第14話:腹黒筆頭神官の電撃訪問と、千年間ドブに溜まっていた古代の怨念
「……むにゃ……んん……もう食べられないわよ、課長……その企画書、角煮のタレで煮込んでおいて……」
完璧な温度。完璧な湿度。そして、外界の喧騒を完全に拒絶した絶対の静寂。
豪奢な天蓋付きベッドの中央で、私――エレオノーラ・フォン・グランヴェルは、完全に野生を失った深海魚のように無防備な姿で横たわっていた。
シルクのパジャマは寝返りの勢いで右肩が大胆にはだけ、純白のシーツの上には、私の口元から流れた一筋の唾液が小さな水たまりを作っている。
幸せだった。
前世の社畜時代、夢にまで見た理想の睡眠がここにあった。
午前二時にオフィスを追い出され、泥酔したサラリーマンでごった返す終電に揺られ、シャワーも浴びずにメイク落としシートで顔を擦っただけで気絶するように倒れ込んでいたあの地獄の日々。
アラームの電子音に心臓を抉られ、胃痛とともに這い起きていたあの朝。
それらのトラウマが、今、ふかふかの羽毛布団の温もりによって、綺麗さっぱり洗い流されていく。
(……すずしい……くらい……しずか……これよ、これ……人間が生きるために必要なのは、労働じゃなくてこれなのよ……)
自室に張り巡らせた【完全遮光】【完全防音】【生体侵入絶対拒絶】の古代三重結界。
前世の家電製品への飽くなき執念が生み出した「エアコン防音シェルター」は、私の目論見通り、完璧な仕事を果たしていた。
紫外線の一筋すら肌に届かず、羽虫の一匹すら部屋の敷居を跨げず、外の騒音はデシベル数ゼロ。
私は完全に油断しきっていた。
己の体内に脈打つ魔力が、どれほど常軌を逸した規格外のものであるかを、これっぽっちも理解していなかったのだ。
――ズズズズズズズズ……。
私が「快適〜」と寝返りを打つたび。
無意識のうちに身体から漏れ出る古代級の魔力は、部屋の空気を冷やすだけでは飽き足らず、まるでエアコンの室外機から排出されるドレン水のように、床板をじわりと浸透していた。
絨毯を通り抜け、分厚い大理石の床板を透過し、公爵本邸の頑強な基礎石を潜り抜ける。
そして――屋敷の地下深く、王都の大地そのものへと、純度百パーセントの神聖な魔力奔流となって、音もなく注ぎ込まれ続けていたのである。
本人はただ、「室温二十二度キープ」のツマミを回したくらいのつもりで。
***
「……急げ! 遅れをとるな! 神殿の威信にかけて、あの異様な魔力源を突き止めるのだ!」
白昼の王都の中央大通りを、白銀と深紅の装飾が施された豪奢な騎馬隊が、猛烈な砂煙を上げて疾走していた。
先頭を駆るのは、ルミナス国教の若き筆頭神官――シルヴァン・エデルシュタイン。
まだ二十代前半という異例の若さで神殿の最高意思決定機関に登りつめた男である。
背中まで流れるプラチナシルバーの長髪をなびかせ、怜悧な陶器のような美貌には、冷ややかな知性と底知れぬ野心が同居していた。氷のように澄んだ菫色の瞳は、常に世界を「利用価値のあるもの」と「排除すべき障害」の二つに峻別している。
「シルヴァン様! 公爵邸上空の魔力ドーム、依然として減衰の兆候が見られません! 観測班の水晶球がさらに三基、過負荷で破裂いたしました!」
「構わん、捨て置け! 計器の弁償など後でいくらでも王室に請求すればいい!」
シルヴァンは手綱を握る手に力を込め、馬腹を鋭く蹴った。
彼の整った唇の端には、冷笑が刻まれている。
(グランヴェル公爵家……。王家すら恐れぬ筆頭貴族が、ついに化けの皮を剥いだか)
神殿にとって、筆頭公爵家は長年目の上のたんこぶだった。
独自の軍事力を持ち、王国の財政を牛耳り、何より神殿の権威を一切歯牙にもかけない不可侵の治外法権。
そこへ降って湧いた、先日の小麦買い占めと炊き出し騒動だ。市井の愚民どもが「慈愛の聖女エレオノーラ様」などと公爵令嬢を崇め奉っていると聞き、シルヴァンは反吐が出る思いを抱いていた。
(聖女だと? 笑わせるな。あの傲慢で我儘放題と名高い悪名高き令嬢が、聖女なぞであるはずがない。どうせ商会の利権を奪うために裏で糸を引いただけの俗物が。……そして今度は、白昼堂々と神聖結界の偽装か)
神殿の観測機器を爆破するほどの魔力放出。
シルヴァンはそれを、公爵家が秘匿していた「古代の禁呪遺物」の暴走、あるいは教会の権威を失墜させるための大規模な宗教的示威行動だと踏んでいた。
もしそうであれば、神殿法に基づき、公爵令嬢エレオノーラを「神を冒涜する偽聖女」「異端の魔女」として公の場で断罪できる。
王太子の婚約者であろうと関係ない。神殿が国家権力の上に立つための、絶好の生贄にしてやろう――そう目論んでいたのだ。
だが。
公爵邸が建ち並ぶ貴族街へと馬を進めるにつれ、シルヴァンの怜悧な計算に、微かな、しかし決定的な亀裂が入り始めた。
「……何だ、この感覚は……?」
シルヴァンは手綱をわずかに緩めた。
風だ。
公爵邸の方向から吹き下ろしてくる風が、肌を撫でた瞬間。
体内の魔力回路が、まるで極上の霊泉に浸かったかのように、歓喜の産声を上げて脈動したのだ。
不快感がない。邪悪な魔力の残滓も、禁呪特有の歪んだ圧迫感も一切ない。
それどころか――吸い込んだ空気が、肺の奥底に溜まっていた日頃の政務の疲労を、嘘のように溶かしていく。
「シルヴァン様……見てください、あれを……!」
並走していた直属の神官兵が、息を呑んで街道の脇を指差した。
そこは、王都の貴族街の外縁を流れる、生活排水が流れ込むはずの堀川だった。
普段であれば、ドブ特有のヘドロの臭気が漂い、淀んだ暗緑色の水面が油膜を浮かべている悪名高い場所だ。
それが、どうだ。
「……水が……澄んでいる……?」
シルヴァンは馬を止め、目を見張った。
堀川の水は、まるで人跡未踏の原生林を流れる湧き水のように透き通り、川底の小石や藻の一本一本までが鮮明に見えていた。
悪臭は完全に消え去り、水面からは白く輝く清涼な霊気が、霧のように立ち上っている。
道端の敷石の隙間からは、本来なら高山の清流にしか自生しないはずの希少な霊草『白百合の雫』が、青々とした新芽を一斉に芽吹かせていた。
「馬鹿な……生活排水の堀が、一瞬で聖水へと転化しているだと……!? これほどの奇跡、神殿の最高位大司教が百人がかりで三日三晩祈祷を捧げても不可能だぞ……!」
神官兵たちが馬上で十字を切り、ガタガタと震え始める。
シルヴァンの額からも、ツッと一筋の冷たい汗が流れ落ちた。
偽装? 示威行動?
あり得ない。これほどの質量と純度を持った神聖現象を偽装できる魔導具など、この地上に存在するはずがない。
(いや……待て。地上の変化だけではない。この光の奔流、まさか……!!)
嫌な予感が、シルヴァンの冷徹な脳裏を雷光のように駆け抜けた。
彼は懐から、神殿の最高幹部のみに所持を許されている秘宝――神の瞳を模した宝玉『真理のモノクル』を取り出し、左目へと装着した。
霊視の魔眼を開放し、視界を大地の底へと潜り込ませる。
そして――シルヴァン・エデルシュタインは、己の目を疑った。
「なっ…………!?!?!?」
彼の喉から、生涯で一度も出したことのないような、無様でみっともない引き攣った悲鳴が漏れ出た。
***
王都オーガスタスの地下深淵。
そこには、地上の人間が誰一人として知ってはならない、ルミナス神殿の最大の暗部が横たわっていた。
千年前の魔神戦争。
かつてこの地で討ち滅ぼされた古代の邪神と、その軍勢が撒き散らした呪詛。
それらは完全に消滅したわけではなく、王都の地下を複雑に入り組む巨大な水脈の底に、ドロドロとした黒い泥――【千年の古代瘴気】となって澱のように沈殿し続けていたのだ。
神殿の始祖すらも完全に消滅させることができず、歴代の神官長たちはその事実を隠蔽。
莫大な国家予算を「霊脈管理費」として神殿に計上させ、地下に何十重もの封印結界を張り巡らせて、ただ「漏れ出さないように誤魔化し続けてきた」だけの、触れてはならないパンドラの箱。
もし、この瘴気が地上に噴出すれば、王都の人口の半数は一夜にして狂気に狂い、アンデッドとなって国は滅びる。
神殿はその恐怖を盾にして、歴代の国王や貴族たちから巨額の寄付金をむしり取り、宗教的権威を維持してきたのだ。
シルヴァン自身も、この地下の瘴気を「神殿の権力を維持するための最も有効な人質」として冷徹に利用する腹積もりだった。
だが。
今、シルヴァンの魔眼が捉えた光景は――そんな人間どもの矮小な謀略を、根底から粉砕するものだった。
(……消えている……!?)
シルヴァンの全身の血が、一瞬で凍りついた。
グランヴェル公爵邸の地下。
そこから、まるで天の滝が決壊したかのような、圧倒的な光の奔流が地下水脈へと突き刺さっていた。
それは雷光の如く鋭く、太陽の如く温かく、神の息吹の如く絶対的な純白の光柱。
その光が、千年間ドブの底に溜まり続けていたドス黒い古代の怨念に触れた瞬間――。
――ジュワワワワワワワワッッッ!!!!
耳を塞ぎたくなるような蒸発音が、地下の霊脈全体に木霊した。
何万もの怨霊の叫び声、呪詛の塊、魔神の肉片の残滓。
歴代の神官たちが数百年祈り続けても、爪の先ほども削ることのできなかったあの凶悪な瘴気が。
まるで――頑固な茶渋のこびりついたマグカップに、業務用の超強力塩素系漂白剤を一気に注ぎ込んだかのように。
跡形もなく。
一瞬で。
綺麗サッパリと、炭酸の泡となって消滅していくのだ。
「あ……あ……」
シルヴァンの唇が、カタカタと音を立てて震える。
消えていく。
神殿が何百年も恐れ、誤魔化し、国家を揺るがす最大の脅威として君臨していた暗黒の澱が。
光の奔流に撫でられただけで、まるで初夏の陽気に当てられた春の残雪のように、あっけなく、無残に、蒸発して消えていく。
「あり得ない……あり得ない、あり得ないッ!!」
シルヴァンは自らの髪を乱暴に掻きむしり、馬上で叫び声を上げた。
「神殿の全戦力……三千人の神官が命を削り、百基の封印核を維持してなお抑え込むのが限界だった千年の呪詛だぞ!? それを……たった数分で!? 陣の詠唱も、生贄の儀礼も、神への祈祷すら捧げずに……ただ上から光を流し込んだだけで、全て浄化し尽くしたというのか……!?」
しかも、その光の波形。
シルヴァンの魔眼は、信じられない事実を正確に読み取っていた。
この光は、地下の瘴気を狙って撃ち込まれた攻撃魔法ではない。
何かの中心部から、ただ「溢れ出ただけの余剰魔力」――いわば、漏れ出た残りカスのようなエネルギーに過ぎないのだ。
(残りカス……? 出力を絞った余波だけで、千年の古代瘴気を消滅させただと……!? ならば、その源流……この結界の真の中心にいる存在の魔力は、一体どれほどの深淵だというのだ……!?)
戦慄。
冷徹な合理主義者として、あらゆる人間を駒として見下してきたシルヴァンの背筋を、生まれて初めての「絶対的な恐怖」と「圧倒的な敗北感」が駆け上がった。
神の代行者を自称していた自分が、本物の「神の奇跡」の前に立たされた時の、あまりの小ささ、浅ましさ。
「シルヴァン様……!? 公爵邸の門前に到着いたしました!」
従者の声に、シルヴァンはハッと我に返った。
見上げれば、目の前にはグランヴェル筆頭公爵邸の巨大な正門がそびえ立っていた。
そしてその上空には、今なお王都全体を優しく包み込むように、白銀と黄金の多重結界が静かに、神々しく輝き続けている。
「……あのお方だ」
シルヴァンの菫色の瞳から、先ほどまでの冷笑と打算は完全に消え去っていた。
代わりに宿っていたのは――底知れぬ狂気と、魂を丸ごと奪われた信徒特有の、ギラギラとした熱狂の光だった。
「エレオノーラ・フォン・グランヴェル……。己を悪女と偽り、誰にも告げず、たった一人で……王都を千年の呪いから救い出したというのか……。神よ、貴方はこれほどの怪物を、人の形をして地上へ遣わされたのか……!!」
シルヴァンは馬から飛び降りるように着地した。
法衣の裾を泥で汚すことすら厭わず、彼は獲物を見つけた獣のような、いや、救いを求める巡礼者のような足取りで、公爵邸の門扉へと突進していった。
***
――そして、その頃。
千年の瘴気を消し去った「神の化身」たるエレオノーラは。
「……ふがっ!?」
自らの盛大な鼻息の音で、ピクッと肩を跳ねさせて目を覚ましていた。
ぼんやりとした視界。
部屋は相変わらず、完璧な暗闇と完璧な静寂に包まれている。
室温は二十二度。湿度は五十パーセント。虫の気配はゼロ。
「……ふぁぁぁぁ……よく寝たわぁ……」
私はベッドの上でゴロゴロと転がりながら、だらしなく手足を伸ばした。
枕に染み付いたよだれの跡を手で拭い、目を擦る。
時計の針を見れば、まだ昼寝を始めてから二時間程度しか経っていない。
「最高ね、このエアコン結界。前世のダイキンの最新モデルでもここまで快適にはならないわよ。……よし、体制を整えて、あと四時間は二度寝をキメ込むとしましょうか」
再びシーツを頭から被ろうとした、その時。
――ドンドンッ! ドンドンッ!
分厚い防音結界を通り抜けて、自室の扉が激しく叩かれた。
普段なら結界がすべての音を遮断するはずだが、叩いている人間の気迫が尋常ではないのか、微かな振動が部屋の空気を揺らしている。
「……何よ、もう。せっかくいい夢見てたのに……」
私は不機嫌の塊のような顔で、のそのそとベッドから這い出た。
外界でどれほどの宗教的パニックが巻き起こっているかも知らず、ただ「安眠を邪魔された」という怒りだけを胸に秘めて。




