第11話:なぜか始まる王太子の猛省と、全肯定の嵐
「――ですからレオポルト殿下! 今すぐ私との婚約破棄を宣言し、私を爵位剥奪の上、誰も立ち入れない辺境の南の島へ国外追放なさい!!」
私が放った最後の一撃は、王太子執務室の豪奢な空間をビリビリと震わせ、分厚い絨毯と樫の木の壁に心地よく反響した。
静寂。
完全なる、圧倒的なまでの沈黙が部屋を支配していた。
蹴破られた両開き扉の残骸からは、微かに木屑の煙が立ち上り、廊下で槍を構えたまま固まっている近衛兵の息遣いすら聞こえてきそうなほど、室内の誰もが呼吸を止めていた。
長テーブルを囲んでいた財務大臣は眼鏡をずり落ちさせたまま口を半開きにし、内務次官は抱えていた書類の束をバサバサと床にぶち撒けたことにすら気づいていない。十数名の歴戦の文官や側近たちが、まるで石化の呪いでも受けたかのように、目を見開いて私を凝視していた。
(……勝った。完全に勝ったわ)
私は胸の前で広げた扇子の陰で、口角がだらしなく吊り上がるのを必死に抑え込んでいた。
見て御覧なさい、この重臣たちの凍りついた顔を。
無理もない。
王宮の中枢にアポなしで乗り込み、扉を物理的に蹴破り、挙句の果てに「私は夜会をサボり、市場を買い占め、騎士団長に粗大ゴミを投げつけた希代の悪女です」と、自らの悪行を誇らしげにぶちまけたのだ。
その上で、国家の継承者である王太子に向かって「王妃の器じゃないから追放しろ」と面と向かって言い放ったのである。
法治国家において、これ以上の不敬があるだろうか?
これ以上の反逆罪があるだろうか?
いや、ない。断じてない。
前世の社畜時代で言えば、役員会議の扉を蹴破って乱入し、「私は競合他社と内通してデータを消去し、専務の悪口をネットに書き込みました! こんな社員はクビにして退職金をたっぷり寄越しなさい!」と叫んだようなものだ。即日解雇、懲戒免職、損害賠償請求のトリプル役満である。
(さあ、怒鳴りなさいレオポルト! 『無礼極まる性悪女め、その首を刎ねてやりたいところだが、公爵家の顔を立てて国外追放にとどめてやる!』って、顔を真っ赤にして叫ぶがいいわ!!)
私は背筋をピンと伸ばし、誇らしげに豊かな胸を張った。
南の島。
青い海、白い砂浜、そよぐヤシの木。
一日中パジャマのままハンモックに揺られ、波の音を子守唄にして二度寝三度寝を繰り返す、至高の有給休暇ライフ。
その約束された桃源郷への片道切符が、今まさに私の手の中に舞い降りようとしていた。
――ガタッ。
執務机の奥で、重い椅子の脚が床を擦る音が響いた。
王太子レオポルトが、ゆっくりと立ち上がったのだ。
プラチナブロンドの美しい前髪が目元を覆い、その表情は伺えない。
しかし、その拳は白くなるほど強く握りしめられ、肩が小刻みに、わなわなと震えていた。
(……来、来、来たわよ! 怒りのあまり全身が震えているわ! プライドの塊である彼が、公衆の面前でここまでプライドを傷つけられたのだもの、当然よね!)
私は内心で歓喜のステップを踏みながら、冷淡な悪女の表情を崩さずに顎をしゃくった。
さあ来い、婚約破棄宣告!
私を思いっきり罵倒して、辺境へ叩き出すがいい!
レオポルトが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳を見た瞬間――私の背筋に、得体の知れない悪寒が走った。
怒り狂った男の目ではなかった。
そこにあったのは――胸を引き裂かれるような激痛に歪み、赤く充血した瞳から今にも溢れ出しそうな、純度百パーセントの「悲痛」と「悔恨」の色だった。
「……っ」
レオポルトの唇が、震えながら開かれる。
そして――。
――ドゴォォォォォンッッッ!!!!
「ひゃいっ!?」
凄まじい轟音が執務室に炸裂した。
レオポルトが、自らの右拳を、分厚い黒檀の執務机へと全力で叩きつけたのだ。
分厚い天板が軋み、インク瓶が跳ね上がり、羊皮紙の山がバサバサと宙に舞う。
レオポルトはその場に深く、深く頭を垂れ、絞り出すような絶叫を執務室の天井へと叩きつけた。
「すまない……っ! すまない、エレオノーラァァァァッッ!!」
「…………は?」
私の口から、情けないほど間抜けな声が漏れ出た。
え?
すまない?
アイムソーリー?
誰が? 誰に? 何を?
「俺が……! 俺があまりにも不甲斐ないばかりに! お前にここまで言わせてしまったのか……ッ!!」
ボロボロと、大粒の涙がレオポルトの頬を伝って執務机の上にポタポタと染みを作っていく。
泣いてる。
また泣いてる。
この国の王太子、私の顔を見るたびに号泣するバグでも搭載されているのかしら?
「ち、ちょっと待って殿下? 話を聞いていました? 私、今、自分を悪女だって自白したんですけど――」
「聞いている! 痛いほどに聞こえているぞ、エレオノーラ!!」
レオポルトは机から身を乗り出し、涙で濡れた碧眼で私を真っ直ぐに射抜いた。
その瞳の奥に宿る狂気の熱量に、私は思わず半歩後退りそうになる。
怖い。シンプルに圧が怖い。
「お前は……お前はどこまで自分を犠牲にすれば気が済むのだ! なぜそこまでして、すべてを一人で背負い込もうとする!?」
「はい? 背負い込む? 何を?」
「己の悪徳だと!? 身勝手な暴挙だと!? ふざけるなッ! ここにいる全員が、そして王都のすべての民が知っているぞ! お前が成し遂げてきたことが、どれほどの奇跡であったかを!!」
レオポルトは振り返り、呆然と立ち尽くしている文官たちに向かって、朗々とした美声を轟かせた。
暴走機関車の汽笛が、けたたましく鳴り響いた瞬間だった。
「聞け、我が臣下たちよ! 彼女は言った、先日の夜会を身勝手にドタキャンしたと! だが真実はどうだ!? 彼女は会場に潜入していた帝国の暗殺者の気配をいち早く察知し、自らがあえて不敬の汚名を被って欠席することで、近衛の警備配置を変更させ、俺の命を救ってくれたのだ!」
「あ、いや、あれは普通に部屋で霜降り肉を焼いて――」
「さらに彼女は言った、私利私欲のために小麦と砂糖を買い占めたと!」
私の必死の弁明は、王太子の熱烈な大演説によって完全に掻き消された。
「だが、現実はどうだった!? あれは隣国が仕掛けていた、王都の食糧を枯渇させて暴動を起こす『経済テロ』だったのだ! エレオノーラはその邪悪な企みを看破し、王家の鈍重な手続きを待っていては手遅れになると判断し、グランヴェル公爵家の私財を叩きつけて敵の買い占めを水際で粉砕した! そればかりか、買い取った物資を原価の十分の一で市井に放出し、無料の炊き出しまで行って王都の民を飢餓の恐怖から救い出したのだ!!」
「お、おお……!」
「な、なんと……!?」
長テーブルの文官たちから、どよめきが漏れ始めた。
財務大臣が胸を押さえ、内務次官が震える手で眼鏡を掛け直している。
ちょっと待ちなさいよ。なんで周りのオジサンたちまで「なるほど……!」みたいな納得の表情を浮かべ始めているの!?
「そして極めつけは、先ほどの言葉だ!」
レオポルトは両手を広げ、まるで神の啓示を語る預言者のような身振りで叫んだ。
「近衛騎士団長マティアスに粗大ゴミを投げつけ、罵倒しただと!? 笑わせるな! マティアスから先ほど、涙ながらの報告書が上がってきたばかりだ! 我が国の近衛騎士団は、財務省の無理解によって予算を削られ、粗悪な装備のせいで先日の演習でも負傷者を出していた! 軍の最高機密ゆえに誰にも言えず、一人で苦しんでいたマティアスの窮状を……エレオノーラは一目で見抜いていたのだ!」
「えっ、報告書? あいつ、もう書類出したの!?」
「マティアスは書いていたぞ! 『エレオノーラ閣下は、我が団の誇りを傷つけぬよう、あえて傲慢な悪女を演じ、国宝たるミスリル純塊を投げ与えてくださった』と! 『あの至宝により、我が団の全装備は刷新され、兵舎は建て替えられ、兵士たちの命は救われた。あのお方こそが、戦場の血と痛みを理解する真の軍神である』と、血書のような熱量で記されていたのだ!!」
レオポルトの演説が最高潮に達した瞬間、部屋の隅で事の成り行きを見守っていた財務大臣が、ボロボロと大粒の涙を零しながらその場に膝をついた。
「ああ……なんという……なんということだ……! 我ら文官が予算を削り、現場を苦しめていたその歪みを……公爵令嬢様は自らの家の至宝を投げ打って、誰にも恥をかかせぬよう解決してくださったというのか……! それに引き換え、我らは公爵令嬢様を『贅沢な悪女』などと陰口を叩いていた……! 恥ずかしい……穴があったら入りたい……ッ!」
「大臣……! 我らもです! 我らも公爵令嬢様の深謀遠慮に気づけず、目先の帳簿の数字ばかりを追っておりました……!」
内務次官が泣き崩れ、補佐官たちがハンカチを目に押し当てて鼻をすする。
連鎖反応のように、執務室内のエリート文官たちが次々と膝をつき、私に向かって深々と頭を垂れ始めた。
(……え? 嘘でしょ? 何この集団ヒステリー)
私の思考回路は完全に焼き切れていた。
突っ込みが追いつかない。
粗大ゴミを投げつけただけなのに、なぜか財務省の構造改革の救世主扱いされている。
罵倒しただけなのに、現場思いの聖人君子扱いされている。
そして何より――。
「エレオノーラ……ッ!」
レオポルトが、執務机を乗り越えんばかりの勢いで私の元へと歩み寄ってきた。
その長身が、私の目の前で崩れるように屈み込み、私の手袋に包まれた両手を、宝物でも扱うかのようにそっと掬い上げた。
至近距離で見つめられる、濡れた碧眼。
そこにあるのは、もはや狂気と呼ぶにふさわしい、純度一万パーセントの崇拝と愛だった。
「お前は……今日、なぜここへ来たのだ? なぜ、あのような嘘を並べ立て、自らを悪女と罵り、追放を求めたのだ?」
「え、いや、だから、本当に悪女だから――」
「違う!!」
レオポルトの熱い吐息が、私の前髪を揺らした。
「お前は……俺たち王家を、そしてこの俺を庇おうとしてくれたのだな……!?」
「……はあ!?」
「暗殺を未然に防ぎ、飢饉を阻止し、騎士団を救った。これほどの功績をあげてしまえば、周囲の貴族たちはお前を祭り上げ、王家の求心力は失墜する! お前はそれを危惧したのだ! 己が輝きすぎれば、王太子である俺の立場が霞んでしまうと……! だからこそ、あえて自らの功績を全て『己の悪徳』として泥をかぶり、俺を立てるために身を引こうとした……! 『追放しろ』と叫ぶことで、己の存在を消し去り、俺を傷つけまいとしてくれたのだろう……!!」
(違う!! 断じて違う!! 一ミリもそんなこと考えてない!!)
私の心の叫びは、喉の奥で引き攣った痙攣となって消えた。
妄想のスケールが大きすぎる。
深読みの深度がマリアナ海溝を突破して地球の裏側まで突き抜けている。
私はただ、働きたくなくて、美味しいものを食べて、昼寝がしたくて、南の島でニートになりたいだけの、元社畜の限界OLなのだ。
王家を立てる? 王太子の立場を案じる?
そんな殊勝な愛国心など、私の頭の細胞の一つにすら存在していない!
「『王妃にふさわしくない』だと……? よくもそんな残酷な嘘を吐いてくれたな、エレオノーラ……!」
レオポルトは私の手を自分の額へと押し当て、押し殺した嗚咽を漏らした。
「ふさわしくないのは、お前ではない。俺だ……! お前の気高さ、お前の知略、お前の深淵なる愛に、何一つ気づけず……旧態依然とした王妃教育という檻にお前を閉じ込め、ただ政略結婚の相手として冷遇してきた……俺こそが、お前の隣に立つ男としてあまりにも未熟すぎるのだ!!」
「殿下……!」「なんとご立派な猛省……!」「これぞ真の王の器……!」
周囲の文官たちが感動の拍手をパラパラと鳴らし始めた。
やめて。拍手しないで。この男の狂気の後押しをしないで。
「エレオノーラ。お前の真意は、痛いほど理解した」
レオポルトが顔を上げた。
その瞳には、先ほどの涙は消え去り、何者にも揺るがぬ鋼の決意の光が宿っていた。
私の全身に、これまでにない最大級の危険信号がビコビコと赤く点滅する。
嫌な予感しかしない。
「お前が己を悪女と偽り、身を引こうとするならば……俺は全力でお前を引き留める。お前が泥をかぶろうとするならば、俺はその泥をすべて洗い流し、お前を至高の光の中へと連れ戻す!」
「いや、泥のままでいいです。むしろ泥に埋もれて冬眠したいです」
「ふっ……どこまでも謙虚なのだな。だが、もう逃がしはしないぞ」
逃がしはしない。
その甘く、重く、逃げ場のない響きに、私の背筋が完全に凍りついた。
自爆テロを仕掛けたはずだった。
公衆の面前で悪行をぶちまけ、王太子のプライドを粉々に砕いて、婚約破棄を勝ち取るはずだった。
それなのに――目の前で繰り広げられたのは、王太子による特大の猛省劇と、周囲の重鎮たちを巻き込んだエレオノーラ全肯定フェスティバル。
(嘘でしょ……? 私の国外追放計画は……? 南の島のエンドレス昼寝ライフは……?)
呆然と立ち尽くす私の耳に、レオポルトの、運命を決定づけるかのような熱い誓いの言葉が滑り込んできた。
それは、私の平穏な自堕落ライフを完膚なきまでに叩き潰す、地獄のプロポーズの幕開けだった――。




