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第6話:賞味期限が切れる前にばら撒いたら、なぜか神の慈愛と拝まれる

「……もう無理。一ミリも入らない。見たくもないし、匂いすら嗅ぎたくないわ……」


買い占め劇から三日後の午後。

私はサロンの長椅子の上に、まるで打ち上げられたトドのように腹這いになって力なく呻いていた。

テーブルの上に並んでいるのは、専属パティシエが魂を削って焼き上げたのであろう、艶やかなグラサージュが輝く最高級チョコレートケーキと、粉糖が美しく降り積もった林檎のタルト。

本来なら貴族令嬢たちが狂喜乱舞して群がる至高の逸品だ。

だが、今の私の目には、それがただの「純度百パーセントの糖分爆弾」にしか見えなかった。


「お嬢様、本日の三時のおやつでございます。南方の最高級カカオと、買い占めていただいた特級白砂糖を惜しみなく使用したショコラ・オ・レも淹れてまいりました」

「下げて……リディエ、お願いだからそれを私の視界から一秒でも早く撤去してちょうだい……」

「お残しになられますか? まだ一口もお召し上がりになっておりませんが」

「食べられるわけがないでしょう! ここ三日間、朝食にフレンチトースト、昼食にパンケーキ、おやつにパフェ、夕食のデザートに巨大ホールケーキよ!? 舌の感覚が麻痺して、口の中がずっと砂糖水で満たされている気分なのよ! 今の私が求めているのは甘味じゃない、塩気よ! 熱いお茶と、大根の浅漬けと、塩鮭のアラ汁を胃袋に流し込みたいのよぉぉぉ!!」


魂の底からの叫びだった。

前世の社畜時代、徹夜明けに無性にジャンクなラーメンや塩辛い牛丼を欲した、あの胃袋の記憶が猛烈な勢いで蘇っていた。

人間、極端な偏食は身を滅ぼす。

公爵令嬢の華奢な胃腸は、連日の高カロリー糖分地獄に完全に白旗を掲げていた。私の血管には今、血の代わりにメイプルシロップが流れているのではないかという錯覚すら覚える。


「……はあ、浅漬けが恋しいわ……」

「アサヅケ……? 東方の発酵保存食の類でございますか? 必要であれば、商人に手配させますが」

「いいの、ただの独り言よ……。それよりリディエ、例のものはどうなったの? 裏の倉庫の様子は?」


私が重い上体をなんとか起こして尋ねると、リディエは一切の感情を交えずに、窓の外へと視線を向けた。


「東区の第一から第四保管庫まで、天井に届かんばかりの小麦袋と砂糖樽で満杯となっております。先ほど確認いたしましたところ、換気窓の周囲にほんのわずかですが、湿気の兆候が見受けられました」

「湿気ですって!?」


その単語を聞いた瞬間、私の背筋にツララを差し込まれたような悪寒が走った。

ガバッと跳ね起き、ガウンを羽織って立ち上がる。


「ちょっと、案内しなさい! 今すぐ見に行くわよ!」


***


公爵邸の敷地裏、石造りの巨大な穀物倉庫に足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。

ひんやりとした倉庫内には、麻袋特有の青臭い繊維の匂いと、甘ったるい砂糖の香りが充満していた。

見渡す限り、小麦。

どこを向いても、砂糖。

人の背丈の何倍もの高さまで積み上げられた麻袋の山は、もはや一つの巨大な山脈を形成している。


「な、なんという量……」


買い占めを命じた張本人である私自身が、その圧倒的な質量にドン引きしていた。

公爵家の財力に任せて「王都中の在庫を全部買いなさい」と指示した結果がこれだ。

前世の感覚で言えば、アマゾンの巨大物流センターのワンフロアを、個人のポケットマネーで丸ごと買い取ってしまったような状態である。


私は積み上がった麻袋の一つに触れた。

指先から伝わってくるのは、ひんやりとした冷気と……ほんのわずかな、嫌な湿り気。


「……まずいわ」


私の脳裏に、前世の苦い記憶がフラッシュバックした。

ブラック企業に勤めていた頃、食品関係の部署へヘルプで駆り出された際、過剰発注によって倉庫で山積みになり、梅雨の湿気でカビを発生させて数千万円分の商品を丸ごと廃棄処分にした、あの地獄の棚卸し作業――!

上司の怒号、始末書の山、漂うカビ臭、そして産業廃棄物業者への目の飛び出るような処分費用の支払い。


「このまま梅雨時や初夏の湿気に晒されたら……カビが生えるわ! 虫が湧くわ! 最高級小麦が、ただの産業廃棄物に化けてしまうわよ!!」


前世で培われた貧乏性と在庫管理トラウマが、公爵令嬢のプライドを粉々に打ち砕いて警報を鳴らし始めた。

食べ物を無駄にするのは罪悪感で胃が痛む。

何より、これだけの量を腐らせたら、悪役令嬢として追放される以前に、腐敗臭で屋敷周辺の環境が破壊されて私の安眠が脅かされる!


「お、お嬢様ァァァッ!!」


倉庫の入り口から、息を切らした筆頭執事のクリストフが駆け込んできた。

手には分厚い帳簿と、もはや体の一部と化した胃薬の小瓶が握られている。


「このような粉埃の舞う場所へお出ましになるとは! お召し物が汚れてしまいますぞ!」

「クリストフ、ちょうどいいところに来たわ。この倉庫の小麦と砂糖、全部で何トンあるの?」

「は、はあ……? 王都の全問屋と入港船から買い取った分を合わせますと、小麦がおよそ三千トン、白砂糖が八百トンに達しております……。お嬢様、専属のパティシエたちが泣きながら『一生かけても使い切れません』と訴え出ておりますぞ! この維持費と倉庫の魔導結界の維持だけでも、毎日莫大な金が吹き飛んでおります!」

「でしょうね! 見ればわかるわよ!」


私は腰に手を当て、積み上がった小麦の山を見上げた。

当初の予定では、これを独占することで市場を混乱させ、「悪徳買い占め令嬢」として民衆から恨まれ、貴族院から弾劾されるはずだった。

だが、現実はどうだ。

買い占めてから三日。待てど暮らせど、暴動が起きたという知らせも、国王からの呼び出しも届かない。

届いたのは、私自身の胸焼けと、カビの発生というリアルな衛生上の危機だけだ。


(このまま倉庫に眠らせておいても、百害あって一利なしだわ。腐らせて捨てるくらいなら……いっそのこと、全部処分してしまえばいいのよ!)


悪役令嬢の脳細胞が、前世の「訳あり在庫処分セール」のロジックを叩き出した。


「クリストフ」

「は、はひっ!」

「この小麦と砂糖、今すぐ全部放出しなさい」

「……え?」


クリストフが、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で瞬きをした。


「ほ、放出……と仰いますと、他国の商人に転売なさるので? しかし、今から買い手を探すとなると、足元を見られて買い叩かれますぞ」

「転売なんて悠長なこと言ってられないわ。下町の市場よ。王都の広場にテントを建てて、今すぐ庶民たちに売り捌きなさい」

「し、しかし、価格はどうなさいますか? これらは全て最高級品、市場価格のままでは庶民には到底手が出ませんが……」

「原価の十分の一よ!」

「……は???」


クリストフの顎が外れんばかりに落ちた。


「お、お嬢様……? 今、何と……?」

「耳が遠くなったのかしら? 仕入れ値の十分の一の値段で投げ売りなさいって言ったのよ! 一人あたりの購入制限も適当につけて、現金を持っていない奴にはツケでも物々交換でもいいから、とにかく日没までにこの倉庫を半分以上空にしなさい!」

「じゅ、十分の一ィィィッ!? 大赤字ですぞ!? 公爵家の金庫から数億ラングルが煙のように消えてなくなります!!」

「うるさいわね! カビが生えてゴミになるよりマシでしょうが! あと、小麦粉だけ売っても庶民はパンを焼く窯を持っていない家もあるでしょうから、公爵家の厨房と王都の提携ベーカリーを総動員しなさい!」

「ベーカリーを……!?」

「小麦と砂糖を湯水のように使って、巨大な白パンを何万個でも焼きまくるのよ! そしてそれを、広場に並んだ全員に『無料で』タダ配りなさい! 炊き出しよ、炊き出し!! お腹いっぱいパンを食わせて、とっとと在庫を胃袋の中に消滅させなさい!!」


私は我ながら完璧な悪徳ムーブにニヤリと笑った。


(ふふん、どうかしら! 市場価格を完全に破壊する超絶ダンピングよ! 正規の値段で小麦を売ろうとしていた商人たちは商売あがったりで大激怒するはずだし、貴族たちからは『公爵家の財力に飽かせて市場経済を破壊した狂人』として糾弾されるに違いないわ! しかもタダでパンを配るなんて、施しを装ったただの在庫処分! 早く私を『経済を混乱させた罪』で国外追放しなさい!)


「さあクリストフ、突っ立ってないで走りなさい! 日没までにパンを配りきれなかったら、あなたの今夜の夕食を全部この生小麦粉にしてあげるわよ!」

「ひ、ひいいいっ! 直ちに手配いたしますううううっ!!」


クリストフは悲鳴を上げながら、転がるように倉庫を飛び出していった。

ふう、と私は額の汗を拭う。

これでいい。

不良在庫は一掃され、市場は大混乱に陥り、私の悪名は「経済クラッシャー」として歴史に刻まれる。

すべては計算通り。完璧な幕引きだ。


――しかし。

前世の社畜OLの常識は、この異世界の「切迫した現実」を何一つ理解していなかったのである。


***


その日の昼下がり。王都の中央大広場は、異様な緊張感に包まれていた。


「おい……本当なのかよ、その話」


仕立屋の親方である平民の男が、隣に立つパン屋の店主に小声で尋ねた。

広場には、すでに何千人もの市民が押し寄せ、長蛇の列を作っていた。誰もが不安げに眉をひそめ、ざわざわと落ち着かない様子で周囲を見回している。


「ああ、本当だ……。ここ数日、王都中の穀物問屋から小麦と砂糖が忽然と消え失せていただろう? 裏では『隣国の商人が買い占めて国外へ持ち去った』とか『もうすぐ大飢饉が起きてパンの値段が十倍になる』って噂が飛び交ってたんだ」


パン屋の店主は、脂汗の浮かんだ額を拭いながら声を震わせた。


「俺の店も、粉の仕入れが完全にストップして、明日から店を畳むしかないって絶望してたとこだったんだよ……。子どもたちに食わせる飯すらなくなるって、カミさんと泣いてたんだ……」


王都の庶民たちは、見えない恐怖に怯えていたのだ。

カシアン率いる帝国の特務機関が仕掛けた「買い占め工作」の噂は、すでに市井の隅々にまで不穏な影を落としていた。

食糧が消える。物価が高騰する。飢え死にするかもしれない――そんな絶望の暗雲が、王都全域を覆い尽くそうとしていたまさにその時。


――ファンファーレの音が、高らかに鳴り響いた。


広場の中央、設営された巨大な木製テントの前に、グランヴェル筆頭公爵家の紋章旗を掲げた馬車が次々と滑り込んできたのだ。

馬車の荷台から降ろされたのは、山のような麻袋と、樽、そして――もうもうと白い湯気を立ち上らせる、信じられないほどの甘く香ばしい匂いを放つ巨大な木箱の山だった。


「み、皆様、お静かに……!!」


壇上に上がったのは、仕立ての良い燕尾服を着た、やつれ気味の中年男性――公爵家筆頭執事のクリストフだった。

彼は拡声用の魔導具を手に、震える声で告げた。


「これより……当グランヴェル公爵家のご令嬢、エレオノーラ様のご意志に基づき、特級小麦および純白砂糖の特別頒布を開始いたします! 価格は……通常の市場価格の、十分の一といたします!」


――ざわっ……!

広場を埋め尽くしていた数千人の群衆が、一瞬、集団で幻聴でも聞いたかのように硬直した。


「じゅ、十分の一……? おい、聞き間違いか? あの最高級の白小麦が、くずライ麦の半値以下で買えるってのか……!?」

「さらに!」


クリストフの声が、広場全体に響き渡る。


「今すぐ食べるものに困っておられる方々のために、王都のベーカリーの協力のもと、焼き立ての特製白パンをご用意いたしました! こちらは……エレオノーラ様からの施しとして、お一人様につき二個まで、無償にて配布いたします!!」


ドサリ、と木箱の蓋が開けられた。

そこに詰まっていたのは、普段なら貴族の食卓にしか並ばない、純白の小麦とバター、そして砂糖を贅沢に使った、黄金色に輝くふわふわの白パンだった。


「う……うわああああああああっっっ!!」


地鳴りのような歓声が爆発した。

押し寄せる人々。しかし、公爵家の私設騎士たちが整然と列を誘導し、混乱は一切起きない。

先頭に並んでいた痩せ細った母親と小さな少女に、湯気を立てる温かいパンが手渡された。

少女が恐る恐るパンをちぎり、口の中へ放り込む。


「……あまい。お母ちゃん、すっごく甘くて、ふわふわしてる……!」

「ああ……神様……エレオノーラ様……!」


母親はパンを胸に抱きしめ、その場に崩れ落ちて涙を流した。

パン屋の店主も、原価の十分の一で手に入れた小麦袋を抱きしめ、号泣していた。


「助かった……! これで店が続けられる! 家族を飢えさせずに済むんだ……!!」


群衆の中で、誰かが叫んだ。


「聞いたか!? 公爵令嬢様はな、悪徳商人どもが小麦を買い占めて国外へ横流ししようとしていたのを察知して、自腹を切って全在庫を買い戻してくださったんだそうだ!」

「なんてこった……! 商人どもの売り惜しみから、俺たちを守るために……!?」

「それだけじゃないぞ! ご自身が買い取った小麦を、損を承知で俺たちに分け与えてくださったんだ! タダ同然の値段で! パンまで焼いて配ってくださって……!」

「あのお方は……傲慢な悪女なんかじゃない! 民の苦しみを誰よりも理解し、身銭を切って国を救ってくださる、本物の慈愛の聖女様だ!!」


「エレオノーラ様!!」

「エレオノーラ様万歳!!」

「慈愛の聖女様、万歳ィィィィィッッ!!」


広場から湧き上がった熱狂の大合唱は、王都の空を突き破らんばかりの勢いで、貴族街へと轟いていったのである。


***


「……ん?」


公爵邸の自室。

胸焼けがようやく治まり、ベッドの上で優雅に紅茶を飲んでいた私は、ふと耳を澄ませた。

遠くから、何か地鳴りのような音が聞こえてくる。


「……ゴオオオオオオオ……」


窓ガラスがビリビリと微かに振動している。

なんだろう。王都で局地的な地震でも起きたのかしら?


「リディエ、外が随分と騒がしいけれど、何事かしら?」

「広場での小麦の放出、および炊き出しが完了したようでございます」


リディエが静かにカーテンを開けた。

バルコニーに出て、王都の中心部を見下ろした瞬間――私は持っていたティーカップを取り落としそうになった。


「エレオノーラ様万歳!!」

「我らの聖女様!!」

「グランヴェル公爵家に栄光あれぇぇぇぇっっ!!」


風に乗って運ばれてきたのは、何万人もの人間が喉を張り裂けんばかりに叫ぶ、割れんばかりの称賛と熱狂の嵐だった。

遠くに見える広場では、人々が歓喜の涙を流しながら抱き合い、公爵家の紋章旗に向かって深々と平伏しているのが見える。


「……は?」


私の口から、間抜け極まりない声が漏れた。

えっ?

何?

なんで?


「ち、ちょっと待ちなさいよリディエ! なんで万歳三唱されてるのよ!? 『市場を荒らした悪徳令嬢を引きずり下ろせ!』って暴動が起きてるんじゃないの!?」

「いえ。市民の皆様は、悪徳商人の買い占めによる食糧危機を未然に防ぎ、私財を投げ打って安値で穀物を恵んでくださったお嬢様の慈悲深さに、魂の底から感銘を受けておられるようでございます」

「はあぁぁぁぁぁぁっっ!?」


全身の血の気がサァーッと引いていく。

悪徳商人? 買い占めによる食糧危機?

違う、買い占めたのは私だ! 私利私欲でケーキを食べたかっただけの私だ!!


「な、なんで!? 原価の十分の一で投げ売りしたのよ!? 市場経済をメチャクチャにする暴挙じゃないの!?」

「商売敵を叩き潰すためではなく、困窮する民を救うための義挙であると、商人ギルドも涙を流して感謝状を届けてまいりました。お嬢様の神がかり的な経済防衛策に、王都中の商人が平伏しております」

「感謝状!? いらない! そんな紙切れ一枚も欲しくない!!」


私は頭を抱えてバルコニーに崩れ落ちた。

嘘でしょ。

悪評を稼ぐどころか、王都の平民全員から「神の慈愛を持つ聖女」として崇め奉られてしまっている。

これじゃあ、王太子だけじゃなく、民衆からの支持率まで百パーセントになっちゃったじゃないの!

こんな状態でどうやって婚約破棄されるの!? どうやって国外追放されるのよ!?


「嫌よ……! こんなの私の計画と全然違う!! 私はただの強欲な悪役令嬢なのにぃぃぃぃぃっっ!!」


王都中に響き渡る「エレオノーラ様万歳!」の怒涛の大歓声に包まれながら、私は自らの完璧すぎる(はずだった)悪行の完全な裏目に、ただただ絶望の涙を流すしかなかった。

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