第56話:国王陛下の電撃登壇と、誰も逆らえない終身名誉守護聖女の叙任
――「「「聖女様を追放するならッ!! 俺たちもこの国を捨てて、国境を越えて全員でついていくぞォォォォォッッッッ!!!!」」」
夜の王都の静寂を木っ端微塵に粉砕した十万人の大合唱は、もはや人間の声帯から発せられた音波の領域を遥かに超越していた。
それは地殻変動の唸りであり、王宮の分厚い城壁をガタガタと震わせる超巨大な共鳴波そのものだった。
王宮の前庭を埋め尽くす十万人の平民たち。
小綺麗な服を着て胸を張るスラム街の元貧民たち、小麦の穂を頭に戴いたパン屋の親父たち、鍬や天秤棒を高く掲げた国境地帯の農民たち。
彼らが掲げる無数の横断幕が、篝火の炎に照らされてギラギラと揺らめいている。
そこには『我らの真の母、エレオノーラ様!』『聖女様を追い出すなら国境を越えて全員移住!』『南の島でエレオノーラ帝国建国!!』などという、もはや国家転覆の域を通り越して新国家樹立を叫ぶ物騒極まりないスローガンが躍り狂っていた。
「……う、嘘でしょ……」
王宮最上階【天上の大広間】に直結する儀礼用大テラス。
冷たい夜風に深紅のドレスを激しくバタつかせながら、私は大理石の手すりにしがみつき、魂が完全に口から抜け出た状態で眼下を見下ろしていた。
ツッコミの言葉すら、喉の奥で氷漬けになって出てこない。
(なんなの……なんなのよ、このおぞましい光景は……!
私、平民たちの怒りを煽ろうとしたのよね!?
『お前たちの汗水垂らした税金を食いつぶし、小麦を買い占めてパンケーキを貪った悪女を引きずり降ろせ!』って扇動しようとしたのよね!?
なんで平民たちが『聖女様が追放されるなら国を捨てて十万人で民族大移動するぞ』ってデモ行進を始めてるわけ!?)
民族大移動。
十万人での南の島への強制移住。
エレオノーラ帝国の建国。
女王への即位。
想像しただけで、前世の限界OLの魂が白目を剥いて泡を吹きそうになる。
(冗談じゃないわよぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!
私が求めているのは! 一人きりで! 誰にも邪魔されずに!
ヤシの木に吊るしたハンモックで一日中ゴロゴロ寝腐り、冷たいパフェを食べるだけの、至高の不労所得ニートライフなのよ!!
なんで南の島へ行ったら行ったで、十万人の開拓民のインフラ整備と食糧配給と税制改革の指揮を執らなきゃいけないわけ!?
そんなの、王妃どころか【新国家の創業者兼最高経営責任者】という名の、前世のベンチャー起業家すら過労死で蒸発する超絶ブラック激務じゃないのよぉぉぉぉぉっ!!)
国内にとどまれば、愛の重すぎる王太子レオポルトと、狂信的な騎士団長マティアス、腹黒神官シルヴァン、決戦兵器を押し付けてくるヒューゴ、狂犬ヒロインのクロエ、そして闇商人のカシアンに完全包囲されて過保護に窒息死させられる。
かといって国外追放されれば、十万人の狂信的な国民が全員ついてきて新国家が爆誕し、開拓作業の激務で過労死させられる。
右を向いても過労死。
左を向いても過労死。
前門の虎、後門の十万人の信徒。
私の二度目の人生の有給休暇ルートは、どこへ行っても出口のない永久残業地獄の無限回廊へと直結していたのだ。
「もう嫌……! 誰か……誰かこの暴走列車を止めてぇぇぇぇぇっ!!」
私がテラスの手すりに突っ伏して、声にならない慟哭を夜空へ吐き散らしていた――その時だった。
――パァァァァァァァァンッッッッ!!!!
大広間の奥深くから、空気を切り裂くような、極めて高く、重厚で、神聖極まりない【白銀のトランペットのファンファーレ】が鳴り響いた。
一音、二音、三音。
それは儀礼用の楽団が演奏するような生ぬるい音色ではない。
国家の最高統治者、すなわち【王】のみが姿を現す際にしか奏でられることを許されない、絶対の威厳を帯びた神聖なる開始のファンファーレ。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!
大広間の正面奥。
普段は堅く閉ざされ、国王陛下の戴冠式や国家存亡の宣戦布告の儀においてしか開かれることのない、黄金と巨岩で鍛え上げられた巨大な扉――【玉座の間・至高の門】が、地響きを立てて左右へと厳かに開け放たれたのだ。
「「「…………ッ!?」」」
大広間にいた数千人の貴族たちが、息を呑んで一斉に振り返った。
壇上にいたレオポルトが、マティアスが、シルヴァンが、クロエが、カシアンが、弾かれたように姿勢を正し、床に片膝をついて深々と頭を垂れる。
テラスの外で怒号を上げていた前庭の十万人の群衆すらも、その扉から漏れ出た圧倒的な王威の波動を感じ取ったのか、波が引くように急速にざわめきを静めていった。
そして――。
開かれた扉の奥から、無数の近衛兵たちを左右に従え、ゆっくりと、しかし大気を震わせるような重々しい足取りで姿を現したのは。
――現エルディニア王国国王、アドルフ・フォン・アウグスト陛下その人であった。
深い紫紺のベルベットに純白の白テンの毛皮をあしらった豪奢な大戴冠式用マント。
胸元には建国の祖より受け継がれし七つの大勲章が輝き、頭頂部にはダイヤモンドとサファイアが散りばめられた王権の象徴たる黄金の王冠。
齢五十を超え、白銀の混ざった豊かな髭を蓄えたその顔貌には、数々の戦乱と政争を勝ち抜いてきた百戦錬磨の覇王としての、凍りつくような冷徹さと絶対の威厳が刻み込まれていた。
「こ、国王陛下……ッ!!」
貴族たちの間から、震えるような囁き声が漏れ出た。
大祝賀パーティーとはいえ、学園の卒業式典に国王自らが大戴冠式の正装を纏って登壇するなど、建国三百年の中でただの一度たりとも前例のない異常事態だった。
だが――その王の威容を目撃した瞬間。
テラスの入り口で呆然と立ち尽くしていた私の心臓が、ドクンと激しく跳ね上がった。
(……き、キタァァァァァァァァァッッッッ!!!!)
私の胸の中で、消えかけていた希望の光が、超新星爆発のような勢いで再点火した。
国王陛下!
そうよ、国王陛下よ!!
レオポルトのような青二才の恋愛脳でもなく、マティアスのような筋肉直情型でもなく、シルヴァンのような宗教狂信者でもない!
一国の頂点に立ち、国家の財政と治安と秩序のすべてに全責任を負う、冷徹無比なる国家最高権力者!
(見なさいよ、この状況を!
息子の婚約者である公爵令嬢が、壇上で『小麦を買い占めました』『国宝を投げ捨てました』『他国軍を泥水で押し流しました』と国家反逆の犯罪事実を堂々とカミングアウトし!
その結果、王宮の前庭が十万人のデモ隊によって包囲され、国家機能が完全に麻痺しているのよ!?
一国の王として! こんな国家の屋台骨を揺るがす我が儘放題の危険分子を、野放しにしておけるはずがないじゃないの!!)
普通の王なら激怒する。
激怒して玉座を蹴り飛ばし、「不届き者めが! 王家と国家をここまで愚弄するか!」と雷を落とすはずだ。
そして、前庭の十万人の暴動を鎮めるためにも、何より王国の法と秩序を守るためにも――「エレオノーラ・フォン・グランヴェルから爵位を剥奪し、直ちに辺境の地へ追放せよ!」と、冷酷無比な追放令の羊皮紙にサインを叩きつけるに決まっている!
(助かった……! ついに、ついに本物の常識人が現れてくれたわ!!)
私は歓喜に打ち震えながら、テラスから大広間へと駆け戻った。
大講壇の中央、階段を上がってくる国王陛下を、キラキラと輝く希望に満ちた瞳でじっと見つめる。
さあ陛下! 怒りなさい!
私を睨みつけ、その威厳ある声で、我が儘悪女への追放宣告を叩きつけてちょうだい!!
――カタ……カタ……カタ……。
国王アドルフは、近衛兵たちを壇下の脇に控えさせると、たった一人で大講壇の階段を上がってきた。
その歩みには、一切の迷いがない。
床に平伏する息子のレオポルトを一瞥し、マティアスやシルヴァンを一瞥し、そして――深紅のドレスを纏って仁王立ちする、私の正面へと歩み寄ってきた。
距離、わずか二歩。
国王の鋭い碧眼が、私の顔を真正面から射抜く。
その瞳の奥には、感情の読めない深淵のような光が湛えられていた。
(来るわ……! さあ来なさい、断罪の雷よ!!)
私は胸を張り、両手を腰に当て、完璧な不敵の笑みを浮かべて受けて立つ姿勢を取った。
――しかし。
次の瞬間、国王アドルフが取った【行動】は。
私の想像、大広間の貴族たちの予想、そしてこの世界の物理法則のすべてを、木っ端微塵に粉砕する狂気の暴挙だった。
――スッ……。
国王アドルフは、おもむろに両手を自らの頭上へと伸ばした。
そして。
王権の象徴であり、国家の最高威厳そのものであるはずの【黄金の王冠】を――自らの手で、躊躇うことなく頭から取り外したのだ。
「「「…………ッッッッ!?!?!?」」」
大広間にいた数千人の貴族たちが、恐怖のあまり息を呑み、何人かの老貴族が心臓を押さえて卒倒した。
王冠を外す。
それは、国王が「王」であることを一時的に捨て去る行為。
神の前、あるいは己を遥かに凌駕する絶対の存在の前でしか決して許されない、国家最大の禁忌の仕草。
その王冠を両手で恭しく胸元に抱えた国王アドルフは――。
スウッ……と、腰を折り。
一介の臣下の娘である私の前に向かって――国家の最高権力者でありながら、深々と、直角に、大地に額が届かんばかりの勢いで、完璧な【最敬礼】を捧げたのである!!
「………………は?」
私の口から、時空が歪んだような乾いた声が漏れ出た。
え?
王冠を外した?
国王が……私に……頭を下げている……?
静まり返る大広間。
前庭の風の音すら消え去ったような静寂の中。
深々と頭を垂れたままの国王アドルフの口から、震えるような、しかし魂の底から絞り出された威厳に満ちた美声が、広間の隅々まで木霊した。
「――エレオノーラ嬢。……いや、我が国の至宝たる守護聖女よ」
「……は、はい?」
「そなたほどの……そなたほどの尊き魂を、我が王家は正しく理解し、遇することができていなかった。……恥じ入るばかりである」
「……え? 恥じ入る?」
私の脳みそが、完全にフリーズした。
怒ってない。
一ミリも怒っていない。
それどころか、国王の目元から、ポロリと、大粒の涙が零れ落ち、床の大理石を濡らしたのだ。
国王アドルフはゆっくりと顔を上げた。
その碧眼には、歴戦の覇王の厳しさなど微塵も残っていなかった。
そこにあったのは――己の至らなさを恥じ、神仏の前にひれ伏す巡礼者のような、圧倒的な悔恨と崇敬の光だった。
「エレオノーラよ。そなたの先ほどの魂の叫び……我が耳に、しかと届いた」
(届いた!? 『小麦買い占めた』『粗大ゴミ投げた』『津波で流した』って言ったのが届いたの!?)
「そなたは……己の成し遂げた天文学的な救国の偉業の数々を、何一つ誇ることなく……すべてを『己の悪徳』として泥をかぶり、追放を望まれたな」
(いや、泥をかぶってない! 本当に悪徳なの! 字面通り受け取ってぇぇぇっ!!)
私の悲鳴など、国王の重厚な声にかき消される。
国王アドルフは胸をかきむしるようにして、壇上のマイク……拡声魔導具の前へと進み出た。
そして、大広間の貴族たち、壇上の重臣たち、そして開け放たれたテラスの向こう――前庭を埋め尽くす十万人の民衆へ向けて、肺腑を抉るような大演説を開始したのだ!
「諸君! そして我が王国の愛すべき民たちよ!!
余は……一国の王として、今夜ほど己の無能と不明を恥じた夜はないッ!!」
国王の叫びが、夜の王都の空をビリビリと震わせた。
「振り返るがよい!
王都に隣国の暗殺者が忍び寄った時、それを未然に防いだのは誰であったか!?
市場に飢饉の魔の手が迫った時、私財を投じて穀物を守り、民にパンを行き渡らせたのは誰であったか!?
近衛騎士団が困窮に喘いでいた時、至宝ミスリルを下賜して兵の命を救ったのは誰であったか!?
千年の古代瘴気を消滅させ、スラムの貧民に職と尊厳を与え、学園のテロを未然に壊滅させ、隣国の五千の侵略軍を無血で鎮めたのは……一体、誰であったかッッ!!」
国王は片腕を振り上げ、涙を撒き散らしながら絶叫した。
「すべて……すべて、そこのエレオノーラ・フォン・グランヴェルその人であった!!
それほどの……神話の英雄ですら成し得ぬ救国の奇跡を、彼女はたった一人で、十六歳の華奢な身一つで背負い続けてくださったのだ!
それに対して……我が王家は何をしてきた!?
旧態依然とした王妃教育という名の檻に閉じ込め! 権力闘争の道具として縛り付け!
あまつさえ、彼女が『すべては己の我が儘だ』と道化を演じて泥をかぶらねばならぬほど、孤独の淵へと追い詰めていたのだッ!!」
「「「あああああああああっっっ……!!!!」」」
大広間の重臣たちが、前庭の民衆たちが、胸を打たれて一斉に嗚咽を漏らした。
国王の自己批判。
国家の頂点に立つ男が、自らの至らなさを涙ながらに告白しているのだ。
(ち、違う……! 違うのよ陛下! 貴方は悪くない! 王家は悪くない!
悪いのは私! 百パーセント私なのよ! だから私を追放してぇぇぇぇぇっ!!)
私が必死に手を伸ばそうとした、その時。
国王アドルフは、外していた王冠を自らの頭へと再び戴いた。
そして――瞳に宿るすべての迷いを振り払い、国家の最高統治者としての、天地を揺るがす絶対の【覇気】を全身から立ち昇らせたのだ。
「全軍、全臣、そして全人民に通達ッ!!」
国王の声が、王都中の空気を凍りつかせた。
彼は懐から、白銀の鎖で封じられた一枚の純白の羊皮紙――国王直筆の【絶対不可侵勅命書】をバサリと広げた。
「これまでの人智を超えし救国の偉業を讃え!
グランヴェル公爵令嬢エレオノーラに――王国の歴史上、いかなる人間にも与えられたことのない国家最高位たる、永久の称号を授与する!!」
国王は息を吸い込み、雷鳴のような大音声で勅命を読み上げた!
「――【終身名誉守護聖女】!!!!」
「「「おおおおおおおおおおおおっっっッッッ!!!!」」」
大広間が、前庭が、王都全体が、文字通りひっくり返らんばかりの歓声に包まれた。
終身。
名誉。
守護聖女。
響きだけで国家のいかなる法律も超越しそうな、究極の特権称号の爆誕である。
だが、国王の勅命は、それだけに留まらなかった。
彼は羊皮紙をさらにめくり、全貴族の心臓を止めるような、天文学的な布告を叩きつけたのだ!
「さらに!! エレオノーラ守護聖女様が、生涯一切の憂いなく、何人にも煩わされることなく、心穏やかに過ごせるよう――!!
エルディニア王国の【国家予算の一割】に匹敵する金貨を!!
国庫より【永久非課税年金】として、生涯にわたり終身支給することを、ここに宣言するッッッッ!!!!」
――ドォォォォォォォォォォォォォォンッッッッッッ!!!!
大広間の大理石の床が、衝撃波で抜けるかと思った。
静寂。
そして、コンマ一秒の遅れを伴って爆発した、天地崩壊級の大歓声。
「こ、国家予算の一割ィィィッ!?」
「永久非課税年金だとォォォッッ!?」
「生涯支給……! 一生、金貨の山の中で暮らせるではないかッ!!」
「…………」
その、狂乱の大爆発の真ん中で。
深紅のドレスを着た私は――。
完全に、思考の処理能力が焼き切れ、煙を噴き出して停止していた。
(……は?)
私の脳内計算機が、カタカタと狂ったように数字を弾き出す。
・国家予算の一割:エルディニア王国の年間国家予算は、数兆ゴールド。その一割……数千億円規模。
・永久非課税:税金ゼロ。確定申告不要。マルサも来ない。
・終身支給:死ぬまで毎年、無条件で口座(金庫)に振り込まれる。
・終身名誉守護聖女:国家最高権力。王家すら不可侵。
(……え? 待って?
国家予算の一割……? 永久非課税……? 終身名誉守護聖女……?)
私の口から、魂の抜けた呟きがポロポロとこぼれ落ちる。
追放令は?
ない。
爵位剥奪は?
ないどころか、神様より偉いポジションに昇格した。
南の島は?
行かなくていい。というか、国内にいたまま国家予算の十パーセントが毎年不労所得として転がり込んでくる。
(……え? ちょっと待ちなさいよ。
私、自首したのよね!? 悪事を告発したのよね!?
なんで自首した結果、国家の富を合法的に無限にむしり取る、究極の不労所得モンスターに進化しちゃってるのよぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!)
私の悲痛な脳内ツッコミなど、もはや誰の耳にも届かない。
大講壇の上で、国王アドルフが威厳に満ちた笑顔を浮かべ、前庭の十万人の民衆へ向けて両手を高々と掲げた。
「これにて、聖女様を脅かすいかなる理不尽も、この王国から永遠に消滅した!!
民たちよ! 我が国の至宝を讃えよ! 終身名誉守護聖女エレオノーラ様万歳ッッ!!」
「「「エレオノーラ様万歳ッッ!! 万歳ッ!! 万歳ィィィッッッッ!!!!」」」
十万人の大歓声が、王都の夜空を黄金色に染め上げていく。
教会の鐘が一斉に乱打され、色とりどりの祝祭の花火が夜空に打ち上がり、大広間では貴族たちが抱き合って感涙にむせび泣いている。
その熱狂と栄光の頂点に立たされながら。
悪役令嬢エレオノーラは――ただ一人、白目を剥いたまま、虚無の青空へと魂を溶け込ませていたのであった。




