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第58話:よく考えたら「働かなくていい&無限の富」って前世の夢そのものじゃない?

――チリン……チリン……。

涼やかで澄み切ったクリスタルベルの音が、どこまでも高い吹き抜けの天井へと吸い込まれていった。

初夏の陽光が、床一面に敷き詰められた最高級の白大理石に反射し、窓辺に掛けられた極薄のシルクオーガンジーのカーテンを淡い乳白色に透かしている。

窓の外に広がるのは、手入れの行き届いた広大なイングリッシュガーデン。色とりどりの薔薇が咲き誇り、中央の大噴水からは清らかな飛沫が虹のアーチを描いて立ち上っていた。

王都の中心部から馬車でわずか三十分。かつて王家の歴代国王がプライベートな療養地として秘匿していたという、王都郊外の一等地――清らかな水源と豊かな緑に抱かれた広大な敷地に、それはそびえ立っていた。


――新設【終身名誉守護聖女専用離宮】。


国家予算の粋を集め、王宮魔導院と国内最高峰の建築ギルドが昼夜を問わぬ突貫工事(※もちろん公爵家と王家からの破格の特別ボーナス付きホワイト雇用)によって完成させた、人類史上最も贅沢で、最も過保護な巨大宮殿。

全校生徒、高位貴族、そして前庭を埋め尽くした十万人の民衆の前で、私が渾身の悪行自首プレゼンをぶちかましたあの大パニックの卒業パーティーから、はや数週間が経過していた。


「…………」


その離宮の最上階。

テニスコートが丸ごと二面分は収まりそうな主寝室の中央で、私は――人間をダメにするために作られたとしか思えない、規格外の特注天蓋付きベッドの上に埋もれていた。


縦三メートル、横三メートル。

敷布団の中身は、極北の霊鳥から年に一度だけ自然に抜け落ちるという幻のダウンフェザーを百パーセント使用。

シーツは、帝室御用達の絹織物職人が半年かけて手織りした極冷接触冷感シルク。

掛け布団は、空気のように軽く、それでいて全身をふわりと優しく包み込む極上のカシミア混紡羽毛。

着ているパジャマは、縫い目が肌に一切当たらないよう特殊加工された最高級シルクのスリープドレス。

頭を乗せる枕に至っては、天才魔導具師ヒューゴが開発した「頭蓋骨の形状と血流を自動スキャンしてミリ単位で最適な反発力を維持する形状記憶エーテルクッション」である。


時間は――すでに午後二時を回っていた。


「……んん〜〜……」


私は猫のように細く喉を鳴らし、ベッドの上でゴロゴロと身悶えした。

起き上がらない。

起き上がる必要性など、この世界のどこにも存在しない。

朝十時頃に一度うっすらと目が覚めたが、「まだ眠いから」という理由だけで迷うことなく二度寝を敢行し、さらに昼過ぎに目が覚めた後も、「シーツの肌触りが良すぎるから」という理由で三度寝へと突入。

そして今、完全なる睡眠の飽和状態を迎え、体内の細胞という細胞が完璧に修復された状態で、私はベッドの上で優雅に上半身を起こしたのだ。


「お目覚めでございますか、エレオノーラ様」


枕元からわずか三歩。

音もなく、気配すら感じさせずに歩み寄ってきたのは、専属侍女のリディエだった。

彼女は相変わらず乱れ一つない完璧なメイド服に身を包み、銀のトレイを恭しく両手で捧げ持っている。

トレイの上には、氷が敷き詰められた純銀のワインクーラー。

そこから顔を覗かせているのは、王室の地下ワインセラーから特別に払い下げられたという、樹齢百年の葡萄から作られたヴィンテージ・シャンパンのボトル。

細身のクリスタルグラスの中では、きめ細やかな黄金色の泡が、チリチリと美しい音を立てて立ち上っていた。


「……ん、リディエ。喉が渇いたわ」

「かしこまりました。地下氷室の湧水にて適温まで冷却いたしました、極上のシャンパーニュでございます」


リディエからグラスを受け取り、唇を湿らせる。

シュワリ、と弾ける冷たい刺激。

芳醇なマスカットの香りと、熟成されたオーク樽の香ばしさが喉を滑り落ち、寝起きの乾いた身体へと染み渡っていく。


「……はぁぁぁぁぁ。美味しい……。昼下がりにベッドの上で飲むシャンパンって、なんでこんなに背徳的な味がするのかしら……」


至福。

至高。

前世の社畜時代、金曜の夜にボロアパートの床に倒れ込み、賞味期限切れのコンビニ弁当をつまみながら発泡酒を胃袋に流し込んでいたあの惨めなOL生活と比べれば、今ここは完全に神々の住まう天上界そのものだった。


――だが。


「…………」


冷えたシャンパンをもう一口含み、グラスをサイドテーブルに置いた瞬間。

私の脳内に、ふと、冷徹な理性の光が差し込んできた。


(……待って?)


私はベッドの背もたれにふかふかのクッションを三つ重ねて背中を預け、腕組みをした。

眉根を寄せ、じっと自らの右手を見つめる。

薬指には、あの日レオポルトから嵌められた、眩いばかりの国宝級ダイヤモンドの指輪がキラリと光を反射していた。


(待ちなさいよ。……冷静に、現状を整理してみましょう?)


前世の社畜時代に叩き込まれた、緊急トラブル発生時の「ファクトベースによる現状分析と課題の棚卸し」。

私は脳内のホワイトボードをガラガラと引き寄せ、インクの乾いたマーカーを握りしめるイメージで、箇条書きのリストを一つずつ脳内に展開していった。


「まず、私の当初の人生計画よ……」


――【当初の人生目標】

1.ブラック企業で過労死したから、二度目の人生は絶対に働かない。

2.悪役令嬢として悪名を轟かせ、王太子レオポルトから婚約破棄される。

3.貴族社会から糾弾され、爵位を剥奪されて国外追放を勝ち取る。

4.誰も立ち入れない温暖な南の島へ移住し、一生遊んで寝て暮らす至高のエンドレス有給休暇ライフ!


そうだ。私の目的は、最初から最後まで寸分の狂いもなく「不労所得による完全なる自堕落ニート生活」だった。

そのために、私は卒業パーティーで壇上に駆け上がり、命がけの自首プレゼンを敢行したのだ。


そして――。


「……次よ。その結果、どうなったかという【現状の到達ファクト】の確認ね」


私は指を折りながら、現実の状況を一つずつ数え上げていった。


――【現状の到達ファクト】

・ファクト①:【国外追放】

結果:完全消滅(失敗)。

理由:国王自らが王冠を外して土下座し、国家最高位『終身名誉守護聖女』の勅命を下されたため。今や法的に私を追放できる人間は、この大陸全土に一人も存在しない。追放令を出そうとした瞬間に、近衛騎士団がクーデターを起こし、平民十万人が王宮を焼き尽くす。


・ファクト②:【婚約破棄】

結果:完全消滅(失敗)。

理由:王太子レオポルトの愛が天井を突き破って銀河系の彼方まで暴走したため。「お前を縛る鎖にはならない、公務も政務も外交も夜会も全部俺が命を削って背負うから、君はただ笑って寝ていてくれ」と土下座でプロポーズを上書き強化された。実質的に、王妃としての労働義務は【完全免除(ゼロ)】。


・ファクト③:【労働義務】

結果:完全免除(ゼロ)。

理由:『終身名誉守護聖女』の唯一の職務は――「そこに存在すること」。神殿の公式見解いわく「聖女様が息をしておられるだけで、王都の地脈は浄化され、世界は平和に保たれる」。つまり、私がベッドの上で涎を垂らして爆睡していることこそが、国家に対する最大の貢献であると国教公認で閣議決定されている。


・ファクト④:【経済的収入】

結果:事実上の無限大(国家予算の一割+公爵家資産)。

理由:国王の勅命により、王国の年間国家予算の十パーセントに匹敵する天文学的な金貨が、毎年無条件で【永久非課税年金】として私の金庫へ直送される。税金ゼロ、使途の監査ゼロ。さらに実家のグランヴェル公爵家の莫大な資産も使い放題。使い切ろうとしても、ヒューゴの『怠惰理論』の特許料が毎日山のように転がり込んでくるため、資産残高が秒単位で増え続けている。


・ファクト⑤:【人間関係および生活支援環境】

結果:国家最高峰のエリートたちによる、完全無欠の忠犬介護体制。

・王太子レオポルト:政治と書類仕事を一手に引き受け、一時間おきに高級スイーツを直送してくる忠犬。

・近衛騎士団長マティアス:千二百名の精鋭を率いて離宮の周囲を鉄壁に固め、騒音と不審者を物理的に消滅させる盾。

・筆頭神官シルヴァン:離宮全体に二十四時間体制の神聖防音・安眠結界を展開し、悪夢と害虫を完全排除する祈祷班。

・天才魔導具師ヒューゴ:指一本動かさずに生活できる自堕落支援魔導具を工房フル稼働で量産・搬入し続ける開発班。

・元ヒロイン・クロエ:胃袋を掴まれ、「お姉様の専属筆頭メイド」として身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼き尽くす親衛隊長。

・大商人カシアン:世界中の珍味、極上の果物、最高級シルクを即座に取り寄せる専用補給ラインの元締め。


「…………」


私は両手を膝の上に置き、固まった。

頭の中で、ガチャン、ガチャン、と重厚な歯車が噛み合っていく音がした。


(……待って?)


もう一度、目をパチクリと瞬かせる。


(……あれ? ちょっと待ちなさいよ?)


思考の深淵。

コペルニクス的転回。

前世の社畜OL時代から頑なに信じ込んできた「国外追放されて南の島へ行かなければならない」という固定観念の壁が、音を立ててグラグラと揺らぎ始めた。


(……私、なんで南の島へ逃げようとしてたんだっけ?)


自問自答。

答えは明白だ。

「王妃になりたくなかったから」。

「公務で過労死したくなかったから」。

「働かずに、贅沢をして、一生ゴロゴロ寝て暮らしたかったから」。


じゃあ、仮に――もしもあの卒業パーティーで、私の計画通りに国外追放が成功していたらどうなっていた?


(……シミュレーションしてみなさい、エレオノーラ)


――【追放成功ルートのシミュレーション】

・追放先:最果ての南の島。

・気候:温暖……というか、年中蒸し暑い熱帯気候。

・インフラ:電気なし、水道なし、エアコンなし、魔導具なし。

・害虫:手のひらサイズの毒蜘蛛、巨大な蚊、ムカデ、ヤスデ、ゲジゲジが夜な夜な寝床に這い上がってくる。

・自然災害:容赦のないスコール、台風、高潮。

・食料:自分で果物を毟るか、海で魚を釣るか、硬いヤシの実を石で叩き割らねばならない。

・そして何より――王宮前庭にいた【十万人の平民たち】が、荷車を押して全員国境を越えてついてくる。


(……ヒィッ!?)


背筋を駆け上がる、猛烈な悪寒。

南の島へ追放されていたら、私は虫刺されで肌を真っ赤に腫らし、台風で吹き飛ぶ掘っ立て小屋を修理し、泥水をすすりながら、十万人の開拓民たちから「女王陛下! 次善の開拓地への指示を!」と詰め寄られ、前世のベンチャー企業の創業社長以上のウルトラブラック激務で、三ヶ月以内に二度目の過労死を遂げていたのではないか!?


それに比べて。

今、私がいる、この【名誉守護聖女専用離宮】の環境はどうだ?


室温:ヒューゴの魔導空調により、常に快適な二十二度に完全固定。湿度は常に五十パーセント。

衛生:シルヴァンの神聖結界により、蚊の一匹、ダニの一匹、埃の粒子一つすら寝室への侵入を許されない完全滅菌空間。

寝具:世界最高峰の接触冷感シルクと極北のダウンフェザー。

食事:王室御用達のパティシエと一流シェフが、私の好む最高級スイーツと極上料理を、指をパチンと鳴らすだけで出来立てで運んでくる。

治安:近衛騎士団の精鋭千二百名が昼夜を問わず巡回し、蟻一匹の不審者も近づけない鉄壁の要塞。

労働:ゼロ。

公務:ゼロ。

収入:国家予算の一割(数千億円規模の永久非課税年金)。

人間関係:面倒な上司も、理不尽なクライアントも存在せず、周囲にいるのは私の機嫌を損ねまいと全力を尽くす超有能な忠犬たちばかり。


「…………」


私は、天蓋付きベッドの豪奢なシルクのシーツを、両手でギュッと握りしめた。

瞳が、カッと見開かれる。

頭蓋骨の中で、閃光が弾け飛んだ。


「……あれ? 私、南の島へ逃げる必要あったかしら……?」


声が、ポロリと口からこぼれ出た。


「ここ……。

ここ、前世で過労死しながら夢見ていた……『究極の不労所得ニート環境』そのものじゃない……!?」


雷撃のような納得。

求めていたものは、最初からここにあったのだ。

南の島なんていう不便で虫の多い未開の地へわざわざ高跳びする必要など、一ミリもなかったのだ。

働かなくていい。

金は国家予算規模で無限に湧き出る。

面倒な仕事はレオポルトが全部やってくれる。

誰も私を邪魔しない。

何もしないことこそが、世界平和への最大の貢献だと全員が信じ切っている。


(……前世の私、見てるかしら?

終電で栄養ドリンクをラッパ飲みしながら泣いていた、あの哀れな平社員の私……!

見てる!? あんたの夢、叶ったわよ!!

有給休暇どころの騒ぎじゃないわ! 【永久終身有給休暇・国家予算付き】という名の、人類の歴史上誰も到達できなかった自堕落の桃源郷(シャングリラ)を、私は今、完全に手中に収めているのよォォォッ!!)


私の胸の中で、これまでのすべての焦燥と苦悩が、春の陽光を浴びた雪のようにサラサラと溶け去っていった。

国外追放? いらないわ。

婚約破棄? 公務を全部やってくれるなら、名目上の婚約者くらい置いておいてあげてもよろしくてよ。

悪役令嬢としてのキャリア? どうでもいいわ、勝手に聖女と呼んで崇めていなさい。


勝った。

完全勝利だ。

私の「二度目の人生は絶対に働かない」という鋼の誓いは、周囲の狂気的な勘違いのレールの上を暴走した結果――当初の予定の数万倍のスケールで、完璧に達成されてしまったのである!


***


「……ふふ。ふふふ……あははははははッ!!」


ベッドの上で、突如として深紅のドレスならぬシルクパジャマを揺らしながら、満足げに高笑いを上げ始めたエレオノーラ。

その白磁のような美しい顔には、これまでの苛立ちや困惑は一切消え去り、すべての真理を悟った賢者のような、晴れやかで神々しいまでの笑みが浮かんでいた。


その様子を、枕元から静かに見守っていた専属侍女のリディエは――。

ポーカーフェイスを崩さぬまま、しかしその琥珀色の瞳の奥に、深遠なる宇宙を見つめるような静かな感動を湛えていた。


(……ああ……)


リディエは胸の前でそっと手を組み、微笑んだ。


(お嬢様は……数週間にわたる激動の式典の疲れを癒やしながらも……。

なおも、この国家の行く末を……大陸全土の民が真に安寧に暮らすための【深遠なる瞑想】に耽っておられたのですね……)


リディエには見えていた。

先ほどまで、眉根を寄せて真剣な面持ちで宙を睨み、指を折りながら何か重大な計算を行っていた主人の横顔。

あれは、新設された聖女離宮の維持管理費、王国の財政再建計画、そして隣国との恒久平和条約の細部に至るまで、自らの天才的な頭脳でシミュレーションを重ねておられたに違いない。

そして――最後に浮かべられた、あの慈愛に満ちた晴れやかな笑み。

それは、世界が平和へ向かう確信を得た者だけが浮かべることのできる、本物の守護聖女の微笑みだった。


「エレオノーラ様」

リディエは静かに一礼し、穏やかな声音で声をかけた。

「本日の瞑想も、実に実り多きものとなったご様子で、何よりでございます」


「え? あ、ええ、まあね!」

エレオノーラは上機嫌でシャンパングラスを掲げ、ふかふかの羽毛布団に身体を沈めた。

「完璧よリディエ! 私、人生の真理に到達したわ! もう何も悩むことなんてないわね!!」


「左様でございますか。お嬢様の叡智が、今日も世界を救われたのですね」


「ええ、救われたわ! 私の魂がね!!」


エレオノーラは満面の笑みを浮かべ、空になったグラスをリディエに手渡すと、両腕を大きく伸ばしてベッドの上に大の字になった。

冷えたシャンパンの心地よいアルコールが、全身の筋肉をふわりと弛緩させていく。


「リディエ、今日のおやつは何かしら?」

「本日は、王太子レオポルト殿下が王宮の温室より直々に朝摘みされました極上の白桃と、ヒューゴ様が開発された『瞬間冷却魔導ホイップ機』で作られました、特製白桃パフェをご用意してございます。クロエ様が先ほどより、サロンにてスプーンを磨きながら待機しておられます」

「最高じゃないの! あとで持ってこさせなさい! それまで、私はもう一回、至高の昼寝を楽しむことにするわ!」

「畏まりました。室温を0.5度下げ、微睡み用のオルゴール魔導具を作動させておきます」


カチリ、と心地よい音を立てて、部屋の隅の魔導具から、小鳥の囀りと清流のせせらぎを模した安眠のメロディが流れ始める。

カシミアの薄手毛布を顎まで引き上げ、エレオノーラは幸せそうに目を閉じた。


働かなくていい。

無限の金がある。

美味しいスイーツが勝手に届く。

至高のベッドで、一日中寝て暮らせる。


――私利私欲と怠惰の限りを尽くし、世界で一番勘違いされた我儘悪役令嬢の、正真正銘の「至高のダラダラ生活」が。

今ここに、何人にも邪魔されることのない完全無欠の体制で、本格的な幕を開けようとしていたのである。

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