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第5話:買い占めた倉庫の奥で、隣国の闇商人が頭を抱えていた

サクサク、パリパリ。

フォークの先が幾重にも折り重なったパイ生地を崩すたび、香ばしいバターの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。

間からとろりと溢れ出すのは、濃厚なバニラビーンズの黒い粒がたっぷりと散りばめられた、黄金色のカスタードクリーム。その上には、ルビーのように艶やかな木苺が惜しげもなく敷き詰められていた。


「……んん〜〜っ! 素晴らしいわ! このミルフィーユ、生地の焼き加減が神がかり的じゃない!」


私は自室の特注ソファの上で身悶えしながら、銀のフォークを天にかざした。

現在、私の目の前にある大理石のローテーブルの上は、王都の一流パティスリーが集結したかのような夢の甘味博覧会と化していた。

木苺のミルフィーユ、ピスタチオとショコラのオペラ、メレンゲが雲のように泡立つレモンタルト、そして中央にそびえ立つのは、純白の生クリームで優美なフリルが描かれた三段重ねのショートケーキ。

どれもこれも、王都中の名だたる菓子職人たちが、グランヴェル公爵家から提示された破格の報酬に目を輝かせて焼き上げた、至高の芸術品である。


「お気に召していただけて光栄でございます。職人たちも『公爵令嬢様のために腕を振るえるならば』と、工房に泊まり込みで砂糖細工を仕上げておりました」


傍らに控えるリディエが、氷のように整った顔立ちを一切崩さずに、温かいアールグレイを銀のポットから注いでくれる。カップから立ち上るベルガモットの清々しい香りが、甘味で満たされた口内を上品に洗い流してくれた。


「ふふ……ふふふふ。いいわ、実によいわリディエ!」


私は紅茶を一口すすり、扇子をパチンと鳴らして窓の外を見下ろした。

そこには、公爵邸の裏手に広がる広大な敷地――そこに連なる、石造りの巨大な穀物保管庫が並んでいる。

今やあの倉庫群には、王都中の問屋から根こそぎ買い集められた最高級小麦粉の麻袋が天井まで積み上がり、樽詰めにされた純白の最高級砂糖が隙間なく敷き詰められているのだ。


「見て御覧なさい、あのそびえ立つ倉庫の威容を! 王都の市場から小麦と砂糖が消え去ったのよ! 今頃、下町のパン屋やカフェは小麦粉の仕入れができずに頭を抱え、街ゆく市民たちは『パンが焼けない!』『お菓子が買えない!』とパニックになっているはずだわ!」


私は立ち上がり、悪役令嬢特有の「高慢ちきな高笑い」を部屋いっぱいに響かせた。


「おほほほほ! パンがなければお菓子を食べればいい? いいえ、お菓子用の砂糖も小麦も、このエレオノーラが全部独占してやったわ! 民の生活など知ったことか! 私が毎日死ぬほど甘いタルトとパンケーキを貪るために、王都の流通を牛耳ってやったのよ! これぞ特権階級! これぞ希代の悪女の所業だわ!!」


完璧だ。

前世の社畜時代、私は理不尽な経営陣の鶴の一声で、現場の資材がすべて別プロジェクトへ横取りされ、現場が阿鼻叫喚の地獄絵図と化した瞬間を何度も目撃してきた。

供給を止める。生活の根幹を揺るがす。

これほど確実に、かつ短時間で大衆の怒りと怨嗟を一身に集める方法が他にあるだろうか?


「どうかしらリディエ? もう街中では、私の悪評が燎原の火のごとく燃え広がっているかしら? 『あの強欲な公爵令嬢を引きずり下ろせ!』『市場を私物化する女を王妃にするな!』って、民衆が暴動の準備を始めていてもおかしくないわよね!?」


私が期待に満ちた目で振り返ると、リディエはすっと視線を伏せ、手元の連絡帳をめくった。


「市場の混乱につきましては、後ほどクリストフが報告に上がることになっております。ただ……お嬢様」

「何かしら?」

「生クリームの消費期限は極めて短うございます。本日中に召し上がらなければ、風味を損なうとのこと。こちらの特大エクレアも、冷たいうちにお召し上がりください」

「もちろんよ! 悪行の成果を無駄にしてなるものですか! 胃袋に詰め込めるだけ詰め込んでやるわ!」


私は再びフォークを握り直した。

怒り狂った民衆が公爵邸の門前に押し寄せ、貴族院が臨時招集され、国王から「エレオノーラ、そなたの横暴は目に余る!」と弾劾状が届くまで、おそらくあと数日。

それまでの間、私はこの甘味の山に埋もれて、悪役令嬢としての勝利の美酒ならぬ美ケーキを味わい尽くすのだ。


――しかし。

私が「民衆の怨嗟」を思い描いてエクレアに齧り付いていたまさにその時。

王都の港湾地区、潮風と魚の生臭さが漂う第十四埠頭の奥深くでは、私の想像とは百八十度異なる「真の阿鼻叫喚」が吹き荒れていたのである。


***


「……おい。嘘だと言え」


第十四埠頭の薄暗い倉庫の片隅。

ランプの微かな灯りに照らされた空間で、カシアン・オルロフは普段の紳士然とした仮面を完全に剥ぎ取られ、鬼気迫る形相で部下の胸倉を掴み上げていた。

トレードマークの銀縁眼鏡は斜めに歪み、怜悧な灰色の瞳は血走り、額には青筋がくっきりと浮き出ている。


「も、申し訳ございません、オルロフ会頭……! しかし、事実なのです! 今朝、臨海部の第二倉庫、第七倉庫、そして王都中央市場の地下集積所に保管されていた小麦と砂糖の現物を引き取りに向かったのですが……すでに全て、搬出された後でした!」

「誰が……誰が動かした!? あの在庫は我が商会が裏工作員を通じて先払いの手付金を打ち、今週末の夜間に国外へ密輸船で運び出す契約になっていたはずだぞ!!」

「それが……問屋の元締めどもが、全員口を揃えてこう言うのです。『違約金なら倍額払う。それ以上の金額を、即金の一括で積まれたのだからどうしようもない』と……!」


ドサリと、床に無数の契約破棄通知書がぶち撒けられた。

そこに押されていたのは、王国のあらゆる商人が畏怖し、決して逆らうことのできない紋章――金糸で刺繍された、グランヴェル筆頭公爵家の「覇竜と百合」の刻印だった。


「グランヴェル……エレオノーラ・フォン・グランヴェル……ッ!!」


カシアンは部下を突き飛ばし、自らの頭を両手で抱え込んだ。

胃の奥底から酸っぱい液体がせり上がってくる。吐き気と冷や汗が止まらない。


カシアンが背負っていた任務は、隣国バルディニア帝国の命運を握る極秘作戦だった。

帝国軍部は、先日の夜会における王太子暗殺作戦を「陽動」と位置付け、本命としてこの「経済兵糧攻め作戦」を進めていたのだ。

王国内の流通網に密かに潜入させたいくつものダミー商会を使い、半年以上の歳月をかけて、王都の生命線である高級小麦と砂糖を買い集めていた。

王都の富裕層や貴族が消費する高純度の小麦と砂糖は、単なる嗜好品ではない。市場の価格相場の指標であり、これらが枯渇すれば瞬く間に平民用の低級小麦の買い占めパニックへと連鎖する。

今週末、すべての在庫を帝国の武装密輸船に積み込み、一気に国外へと持ち去る手はずだった。


市場から粉と砂糖が消滅する。

食糧価格は十倍に跳ね上がる。

貴族は平民から食糧を奪い、平民は飢えと絶望から暴徒と化す。

そこへ帝国の扇動者を投入し、「無能な王家を倒せ!」と王都全域で大規模な暴動を起こさせる――。

軍隊を一歩も動かすことなく、王国の心臓部を内部崩壊させる、完璧にして冷酷なシナリオだったのだ。


その作戦のために、帝国本国から投じられた軍資金は、国家予算規模の天文学的数字。

カシアンはその全額を手付金と裏工作費用として、各問屋や港湾関係者の買収に注ぎ込んでいた。


だが――。


「手付金の倍額返しだと……? そんな……そんな莫大な違約金をものともせず、全問屋の全在庫を、即金の現ナマで買い叩いただと……!?」


カシアンの指先がカタカタと震える。

商売の常識ではあり得ない。

どれほどの大商人であろうと、流通の全在庫を丸ごと買い取るような真似をすれば、資金繰りがショートして一瞬で破産する。だからこそ、カシアンも時間をかけて少しずつ手付金を打ち、外堀を埋めていたのだ。

だが、相手は商人ではなかった。

建国以来の富を蓄え、王家すら凌ぐ財政基盤を誇る、グランヴェル筆頭公爵家。

そしてその金庫の鍵を握る、エレオノーラという名の規格外の怪物令嬢だった。


「会頭……! 本国への定期連絡の時間が迫っております! 作戦の進捗を、なんと報告すれば……!?」

「報告だと……!? 言えるわけがないだろうがッ!!」


カシアンは怒声を上げ、近くにあった木箱を蹴り飛ばした。


「『軍資金を全額投入した直後、公爵令嬢が気まぐれに全財力を叩きつけてきて、物資をすべて奪われました』とでも言えというのか!? 作戦は失敗、投入した工作資金は違約金という形で問屋の懐に入り、我が商会には一粒の小麦も、一握りの砂糖も残っていないのだぞ!!」


完全なる敗北。

それも、手も足も出ない、圧倒的な資本の暴力による圧殺だった。

カシアンは呼吸を乱しながら、乱れた髪を乱暴に掻き上げた。

冷徹な頭脳が、必死に現状を分析しようと回転を始める。


(……待て。偶然か? いや、あり得ない……!)


カシアンの背筋を、ツララで撫でられたような冷たい悪寒が駆け上がった。


(あの女……夜会の暗殺をあらかじめ察知し、自らドタキャンすることで近衛の配置を変えさせて未然に防いでみせた。あの神がかり的な一手を見せた直後に、この買い占めだぞ……!? これが偶然の気まぐれであるはずがない!)


カシアンの脳裏に、エレオノーラの真意を探るための思考の糸が、猛烈な勢いで張り巡らされていく。


(なぜ、小麦だけではなく『砂糖』まで同時に買い占めたのだ……? そうだ、砂糖だ! 我が帝国が狙っていたのは、単なる飢饉ではない! 砂糖という精神的支柱となる嗜好品を奪うことで、民衆の不安と不満を極限まで煽り、暴動のエネルギーを最大化させようとしていた……! エレオノーラはその心理的誘導の罠まで完全に看破していたのだ!)


さらに、カシアンの深読みは加速する。


(しかも、彼女は王家の公金を一銭も使っていない! 王宮の財務官や議会を通せば、審議に何週間もかかり、情報が漏洩して我が帝国の工作員に察知される! だからこそ……彼女は自らの公爵家の個人資産を、何の躊躇もなく叩きつけたのだ! 『我が家の金で全て買い取れば、誰の許可も要らない』……! 議会を無視した電撃的な即金買収! なんという果断さ、なんという冷徹な政治的嗅覚だ……!!)


「ひ、ひとりの小娘の器じゃない……」


カシアンの口から、乾いた呻きが漏れた。

十九歳の公爵令嬢。社交界では「我儘で傲慢な悪役令嬢」と噂されていた女。

だが、その実態はどうだ。

帝国の特務部隊が数ヶ月かけて築き上げた国家転覆計画の急所を、たった一言の命令と、圧倒的な財力の一撃で粉々に粉砕してみせた。

それも、自らが「お菓子を腹一杯食べたいだけの我儘な悪女」という完璧なピエロを演じることで、世間に帝国の陰謀の存在すら悟らせず、民にパニックを起こさせることもなく、水面下でテロを完全無力化させたのだ。


「……あのお方には、最初から全てが見えていたのか」


カシアンはへたりと床に膝をついた。

勝てるわけがない。

武力でも、知略でも、資金力でも。

あの深紅の瞳に見つめられた瞬間、自分たちの浅はかな企みなど、手のひらの上で踊る蟻のように見透かされていたのだ。


「会頭……どうなさいますか? 公爵家の倉庫を襲撃し、火を放って小麦を燃やしますか……? それとも、エレオノーラ令嬢の暗殺を……」

「馬鹿者がッ!!」


カシアンは即座に部下を一喝した。


「公爵家の倉庫に近づいてみろ! あそこには公爵家の私設騎士団だけでなく、建国以来の古代防御結界が三重に張り巡らされている! ネズミ一匹入り込めはせんわ! それに……あの怪物を暗殺だと? 夜会の暗殺計画を一目で見抜いた相手に、そんな小細工が通じると思うか!? 返り討ちに遭って我が商会の正体が王家に露見するのがオチだ!」


カシアンは震える手で眼鏡をかけ直した。

レンズの奥の瞳には、かつての冷酷な野心は微塵もなく、絶対的な強者に対する底知れぬ恐怖と、奇妙な戦慄が宿っていた。


「……手を引くぞ」

「えっ……? し、しかし本国への申し開きが……!」

「黙れ! これ以上の敵対は、我が商会の全滅……いや、バルディニア帝国の破滅を意味する! あの女は、我が国の工作資金をすべて奪い、武器を奪い、我々の喉元に刃を突きつけた上で、あえて泳がせているのだ……! 『これ以上無駄な足掻きをするな』という、無言の警告だ……!!」


カシアンは立ち上がり、深く息を吐き出した。

敵として戦うには、相手があまりにも巨大すぎた。

ならば――生き残る道は、ただ一つ。


「……オルロフ商会は、これより方針を転換する。エレオノーラ・フォン・グランヴェル……あの御方の動向を徹底的に監視し、決して逆らうな。必要とあれば……我が商会の全権を、あの御方の足元へ差し出す準備をしておけ」

「か、会頭……!? 帝国を裏切るおつもりですか!?」

「生き残るためだ!! あの悪魔のような聖女の機嫌を損ねたら、この国どころか大陸ごと消し飛ばされかねんぞ……!!」


薄暗い倉庫に、カシアンの悲痛な叫びが響き渡った。


***


その頃。

公爵邸のサロンでは。


「……うぷっ」


私はソファの上で、お腹をさすりながら小さくゲップを噛み殺していた。

目の前のテーブルには、無惨にもクリームを削り取られたショートケーキの残骸と、一口だけかじられたタルトの山。


「……苦しい。さすがに、生クリームとカスタードのダブルパンチは胃にクるわね……」


前世の社畜時代、油っこい夜食で鍛えられたはずの胃袋も、公爵令嬢の華奢な肉体には勝てなかったらしい。完全に糖分過多による胸焼けを起こしていた。


「お嬢様、胃薬をお持ちいたしましょうか」

「……ううん、大丈夫よリディエ。それより、クリストフはまだかしら? そろそろ市場の暴動の知らせを持って飛び込んでくる頃だと思うのだけれど」


私は胸を押さえながら、期待に満ちた目でサロンの扉を見つめた。

もう夕方だ。

王都中から小麦と砂糖が消えて丸一日。

今頃、怒り狂った市民たちが「悪徳令嬢エレオノーラを出せ!」とプラカードを掲げてデモ行進を始めているはずだ。

そして国王陛下から「直ちに買い占めた物資を放出し、辺境へ謹慎せよ!」という追放命令が下される。

そうすれば、私はこの甘ったるいお菓子地獄から解放され、南の島で爽やかな海風を浴びながら、新鮮な魚とココナッツを食べて暮らせるのだ。


「早く来なさい、クリストフ……! 私の悪名が王都を覆い尽くしたという、最高の凶報を聞かせてちょうだい……!」


胸焼けに耐えながら、私は満面の笑みで扉が開くのを待ちわびていた。

――まさかこの数日後、倉庫に眠る大量の小麦が、さらなる「大いなる勘違い」を引き起こし、私を救国の聖女へと押し上げる決定打になろうとは、夢にも思わずに。

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