第7話:脳筋騎士団長のお説教タイムと、公爵家の粗大ゴミ
「……ふあぁぁ……神よ、仏よ、ご先祖様よ。どうか私に、永遠の微睡みを……」
王都を揺るがしたあの忌々しい『小麦大盤振る舞い事件』から、二日が経過していた。
街中では未だに「慈愛の聖女エレオノーラ様」を讃える歌が辻音楽師によって歌われ、下町のベーカリーには「聖女様の白パン」なる新商品が並んでいるらしいが、私は自室の分厚い防音カーテンをピッチリと閉め切り、外界の情報を一切遮断していた。
見たくない。聞きたくない。
悪評を稼いで国外追放を勝ち取るはずが、全平民の支持率が百パーセントに跳ね上がるという悪夢のような現実から、私は全力で目を背けていたのである。
現実逃避の最高峰。それはすなわち、昼寝である。
「お嬢様、羽毛クッションの配置はこれでよろしいでしょうか」
「完璧よリディエ。頭の沈み込みが三センチ、首の角度が十五度。これぞ人間工学に基づいた至高の昼寝フォーメーションだわ」
私はレースたっぷりの天蓋付きデイベッドに身を沈め、とろけるようなシルクの掛け布団を顎まで引き上げた。
室内には、微かにラベンダーのアロマが焚かれ、心地よい室温が保たれている。
前世の社畜時代、私はオフィスデスクの上に突っ伏し、腕を枕にして十五分の仮眠を取るのが関の山だった。起きた時には腕が痺れて感覚がなくなり、額にはキーボードの『Enter』キーの四角い跡がくっきりと刻まれていたものだ。
それに比べて、今のこの環境はどうだ。
シルクの肌触り、身体全体を包み込む雲のような弾力。
何物にも代えがたい至福の瞬間。まぶたが重くなり、意識が甘やかな暗闇へと溶け落ちていく――。
――ズシィンッ!!
突如として、屋敷の廊下から響き渡った暴力的な地響き。
それは軽やかな従者の足音などではない。鋼鉄の具足をつけた大男が、床板を踏み抜かんばかりの勢いで行進してくる音だった。
「な、何事……? 地震……? それとも怪獣の襲来かしら……?」
微睡みをもぎ取られた私は、眉間に深い皺を刻んで顔を上げた。
次の瞬間、部屋の扉がノックされるよりも早く、ドタバタと転がり込んできた人影があった。
「お、お嬢様ァァァッ!! たい、大変でございますぞォッ!!」
筆頭執事のクリストフだった。
相変わらず顔面は蒼白、オールバックの白髪は乱れ、ポケットにはお馴染みの胃薬の小瓶がガチャガチャと音を立てている。
「クリストフ、騒々しいわよ。私は今、三途の川の渡し舟に乗って極楽へ向かう途中だったのよ。船頭にチップを払う直前で引き戻さないでちょうだい」
「極楽へ行っている場合ではございません! き、騎士団長様が……近衛騎士団長マティアス・ヴァルデン閣下が、甲冑をガチャガチャと鳴らしながら、ものすごい形相で乗り込んでまいりました!」
「……は? マティアス?」
私の脳裏に、先日の王太子レオポルトの狂乱劇の際、後ろで「この身に余る光栄にございます!」と熱い涙を流していた、あの堅物そうな男の顔が思い浮かんだ。
「あいつ、また殿下のラブレターでも届けに来たの? 受け取り拒否で突き返してちょうだい。『受取人不在のため王宮へ返送』って額に墨で書いてやりなさい」
「め、滅相もございません! 殿下の使者ではなく、マティアス閣下ご自身の意思で殴り込んでこられたのです! 『公爵令嬢に問いたださねばならぬ義がある!』と、玄関の衛兵を気迫だけで弾き飛ばしてサロンに居座っておられます! 早く、早くお出ましを……! さもなくばサロンの大理石テーブルが真っ二つに叩き割られかねませんぞ!」
「……チッ」
私は盛大に舌打ちをした。
公爵令嬢としてあるまじき下品な音だったが、リディエもクリストフももはや突っ込む気力すらないらしい。
安眠を邪魔された人間の怒りを、この脳筋筋肉ダルマはまるで理解していない。
前世の社畜時代、ようやく迎えた三連休の初日、朝の六時に「すまん、急ぎの案件が入ったから今すぐ出社してくれ」と無慈悲な電話をかけてきたあの上司に対する殺意が、私の全身をパチパチと駆け巡っていた。
「いいわ。出てやろうじゃないの。叩き起こされた恨み、骨の髄まで思い知らせてあげるわよ」
私はネグリジェの上に真紅のガウンを乱暴に羽織ると、結い上げてもいない長い黒髪をなびかせ、裸足にスリッパを引っ掛けただけの極めて怠惰な姿でサロンへと向かった。
***
――バァンッ!
私がサロンの扉を乱暴に押し開けると、室内の空気が目に見えてピリリと凍りついた。
部屋の中央、豪奢なペルシャ絨毯の上に仁王立ちしていたのは、近衛騎士団長マティアス・ヴァルデンだった。
身の丈は六尺を優に超え、分厚い胸板を覆う白銀の甲冑には、近衛の最高責任者たる獅子の彫刻が施されている。彫りの深い精悍な顔立ちには一切の甘えがなく、短く刈り込まれた灰褐色の髪の下で、琥珀色の鋭い瞳が獲物を狙う鷹のようにギラギラと光っていた。
腰には歴戦の証である長剣。帯剣したまま貴族の屋敷のサロンに踏み込むなど、本来ならば重大な作法違反だが、今の彼にはそんな形式美を気にする余裕など微塵もないようだった。
「……お待たせいたしましたわね、騎士団長様」
私はソファーの背もたれにドカリと座り込み、足を組んで肘掛けに頬杖をついた。
カーテシー? 挨拶? そんな面倒なものは犬にでも食わせてしまえ。
私の緋色の瞳には、徹夜明けの社畜特有の「今すぐ目の前の障害物をミンチにして二度寝したい」というドス黒い光が宿っていた。
「アポイントもなしに公爵邸の門を破るなんて、王宮の番犬にしては随分と躾がなっていないのね。用件があるなら手短に話しなさい。一分につき金貨十枚の相談料を請求するわよ」
我ながら、完璧に無礼で尊大な悪役令嬢ムーブだ。
前世で培った「最も相手を不快にさせるクレーマー対応の塩態度」を遺憾なく発揮してみせる。
だが、マティアスは眉一つ動かさず、むしろその琥珀色の瞳の炎をさらに燃え盛らせて、一歩前へと踏み出してきた。
――ズシン。
床が軋むほどの踏み込み。
彼は拳を胸に当て、空気を震わせるような重低音のバリトンボイスを響かせた。
「エレオノーラ閣下! 単刀直入に申し上げます! 先日の市場における小麦および砂糖の大規模な買い占め、そしてその後の破格値での放出……あれは一体、いかなるお考えあっての暴挙でございますか!!」
「……はあ?」
私は心底かったるそうに眉根を寄せた。
またその話か。もう小麦の「こ」の字を聞くだけで胸焼けがしそうなのに。
「いかなる考えも何も、私の勝手でしょう。我がグランヴェル家の金で、市場にあるものを買っただけだわ。何か文句がおあり?」
「大いにあります!!」
マティアスが一喝した。
サロンの窓ガラスがビリビリと共鳴するほどの声量。うるさい。鼓膜が破れる。
「確かに、結果として王都の食糧危機は回避され、民は閣下を聖女と崇めております! 隣国の陰謀による買い占めを水際で防いだという点においては、軍人としても殿下の臣下としても、深く感謝申し上げねばならぬところでしょう!」
「……なら、黙って礼だけ言って帰りなさいよ」
「しかし!! 法と秩序を預かる近衛騎士団長として、看過できぬ問題がございます!」
マティアスはギリッと奥歯を噛み締め、怒りを滲ませた瞳で私を真っ直ぐに見据えた。
「いくら結果が良かろうと、手続きを無視した独断専行は国家の根幹を揺るがす毒となります! 市場の流通を一個人の財力で牛耳り、一国の価格相場を破壊するなど、法治国家の軍人として断じて見過ごすわけにはまいりません! もし閣下の読みが外れていたらどうなっていたか! 市場は大混乱に陥り、商人は破産し、暴動の引き金になっていたやもしれんのですぞ!」
(……うわぁ)
私は心の中で、天を仰いで白目を剥いた。
出た。出ましたよ。
前世の会社で一番関わりたくなかったタイプの人間だ。
規律第一、前例踏襲、融通が利かない、コンプライアンス原理主義の堅物中間管理職!
「閣下! 貴女のお立場をお考えいただきたい! 筆頭公爵家の一人娘であり、王太子殿下の婚約者たるお方が、法を軽視し、自らの才覚と財力のみを頼みとして暴走するなど……それは覇道の行いであり、王道の歩みではございません! 民を救うためとはいえ、あのような危険な綱渡りは二度と――」
マティアスの説教は止まらなかった。
朗々と響く正論。
非の打ち所がない道徳論。
延々と続く、長くて退屈で中身の薄い訓話。
――ああ、思い出す。
前世の朝礼だ。
毎週月曜日の朝八時、全社員を会議室に立たせ、社長が「我が社の企業理念とは」を四十五分間熱弁していた、あの地獄の時間。
足は痺れ、貧血で倒れそうになり、ただ「早く終わってくれ、席に戻って作業させろ」と祈り続けていた、あの無間地獄が、異世界の公爵邸で完全再現されている。
(長い……! 話が長すぎる……!!)
私の頭の中で、ブチブチと何かが千切れる音がした。
眠いのだ。
私は今、猛烈に眠いのだ。
前世で過労死した私が、ようやく手に入れた「誰にも邪魔されないお昼寝」という名の聖域を、この筋肉ダルマは軍靴で土足のまま踏み荒らしているのだ。
「……おい、脳筋」
「――閣下のご聡明さは認めます! しかし、才ある者ほど自らを律する檻が必要なのです! 軍の規律もまた同じ! 一個の英雄が勝手な判断で突出部隊を動かせば、戦線全体が崩壊するのは兵法の初歩――」
「聞けっつってんだろ、この筋肉野郎が」
ボソリと、私の口から前世のガラが悪すぎる本音が漏れ出た。
だが、その声はマティアスの耳には届かない。彼は自らの正義感に酔いしれ、熱弁を振るい続けている。
「……私の言葉に、少しでも耳を傾けていただきたい! 国家とは民と王家、そして貴族が法という名の絆で結ばれてこそ――」
限界だった。
私の堪忍袋の緒が、音を立てて木っ端微塵に爆発した。
***
(……なんだ、この異様な空気は……?)
熱弁を振るっていたマティアスは、ふと喉の渇きを覚え、わずかに言葉を区切った。
その瞬間、彼の肌が、ビリビリと粟立つような痛烈な寒気に襲われた。
マティアス・ヴァルデンは、若くして近衛騎士団長の座に登りつめた天才肌の軍人だ。
幾度もの魔獣討伐戦を生き残り、国境の小競り合いで敵の猛将の首を討ち取ってきた。
死線の匂いには誰よりも敏感なはずだった。
そのマティアスの本能が、今、警報を乱れ打っている。
(殺気……? いや、違う。これは……もっと絶対的な、上位捕食者の威圧感……!?)
マティアスは息を呑み、正面のソファーを見つめた。
そこに座るエレオノーラは、微動だにしていなかった。
肘掛けに頬杖をつき、組んだ脚をゆったりと揺らしている。
だが、その緋色の瞳。
先ほどまで退屈そうに濁っていたその瞳が、今や冷え切った絶対零度の輝きを放ち、マティアスを射抜いていた。
――ゾクッ。
マティアスの背筋に、氷水を一気に流し込まれたような衝撃が走る。
動けない。
歴戦の騎士たる自分が、十九歳の小娘の視線一つで、金縛りに遭ったかのように足が床に縫い止められている。
(な、なんだこの女は……!? 俺の言葉など、まるで羽虫の羽音でも聞くかのように聞き流している……! 動じていないのではない。俺という存在そのものが、この御方の視界には『取るに足らない路傍の石』程度にしか映っていないというのか……!?)
マティアスは傲慢さを咎めに来たはずだった。
しかし、目の前にいるのは「ただの傲慢な令嬢」などでは断じてなかった。
何者にも縛られず、何者にも脅かされず、世界の理の外側に一人で君臨しているかのような、圧倒的な超越者の風格。
彼女の背後に、実体化した魔力の大蛇がとぐろを巻いて自分を見下ろしているかのような、息苦しいほどのプレッシャーがサロンを満たしていた。
(この俺が……怯えているのか? 一言の反論すら口にしない、この小娘に……!?)
マティアスの額から、タラリと冷や汗が一筋流れ落ちた。
甲冑の内側が、嫌な汗でじっとりと濡れていく。
彼がどれほど国家の法を説こうと、正論を並べ立てようと、エレオノーラの瞳はただ冷酷に、こう告げていた。
『貴様の矮小な正義など、私の前では一握りの塵にも等しい』――と。
***
「……ねえ、クリストフ」
氷の刃のような声が、沈黙のサロンに響いた。
マティアスがハッと我に返ると、エレオノーラが視線すら動かさずに、部屋の隅で震えていた執事に呼びかけていた。
「は、はひっ! 何でございましょうか、お嬢様!」
「この男の口を塞ぐ方法を考えていたのだけれど」
「お、お嬢様、騎士団長様を物理的に消すような真似はご勘弁を……!」
「違うわよ。面倒くさいのよ、この男の長話が。……ねえ、うちの地下の物置に、何年も放置されてる『邪魔なガラクタ』があったでしょう? ほら、去年の大掃除の時に、邪魔だから捨てろって私が言ったやつ」
「は……? 邪魔なガラクタ、でございますか……? あ、まさか……あの、奥の保管庫の隅に転がっている、異様に重いだけの……?」
「そう、それよ」
エレオノーラは深くため息をつき、ようやくマティアスへと視線を向けた。
その瞳には、隠しきれない軽蔑と、吐き気を催すほどの退屈さがアリアリと浮かんでいた。
「持ってきなさい、今すぐ。……このうるさい番犬にくれてやって、お城へ追い返すわよ」
サロンの空気が、再び大きく揺らごうとしていた。
マティアスは息を乱しながら、公爵令嬢が言った「ガラクタ」という言葉の真意を測りかねて、ただ拳を固く握りしめることしかできなかったのである。




