「あのお凛々しいお姿……なんと神々しい……!」
ひそひそと囁かれる不穏な妄言が耳に届くが、今の彼女にはそれを訂正している暇などない。
(待ってなさいよレオポルト! 今すぐそのおめでたい脳天に、現実という名の鉄槌を叩き込んであげるわ!)
廊下の突き当たり。
金箔の彫刻が施された、重厚な樫の木の両開き扉が見えてきた。
王太子執務室。
扉の前には、完全武装した二名の近衛兵が直立不動で警護についていた。
「止まれ! これより先は王太子殿下の執務エリア――」
衛兵が交差させた槍の柄。
しかし、エレオノーラは速度を落とすどころか、さらに歩幅を広げた。
「退きなさい。公爵令嬢エレオノーラよ。殿下に急ぎの『重大な話』があるの」
「し、しかし殿下は現在、財務大臣および側近の方々と機密書類の審議中でして、事前の面会申請が――」
「申請? そんな紙切れ、我がグランヴェル家の名において無効よ!」
エレオノーラは右手にチート魔力を集中させた。
前世で、満員電車の閉まりかけのドアを強引にこじ開けた時の要領で――。
「――ど・き・な・さ・いッ!!」
ドンッッッッ!!!!
彼女の右足が、王宮最高峰の職人が丹精込めて作った樫の木の扉を、真正面から豪快に蹴り抜いた。
***
――バッッッシャァァァァンッッッ!!!!
執務室内に、まるで砲撃でも着弾したかのような凄まじい轟音が木霊した。
頑丈な真鍮の閂が弾け飛び、蝶番が悲鳴を上げ、両開きの扉が壁に激突して跳ね返る。
「な、何事だッ!?」
「敵襲か!? 暗殺者か!?」
室内は一瞬にしてパニックに陥った。
部屋の中央、書類がうず高く積み上げられた長テーブルを囲んでいた十数名の男たち――財務大臣、内務次官、筆頭補佐官といった王国の重鎮たちが、顔面を蒼白にして跳び起きる。
抜刀しかけた護衛の騎士たちが、慌てて武器に手をかける。
その混乱の渦の中心。
執務机の奥、プラチナブロンドの髪をわずかに乱し、羽ペンを握ったまま固まっていたのは、王太子レオポルト・フォン・アウグストだった。
立ち込める木屑の煙の向こうから、カツン、カツンと優雅で鋭い足音が近づいてくる。
砂煙を切り裂いて現れたのは――深紅のドレスを翻し、勝ち誇った笑みを浮かべたエレオノーラだった。
「な……え……エ、エレオノーラ……!?」
レオポルトの碧眼が、信じられないものを見たかのように見開かれる。
羽ペンが指先からポロリと滑り落ち、羊皮紙の上に黒いインクの染みを作った。
「え、エレオノーラ……なぜお前がここに……? いや、その前に扉が……」
「ごきげんよう、レオポルト殿下。お仕事中、突然お邪魔して申し訳ありませんわね?」
ちっとも申し訳なさそうではない、むしろ開き直った声で言い放ちながら、エレオノーラは大股で部屋の中央へと進み出た。
周囲の文官たちが息を呑み、言葉を失って彼女を凝視している。
王太子の執務室の扉を蹴破って不法侵入するなど、国家反逆罪に問われてもおかしくない暴挙中の暴挙。
だが、エレオノーラの放つあまりの覇気と気迫に圧倒され、誰一人として「無礼者!」と咎めることすらできない。
(よし……! 観客は揃っているわね!)
エレオノーラは内心でニヤリと笑った。
文官たち、大臣たち、そして側近たち。
これだけの証人がいれば、レオポルトが一時の感情で誤魔化そうとしても、周囲が許さない。
国家の威信を揺るがす大スキャンダルとして、公式に処理せざるを得なくなるはずだ。
エレオノーラは右手に持った豪奢な扇子を、パチン!と鋭い音を立てて広げた。
そして、執務机の前に仁王立ちし、その扇子の切っ先を、レオポルトの鼻先へビシッと真っ直ぐに突きつけた。
「殿下! 単刀直入に申し上げます!」
凛とした、しかしどこまでも尊大で高圧的な声が、静まり返った執務室に響き渡る。
「私はこれまで、身分を笠に着て数々の暴虐を働いてまいりました!
殿下が主催された名誉ある夜会を『かったるい』という理由でドタキャンし!
我が私利私欲のために王都中の市場の小麦と砂糖を買い占めて流通を混乱させ!
あろうことか、国家の盾たる近衛騎士団長マティアス閣下に粗大ゴミを投げつけ、口を極めて罵倒いたしました!」
エレオノーラは胸を張り、一息に言葉を叩きつけた。
どうだ。
美化される余地など一切ない、紛れもない事実の羅列だ。
夜会ボイコット、経済介入、軍の最高責任者への侮辱。
どれか一つ取っても、貴族社会から追放されるに十分すぎる重罪のオンパレードである。
エレオノーラは緋色の瞳をギラリと光らせ、トドメの一撃を放つべく、唇を吊り上げた。
「私は己の欲望のままに権力を乱用し、法を軽視し、周囲を顧みない希代の悪女です!
このような傲慢で身勝手極まりない女、未来の国母たる王妃の座に、断じてふさわしくありません!!」
部屋中の空気が、完全に凍りついた。
文官たちの呼吸が止まり、騎士たちの瞳が点になる。
その静寂を切り裂くように、エレオノーラは自らの運命を掴み取るための、魂の叫びを高らかに宣言した。
「――ですからレオポルト殿下! 今すぐ私との婚約破棄を宣言し、私を爵位剥奪の上、誰も立ち入れない辺境の南の島へ国外追放なさい!!」
言い切った。
完璧だった。
自ら悪事をカミングアウトし、自ら王妃失格の烙印を押し、自ら追放を要求する。
これ以上ないほど潔く、これ以上ないほど完璧な「悪役令嬢の自爆テロ」である。
(さあ……! さあどうするレオポルト!? これだけの重臣たちの前で、ここまでコケにされて黙っていられるかしら!? 怒りなさい! 『貴様のような女は追放だ!』と叫びなさい!!)
エレオノーラは勝利の瞬間を確信し、突きつけた扇子の向こうで、王太子の反応を待ち構えた。
――しかし。
彼女の完璧なシナリオの前に立ちはだかったのは、またしても「この世界の男たちの、底知れぬ狂気」だったのである。




