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第8話:うるさいから金目のものを投げつけたら、軍神の啓示と受け取られた

「……ひ、ヒイィィィッ! 直ちにお持ちいたしますうううっ!!」


私の氷点下百度の眼差しに耐えかねたのか、執事のクリストフは悲鳴を上げながら、五十過ぎの肉体とは思えない俊敏さでサロンを脱兎のごとく駆け出していった。

扉がバタンと閉まり、室内に再び重苦しい沈黙が降りてくる。


私はといえば、組み替えた脚をゆったりと揺らしながら、爪の手入れ具合を眺めるふりをして盛大にため息をついた。

目の前に仁王立ちしている近衛騎士団長マティアスは、先ほどまでの熱弁が嘘のように口を真一文字に結び、私の顔を凝視している。

眉間には彫刻刀で刻んだかのような深い皺。

琥珀色の鋭い瞳には、警戒と困惑、そしてかすかな戦慄が入り混じっていた。


(……何よ、その顔。さっきまでの威勢はどうしたのよ、筋肉ダルマ)


心の中で悪態をつきながら、私は冷え切った紅茶のカップに指先を滑らせた。

男の説教ほど、この世で無駄な時間はない。

前世の社畜時代、金曜日の午後七時を回ってから「ちょっといいか」と会議室に連れ込まれ、中身のない精神論と武勇伝を延々と聞かされて終電を逃したあの夜の絶望を、私は死んでも忘れない。

あの時、心の中で何度「手切れ金でも何でも叩きつけてやるから、頼むから今すぐ消えてくれ」と祈ったことか。

だが、今の私には金がある。

王家を凌ぐ財力と、邪魔なものをいくらでも投げ捨てられる公爵令嬢という最強の権力があるのだ。

金を握らせて黙らせる。

実に暴力的で、実に横暴で、実に悪徳令嬢にふさわしい解決法ではないか。


「……エレオノーラ閣下」


沈黙に耐えかねたのか、マティアスが喉の奥から絞り出すような重々しい声で口を開いた。


「『邪魔なガラクタ』とは、一体何のことですかな。我が近衛騎士団に対する侮蔑の言葉と受け取ってもよろしいのか」

「さあね。あなたのような石頭の脳みそを割るのにちょうどいい重さの物、とでも言っておきましょうか」

「なっ……!?」


マティアスの額にピキリと青筋が浮かぶ。

よろしい、いい感じに怒っているわね。

公爵家の権勢を笠に着て、国家の治安を守る騎士団長に暴言を吐き、ガラクタを押し付ける。

これぞ絵に描いたような増長令嬢だ。

国王陛下に言いつけるなり、貴族院で問題にするなり、勝手にするがいい。

そうすれば晴れて「手に負えない悪女」として婚約破棄、からの国外追放まっしぐらである。


――ギギギギギギギギギ……ッ!!


その時、廊下の向こうから、床がきしむような異様な軋み音と、何人もの男たちの荒い呼吸が近づいてきた。


「せーのっ! 押せ! 腰を落とせ!」

「だ、駄目だ、車輪が悲鳴を上げてるぞ!」

「床を傷つけるなよ、閣下に首を撥ねられるぞッ!」


サロンの分厚い両開き扉が、外側からギィと押し開けられた。

現れたのは、汗だくになって顔を真っ赤にした屈強な庭師や下男たち四人。

彼らが総がかりで押している頑丈な鉄製ワゴンには、分厚い麻の毛布で幾重にも覆われた、子供の胴体ほどもある巨大な「何か」が積まれていた。

ただの荷物ではない。

ワゴンの強化鋼の車輪が、その凄まじい重量のせいで軋み、ペルシャ絨毯に深い轍を刻み込んでいる。


「お、お嬢様……! お言いつけの『あれ』を、地下最奥の封印倉庫から運んでまいりました……!」


先導してきたクリストフが、今にも卒倒しそうな顔で胸を押さえながら報告する。


「ご苦労様。そこに置きなさい」

「お、置くと言われましても、下手に降ろせばサロンの大理石の床板が抜けますぞ……!?」

「いいから、毛布を剥ぎ取りなさいな。埃っぽいのは嫌いよ」


私の冷淡な命令に、下男たちが恐る恐る麻の毛布の端を掴み――バサリと一気に引き剥がした。


――ボウッ。


その瞬間、昼下がりのサロンが、幻想的で透き通るような白銀の青光に包まれた。


「……っ!?」


マティアスが息を呑み、反射的に腰の剣の柄に手をかけた。

ワゴンの中央に鎮座していたのは、一塊の金属だった。

長方形に荒削りされたその巨大な塊は、鉄でも銀でもない。まるで凝固した月光そのもののように淡く青白い燐光を放ち、周囲の大気中の魔力を吸い寄せては、微かな冷気を放っている。

表面には不純物など微塵もなく、触れずとも伝わってくる、背筋が震えるほどの圧倒的な高密度と魔力伝導率。


それは――かつて建国初期、初代グランヴェル公爵が大陸最古の古代ダンジョン『常闇の深淵』の最深部を踏破した際、守護竜の寝床から持ち帰ったとされる、神話級の遺産。

重さにして優に百キロを超える、世界最大級の【ミスリル純塊(インゴット)】だった。


(……うん、相変わらず無駄に光って邪魔くさいわね)


私は眩しそうに目を細めた。

私の記憶が正しければ、これは先代公爵が「いつか究極の宝剣でも打つか」と言い残して放置し、その後何十年も地下倉庫の片隅で、漬物樽の蓋の上に重し代わりに置かれていた粗大ゴミである。

去年の大掃除の際、私が「足の小指をぶつけたら痛いから捨てて」と指示したのに、クリストフが「め、滅相もございません!」と泣いて拒否した代物だ。

金属としての価値? 知るか。

私にとっては、部屋のインテリアにもならないし、寝転がるのにも邪魔な、ただの重い漬物石である。


だが――目の前のマティアスの反応は、私の予想を遥かに超えていた。


「ば……馬鹿な……」


マティアスの琥珀色の瞳が、これ以上ないほど見開かれていた。

頬の筋肉がピクピクと痙攣し、唇がワナワナと震えている。

彼はまるで、伝説の神仏の降臨を目の当たりにした敬虔な信徒のように、その青白い光に釘付けになっていた。


「こ、これは……不純物が一切混ざっていない、完全結晶化された古代ミスリル……!? これほどの大きさと純度を誇る鉱塊など、王室の第一宝物庫にすら存在せんぞ……! 一国を買い取れる……いや、小国二つが傾くほどの国宝中の国宝……! なぜ、なぜこのような神代の至宝が、無造作に台車の上などに……!?」


マティアスが戦慄するのも無理はなかった。

現在の市場において、ミスリルは指先ほどの破片ですら金貨数百枚で取引される超希少金属だ。

魔力を通せば鋼の数十倍の硬度を誇り、かつ羽毛のように軽くなるという、武具の素材としては究極の夢。

王族や高位貴族の儀礼剣に、ほんの数パーセントのメッキとして使われるのが関の山であり、これほど巨大な純塊など、現存すること自体が奇跡だった。


そして――何よりも。

この光景は、マティアスが誰にも言えず、たった一人で抱え込み、胃を焼き切るほどに苦しみ抜いていた「現実」を、無慈悲に抉り出していた。


(……くっ!)


マティアスはギリッと奥歯を噛み締めた。

彼の脳裏に、数日前、王都郊外の演習場で起きた惨劇が蘇る。


王宮の近衛騎士団――それは表向き、華やかな儀仗兵であり、王家の威光を示すエリート集団とされている。

だがその実態は、財政を牛耳る文官派や保守派貴族によって年々予算を削られ、装備の更新すらままならない火の車だった。

先日の魔獣討伐演習。

突如現れた上位魔獣の皮膚を前に、近衛兵たちの剣は刃こぼれし、支給されていた安物の鉄鋼鎧は紙のように引き裂かれた。

マティアスが自らの剣で魔獣を両断し、なんとか事態を収拾したものの、部下の若い騎士三名が重傷を負い、一人は騎士生命を絶たれかけていた。


『団長……申し訳ありません、私の太刀筋が未熟なばかりに……!』

『馬鹿野郎、お前のせいじゃない! 支給された剣の焼き入れが甘かったんだ!』


病床で泣く部下の前で、マティアスは自らの無力さに血の涙を流した。

王宮の財務省に何度も頭を下げ、装備の刷新を直訴した。

だが、返ってきたのは冷淡な言葉だけだった。

『平和な王都で、近衛にそこまでの最高級装備が必要かね? 見栄えさえ良ければ十分だろう』

悔しさに震えながら、マティアスは自らの給与を削り、私財を投げ打って、少しでも質の良い鋼を部下のために買い集めていた。

だが、個人の財力など大海の一滴。限界はとうに超えていた。

このままでは、次の実戦でまた誰かが死ぬ――。

誰にも弱音を吐けず、王太子の護衛という重責と部下の命の狭間で、マティアスは押し潰されそうになっていたのだ。


そんな彼の目の前に、今。

王国の全騎士団の装備を、最高峰の神話級武装へと塗り替えて余りあるほどの、莫大な至宝が転がされていた。


「……エレオノーラ閣下、これは……一体……」


マティアスが掠れた声で問いかける。

その視線に、私は心底うんざりした。


(何よ、まだグダグダ言ってんの? 早く持って帰れってのよ)


もう一秒たりとも、この男の暑苦しい顔を見ていたくない。

私の頭の中は、先ほど中断された「人間工学に基づいた至高の昼寝」のことでいっぱいだった。

早くベッドに戻りたい。

シルクのシーツに顔を埋めたい。

そのためなら、こんな粗大ゴミの一つや二つ、くれてやるわよ!


「ふん」


私はソファから立ち上がると、優雅に、しかし乱暴にワゴンへと歩み寄った。

そして。


「……邪魔なのよ、こんなもの」


私は右手にほんのわずか――前世でスーパーの特売日に、重い米袋を五つまとめてレジカゴに放り込んだ時の要領で――無自覚の古代身体強化魔力を込めた。

大人の男四人がかりで運んできた、重量百キロを超えるミスリルの純塊。

それを。


――ヒュッ。


まるで片手で林檎でも掴むかのように、軽々と持ち上げた。


「「「「なっ……!?!?」」」」


サロンにいた下男たちとクリストフの眼球が、物理的に飛び出るのではないかというほど見開かれた。

人間が片手で持ち上げられる質量ではない。

しかし、エレオノーラの華奢な白磁の腕は、プルプルと震えることすらなく、片手でその巨大な金属塊を鷲掴みにしていた。


「お、お嬢様……!? そ、それを片手で……!?」

「うるさいわねクリストフ」


私はマティアスに向き直った。

信じられない怪力を見せつけられ、完全に硬直している騎士団長の足元目掛けて。


「――ほらよッ!!」


ドゴォォォォォォォンッッッ!!!!


凄まじい轟音がサロンに炸裂した。

百キロの超高密度金属が投げ落とされ、最高級の大理石の床板が放射状にバリバリと砕け散る。

衝撃波でペルシャ絨毯が波打ち、マティアスのマントがバサリと大きく翻った。

彼の軍靴のわずか数センチ手前に、青白く発光する国宝が、無造作に転がっている。


煙が立ち込める中、私は腰に手を当て、顎をしゃくって傲慢極まりない罵声を叩きつけた。


「これで新しい剣でも鎧でも、好きなだけ買って帰りなさい! 我が家の倉に転がっていたただのガラクタよ! くだらない説教で私の昼寝を邪魔する暇があるなら、その粗大ゴミを売り飛ばして、お城のボロい兵舎でも建て替えることね! うるさくて眠れないのよ、二度と私の視界に入るんじゃないわよ!!」


吐き捨てた。

完璧だ。これ以上ないほどの侮蔑。

国家の至宝を「粗大ゴミ」と呼び、騎士団長の足元に投げ捨て、「金で解決してやるから失せろ」と言い放ったのだ。

誇り高き騎士道精神を持つマティアスなら、この耐え難い侮辱に怒髪天を突き、剣を抜くか、あるいは「貴様のような腐った女、こちらから願い下げだ!」と吐き捨てて王宮へ駆け込むに違いない。


(ふふん、どうかしら! これで騎士団長を敵に回したわ! 王太子の側近トップから『あの女は傲慢の極み、王妃にふさわしくない』と国王に直訴がいけば、今度こそ婚約破棄よ!)


私は勝利を確信し、冷酷な笑みを浮かべて背を向けようとした。


――しかし。

足元にミスリルを投げつけられたマティアスは、微動だにしていなかった。


「……っ」


マティアスの呼吸が、不自然なほど浅く、速くなっていた。

彼の視線は、砕けた大理石の上に転がるミスリル純塊に注がれている。

その瞳に宿っていたのは、怒りではなかった。

屈辱でもなかった。


それは――雷に打たれ、己の小ささを思い知らされた人間が抱く、純度百パーセントの「畏怖」と「戦慄」だった。


(……あ、あり得ない……)


マティアスの脳内で、エレオノーラの放った言葉が、轟音となって反響していた。


『これで新しい剣でも鎧でも、好きなだけ買って帰りなさい』

『お城のボロい兵舎でも建て替えることね』


(……なぜだ? なぜ、この御方は知っている!?)


マティアスは誰にも言っていなかった。

近衛の装備が予算不足でボロボロになっていることも。

先日の演習で部下が負傷したことも。

兵舎の雨漏りが酷く、若い兵たちが劣悪な環境で耐え忍んでいることも。

軍の最高機密であり、王太子の威信に関わる弱みゆえ、己の胸の内だけに押し殺していたはずの悲痛な叫びを――。


(この御方は……一目で見抜いていたというのか……!?)


マティアスの背筋に、熱い悪寒が走る。


エレオノーラは、サロンに入ってきた瞬間から、マティアスを冷たく見下ろしていた。

あれは侮蔑などではなかったのだ。

マティアスの帯剣の刃こぼれを、鎧の継ぎ目に生じた金属疲労を、そして軍靴の底のすり減り具合を――あの緋色の瞳は、たった一瞬の視線で全て見透かしていたのだ!


(『ガラクタ』だと……!? 馬鹿を言え、これが一国を傾けるほどの神話級の至宝だと知らぬはずがない! それをあえてガラクタと言い放ち、俺の足元へ投げ捨てたのは……!)


マティアスの深読みは、光速を超えて宇宙へと到達しようとしていた。


(俺の……俺の騎士としてのプライドを傷つけないためだ……!!)


もし、正式に「困窮する騎士団への寄付」として下賜されれば、マティアスは軍人としての立場上、受け取るのに何十もの手続きを踏まねばならず、財務省や貴族院の横槍が入って部下の元へ届く前に横領されるかもしれない。

何より、「公爵令嬢に恵んでもらった」という事実は、誇り高き近衛騎士たちの心を折るかもしれない。

だからこそ。

彼女は自らを「傲慢で身勝手な悪女」に仕立て上げ、「邪魔だからくれてやる」という乱暴な形で、マティアスに一切の負い目を感じさせずにこの莫大な富を押し付けたのだ!


『うるさくて眠れないのよ』

それは、「感謝など不要、礼も言うな、ただ部下を救え」という、不器用極まりない無言の優しさではないのか……!?


「……ああ」


マティアスの喉から、掠れた嗚咽が漏れた。

視界が、急速に滲んでいく。

先ほどまで自分が口にしていた「法と秩序」「手続きの正義」が、いかに浅ましく、いかに現場の血を無視した空論であったか。

この御方は、法という名の鎖に縛られて部下を見殺しにしかけていた自分を救うため、自らの家の至宝を、大理石の床ごと叩き割って投げ与えてくださったのだ。


(軍神だ……。この御方は、戦場の泥と血を知り尽くした、真の軍神だ……!!)


サロンの空気が、決定的に変質した。

背を向け、自室へ戻ろうと優雅に足を動かしていたエレオノーラは、背後から響いてきた「ドサリ」という異様な音に、ぴたりと足を止めることになる。


それは、怒り狂った男が剣を抜く音ではなかった。

重厚な白銀の甲冑が、大理石の破片の上に、両膝から崩れ落ちた音だった。

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