第12話:プロポーズのやり直しと、遠のく自堕落ライフ
「……もう一度、言ってみなさいよ」
私の唇から漏れ出たのは、威厳に満ちた公爵令嬢の声などでは断じてなかった。
前世の社畜時代、金曜日の午後十一時五十五分にクライアントから「仕様を根底から全て変更したいのですが、月曜の朝イチまでに修正案いただけますよね?」と軽やかに電話口で告げられた瞬間のような、乾ききった、感情の抜け落ちた声だった。
目の前にいるのは、プラチナブロンドの髪を神々しく輝かせ、碧眼に純度一万パーセントの熱情を宿した王太子レオポルト。
彼はゆっくりと立ち上がると、私の脱力した両手を逃すまいとばかりに、自らの大きな両手でぎゅっと包み込んできた。
手袋越しに伝わってくる体温が、尋常ではない。まるで沸騰した薬缶に触れているかのような熱量である。
「エレオノーラ。俺はもう、二度と己の目を曇らせはしない」
レオポルトの声は、朗々と、まるで大聖堂の鐘の音のように執務室の隅々にまで染み渡っていった。
「これまでのお前は、常に一人で戦っていたのだな。王家の無能を庇い、民を救い、軍を支え……それほどの重責を果たしながら、誰にも理解されず、誰にも頼ることを許されず、孤独の闇の中で『悪女』の仮面を被り続けてきた……!」
「いや、仮面じゃなくて素顔なんですけど。本当にただの性悪なんですけど」
「その頑なさすら、愛おしい」
「人の話を聞きなさいよ!」
私のツッコミなど、春風に舞う埃のように無視された。
レオポルトは私の手を自らの胸――金糸の飾緒が縫い付けられた軍服の胸元、心臓の真上へと力強く引き寄せた。ドクン、ドクンと、獲物を前にした獣のような猛烈な鼓動が掌にダイレクトに伝わってくる。
「エレオノーラ、俺は誓う。お前が今までたった一人で背負ってきたその過酷な重荷を、これからは俺が半分背負う!」
(……半分!? なんで半分残すのよ!! 全破棄よ! 私は荷物ごと放り出して身軽になりたいのよ!!)
私の悲鳴など露ほども知らず、レオポルトの狂気じみた宣誓はなおも続く。
「いや、半分では足りない! お前を縛る煩わしい政務、貴族院の雑音、外交の暗闘……そんな泥臭い仕事は、すべてこの俺が引き受ける! お前にこれ以上、己の手を汚させはしない! 俺がお前にふさわしい男になるまで、この国を背負う真の王となるまで……どうか俺を見捨てないでくれ!」
カチリ、と私の頭の中で何かが音を立てて外れた。
(……え? ちょっと待って? 今、なんて言った?)
『婚約破棄して追放しろ』と言いに来たはずだ。
それなのに、返ってきたのは――『面倒な仕事は全部俺がやるから、頼むから見捨てないでくれ』という、意味不明なプロポーズのやり直しだった。
しかも、当初の政略結婚という冷え切った関係から、一気に「命懸けの純愛&絶対忠誠」へと大幅にバージョンアップされている。
「お前以外の王妃など、この世のどこにもあり得ない。俺の魂の伴侶は、世界でただ一人、エレオノーラ・フォン・グランヴェル……お前だけだ!!」
キラキラキラキラ〜〜〜ンッ!!
幻覚の薔薇の花びらが、レオポルトの背後から竜巻のように吹き荒れているのが見えた。
眩しい。重い。息が詰まる。
誰か助けてほしい。この男、好感度メーターが振り切れたどころか、メーターの針が爆発して私の退路を物理的に焼き尽くしている。
「あ、あの、殿下? 私、さっき言いましたよね? 夜会をサボって部屋で肉を焼いて、小麦を買い占めて、騎士団長にミスリルを投げつけたって……」
「ああ、聞いたとも! なんと痛ましく、なんと崇高な告白であったか!」
「痛ましい!? どこが!? ただの暴挙でしょうが!!」
「己を悪徳に染めてまで俺を成長させようとしてくれたのだ! その深い愛に、俺が応えなくてどうする!!」
駄目だ。完全に論理が破綻している。
どんな悪行を突きつけても、彼の中にある超高性能ポジティブ翻訳フィルターが、すべてを「愛ゆえの試練」「救国の深謀遠慮」へと不可逆変換してしまうのだ。
――その時だった。
ズズシンッ……ズズシンッ……。
執務室の外から、重々しい金属の足音が響いてきた。
蹴破られて木屑が散乱する扉の残骸の向こう。廊下の薄暗がりから姿を現したのは――白銀の甲冑を纏った長身の男、近衛騎士団長マティアス・ヴァルデンだった。
その後ろには、武装した近衛騎士たちがズラリと整列している。
「……マティアス閣下!」
部屋の中にいた財務大臣が声を上げた。
マティアスは部屋の中央に立つ私とレオポルトを一瞥し、そして――その精悍な顔面を、熱い涙で濡らしながら、胸に拳を当てた。
「廊下にて……すべて伺わせていただきました」
マティアスの重低音ボイスが、微かに震えていた。
「エレオノーラ閣下……。まさか、自ら王宮へ乗り込まれ、己の身を悪に落としてまで、殿下の御覚悟を促そうとなされるとは……。我が身に投げ与えてくださった至宝の真意すら明かさず、ただ『粗大ゴミを投げた悪女』として罰を受けようとされるその気高さ……! このマティアス、武人として……いや、一人の人間として、魂の底から打ち震えております……ッ!」
「あんたまでいたの!? なんでここにいるのよ!?」
私が思わず絶叫すると、マティアスは誇らしげに胸を張った。
「申し上げたはずです! 我が騎士団は、これよりエレオノーラ閣下の安寧を守る盾となると! 閣下の馬車が猛スピードで王宮へ向かわれたと聞き、護衛の任を果たすべく全速力で駆けつけた次第! ……まさか、このような歴史的瞬間に立ち会えるとは、我が騎士人生最大の栄誉にございます!」
マティアスがバッと振り返り、廊下に控える部下たちへと号令を下した。
「全兵、敬礼ッ! 我が国の誇る至高の聖女、未来の国母たるエレオノーラ閣下に、最大限の礼を捧げよ!!」
ガシャンッッッッ!!!!
数十名の精鋭騎士たちが一斉に抜刀し、剣の切っ先を天へと掲げ、そのまま床に片膝をついた。
鋼鉄の波が、廊下を埋め尽くす。
それだけでは終わらなかった。
執務室の中で書類をぶち撒けていた財務大臣が、内務次官が、補佐官たちが、ハンカチで涙を拭いながら、一人、また一人と立ち上がり――。
パチ……パチパチパチパチ……!
――ワアアアアアアアアアッッッ!!!!
割れんばかりの拍手と歓声が、執務室から廊下へと爆発的に広がっていったのだ。
「エレオノーラ様……! なんと尊いお方だ……!」
「王家と公爵家の絆は、もはや神の祝福を受けたも同然!」
「万歳! レオポルト殿下万歳! エレオノーラ様万歳ッ!!」
拍手喝采。スタンディングオベーション。
熱狂と感動の渦の中心で、私は完全に白目を剥いていた。
(……なんで?)
私の脳内時計が、チクタクと虚しく巻き戻る。
王宮に来た理由:婚約破棄されるため。
取った行動:扉を蹴破り、悪行を自白し、追放を要求した。
得られた結果:王太子からの熱烈プロポーズ、騎士団の忠誠の誓い、重臣たちの涙の拍手。
(なんでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっっっ!!!!)
心の中で、銀河を揺るがすほどの特大の絶叫を上げる。
意味がわからない。因果関係が完全に崩壊している。
前世の社畜時代、私はどんなに一生懸命働いても「これくらい当然だよね」と冷たくあしらわれ、少しのミスで始末書を書かされていたというのに。
なぜ、この世界では、私が悪事を働けば働くほど、我儘を言えば言うほど、周囲が勝手に感動して神輿に担ぎ上げてくるのか!
「エレオノーラ」
拍手の嵐の中、レオポルトが至福の笑みを浮かべて私の手首を引き寄せた。
「さあ、この感動を父上(国王陛下)にも報告せねばなるまい。今すぐ謁見の間へ向かい、正式な婚儀の日程を――」
――ゾワワッ!
私の全身の毛穴から、生命の危機を告げる冷汗が吹き出した。
今、国王のところへ行ったら確実に詰む。
「よくぞ言った、来月にでも結婚式を挙げよう」などと決定された日には、私の南の島ニート計画は永遠の藻屑と化してしまう!
「離しなさいよ、この暑苦しい大型犬!!」
私はチート魔力を指先に集中させ、レオポルトの手首をパチンと弾いた。
電撃のような衝撃に、レオポルトの手がわずかに緩む。
その一瞬の隙を見逃さず、私は深紅のドレスの裾を豪快に両手で持ち上げた。
「リディエ! 撤退よ!!」
「畏まりました。馬車を玄関に待機させております」
背後で涼しい顔をして控えていたリディエが、完璧なタイミングで私の脇をすり抜け、退路を確保する。
私は跪く近衛騎士たちの間を、ハイヒールを激しく鳴らしながら猛ダッシュで駆け抜けた。
「え、エレオノーラ!? 待ってくれ、どこへ行くんだ!?」
背後からレオポルトの焦った声が響いてくる。
振り返りもせず、私は肩越しに怒声を叩きつけた。
「帰るのよ! 私の神聖なお昼寝の時間が大幅に削られたわ! これ以上の時間外労働は一秒たりともお断りよ!!」
廊下の文官たちが、走り去る私の背中を見て再び感涙の声を上げた。
「なんと……己の功績を誇る間もなく、立ち去られるとは……!」
「『時間外労働はお断り』……すなわち、王妃となるまでは王室の特権に甘えるつもりはないという、厳格なる戒めのお言葉か……!」
うるさい! 黙れ! 深読みするな!!
私は耳を塞ぎながら、王宮の階段を転がるように駆け下りていった。
***
――バタンッ!
公爵家の馬車に飛び込み、扉が閉まった瞬間、私はシートの上に雪崩れ込むように崩れ落ちた。
馬車がガタゴトと音を立てて発進する。
窓の外を見れば、王宮のバルコニーからレオポルトが名残惜しそうに手を振っており、正門では近衛騎士たちが直立不動の最敬礼で見送っていた。
「……はあ……はあ……はあ……」
乱れた呼吸を整えながら、私は両手で顔を覆った。
指の間から覗く視界が、絶望でぐにゃりと歪む。
「……リディエ」
「はい、お嬢様。冷たいハーブティーをご用意いたしました。興奮を鎮める効果がございます」
「私、何か悪いことしたかしら……?」
「客観的に申し上げますと、王太子の執務室の扉を損壊し、国家反逆罪に相当する暴言を吐かれました」
「そうよね!? 私、ちゃんとした悪行をやらかしたわよね!?」
「はい。法的には即座に地下牢へ投獄されても文句の言えない暴挙でございました」
「なのに……なのにどうして……!!」
私はクッションに顔を埋め、足をバタバタと悶絶させた。
「なんでプロポーズがウルトラ強化されてるのよぉぉぉぉぉっっ!! 『お前以外の王妃などあり得ない』って何よ! 誰かあいつの目玉を洗ってちょうだい! 私はただの性悪ニート志望よ! 国母の器なんてミジンコほどもないわよ!!」
「殿下の瞳には、お嬢様がこの上なく気高い、自らを犠牲にして国を救う孤高の聖女として映っておられるようでございます」
「それがおかしいって言ってるのよ!!」
リディエは一切の感情を交えずに、手帳にサラサラとペンを走らせていた。
「なお、先ほどの殿下のご発言『お前の重荷を俺が半分背負う』に基づき、今後の王妃教育カリキュラムの約七割が免除される見込みでございます。王室の事務手続きは殿下が代行されるとのこと」
「……え?」
私がクッションから顔を上げると、リディエは淡々と続けた。
「本来であれば毎日八時間行われるはずだった、王家の歴史、外交儀礼、宮廷舞踏の補習がすべて『エレオノーラ様には不要の形式美』として廃止されます。お嬢様の自由時間は、以前の約三倍に増加いたしました」
「…………」
待ってほしい。
それは……労働環境の改善という意味では、前世の社畜メンタル的には非常にありがたい話なのでは……?
いや、違う! 騙されてはいけない!
「減ったとはいえ、王妃になる前提のカリキュラムじゃないの! ゼロにしなきゃ意味がないのよ! 私のゴールは『退職』であって『時短勤務への移行』じゃないのよ!!」
私は再び頭を抱えた。
完全に、外堀が埋まってしまった。
王太子レオポルトの好感度はカンスト。
近衛騎士団長マティアスは私設親衛隊化。
王都の民衆からは聖女認定。
そして宮廷の重鎮たちからも「真の国母」として絶大な信頼を勝ち取ってしまった。
この王国において、私を国外追放できる人間など、もはや一人も存在しない。
もし誰かが「エレオノーラを追放せよ」などと言い出そうものなら、王太子が激怒し、騎士団が抜刀し、民衆が暴動を起こしてその発言者を物理的に消滅させるだろう。
逃げ場がない。
四方八方を、狂気的なまでの「愛」と「忠誠」によって完全に包囲されてしまったのだ。
「……南の島が……私のトロピカルジュースが……波の音を聞きながらのエンドレス二度寝が……」
遠ざかっていく。
水平線の彼方へと、私の愛しの自堕落ライフが手を振りながら消えていく幻影が見えた。
「……ううっ……うわああああんっ!」
私はシートの上で丸まり、シクシクと涙を零した。
公爵令嬢としてのプライドもへったくれもない。ただただ、働きたくない一心で泣き崩れる元社畜OLの姿がそこにあった。
「お嬢様、グランヴェル本邸に到着いたしました」
馬車が止まり、リディエが扉を開ける。
玄関の前には、胃薬を握りしめたクリストフが、今にも心臓麻痺を起こしそうな顔で待ち構えていた。
「お、お嬢様ァァァッ! ご無事で……! 王宮から『殿下がエレオノーラ様への愛を執務室で絶叫された』という謎の早馬が届き、私、もう何が何だか……!」
「クリストフ……もういいの……何も言わないで……」
私は幽霊のような足取りで馬車を降り、クリストフの横を通り過ぎた。
足取りは重く、肩は落ち、背中からは濃紺の絶望オーラが立ち上っている。
「お嬢様……? もしや、殿下に酷いことを言われたのですか……!?」
「言われてないわよ……。酷いのは私の運命よ……」
自室に戻った私は、ド派手なドレスを脱ぎ捨てる気力すらなく、天蓋付きのベッドへとそのままダイブした。
ふかふかの羽毛布団が、傷ついた私の心を優しく包み込んでくれる。
枕に顔を埋め、大きく息を吸い込んだ。
(……終わったわ。第1ラウンドは、私の完全敗北よ……)
夜会ドタキャン作戦、失敗。
小麦買い占め作戦、大失敗。
粗大ゴミ投擲作戦、大失敗。
そして直接婚約破棄要求作戦……歴史的大大失敗。
すべてが裏目に出た。
私の怠惰と欲望から出た行動が、ことごとく「神がかり的な救国の一手」として誤読され、私を王妃への一本道へと押し上げてしまったのだ。
「……でも」
私は布団の中で、ぎゅっと拳を握りしめた。
前世の社畜時代、私は理不尽なトラブルでプロジェクトが炎上した時、何度も絶望の底から這い上がってきた。
過労死するまで働き続けたあの不屈の根性(※社畜の悪癖)が、今、全く別の方向へと燃え上がり始めていた。
「……諦めないわよ」
モゾモゾと顔を上げ、枕を睨みつける。
緋色の瞳に、ドス黒い執念の炎が再び灯る。
「まだ……まだ終わっていないわ。学園への入学も控えているし、社交界の季節はこれからよ。チャンスはいくらでもある……! 次こそは……次こそは絶対に、誰が見ても弁解の余地がないレベルの『極悪非道の我が儘』をやらかして、全員ドン引きさせてやるんだから……!」
南の島でのエンドレス有給休暇ライフを手に入れるためなら、私は悪魔にだって魂を売る。
誰が過労死確定の王妃になどなるものか。
絶対に、何が何でも、自堕落なニートになってみせる――!
「見ていなさいよ、この世界の男ども……! 私の『働きたくない意志』を、舐めるんじゃないわよぉぉぉっ!!」
悪役令嬢エレオノーラの、血反吐を吐くような自堕落への宣戦布告。
しかし、彼女が次に繰り出す「お昼寝のための我儘」が、今度は神殿の権力者をも巻き込み、さらなる巨大な信仰の渦を生み出すことになろうとは――この時の彼女は、まだ知る由もなかったのである。




