第49話:卒業パーティー前夜、悪役令嬢は自首のカンペを握りしめる
――カチリ、カチリ、カチリ。
深夜二時。グランヴェル公爵本邸の奥深く、私の私室に置かれた黒檀の置き時計だけが、静寂を切り裂くように正確な秒針の音を刻んでいた。
窓の外を見れば、冬の足音が近づく澄み切った夜空に、冷たい銀色の三日月が浮かんでいる。
本来であれば、こんな時間に起きているなど、自堕落と安眠を何よりも愛する私にとってはあり得ない愚行だ。普段の私なら、とっくに極上のシルクパジャマに身を包み、ふかふかの特注羽毛布団に埋もれて、涎を垂らしながら明日の正午までのエンドレス二度寝を貪っているはずだった。
だが――今夜ばかりは、違った。
今の私には、眠気などという生理現象に屈している暇など、一秒たりとも残されていなかったのだ。
「……明日よ。明日が、正真正銘の『Xデー』なのよ……!」
私はライティングデスクの上に両肘をつき、ギリリと奥歯を噛み締めた。
手元に灯された一本の蜜蝋キャンドルが、私の決意に満ちた(そして切羽詰まりきった)顔面を、怪談話の語り部のように下から不気味に照らし出している。
明日――王立貴族学園の講堂において、最高学年の門出を祝う【卒業パーティー】が開催される。
社交界の頂点に君臨する国王陛下をはじめ、大貴族、各国の使節、そして全校生徒が一堂に会する、一年で最も華やかで、最も権威ある一大式典。
そして――原作乙女ゲーム『王冠のロンド』において、物語のクライマックスを飾るはずだった、あの運命のイベント。
そう、悪役令嬢エレオノーラ・フォン・グランヴェルが、これまでの数々の悪行とヒロインへの陰湿ないじめを白日の下に晒され、王太子レオポルトから婚約破棄を突きつけられ、貴族院から爵位剥奪の上で国外追放を言い渡される――【断罪イベント】の舞台である!
「これよ……! これこそが、私が待ち望んでいた唯一無二のグランドフィナーレよ!」
私は机を拳でトンと叩いた。
これまでの日々を思い出せば、涙なしには語れない。
ブラック企業で過労死した前世の記憶を取り戻し、「二度目の人生は絶対に働かない! 贅沢三昧で国外追放されて、南の島でニート生活を送る!」と鋼の誓いを立てたあの日から、はや一年余り。
悪評を稼ぐために夜会をボイコットすれば、暗殺者を未然に防いだと王太子が感涙して忠犬化。
市場を混乱させようと小麦と砂糖を買い占めれば、隣国の経済テロを叩き潰して民衆から「慈愛の聖女」と崇め奉られ。
騎士団長を追い払おうと国宝ミスリルを投げつければ、軍の救世主として忠誠を誓われ。
ヒロインのクロエを胃もたれさせようと高級スイーツを無理やり食わせれば、忠誠心カンストの狂犬親衛隊第1号へとジョブチェンジ。
森で昼寝を邪魔されてデコピンを放てばAランク魔獣が消滅して満点中一万点を叩き出し、適当なメモで学園祭のテロリストをピタゴラスイッチで壊滅させ、避暑先で庭の水を撒いたら帝国軍五千が無条件降伏して『軍神聖女』の二大称号を押し付けられた。
その結果、どうなったか?
前回のあの惨状である。
公爵邸の周囲には近衛兵千二百名が配備され、屋根には神殿の結界班が常駐し、サロンにはヒューゴ特製の自走式決戦兵器が搬入され、王太子からは一時間おきにスイーツとラブレターが爆撃されるという、脱出難易度ベリーハードの【完全軍事軟禁(※過保護)】状態!
「普通に暮らしていたら、一生この鳥籠から出られないわ! そして卒業と同時にレオポルトと強制結婚させられて、毎日十六時間書類にハンコを押し続ける過労死確定の王妃ルートへ一直線よ!!」
背筋を駆け上がる冷や汗。
そんな未来、死んでもお断りだ。誰が二度目の人生でまで、残業代も出ない終身雇用の管理職にならねばならないのか。
だからこそ、明日の卒業パーティーが、私の人生における「正真正銘、最後の脱出チャンス」なのだ。
――しかし。
ここで、一つの致命的な問題が立ち塞がっていた。
「……誰も、私を断罪してくれないのよ」
私は深いため息と共に、頭を抱えて机に突っ伏した。
そう、本来の断罪イベントとは、正義感に燃える王太子や周囲の貴族たちが壇上に立ち、「エレオノーラ、貴様の罪は明白だ!」と糾弾してくれるからこそ成立するものだ。
だが、現在の状況はどうだ?
王太子レオポルトは、明日のパーティーで「世界一美しい花束」を自ら抱えて壇上に上がり、私への永遠の愛を誓うプロポーズのスピーチをぶちかます気満々である。
近衛騎士団長マティアスは「聖女様の門出に万全の警備を!」と目を血走らせ、神官長シルヴァンは「我が魂の主への祝福の祝詞」を徹夜で執筆し、クロエは「お姉様のドレスの裾持ちは誰にも譲りません!」と息巻いている。
糾弾どころか、会場全体が私を神格化するための「巨大な宗教的祝祭空間」と化す未来が、百パーセント確定しているのだ。
「待っていても断罪されない……。誰も私を告発してくれない……」
私はガバッと顔を上げた。
瞳の奥に、怪しくギラリと紅蓮の炎が宿る。
「ならば――自分で自分を告発(セルフ自首)するしかないじゃないの!!」
そう、これぞ逆転の発想である。
他人がやってくれないなら、自分でやる。
前世の社畜時代、無能な上司が誰もトラブルの報告書を上げてくれない中、責任感の強い(そして押し付けられた)私が一人で徹夜して「プロジェクト失敗の原因分析と再発防止策」の始末書を書き上げた時の、あの泥臭いサバイバル精神を思い出すのだ!
「待っていなさいよ……。明日の壇上、レオポルトが口を開く前に、私がマイク……じゃなくて拡声魔導具を力づくで強奪してやるわ! そして、全貴族の前で、私がこれまで犯してきた大罪の数々を洗いざらいぶちまけて、満場一致の国外追放を勝ち取ってやるんだから!!」
決意を固めた私は、机の上に最高級の羊皮紙を何枚も広げ、インクのたっぷり入った羽ペンを鷲掴みにした。
今夜のミッションは、明日の壇上で一言一句の澱みもなく、全聴衆をドン引きさせて追放へと追い込むための――【自首のカンペ(告発原稿)】の完全執筆である!
「ふふふ……見せてあげるわ。前世のブラック企業で、クライアントへの謝罪文と、役員会議用のプレゼン資料と、始末書を何百枚も書き殴ってきた、元社畜OLの文書作成能力の真髄をね……!!」
――カリカリカリカリカリッ!
深夜の静寂に、羽ペンが羊皮紙の上を疾走する摩擦音が響き始めた。
思考を研ぎ澄ませよ。
感情論ではいけない。法的に、倫理的に、そして貴族社会の常識に照らし合わせて、いかに自分が「救いようのない極悪非道の悪女」であるかを、客観的な事実(※本人の主観)に基づいて論理的に構成しなければならない。
『告発項目その一:国家最高機密および王室に対する重大なる不敬!』
私は羽ペンを走らせる。
「第1話から第3話にかけての夜会ドタキャン事件ね! 婚約者である王太子主催の公式夜会を『頭痛が痛い』などという小学生並みの仮病でボイコットし、あろうことか自室の暖炉でドラゴンの霜降り肉をジュージュー焼いて赤ワインをかっ食らっていた暴挙!
暗殺者を防いだ? そんなのただの偶然よ! 本質は『公務をサボって肉を食っていただけの傲慢令嬢』よ! 王室への侮辱罪で即刻国外追放よ!」
『告発項目その二:王都の経済を意図的に麻痺させた市場独占買い占め!』
「第4話から第6話! グランヴェル家の無限の財力に物を言わせ、市場の高級小麦粉と白砂糖を倉庫ごと根こそぎ買い占めた大罪!
食糧危機を防いだ? 賞味期限が切れるのが嫌で安値で投げ捨てただけよ! 民を飢餓の恐怖に陥れようとした悪徳買い占め行為であることに変わりはないわ! 経済犯罪者として全財産没収の上、南の島へ流刑にしなさい!」
『告発項目その三:国宝級至宝の私物化および軍幹部への暴行・贈賄!』
「第7話から第9話! 説教がうるさいという理由だけで、公爵家の倉にあった国宝『ミスリル純塊』を片手で持ち上げ、近衛騎士団長の足元へ叩きつけた狂気の沙汰!
軍の予算難を救った? 漬物石の粗大ゴミを投げつけただけよ! 国家の至宝を私兵の買収に使った反逆罪よ! 死刑……は嫌だから、追放にしなさい!」
『告発項目その四:神聖なる古代結界の私物化および公共空間の占拠!』
「第13話から第15話! ただ昼寝の紫外線と蚊が鬱陶しいという理由だけで、禁呪指定の古代三重結界を自室に展開した職権乱用!
瘴気の浄化? エアコンの排気ガスみたいな余剰魔力が勝手に漏れただけよ! 神聖なる魔力を私利私欲のために浪費した神への冒涜よ!」
『告発項目その五:スラム街における超法規的・強制土木工事および私設軍事占領!』
「第16話から第18話! 新作ドレスの裾が泥水で汚れたことにブチギレて、スラム街の泥道を勝手に最高級御影石で埋め立てさせた暴君ムーブ!
治安改善? 泥跳ねが嫌だっただけよ! 都市計画を無視した違法建築および札束による貧民の強制使役よ!」
『告発項目その六:学園敷地内の大規模環境破壊および古代生物の虐殺!』
「第31話から第33話! 実技演習をサボって木陰で寝ていたところ、安眠を妨害された苛立ちに任せて生活魔法のデコピンを放ち、演習林の半分を消滅させてAランク魔獣を蒸発させた天変地異!
生徒を守るための親征? 迷惑電話を切るノリで指先を弾いただけよ! 学園の私有財産を数百メートルにわたって更地にした器物損壊罪よ!」
『告発項目その七:隣国正規軍に対する大量破壊水流兵器の使用および不要物資の不法投棄!』
「第40話から第45話! アウグスブルク高地において、庭の散水スプリンクラーにチート魔力を注ぎ込んで湖一つ分の大津波を引き起こし、五千の鉄騎兵を泥沼へ押し流した過剰防衛! さらに、腐りかけの前日の残り物スープと倉庫の不要毛布を投げつけて『汚いから消えろ』と怒鳴り散らした残虐行為!
慈愛の聖女? ただの残飯処理とバイオハザード対策よ! 他国の軍勢に対する非人道的侮辱罪よ!!」
――ガリガリガリッ! ダンッ!
羽ペンを置き、私は肩で息をしながら、完成した羊皮紙を天へと高らかに掲げた。
全身から汗が噴き出している。
羊皮紙三枚にわたって、黒々としたインクでびっしりと書き連ねられた、自らの【極悪非道リスト】。
前世の社畜時代に培われたプレゼン能力が遺憾なく発揮され、各項目の冒頭にはキャッチーな見出し、具体的な犯行日時、被害の規模、そして「いかに私が私利私欲と我が儘だけで動いていたか」を示す決定的な動機の自白が、寸分の隙もなくロジカルに網羅されていた。
「……ふふ。ふふふ、あははははははッ!!」
深夜の部屋に、私の歓喜の高笑いが響き渡った。
「完璧だわ……! 美しすぎる! これぞ、誰がどう見ても弁解の余地がない、国家転覆級の悪徳令嬢の犯罪白書よ!!
明日のパーティーで、これを壇上から全校生徒と貴族たちの前で朗読してやるのよ!
『私はこれほどまでに身勝手で、傲慢で、国を私物化してきた大悪党です! こんな女、王妃にふさわしくありません! 今すぐ私を辺境の南の島へ国外追放なさい!』ってね!!」
想像するだけで、鳥肌が立つほどの快感。
さすがのレオポルトも、これだけの犯罪事実を公の場で自供されれば、庇い立てすることなどできまい。
貴族院の重鎮たちも「なんと恐ろしい悪女だ!」と青ざめて追放令に署名するはずだ。
そして私は、念願の爵位剥奪を勝ち取り、手切れ金と宝石をトランクに詰め込んで、南の島へ直行するのだ!
「待っていなさいよ、私の愛しの南の島……! ヤシの木、白い砂浜、ハンモック、そして一日二十四時間の完全無欠の有給休暇!! 明日の夜には、私は自由なニートよォォォッ!!」
私はインクが乾くのを待ちながら、愛おしそうにそのカンペを胸に抱きしめ、勝利を確信して笑みを深めたのだった。
***
――しかし。
その、悪役令嬢が自室で「セルフ告発原稿」を狂喜乱舞しながら執筆していた、まさにその時。
チリ……と、廊下の微かな隙間風が、閉ざされた寝室の扉の鍵穴を通り抜けていた。
その扉のすぐ外。
薄暗い廊下の物陰に、二つの人影が息を殺して佇んでいた。
「…………」
「…………」
一人は、グランヴェル公爵家の筆頭執事クリストフ。相変わらず片手には胃薬の瓶を握りしめ、もう片方の手でハンカチを口元に当てている。
そしてもう一人は、専属侍女のリディエ。普段のポーカーフェイスを崩さぬまま、しかしその琥珀色の瞳は、扉の隙間から漏れ出る細いキャンドルの光を、祈るように見つめていた。
「……クリストフ殿」
リディエが、唇の動きだけで囁いた。
「……お嬢様は、まだペンを走らせておられます」
「……ああ」
クリストフの喉から、震える嗚咽のような声が漏れた。
彼の胸は、激しい慟哭と、言葉を失うほどの感動によって締め付けられていた。
時計の針は、すでに深夜二時半を回っている。
明日は、王立貴族学園の卒業パーティー。お嬢様にとっては、学園生活の集大成であり、王太子殿下との婚約がいよいよ公のものとなる、生涯で最も華やかな栄光の舞台のはずだ。
普通の貴族令嬢であれば、肌のコンディションを整えるために早くから美容パックをして眠りにつき、明日のドレスの着こなしに胸を躍らせている時間帯である。
それなのに。
あのお方は――エレオノーラ様は、どうだ。
扉の隙間から見えた、あの鬼気迫る横顔。
華奢な指先をインクで汚し、額に薄っすらと汗を滲ませながら、一心不乱に羊皮紙へとペンを走らせるその姿。
何度も何度も推敲を重ね、時に悔しそうに眉根を寄せ、時に自らを戒めるように唇を噛み締めながら、膨大な記録をまとめ上げている。
「……お嬢様は、明日の式典を前に……自らがこれまで国にもたらした変革の記録を、一睡もせずに整理しておられるのだ……」
クリストフの目から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ち、老いた頬を伝っていった。
「王都の暗殺を防ぎ、飢饉を未然に防ぎ、困窮する騎士団を救い、千年の瘴気を浄化し、スラムの貧民に尊厳を与え、学園のテロを未然に壊滅させ、隣国の大軍を無血で鎮められた……。
神話の英雄ですら成し得ぬ、あの天文学的な救国の偉業の数々を……!
あのお方は、何一つ誇ることなく……『自らの行動に落ち度はなかったか』『民に不都合は生じなかったか』と、己の魂を削りながら、たった一人で厳正なる反省録として綴っておられるのだ……ッ!」
「ええ……」
リディエの涼やかな瞳にも、滅多に見せることのない、熱く潤んだ光が宿っていた。
「己の功績に決して驕ることなく、常に国と民の行く末を案じておられる……。
あのお方は、明日の栄光の壇上に立つことすら、自らの名誉のためではなく、国を正しき道へと導くための責務として捉えておられます。
……なんと気高く、なんと孤独なお姿でしょう」
二人は、胸の前で固く手を組んだ。
扉の向こうで、エレオノーラが「ふふふ……完璧だわ!」と小さく漏らした声を、彼らは「国家の未来を憂う聖女の、覚悟の吐息」として受け止めていた。
「クリストフ殿」
「分かっている、リディエ」
老執事は涙を力強く拭い、静かに背筋を伸ばした。
「明日の式典……お嬢様が命を削ってまとめられたあの尊き記録を、世界中に正しく知らしめねばならぬ。
お嬢様がどれほど己を低く見せようとも、我ら公爵家の使用人一同、そしてあのお方に命を救われた者たちのすべてが、全力でお嬢様の栄光をお支えするのだ!」
「はい。神殿、騎士団、そして学園の同志たちへ、至急の連絡網を回しておきます。明日は……お嬢様にとって、生涯で最高の戴冠の日となるでしょう」
二人は音もなく一礼を交わすと、主人の崇高な徹夜作業を邪魔せぬよう、爪先立ちで静かに廊下の闇の中へと消えていった。
悪役令嬢エレオノーラの渾身の「セルフ告発原稿」が。
側近たちの手によって、国を導くための至高の【神聖反省録】として完全に誤認され、明日の会場に仕掛けられる巨大な外堀のコンクリートを、さらに強固に硬化させていることなど――。
完成した原稿を枕元に置き、「明日は絶対に追放されてやるわ!」と意気揚々とベッドに潜り込んだ元社畜OLは、夢にも思っていなかったのであった。




