第13話:紫外線と羽虫は万死に値するので、うっかり禁断の古代三重結界を張ってしまいました
季節は巡り、王都には初夏の爽やかな風が吹き抜けていた。
街路樹の若葉は青々と茂り、陽光はきらきらと石畳を照らし、行き交う人々は薄手の外套へと衣替えを済ませている。
だが、そんな麗らかな季節の訪れなど、私にとっては心の底からどうでもいい些事であった。
「……勝った。私はついに、真の自由を掴み取ったのよ……!」
グランヴェル公爵本邸、私の私室。
天蓋付きのキングサイズベッドの上で、私はシルクのパジャマに身を包み、大の字になって天井を仰ぎ見ていた。
あの王宮突撃・自爆テロ未遂事件から数週間。
私の綿密な国外追放計画は無残にも木っ端微塵に粉砕されたわけだが、怪我の功名とでも言うべきか、思わぬ副産物が転がり込んできたのだ。
王太子レオポルトが言い放った『お前の重荷を俺が半分背負う』という、重すぎる愛の誓い。
あの言葉は伊達ではなかった。
あいつは有言実行とばかりに、本来なら私に課せられるはずだった地獄の王妃教育――毎日の礼法指導、宮廷舞踏の猛特訓、国家史の暗記、外交儀礼のシミュレーションといった、前世の新人研修を百万倍過酷にしたような過重労働カリキュラムの約七割を、職権乱用によって力づくで免除してしまったのである。
『エレオノーラにこれ以上の負担はかけられない! 形式美など、彼女の気高い魂の前には塵に等しい!』
そう熱弁して書類を叩き割ったレオポルトの姿を思い出すと頭痛が痛くなりそうだが、結果として私のスケジュール帳からは忌々しい予定の山が綺麗サッパリ消滅した。
朝十時に優雅に起き上がり、ブランチを食べ、午後はずっと自由時間。
実質的な「週休五日制・午前半休つき」という、前世の社畜時代なら涙を流して神に感謝したであろうウルトラホワイト環境が爆誕したのだ。
「ふふ……ふふふ。追放されなくても、これだけサボれれば及第点よ。今日の私は、誰にも邪魔されず、日没まで極上のシエスタ(昼寝)を決め込むんだから!」
私は抱き枕をぎゅっと抱きしめ、幸せそうに頬を擦り寄せた。
部屋の温度はちょうどいい。
お腹も満たされている。
柔らかな羽毛布団の温もりが、私の意識を心地よい微睡みの海へと誘っていく。
まぶたが重くなり、呼吸が深くなり、まさに夢の世界へとダイブしようとした――その、刹那。
――ジリリリッ。
肌を焼くような、チリチリとした熱感が右頬を直撃した。
「……ん?」
うっとうしそうに片目を開けると、レースのカーテンの隙間から、容赦のない強烈な初夏の太陽光が差し込んでいた。
その光条は、私の美しく白い顔面をピンポイントで照らし出している。
「あ、つ……い……」
じわじわと皮膚の水分を奪っていく熱線。
前世の記憶が、警報アラームをけたたましく鳴り響かせた。
紫外線。
シミ、ソバカス、光老化の元凶。肌のコラーゲンを破壊し、シワを刻み込む美肌最大の天敵。
前世の私は、安物の日焼け止めを塗りたくり、遮光率九十九パーセントの日傘を差して、日陰を這うように通勤していたものだ。
それがどうだ。この無防備な昼寝の瞬間に、無慈悲な太陽光線が私の無垢な肌を侵略しようとしているではないか!
「リディエ! カーテンをもっと分厚いのに替えなさい! 光を完全に遮断するやつよ!」
私がベッドから叫ぶと、部屋の隅で静かに控えていた専属侍女のリディエが、すっと歩み寄ってきた。
「お嬢様、現在使用しておりますカーテンは、王立織物工房特製の三重織ベルベットでございます。これ以上の遮光性を誇る布地は、国内には存在いたしません」
「嘘でしょ!? なんでこんなに眩しいのよ! 遮光カーテンの一級品を輸入しなさい!」
「ここは異世界でございますので、化学繊維による完全遮光技術は未だ開発されておりません」
「チッ、文明の遅れがこんなところで足を引っ張るなんて……!」
舌打ちしながら、私は枕に顔を埋めた。
まあいい。光くらいなら、布団を頭から被ればなんとかなる。
私は掛け布団を頭の先まですっぽりと覆い、再び暗闇の中に閉じこもった。
よし、これで安心だ。再び訪れる眠気の波。
今度こそ、今度こそ泥のような眠りへ――。
――ぶぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅん。
空気を切り裂く、あの忌まわしい羽音が鼓膜を震わせた。
「…………っ!?」
私の全身の毛穴が、一瞬でキュッと収縮した。
聞き間違いではない。
この、鼓膜の奥を針で撫で回すような、独特の不快極まりない高周波。
まさか。嘘でしょう。
公爵令嬢の豪奢な自室よ? 毎日欠かさず清掃され、香の煙で清められた最高級の空間よ?
――ぶぅぅぅぅん……ぷすっ。
耳元をかすめ、私の露出していた左耳の耳たぶのすぐ近くを通過していく気配。
「……出たわね」
掛け布団をバサリと跳ね除け、私はベッドの上に正座した。
緋色の瞳をギラギラと血走らせ、部屋の空間を舐め回すように凝視する。
いた。
豪奢なシャンデリアのクリスタルの間を、優雅に、舐め腐った軌道を描きながら漂う、体長数ミリの黒い影――羽虫(蚊)だ。
――ブチィッ。
私の脳内で、理性を繋ぎ止めていた細い糸が、派手な音を立てて千切れ飛んだ。
前世の記憶が、鮮烈な怒りとともにフラッシュバックする。
連日の徹夜残業を終え、ようやくベッドに倒れ込んだ午前四時。
泥のように眠りかけたまさにその瞬間、耳元で響いたあの羽音。
電気を点ければ姿を消し、消灯すれば再び現れ、仕留めようと手を叩いて空振りを繰り返し、結局一睡もできないまま始発電車に乗る羽目になった、あの血反吐を吐くような絶望の夜の記憶が……!
「……許さない」
私の唇から、地獄の底から響くようなドスの利いた声が漏れ出た。
「お嬢様……? お顔が夜叉のようになっておられますが」
「リディエ、あれを見なさい」
「……羽虫でございますね。初夏になりますと、庭園の池から稀に迷い込むことがございます。ハエ叩きをお持ちいたしましょうか」
「生ぬるい!!」
私はベッドの上に立ち上がり、両手を天へと掲げた。
パジャマの袖が滑り落ち、白磁のような華奢な腕が露わになる。
私の安眠を脅かす紫外線。
私の至高のシエスタを蹂躙する羽虫。
そして、遠くの庭園から微かに聞こえてくる庭師たちのスコップの音、鳥の囀り、風のざわめき。
すべてが鬱陶しい。すべてが邪魔だ。
私はいま、絶対の静寂と、完全なる暗闇と、完璧な温度管理の中で、誰にも邪魔されずに寝たいのだ!!
「文明がないなら、力で解決すればいいじゃない!!」
私の胸の奥底で眠る、規格外の古代魔力がゴウッと音を立てて点火した。
イメージせよ。
前世の私が喉から手が出るほど欲しかった、現代テクノロジーの結晶たちを。
第一のイメージ――【完全遮光カーテン】および【最高級スモークガラス】。
太陽光の可視光線はもちろん、紫外線、赤外線に至るまで、部屋の領域内に入り込むあらゆる有害光線を百パーセント反射・無効化する、絶対暗黒のヴェール!
第二のイメージ――【ペアガラス防音サッシ】および【防音スタジオの吸音壁】。
外の喧騒、鳥の鳴き声、風の音、人の足音、心臓の鼓動以外のあらゆる振動波を相殺し、デシベル数を物理的にゼロへと叩き落とす、完全なる無音空間!
そして第三のイメージ――【超電磁バリア型・電子蚊取り器】!
私のパーソナルスペース半径五十メートル以内に侵入を試みる、すべての害虫、羽虫、微生物に至るまでの生体反応を感知し、分子レベルで侵入を拒絶・分解・消滅させる、絶対不可侵の生体拒絶フィールド!
「詠唱など不要! 我が望む安眠の領域を、ここに具現化しなさい!!」
カッ……!
呪文の言葉など一言も紡いでいない。
ただの強烈な「寝たい」という欲望と、前世の家電製品への妄執。
それらを燃料にして解き放たれた私のチート魔力は、自室の四隅を基点として、幾何学模様の古代魔方陣を三重に展開した。
常時発動型古代複合結界――【完全遮光】【完全防音】【生体侵入絶対拒絶】。
バシュゥゥゥゥッ……!
部屋の空気が、一瞬で切り替わった。
窓から差し込んでいた暴力的な太陽光は、窓枠の境界線でピタリと遮断され、室内は柔らかな黄昏時のような薄暗さへと沈む。
庭園のざわめきは完全に消失し、針の落ちる音すら聞こえない完璧な静寂が訪れた。
そして、シャンデリアの周囲を飛んでいたあの羽虫は――結界の不可視の波動に触れた瞬間、パチッと青い火花を散らして塵一つ残さず消滅した。
「……ふう。涼しい。暗い。静か」
私は満足げに頷いた。
室温は自動的に二十二度にキープされ、空気は清涼で、虫の一匹も存在しない。
完璧なエアコン完備の防音シェルターが完成したのだ。
「リディエ、どう? 快適でしょう」
「……お嬢様。息が、吸いづらいほどの大気中の魔力濃度でございます」
「慣れれば平気よ。じゃ、私は寝るから。明日の朝まで絶対に起こさないでね」
私はダイブするようにベッドへと倒れ込み、シーツを引っ張り上げた。
今度こそ、誰の邪魔も入らない。
私は秒速で深い、泥のような至福の眠りへと落ちていったのである。
――しかし。
私が「快適なエアコン部屋」を作ったつもりで放ったその魔力が、屋敷の外でどれほどの天変地異を引き起こしていたかなど、眠りこけた私の頭には微塵も浮かんでいなかった。
***
「……な、なんだあれは……!?」
公爵邸の正門前を警備していた近衛騎士が、腰の剣を取り落としそうになりながら空を見上げた。
白昼の王都。
雲一つない青空の真ん中に、突如として――白銀と黄金の光が螺旋を描いて立ち昇ったのだ。
グランヴェル公爵邸の屋根を中心に、巨大な光の柱が天を衝き、やがてそれはドーム状に広がり始めた。
半径数百メートルをすっぽりと覆い尽くす、半透明の多重魔力障壁。
その表面には、現代の魔導士が誰一人として解読できない、失われた神代の古代ルーン文字がびっしりと浮かび上がり、呼吸をするように明滅を繰り返している。
「敵襲か!? いや、違う……この波動は……!」
中庭で非番の訓練を行っていた近衛騎士団長マティアスが、砂煙を上げて駆け込んできた。
彼は上空の魔力ドームを見上げ、その威容に戦慄して息を呑んだ。
「神聖力……!? いや、それどころではない……! 大気中の魔素が、この光に触れただけで極限まで純化されている……!?」
結界から漏れ出す余剰魔力の波動は、そよ風となって公爵邸の敷地を越え、王都の通りへと広がっていった。
その風が吹き抜けた瞬間、道端に咲く萎れかけていた街路樹が一斉に瑞々しい緑を取り戻し、病弱な老人が「体が軽い」と立ち上がり、街中を漂っていたドブや馬糞の悪臭が、まるで聖水で洗い流されたかのように消え去ったのだ。
王都全域の空気が、まるで人跡未踏の霊峰の山頂のように、澄み渡る清涼なものへと塗り替えられていく。
「エレオノーラ閣下……! 閣下が、自らの御身からこれほどの神聖な結界を放たれているというのか……!? 一体、何を始めようとされているのだ……!?」
マティアスが驚愕に震える中、王都の中心部にある別の巨塔でも、前代未聞のパニックが巻き起こっていた。
***
王都中央神殿――白亜の巨塔の最上階に位置する【霊脈観測大広間】。
そこは、国教たるルミナス教の神官たちが、王都の地下を流れる霊脈の異常や、国家規模の魔力変動を二十四時間体制で監視する、宗教界の中枢であった。
平和な昼下がり。
当直の神官たちが、淹れたてのお茶をすすりながら雑談を交わしていた。
「今日も平穏ですね。地下水脈の澱みも、規定値の範囲内です」
「ああ。先日の夜会の騒ぎも収まり、王都は平和そのもの――」
――ビビビビビビビッッッ!!!!
突如として、部屋の中央に据えられた巨大な魔導観測儀が、耳をつんざくような甲高い警報音を鳴り響かせた。
「な、なんだ!?」
「霊脈に異常振動か!?」
神官たちが慌てて計器に駆け寄る。
観測儀は、純銀の歯車と水晶玉で構成された、神殿至高の魔導遺産だ。
その水晶玉の内部が、見たこともない深紅と黄金の光で狂乱するように明滅していた。
「お、おい! エーテル濃度の数値が跳ね上がっているぞ! 千……二千……五千……!?」
「馬鹿な! 測定限界は三千だぞ! 針が……針が振り切れる!!」
カチカチカチカチッ!と音を立てていた純銀の指針が、目盛りを突き破り、カンッ!と金属音を立ててストッパーをへし折った。
「圧力を逃がせ! 術式冷却水を回せ――」
「駄目です、魔力流入が桁違いすぎる! 暴走しますッ!!」
ドガァァァァァンッッッ!!!!
火花が散り、水晶玉が粉々に破裂した。
濛々と立ち込める黒煙と、吹き飛ぶ歯車。
神官たちは悲鳴を上げながら床に転がり、煤まみれになって頭を抱えた。
「ゲホッ、ゴホッ……! な、何が起きたんだ……!? 古代竜の襲撃か!? それとも魔神の復活か!?」
「ち、違います……! 破壊される直前の波形データを見ました……! これは、破壊の魔力ではありません!」
「何だと……?」
床に這いつくばった若い神官が、震える指先で焼け焦げた羊皮紙を指差した。
「極純度の……神聖力です! それも、神話の時代に天界の主が振るったとされる、至高の創世神聖波……! 我が神殿の全神官長が束になって祈りを捧げても、足元にも及ばぬほどの桁外れの聖なる力です!」
「ば、馬鹿な……神の降臨だとでも言うのか!? 震源地はどこだ! 王都のどこからその力が発生している!?」
若い神官は、青ざめた顔で窓の外――貴族街の方向を指差した。
「……グランヴェル筆頭公爵邸です。あそこの上空に、神代の古代三重結界が展開されています……!!」
部屋の中にいた数十名の神官たちが、総毛立ち、言葉を失った。
グランヴェル公爵家。
王家を凌ぐ大貴族でありながら、神殿の権威とは常に距離を置いてきた中立の巨頭。
そこに住まうのは、当代一の我儘令嬢と名高い、エレオノーラ・フォン・グランヴェル。
「……筆頭神官長代理のシルヴァン様に、至急の凶報……いや、急報を入れろ!!」
「し、神殿の最高戦力たる神聖騎士団にも非常呼集をかけますか!?」
「急げ! 神の降臨か、あるいは国を滅ぼす大厄災の前触れか……我ら神殿の手で、その正体を確かめねばならん!!」
白亜の神殿は、蜂の巣をつついたような未曾有の大混乱へと叩き落とされた。
神官たちが走り回り、鐘が乱打され、神聖騎士たちが武装を整える。
――そして。
その混乱の元凶である当の悪役令嬢は。
「……すやぁ……」
完璧な暗闇、完璧な無音、完璧な室温に包まれた自室のベッドで、口元から一筋のよだれを垂らしながら、至福のシエスタを貪り続けていたのである。
己が放った「エアコン結界」の余波が、王都の地下に千年間眠り続けていたドス黒い怨念を根こそぎ消し去り、宗教界の若き怪物を呼び寄せる引き金になっていることなど、夢にも思わずに。




