第59話:守護聖女専用離宮の日常 〜狂信者たちによる至高の過保護介護〜
――チロリン、チロリン、チロリロリ〜ン……。
純銀とクリスタルガラスで精巧に作られた呼び鈴が、澄み切った微小な音色を鳴り響かせた。
ベッドのヘッドボードのすぐ脇、指先をわずか三センチ横へずらすだけで触れられる位置に設置されたその特注のベルを、私はまぶたを半分閉じたまま、小指の先でチョンとつついただけだった。
腕を振り上げる筋力すら使っていない。
上半身を起こすカロリーすら消費していない。
時刻は、正午を大きく回り、日差しが最も暖かく傾く午後一時半。
前回の悟り――「よく考えたら、追放されて未開の南の島で開拓作業をするより、国内にいながら国家予算の一割を掠め取り、公務を全免除されて周囲に養ってもらうほうが、前世の夢見た究極の不労所得ニート環境そのものじゃない?」という宇宙の真理に開眼して以来、私の生活態度は完全にリミッターが吹き飛んでいた。
遠慮? 捨てたわ。
羞恥心? 粗大ゴミの日に出した。
悪徳令嬢としての世間体? 勝手に『終身名誉守護聖女』などという現人神に祭り上げられたのだから、神様らしく神殿の奥でふんぞり返って怠惰の限りを貪り尽くすのが、むしろ国家への誠意というものではないか!
前世の社畜時代、私は毎朝六時に鳴り響くスマホのアラームの轟音に心臓を抉られ、満員電車に胃液を吐きそうになりながら揺られ、オフィスに着けば「おい、昨日の日報はどうした!」と怒鳴られ続けていたのだ。
あの地獄のような苦行に比べれば、今、私が享受しているこの生活は、前世で徳を積みすぎた人間に対する天界からのボーナスステージに違いない。
「……ふあぁぁぁ。さあ、今日も全力で自堕落に生きてやるわよ……」
私が枕に顔を埋めながら小さく呟いた、まさにコンマ五秒後のことだった。
――バァァァァァァァンッッッッ!!!!
主寝室の重厚なマホガニーの観音開き扉が、まるで破城槌で打ち破られたかのような凄まじい勢いで左右に開け放たれた。
「エレオノーラ様ァァァッッッ!!!! お目覚めになられましたのねェェェッッッッ!!!!」
大地を揺るがすような絶叫とともに、ピンク色のエプロンドレスの裾をバタつかせ、弾丸のような猛スピードで滑り込んできたのは――男爵令嬢クロエ・ランカスターだった。
乙女ゲーム本来の健気なヒロイン枠でありながら、高級スイーツの押し付けによって完全に胃袋を掴まれ、王太子そっちのけで私の『専属筆頭お世話係』へとジョブチェンジした狂信の少女。
クロエの両手には、魔法銀で作られた巨大な保温ドームが恭しく捧げ持たれていた。
ベッドサイドへ滑り込むように膝をついた彼女は、パッとドームを開け放つ。
その瞬間――!
――ふわり……ジュワァァァァ……!
主寝室いっぱいに広がったのは、極上の焦がしバターと、最高級バニラビーンズの甘く香ばしい、暴力的なまでの芳香だった。
銀の大皿の上に鎮座していたのは、高さ十センチはあろうかという、雲のようにふっくらと焼き上げられた三段重ねの【王室特製スフレパンケーキ】。
表面には純白の粉糖が粉雪のように振りかけられ、脇には朝摘みの野生の木苺と、黄金色の濃厚なメープルシロップ、そして冷たいクロテッドクリームが惜しげもなく添えられている。皿をわずかに揺らすだけで、パンケーキ全体がプルプルと生まれたての小鹿のように愛らしく震えていた。
「エレオノーラ様! 本日、王宮の筆頭菓子職人が総力を挙げ、お嬢様がお目覚めになるこの瞬間に合わせて焼き上がりをコンマ一秒単位で調整いたしました、至高のスフレパンケーキでございます!!」
クロエは琥珀色の瞳をキラキラと星のように輝かせ、手にした銀のスプーンで、プルプルのパンケーキを一口大にスッと切り分けた。
断面から、フワッと温かな湯気が立ち上る。
そこに冷たいクリームと木苺のソースをたっぷりと絡めると、クロエは満面の、蕩けるような笑顔でスプーンを私の口元へと差し出してきたのだ。
「さあ、お姉様! あ〜〜ん、してくださいまし!!」
「……あ〜〜ん」
私は一切の躊躇なく口を開けた。
ぱくり。
舌の上に載った瞬間――ジュワッ、と泡のように儚く溶けて消えた。
濃厚な卵のコク、焦がしバターの芳醇な塩気、そしてメープルシロップの優しい甘みが、噛む必要すらなく喉の奥へと滑り落ちていく。
「……んん〜〜〜〜っっっ! 美味しい! 歯がいらない! 完全に空気のケーキだわ……!」
「あああっ、喜んでいただけましたわ! お姉様が咀嚼の労力すら使わなくて済むよう、メレンゲの気泡の大きさを極限まで微細化させた甲斐がございました!」
クロエは感涙に咽び泣きながら、次の一口を素早くスプーンに乗せてスタンバイしている。
自分でスプーンを持たない。
腕を上げない。
ただ口を開けているだけで、王室最高峰のスイーツが次々と胃袋へと直送されていく。
前世で風邪を引いた時ですら、ここまで過保護に甘やかされた記憶はない。完全に貴族の皮を被った大型乳幼児の介護状態である。
だが――この部屋に雪崩れ込んできた狂気の介護部隊は、クロエ一人では終わらなかった。
――ズズズズズズズズズズ……ッ!
地響きのような重低音とともに、寝室の床を軋ませて入ってきたのは、油と煤にまみれた作業着姿の青年――天才魔導具師ヒューゴ・ベルンハルトだった。
彼が背中に背負い、両腕で力任せに押し込んできたのは、黒光りする真鍮の配管と、青白く発光する無数の魔導クリスタルが組み込まれた、異様な形状の分厚いマットレスだった。
「どけェッ! 飯の次は、至高の睡眠環境のアップデートだァッッ!!」
「ヒューゴ!? あなた、また何か物騒なものを持ち込んできたの!?」
私がもぐもぐとパンケーキを飲み込みながら叫ぶと、ヒューゴはニヤリと、狂気的な職人の笑みを浮かべて胸をドンと叩いた。
「へへっ、エレオノーラ様! あんたが寝起きに『ちょっと腰がだるい気がする』と独り言を呟いたってリディエから聞いた瞬間、俺の工房の全ラインを停止させて開発したぜ!
名付けて――【局所重力制御式・反重力マッサージマットレス三号(無重力脱力エディション)】だッ!!」
「名前が長すぎるし、反重力って何よ反重力って!!」
「こいつの内部には、古代の浮遊鉱石から抽出した重力相殺術式がビッシリと刻まれてる! あんたが寝そべった瞬間、体圧分散比率が完全なゼロ……すなわち、身体にかかる重力が完全に打ち消され、母の羊水の中に浮かんでいるのと寸分違わぬ完全無重力状態を作り出す!」
ヒューゴはレバーをガチャリと引き倒した。
マットレスの表面が、ボワッと淡いエメラルドグリーンの光を放ち始める。
「さらに! 全身のリンパと経絡を自動探知し、微細なエーテルの振動波によって、あんたが寝返りを打つ際の筋肉の負担をゼロにする!
あんたは寝返りを打つために筋力を使う必要すらねえ! マットレスが勝手にあんたの重心を読み取り、最適な角度へ自動で身体を傾けてくれるんだ!
これでエレオノーラ様の腰の負担は永久にゼロ! 世界で一番甘やかされた、究極の惰眠を味わいなァッッ!!」
「……えっ、何それ。ちょっと凄そうじゃない」
私の食い意地ならぬサボり意地アンテナがピクリと反応した。
クロエに支えられながら、ベッドの隣にセットされたその光るマットレスへと、そろりと身体を預けてみる。
――ふわり。
「……っ!? な、何これぇぇぇぇっ!?」
思わず声が出た。
沈まない。
硬くもない。
まるで、温かい雲海の上にプカプカと浮かんでいるような、完全なる無重力の浮遊感。
体重という概念が、身体から綺麗サッパリ消滅していく。
肩の凝りも、腰の重みも、足のむくみも、一切の負荷が存在しない。
さらに、背中の下からトントン……と、心臓の鼓動と同じリズムで心地よい温かな微振動が伝わってきて、全身の筋肉が強制的にドロドロに融解させられていく。
「……あ、あひぃ……。蕩ける……。私の背骨が完全にゼリーになって溶け落ちるわ……」
「へへっ、大成功だぜ! エレオノーラ様が骨抜きになってやがる!」
ヒューゴは涙を拭ってガッツポーズを決めた。
「あんたの提唱した『至高の怠惰理論』……『人間は動かなくていいなら動くべきではない』という崇高な工学思想を、俺は命を賭けて具現化し続けてみせるぜッ!!」
(いや、そんな崇高な思想提唱してないんだけどね!? でもこのマットレス、前世の高級マッサージチェアの一億倍気持ちいいから文句言えないわ……!)
私が反重力の雲の上で蕩けきっていた――その、瞬間。
――バタタタタタタタタッッッッ!!!!
廊下の彼方から、風を切るような猛烈な足音が響いてきた。
軍靴ではない。
革靴が、大理石の床を摩擦熱で焼き切らんばかりの勢いで疾走してくる音。
ダンッ!
「エレオノーラァァァッッッ!!!!」
肩で激しく息を切らし、ネクタイをわずかに乱し、額に汗を光らせながら寝室へ飛び込んできたのは――他ならぬ王太子、レオポルト・フォン・アウグストだった。
その両腕には、仕立ての良い漆黒のマント。
そして手には、湯気を立てる純銀のティーポットと、眩い白磁のティーカップ。
「レ、レオポルト!? あなた、王宮で執務中じゃなかったの!?」
私の問いに、レオポルトは胸元を押さえ、乱れた呼吸を整えながら、熱烈極まりない碧眼で私を見つめ返した。
「ああ、執務室にいた! だが……今日の分の政務は、すべて片付けてきた!!」
「……は? 今日の分、すべて?」
レオポルトは誇らしげに、しかし狂気的なまでの早口で語り始めた。
「貴族院からの予算審議書四十二件! 地方領主からの陳情書百十五件! 帝国の特使との関税調整会談! 軍部の越冬演習計画の決裁!
本来であれば、丸三日を要するはずだった山のような国家の書類仕事を……俺は今朝午前五時から執務机に張り付き、魔導インクペンを三本へし折りながら、六時間で一文字の誤魔化しも手抜きもなく、完璧に決裁を完了させてきたッ!!」
「ろ、六時間で三日分の国家書類を……!?」
クロエが息を呑んだ。
常軌を逸している。国家の最高権力者である王太子が、超人的な集中力で官僚組織の限界を超越した事務処理をぶちかましてきたのだ。前世のブラック企業で、一ヶ月分の決算処理を一晩で終わらせて血尿を出していたスーパーエース上司すら裸足で逃げ出すレベルの狂乱ワーク。
「なぜそんな無茶苦茶なことをしたのよ!?」
私が呆然として尋ねると、レオポルトは迷うことなく私の前に跪き、銀のポットからカップへと、黄金色に輝く液体を注ぎ入れた。
ふわりと立ち上る、カモミールとラベンダー、そして希少な月光草の甘く爽やかな香り。
「なぜだと……? 決まっているだろう、エレオノーラ」
レオポルトは自らの手で淹れたカップを、私の唇へと優しく差し出してきた。
「俺はあの日、お前に誓ったのだ。公務も政務も、退屈な夜会も書類仕事も、すべて俺が命を削って背負うと!
お前が昼下がりに目覚めるその瞬間に……お前の好む極上のハーブティーを、俺自らの手で淹れて届けるためなら、国家の政務の山など、朝飯前の片手間仕事に過ぎん!!」
「重い!! 愛のカロリーが成層圏を突き破ってるのよ!!」
「さあ、飲んでくれ。君の喉を潤すためだけに、俺は王都中を馬で駆け抜けてきたのだから……」
差し出されたハーブティーを、私は恐る恐る口に含んだ。
……悔しいけれど、絶品だった。
完璧な温度管理、完璧な抽出時間。
スフレパンケーキの甘さをすっきりと洗い流し、反重力マットレスで弛緩した身体の芯へと、じんわりと極上の癒やしが染み渡っていく。
「……美味しいわよ、バカ王子」
「エレオノーラ……! その言葉だけで、俺の命はあと百年保つぞ……ッ!」
レオポルトが感極まって涙ぐんでいる。
パンケーキを食べさせてくれる元ヒロイン。
無重力マッサージベッドを調整する天才職人。
国家の政務を爆速で片付けてお茶を淹れにくる王太子。
完全に、国家の最高首脳陣が私一人をベッドの上で甘やかすためだけの「専属介護チーム」と化していた。
――しかし。
この離宮の過保護体制の狂気は、寝室の中だけに留まっていなかった。
「……ん? ねえ、クロエ。ちょっと窓の外が暗くないかしら?」
ふと視界の端、テラスへと続く大きな窓を見やった私は、違和感を覚えて首を傾げた。
初夏の昼下がりだというのに、庭園の木々のざわめきが一切聞こえない。
それどころか、いつもなら窓辺でチュンチュンと愛らしく鳴いているはずの小鳥たちの囀りが、ただの一羽分すら聞こえてこないのだ。完全なる、不自然なまでの無音。
「ああ、窓の外でございますね! 今、ブラインドを開けさせていただきますわ!」
クロエが駆け寄り、テラスのカーテンをシャッと左右に引き開けた。
そして――そこに広がっていた光景を目撃した瞬間、私の口から、ハーブティーがブフゥッ!と噴き出しそうになった。
「ぶっっっ!? な、何あれぇぇぇぇぇっ!?」
窓の外。
手入れの行き届いた広大な庭園の周囲――離宮を取り囲む全長数キロメートルの外壁沿い。
そこに、白銀の重装甲冑を着た近衛騎士団の兵士たちが、十歩おきにビッシリと隙間なく並んでいた。
その先頭で、大剣を地面に突き立て、仁王立ちの姿勢で空を睨みつけていたのは――近衛騎士団長マティアス・ヴァルデンだった。
マティアスは手にした小型の指向性音響探知魔導具を耳に当て、険しい形相で部下たちへ向けて手信号を送っていた。
『目標、三時の方角、上空五十メートル! アオガラ二羽、コマドリ一羽の編隊を確認!』
『音響波発射! 聖女様の睡眠周波数に干渉する囀りを事前に遮断せよ!』
『周囲五キロメートル圏内の全野鳥に対し、忌避フェロモン散布! 南の森へ迂回させろッ!!』
兵士たちが一斉に魔導弓を構え、鳥たちを傷つけることなく、微弱な風圧と音波によって遠くの森へと追い払っていく。
真顔だった。
歴戦の猛者たちが、国家の存亡を賭けた防衛戦に挑むかのような、命がけの眼差しで【野鳥の鳴き声の規制任務】を遂行していたのだ。
「な……何やってるのよマティアスはァッッ!? 鳥の囀りくらい自由に鳴かせなさいよ!!」
「ご安心ください、エレオノーラ様!」
背後から、すっと澄み切った清涼な声が響いた。
テラスの扉から、純白の神聖法衣の裾を優雅になびかせて入ってきたのは――筆頭神官シルヴァン・エデルシュタインだった。
彼の手には黄金の香炉。
首からは、神殿の最高機密たる十二の神聖宝珠がジャラジャラと下げられている。
「マティアス卿の物理警備は当然の措置。……しかし、外界の脅威は騒音だけではございません。霊的な波長、悪意、そして何より――聖女様の安眠を脅かす【悪夢】の存在です」
シルヴァンは窓の外、離宮の上空を指し示した。
見上げれば――離宮の屋根の四隅に配置された神殿の結界術士数十名が、青白く輝く巨大な三重のドーム状結界を展開していた。
大気中の塵芥が結界に触れた瞬間にパチパチと浄化され、上空の雲すらも心地よい木漏れ日だけを透過させるよう、絶妙なグラデーションで配置されている。
「神殿の全戦力を動員し、離宮全体に二十四時間体制で『神聖精神防護結界』を張り直しております。
不浄な思念、日々のストレス、そして悪い夢を見せる精神干渉波の一切を、このシルヴァンが神の御名において消滅させてございます。……貴女様はただ、純白の天国の中で微睡んでくださればよいのです」
「悪夢の強制消滅結界って何よ!! たまにはスリリングな夢も見たいわよ!!」
ツッコミが追いつかない。
窓の外を見れば鳥が追放され、空を見上げれば結界が張られ、足元を見れば無重力ベッドで蕩けさせられ、左右からはパンケーキとお茶が飛び込んでくる。
世界が、国家が、私の「お昼寝」という極小のイベントを中心に回転している。
――そして、その時。
お腹がいっぱいになり。
極上のハーブティーで喉が潤い。
無重力マットレスの心地よい振動に全身を包まれ。
鳥の声すら遮断された完璧な静寂と、適温二十二度の爽快な空気に抱かれた、私の身体の奥底から。
ズズズ……と、抗いようのない、生理的欲求の頂点が込み上げてきた。
「……ふあぁぁぁぁぁぁ……あーあ」
私は両手をだらしなく投げ出し、顎が外れんばかりに口を開け、目尻にプクリと大粒の涙を浮かべながら。
心底気だるげに、小さく、しかし極めて無防備な【おあくび】を一つ、ポロリと零してしまったのだ。
――その、瞬間。
ピキィィィィィィィンッッッッ!!!!
時が、止まった。
冗談ではなく、部屋の中の物理法則が完全に凍結した。
スプーンを持っていたクロエの手が、空中でピタリと静止した。
マットレスを調整していたヒューゴのレンチが、ピタッと止まった。
ハーブティーのポットを持っていたレオポルトの息が、喉の奥で詰まった。
香炉を揺らしていたシルヴァンの瞳が、カッと見開かれた。
窓の外のマティアスが、大剣を構えたまま石像のように硬直した。
「「「…………ッッッッ!!!!」」」
全員が、息を呑んだ。
互いに顔を見合わせ、血相を変え、まるで国家の核ミサイルの発射ボタンが誤作動したかのような、凄まじい緊迫感のアイコンタクトが交わされる。
(あくび……!)
(聖女様が……おあくびをなされた……!)
(睡眠のサインだ……! 急速なエネルギーの低下……!)
(お疲れなのだ……! 一口のパンケーキを食され、ハーブティーを口にされただけで、その類まれなる尊き肉体は、限界を迎えておられるのだァッッ!!)
レオポルトが、音を立てずに素早くポットをサイドテーブルへ置いた。
そして、部屋の中にいる全員へ向けて、唇の動きと鬼気迫る手信号だけで、無言の緊急号令を下した!
『――全員、静粛にッ!!』
『息をするな! 足音を立てるな! 衣擦れの音すら立てることは万死に値するッ!!』
『聖女様がお眠りになられるぞォッッ!!』
ザッ……!
クロエが音もなくスリッパを脱ぎ捨て、つま先立ちで後退した。
ヒューゴが油のついた靴を脱ぎ、レンチを懐へしまい込んで息を止めた。
シルヴァンが香炉の煙を自らの袖で包み込み、結界の出力を「超深度睡眠モード」へと切り替えた。
窓の外のマティアスへ向けて、レオポルトが窓越しにビシッと指で合図を送る。
マティアスが頷き、即座に全軍へ向けて【絶対沈黙令】の魔導信号を放った。
庭園の兵士千二百名が、一斉に呼吸の音すら押し殺して直立不動の彫像と化す。
離宮の敷地内だけでなく、半径五キロメートル以内の街道の通行が、近衛兵の手によって音もなく一時封鎖されていく。
馬車の走行禁止。
犬の遠吠えの規制。
教会の鐘の完全停止。
国家機能の、完全なる一時停止。
一人の少女が「あくび」を一つしただけで、王国の心臓部が、文字通り爪先立ちで息を潜めるレベルの、異次元の過保護介護体制。
「……エレオノーラ」
レオポルトは音もなく私の枕元へ歩み寄り、空気のように軽いカシミアの薄手毛布を、私の顎の下までそっと、羽毛のように優しく引き上げた。
その瞳には、世界のすべてを投げ打ってもこの眠りを守り抜くという、狂気的なまでの誓いが宿っていた。
「おやすみ、俺の愛しい光……。世界が滅びようとも、君の眠りは俺たちが護る……」
耳元で囁かれたその言葉を聞きながら、私は――。
無重力マットレスの心地よい浮遊感に身を委ね、ふかふかの枕に頬を埋めた。
(……あ、これ……)
私の脳内で、前世の限界OLの魂が、最後の理性のツッコミをポツリと呟いた。
(これ……完全に、人間としてダメになるやつだわ……。
指一本動かさずにご飯が出てきて……。
あくび一つで国家機能が停止して……。
このままだと、私、数ヶ月後には自力で歩くことすら忘れた完全体のスライムになっちゃうんじゃないかしら……?)
運動不足? 知るか。
生活習慣病? シルヴァンの神聖結界が勝手に治癒してくれる。
人間性の崩壊? 人間をやめて神様になったのだから、何の問題もない。
「……まあ、いっか。気持ちいいし」
私は小さく鼻を鳴らし、幸せそうに口元を緩めた。
考えるのを、やめた。
前世で擦り減らした魂の代償だ。これくらい甘やかされたって、バチは当たらないはずだ。
「……すぴー……すぴー……むにゃ……だから言ったでしょ、部長……有給休暇中に電話かけてきたら……スプリンクラーで流しちゃうんだから……」
穏やかで、愛らしい寝息が、完全なる静寂の寝室に響き始める。
その寝顔を見つめながら、レオポルト、クロエ、ヒューゴ、そしてシルヴァンが、尊さに胸を撃ち抜かれ、全員揃って音もなく両手を合わせて拝み倒していた。




