第55話:会場を包囲する万朶の民衆「聖女様を追放するなら国境を越えて全員移住します」
――チーン……。
私の脳内で、前世の壊れかけの電子レンジが加熱終了を告げたような、間の抜けた乾いた電子音が響き渡っていた。
思考の完全なる停止。
視界のホワイトアウト。
王宮最上階【天上の大広間】の大講壇の真ん中で、私は両目をぐるぐると回し、立ったまま見事な白目を剥いて硬直していた。
足元には、昨夜深夜二時半まで睡眠時間を削って書き上げた、渾身の自首カンペ――羊皮紙三枚の【極悪非道リスト】が、パラリと無残に散らばっている。
そして、私の周囲を取り囲む光景。
右には、数百本の真紅の薔薇を抱えて「お前の孤独な自己犠牲を俺が半分背負う!」と滝のような涙を流す王太子レオポルト。
左には、「ミスリルを横領と呼ぶ奴は近衛騎士団が叩き斬る!」と大剣を抜いて男泣きする騎士団長マティアス。
背後には、「千年の瘴気を浄化された無欲の聖女様……」と典礼書を胸に抱いて恍惚と合掌する筆頭神官シルヴァン。
足元には、「怠惰理論が帝国の魔導技術を百年追い越す産業革命を起こした!」と特許論文を積み上げて目を血走らせる天才魔導具師ヒューゴ。
正面には、「お姉様を悪女と呼ぶ奴は貴族籍を捨てて国ごと訴えてやります!」と仁王立ちして全校生徒を睨みつける狂犬元ヒロインのクロエ。
そして壇下には、「エレオノーラ閣下に弓引く者には我が商会が経済封鎖で兵糧攻めを下す」と冷酷に微笑む裏社会の顔役カシアン。
武力、宗教、技術、王権、民心、経済。
この国のありとあらゆる最高権力の中枢が、まるで精密機械のように寸分の狂いもなく噛み合い、私の「悪事の告白」をことごとく「神話級の救国の奇跡」へと完璧に上書き論破してしまったのだ。
(……詰んだわ)
私の魂が、口からスーッと白い煙になって天井のシャンデリアへ昇天しかけていた。
外堀を埋められるどころではない。
内堀も、石垣も、天守閣も、抜け道も、すべて超高強度の魔導セメントで流し込まれ、その上に鉄条網と地雷原と最新鋭の防空レーダー網を配備されたようなものだ。
私が「悪女だから追放しろ!」と叫べば叫ぶほど、周囲の人間たちが「なんて尊いのだ!」「あのお方はすべてを一人で背負おうとしている!」と狂気的な感動の坩堝へダイブしていく。
この空間にいる人間は、全員が重度の【エレオノーラ絶対肯定フィルター】に脳みそを侵食されている。
話が通じない。
日本語も通じなければ、王国の公用語も通じない。
何を言っても「聖女様の尊い思し召し」に自動翻訳されてしまうのだ。
(だ、誰か……誰か一人くらい、まともな神経の持ち主はいないわけ!?
『いや待て、あいつ普通にただの我儘じゃね?』ってツッコミを入れてくれる常識人は、この広間に存在しないの!?)
私は涙目で大広間を見渡した。
だが、そこにいた数千人の大貴族、各国の使節、生徒たちは――揃いも揃って、シルクの高級ハンカチを目元に押し当てて「うっ、うっ……」「ああ、なんという慈悲の深さだ……」と、肩を震わせて号泣のコーラスを奏でていた。
全滅。
完全に全滅である。知性派と呼ばれるエリート層ほど、深読みの毒が骨の髄まで回って再起不能に陥っていた。
――しかし。
前世の社畜時代、幾度となく理不尽なデスマーチと理不尽な役員面談を生き延びてきた私のサバイバル本能は、まだ死に絶えてはいなかった。
(……待ちなさいよ)
私はギリリと奥歯を噛み締め、両手で自らの頬を「バチンッ!」と力任せに叩いた。
痛みによって、霞んでいた思考が急速に覚醒していく。
(諦めるのはまだ早いわ! 貴族が狂っているなら、エリート層の脳みそが沸いているなら……!
外界の【一般庶民】に判断を仰げばいいじゃないの!!)
そう、歴史を学んだ者なら誰でも知っている絶対の真理。
王侯貴族がどれほど権力を握ろうと、どれほど身内だけで美談を仕立て上げようと――最後に国家の屋台骨を揺るがし、歴史の舵を力づくでへし折るのは、いつの時代も【虐げられた民衆の怒り】なのだ!
(前世の世界史を思い出しなさい、エレオノーラ!
フランス革命! ロシア革命! 米騒動!
特権階級の我儘や食糧の買い占め、贅沢三昧に対して、一番純粋に、一番凶暴にブチギレるのは、現場で泥にまみれて汗水垂らして働いている一般ピープルよ!!)
貴族たちは「飢饉を防ぐための深謀遠慮だった」などと都合のいい妄想で納得しているが、一般庶民の感覚からすればどうだ?
「公爵令嬢が市場の小麦と砂糖を買い占めてパンケーキを貪っていた」
「ドレスが汚れたからとスラムの貧民に突貫工事を命じた」
「昼寝がしたいからと巨大な結界を私物化していた」
こんな理不尽極まりない特権階級の暴挙を聞かされたら、日々の生活に喘ぐ平民たちが「ふざけるな!」「俺たちの血税を食いつぶす悪女を引きずり降ろせ!」と激怒し、王宮を取り囲んで怒りの暴動を起こすに決まっている!
(そうだわ……! 外の民衆に告発するのよ!
貴族たちが私を甘やかすなら、怒り狂った民衆のデモ隊によって、私をギロチン……は痛いから絶対に嫌だけど、国外追放の護送船へ強制搭乗させてもらえばいいんだわ!!)
活路は見えた。
これぞ、エリートたちの妄想包囲網を突破するための、乾坤一擲の民衆蜂起作戦!
「……もういいわ!!」
私は拡声魔導具をギュッと握り直すと、隣で花束を抱えて涙ぐむレオポルト、仁王立ちするクロエ、ひざまずくマティアスたちを、肘でグイグイと強引に押し退けた。
「お、エレオノーラ……!? どこへ行くのだ!?」
「お姉様ッ!? まだ私の訴訟の準備が――」
「どきなさい! 貴方たちとお話しする舌はもう持ち合わせていないわ!!」
私は深紅のイブニングドレスの裾を再び両手でたくし上げると、講壇の奥――大広間の南側に面した、王宮の前庭を一望できる巨大な【儀礼用大テラス】へと向かって猛ダッシュを開始した。
タタタタタッ!と大理石の床を踏み鳴らす。
テラスの前に立ちはだかっていた二枚の巨大なガラス扉。
普段は国家の祝祭において、国王や王太子が民衆へ向けて手を振るためだけに開かれる、あの神聖なる扉。
「開きなさいよォォォッッ!!」
私は体内の古代魔力を脚力に上乗せし、両手でその分厚いガラス扉を――ドガァァァンッッッッ!!!!と、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで力任せに蹴破るように押し開けた!
ビュオオオオオッッ!!
夜の王都の冷涼な風が、私の高く結い上げた黒髪と、深紅のドレスの裾を激しく吹き荒れさせる。
テラスの手すりへと駆け寄り、両手をバンッと大理石の手すりに叩きつけた。
(さあ……! 聞きなさい、王都の民たちよ!
お前たちの真の敵は、ここにいる悪徳令嬢エレオノーラよ!
今すぐ松明と鍬を掲げて王宮へ押し寄せ、この傲慢女を辺境の南の島へ叩き出しなさい――!!)
私は拡声魔導具を口元へ掲げ、肺の空気をすべて吐き出して叫ぼうとした。
叫ぼうと――した、その瞬間。
「…………え?」
私の喉から、声にならない掠れた音が漏れ出た。
開いた口が、塞がらなくなった。
眼下に広がっていた光景を目撃した瞬間、私の全神経、全知性、そして現実を認識する脳の受容体が、文字通り粉々に破砕されたのだ。
「……な……に……これ……?」
王宮の前庭。
普段であれば、衛兵たちが直立不動で警備し、広大な噴水と手入れされた芝生が静まり返っているはずの、十万人を収容可能な王都最大の巨大広場。
そこが。
見渡す限りの地平線の果てまで――文字通り、蟻の子一匹這い出る隙間もないほどに、ギッチギチのすし詰め状態となった【人間の大津波】によって、完全に埋め尽くされていたのだ。
一人や二人ではない。
百人や千人でもない。
数万。いや、十万を超える規模の大群衆!
王宮の正門を取り囲み、前庭の噴水の縁にまで鈴なりに群がり、広場から放射状に伸びる目抜き通りの奥深くまで、人、人、人、どこまでも続く人間の黒い絨毯!
だが――何よりも私の脳天を直撃したのは、その群衆の「構成」だった。
(……は? 暴徒……じゃない……?)
松明を掲げて怒号を上げる暴徒など、どこにもいなかった。
鍬や鎌を持って王宮を襲撃しようとする農民の姿など、欠片も存在しなかった。
そこにいたのは――。
かつて私が「泥跳ねでドレスが汚れた」とブチギレて金貨を投げつけ、突貫工事で雇用した、あのスラム街の住人たち!
しかし、今の彼らは襤褸切れなど着ていなかった。
あの工事の破格の日当で手に入れた、仕立てのいい小綺麗なシャツとズボンに身を包み、清潔に髭を剃り、胸を張った堂々たる元貧民たちの姿!
さらに、その隣には――。
かつて私が「タルトが食いたい」と小麦を買い占め、賞味期限切れ寸前に安値でばら撒いたあの小麦粉によって、飢えを凌ぎ、大繁盛を遂げた王都中のパン屋の親父たち、菓子職人たち、そしてその家族たち!
エプロンを身につけた恰幅のいい職人たちが、小麦の穂を束ねた冠を頭に戴いて並んでいる!
それだけではない!
群衆の後方には、先日アウグスブルク高地で私がスプリンクラーで泥まみれにした隣国軍から救われた、国境地帯の農民たちや行商人たちまでもが、馬車を連ねて王都へ駆けつけていたのだ!
そして――彼らの頭上に掲げられていた、無数の巨大な横断幕。
白布に極太の金文字と赤文字で、これでもかと誇らしげに殴り書きされた、狂気的なメッセージの数々。
『我らに職と尊厳を与えてくださった至高の母! エレオノーラ聖女様万歳!!』
『商人の買い占めから王都の胃袋を救いし慈愛の御手! エレオノーラ様万歳!!』
『一滴の血も流さず国境の平和を守り抜かれた神の化身! 我らの守護聖女様!!』
『聖女様を泣かせる貴族院は全員ギロチン台へ行け!!』
「…………」
私の思考回路が、完全に焼き切れた。
横断幕の文字が、ゲシュタルト崩壊を起こして網膜の上でダンスを踊り始める。
(な……何なのよ、あれ……。
スラムの元貧民……? パン屋の親父……? 国境の農民……?
なんで……なんでそんな平民のオールスター感謝祭みたいな大軍勢が、夜の王宮の前庭に集結してるわけ……!?)
私がテラスの手すりを握りしめたまま、ガタガタと膝を震わせて硬直していた――その時だった。
テラスの眩い魔導照明が、深紅のドレスを纏った私の姿を、前庭の闇の中へとクッキリと浮かび上がらせた。
――その、瞬間。
前庭を埋め尽くしていた十万人の群衆の視線が、一斉に、ただ一点――テラスに立つ私へと集中した。
一秒の、静寂。
夜風が止まり、小鳥の囀りすら消え失せたような、真空の刹那。
そして――。
ドォォォォォォォォォォォォォォンッッッッッッ!!!!
それは、火山の大噴火でも、隕石の衝突でもなかった。
十万人の人間が、肺の底から、魂の限界を超えて同時に放った――大地そのものを粉々に叩き割らんばかりの【狂気の大歓声】だった!
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっッッッ!!!!」」」
「「「エレオノーラ様ァァァッッッ!!!! 聖女様がお姿を現されたぞォォォッッッ!!!!」」」
ビリビリビリッ!と王宮の窓ガラスという窓ガラスが一斉に悲鳴を上げ、テラスの大理石の手すりが激しく振動した。
凄まじい音圧。
鼓膜を直接ハンマーで殴打されたような衝撃波に、私は「ひぃっ!?」と悲鳴を上げて後ずさりしかけた。
しかし、前庭の熱狂は、そんな生易しいものでは終わらなかった。
最前列にいた、スラム街の元顔役と思しき大柄な男が、涙と鼻水をぐしゃぐしゃに垂れ流しながら、拡声用の魔導ラッパを天へと掲げて絶叫したのだ!
「王都の同胞たちよ、聞けェェェッッ!!
大広間の回線を通じて、神殿の通信班から速報が入ったぞッ!!
我らの命の恩人であられるエレオノーラ聖女様が……!
貴族どもの前で、自らを『悪女』とお呼びになり……!
我らに施してくださった数々の奇跡を『己の罪』として泥をかぶり……!
あろうことか、この国から【国外追放】されようとなさっているぞォォォッッ!!」
――ズワワワワワワッッッッ!!!!
十万人の大群衆から、怒りと慟哭が入り混じった、凄まじい地鳴りのような唸り声が巻き起こった。
「なんだとォッ!?」「聖女様を追放だとォッ!?」
「ふざけるなァッ!!」「誰のおかげで俺たちが今日生きて飯を食えていると思っているんだァッッ!!」
パン屋の親父たちが小麦粉の袋を地面に叩きつけ、職人たちが金槌を天へと振り上げ、元スラムの男たちが胸ぐらを掻きむしって叫び始めた。
「エレオノーラ様が自らを悪女と呼ぶなら、この国の貴族どもは全員ドブネズミ以下だッ!!」
「あのお方が泥水を浴びてまで俺たちに敷いてくださったこの石畳を、貴族どもが土足で歩くことすら許せねえッ!!」
「聖女様を追い出すような薄情な国に、誰が一秒でも住むかァッッ!!」
そして――十万人の大群衆から、夜空を引き裂くような、人類史上最も重苦しく、最も狂気的な【最後通牒】が、王宮へと向けて叩きつけられたのだ!
「「「聖女様を追放するならッ!!
俺たちもこの国を捨てて、国境を越えて全員でついていくぞォォォォォッッッッ!!!!」」」
「……は?」
私の口から、魂の抜けた声が漏れた。
全員で……ついていく?
どこへ? 南の島へ? 十万人で?
「そうだァッ!!」
前庭の男がラッパを構えて咆哮を続ける。
「エレオノーラ様が南の果ての辺境へ行かれるなら、俺たちも家を売り払い、店を畳み、全財産を荷車に積んで全員で大移住だァッ!!
あのお方の行く先こそが、俺たちの真の祖国だッ!!
十万人で南の島を開拓し! あのお方を女王に戴く【エレオノーラ帝国】を建国してやるぞォォォッッ!!」
「「「帝国建国ゥゥゥッ!!」「エレオノーラ様万歳ッ!!」「ついていくぞーッッ!!」」」
ワァァァァァァァァァッッッッ!!!!
地鳴りのような大合唱。
掲げられる無数の拳。
飛び交う花びら、歓声、そして涙。
王宮の前庭だけでなく、王都の目抜き通り、裏路地、広場に至るまで、完全に十万人規模の【愛が重すぎる大デモ行進】によって埋め尽くされ、馬車の通行は完全遮断、商店街の機能は全面停止、王都の国家機能は文字通り一ミリも動かないレベルで完全に麻痺していた。
「…………」
テラスの手すりにへばりついたまま、私は――。
口をパクパクと金魚のように開閉させ、完全に思考のキャパシティを限界突破していた。
(……なんでよ)
私の脳内で、前世の限界OLの魂が、血を吐くような絶望の叫びを上げた。
(なんでよぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!
私、今! 平民の怒りを煽ろうとしたのよね!?
『お前たちの税金を食いつぶした悪女を引きずり降ろせ!』って言おうとしたのよね!?
なんで平民たちが『聖女様が追放されるなら国を捨てて十万人で民族大移動するぞ』ってデモ行進を始めてるのよぉぉぉぉぉっ!?)
民族大移動って何よ。
十万人で南の島へ移住?
エレオノーラ帝国の建国?
女王の即位?
(冗談じゃないわよぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!
私が求めているのは! 一人で! 誰にも邪魔されずに!
ハンモックに揺られながら昼寝をして! パフェを食べるだけの!
孤独で怠惰な不労所得ニートライフなのよ!!
なんで私が南の島で十万人の開拓民の面倒を見なきゃいけないわけ!?
そんなの、王妃どころか【新国家の建国元首】という名の、前世の創業者社長すら裸足で逃げ出す超絶ウルトラブラック激務じゃないのよぉぉぉぉぉっ!!)
追放されたら、国が滅びる。
王都から十万人の労働者と職人と商人が一斉に消滅し、経済が破綻する。
そして追放先の南の島には、十万人の狂信的な信徒たちが荷車を押して大挙して押し寄せてきて、「女王陛下万歳!」と私を囲んで開拓作業を始めるのだ。
逃げ場が、ない。
国内にいれば、王太子と騎士団長と神官長に過保護に包囲される。
国外へ逃げれば、十万人の国民が全員ついてきて新国家が爆誕する。
(どっちへ転んでも……私の有給休暇が……南の島のハンモックが……木っ端微塵に消滅する運命じゃないのよぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!)
テラスの上で、深紅のドレスを着た悪役令嬢エレオノーラは、両手で頭を抱え、天を仰いで声にならない悲鳴を上げながら、完全に魂の抜け殻となってへたり込んでしまったのである。
――しかし。
王都全体を揺るがすこの未曾有の大騒乱。
国家の機能が完全に停止し、王宮の前庭が十万人の大デモ行進によって包囲された、まさにその極限の瞬間。
大広間の奥、普段は決して開かれることのない【黄金の玉座の間】の巨大な扉が、重々しいファンファーレの音とともに、厳かに左右へと開け放たれたのである。




