第45話:猛将の男泣きと、泥の上で交わされた無条件降伏
――ピュウウウウゥゥゥ……。
黄昏の茜色が夜の帳へと溶けゆく境界線、アウグスブルク高地を吹き抜ける風は、急速にその冷たさを増していた。
標高千五百メートルの山頂に建つ【白樺の離宮】。その豪奢な石造りテラスの上で、私は腕組みをしたまま、心底からの苛立ちを込めて眼下の光景を睨みつけていた。
私の足元、手すりの遥か下方に広がるアウグスブルク峡谷の入り口。
さっきまで「黒光りする甲虫の群れ」のように大地を揺るがし、私の神聖なるお昼寝空間に猛烈な砂煙の暴風雨を撒き散らしてくれたバルディニア帝国鉄騎兵団五千は――今や、全員が純白の羊毛毛布にすっぽりと包まり、木製の深皿を両手で大事そうに抱えながら、湯気立つスープをチュウチュウと貪り食っていた。
私が投げつけてやったのは、倉庫の奥で埃を被っていた越冬用の不要毛布と、昨日料理長が張り切って作りすぎて冷蔵魔導庫で腐りかけていた大鍋の残り物ポトフだ。
前世の社畜時代で言えば、終電間際のオフィスで居座る厄介な泥酔クレーマーに対し、「賞味期限が切れる寸前の仕出し弁当の残りと、使い古しの社用ブランケット」を投げつけて、「腹が膨れたらとっとと失せろ!」と怒鳴り散らしたようなものである。
当然、相手は屈辱に顔を真っ赤にして激怒するか、あるいは捨て台詞を吐いて逃げ出すはずだった。
なのに――。
(……なんなのよ、あの空気は。気味が悪いにも程があるわ……!)
私はテラスの手すりから身を乗り出し、露骨に嫌悪感を顔に出して、両手をシッシッと犬を追い払うように激しく振った。
「おい、そこの泥人間ども! 聞こえてるかしら!? 毛布はくれてやったわ! 温かいスープで胃袋も満たされたでしょうが! これで文句はないはずよね!? さあ、さっさと立ち上がって、その汚らわしい泥の塊ごと、一秒でも早く私の領地から出ていきなさい!! しっしっ! 帰った帰った!!」
早く帰れ。
一刻も早く、私の視界から消え失せろ。
太陽は完全に山稜の向こうへと沈み、気温はすでにひと桁台へと突入しかけているのだ。
あんな濡れ鼠の集団がうちの敷地の前に居座り続け、集団で悪質な風邪でも引かれて、飛沫感染でこの離宮にウイルスを撒き散らされたら、私の愛しの有給休暇が「インフルエンザ療養地獄」へと早変わりしてしまうではないか!
私は早く部屋に戻って、暖炉の火にあたりながら、温かいホットココアを飲んで、ふかふかの羽毛布団にダイブしたいのだ!
しかし――。
私がテラスから投げつけた、渾身の「塩対応」と「シッシッ」という侮辱の手振り。
それを受け止めた泥濘地の男たちの反応は、私の予想の遥か斜め下、地殻を突き破って地球の裏側のマグマ溜まりへと到達するような、狂気の方向へと舵を切っていた。
***
「…………っ」
泥濘地の真ん中。
木製の深皿に残った、最後の一滴の温かなスープを名残惜しそうに飲み干したバルディニア帝国鉄騎兵団長、ゴットフリート将軍は――。
ガタガタと震える自らの両手を、信じられないものを見るように見つめていた。
温かい。
冷え切って感覚を失い、紫色に変色しかけていた指先に、ドクドクと力強い血液の脈動が戻ってきている。
喉を通り、食道を温め、胃袋を満たしたスープの滋味。
そこには、上質な牛肉の脂の甘みと、じっくりと火を通された根菜の滋養、そして冷えた身体を芯から温める生薬の香りが、完璧な調和を保って溶け込んでいた。
さらに、肩を覆う純白の羊毛毛布。
泥を吸い上げて重くなった甲冑の上からでも、体温を逃さず、高原の刺すような夜風を完璧に遮断してくれる、公爵家最高級の織物。
(……あたたかい……)
ゴットフリートの濁った瞳から、ポロリと、熱い雫がこぼれ落ちた。
一滴。二滴。
それは瞬く間に奔流となり、泥にまみれた頬の上に、二本の綺麗な白い筋を刻み込んでいく。
「……う……ううっ……」
歴戦の猛将の喉から、みっともないほどの嗚咽が漏れ出した。
止めようとしても、止まらなかった。
五十年を超える生涯の中で、数々の戦場を血で染め、「帝国の凶兆」「鋼鉄の破壊者」と恐れられてきた男の目から、子供のような大粒の涙がボロボロと溢れ、泥濘の地面を叩く。
――我らは、何をしにここへ来た?
ゴットフリートは己の胸に問いかけた。
使節団の失敗に逆上し、独断で軍を動かし、無防備な離宮を急襲して公爵令嬢を人質に取ろうとしたのだ。
奇襲。略奪。拉致。
武人としての誇りすら捨て去った、浅ましく卑劣極まりない夜盗同然の侵略行為。
それが、自分たちの正体だったはずだ。
それに対し――あのお方は、どう応えられた?
神代の超高圧水流波。
五千の軍勢を一撃で無力化する圧倒的な武威を示しながら、誰一人として殺さず、骨の一本すら折らず、ただ泥濘地へと押し流した。
それだけでも、奇跡と呼ぶにふさわしい慈悲だった。
だが、あのお方の「聖性」は、そんな生易しいものでは終わらなかったのだ。
凍える夜の寒風の中、泥水に塗れて震える敵兵の姿を見るや否や。
あのお方は、怒声を張り上げて離宮の倉を開け放たれた。
上質な毛布を山のように放り投げ、温かな大鍋のスープを惜しげもなく配らせたのだ。
『これで文句はないはずよね!? さあ、さっさと立ち上がって、その汚らわしい泥の塊ごと、一秒でも早く私の領地から出ていきなさい!!』
テラスの上から響き渡る、あの少女の凛とした怒声。
手をシッシッと振る、あの無造作な仕草。
それが、ゴットフリートの魂の深奥を、雷撃のように貫いた。
(……ああ……あああ……っ!!)
ゴットフリートは胸を掻きむしり、その場に両膝をドサリと打ち付けた。
泥が跳ね、甲冑が軋む。
(なんという……なんという深淵なる慈悲なのだ……!!)
ゴットフリートの脳内で、猛烈極まりない神聖解釈が、絶対の真理となって確立されていた。
(あのお方は……我らを『敵』としてすら見ておられないのだ……!
復讐も、処刑も、捕虜としての屈辱的な鎖すらも……あのお方にとっては、無意味な業に過ぎないのだ!
ただ……ただ無駄な流血を戒め、愚かな侵略者を母のような厳しさで叱責し……『温かいものを食って、体を温めたら、命あるうちに故郷の家族の元へ帰りなさい』と……!
あのお手振りの意味は……『去れ、そして二度と過ちを犯すな』という、神仏の赦しそのものではないか……ッ!!)
泥濘地に座り込んでいた五千の鉄騎兵たちもまた、同じ衝撃に打たれていた。
毛布にくるまり、空になったスープ皿を抱きしめた屈強な兵士たちが、次々と泥の上に額を擦り付け、天を仰いで号泣している。
「母上……俺は……俺たちは、本物の聖女様に刃を向けていたのか……!」
「殺されるどころか……腹を満たされ、毛布で暖められた……!」
「あのお方の御手を煩わせてしまった……! 俺たちの愚行が、あのような尊いお方を怒らせてしまったんだ……ッ!」
敗北の悔しさなど、微塵もなかった。
そこにあったのは――圧倒的な愛の前に、自らの矮小な悪意を完全に暴かれ、魂ごと浄化された人間たちが流す、純度百パーセントの悔悟と崇拝の涙だった。
「……兵たちよ、聞けェッ!!」
ゴットフリート将軍が、泥の中から立ち上がった。
兜を失い、乱れた白髪を夜風に晒しながら、彼は泥濘地に木霊するような大音声で叫んだ。
「全軍……武装を完全に解除せよッ!!
鎧の留め具を外せ! 刃を捨てろ! これ以上、あのお方の清浄なる御心に対し、一筋の鉄の気配すら見せることは、万死に値する大罪であるッ!!」
ガチャリ、バサリ……!
将軍の号令が下るや否や、五千の兵士たちが一斉に動き出した。
泥にまみれた重装甲冑の胸当てを外し、腰の短剣を泥の中に投げ捨てる。
彼らは武器を捨て、ただ純白の毛布だけを羽織った「無垢なる信徒」の姿へと、瞬く間に変貌を遂げていった。
そして――ゴットフリートは、自らの軍服の内ポケットへと手を差し入れた。
取り出したのは、一枚の硬質な羊皮紙。
それは、本国を出立する際、参謀本部から預かってきた「王国の離宮を制圧した後に突きつけるはずだった、脅迫と同盟要求の白紙調印書」だった。
「…………」
ゴットフリートは迷うことなく、自らの腰に残っていた護身用の極小ナイフを引き抜いた。
そして、己の左手の親指の腹を、躊躇うことなく一気に切り裂いた。
――ツッ……。
鮮血が、ドクドクと溢れ出る。
ゴットフリートはその血をインク代わりにし、震える親指の先で、羊皮紙の中央へと力任せに叩きつけた。
ベチャリッ!
鮮烈な血の華が、白紙の羊皮紙の上に咲き誇る。
さらに彼は、残った余白に、自らの血で、震える文字を力強く殴り書きした。
『バルディニア帝国鉄騎兵団五千――慈愛の守護聖女エレオノーラ・フォン・グランヴェル閣下の神威と慈悲の前に、完全なる無条件降伏を受諾す。
我ら全将兵の命と魂は、今この瞬間より閣下の僕であり、我が軍の剣は永遠に閣下の安寧を守る盾とならんことを、魂の血を以て誓う』
「行くぞ……!」
ゴットフリートは血の滴る羊皮紙を両手で恭しく掲げ、泥濘地を踏みしめて前進を開始した。
五千の兵士たちが、まるで神殿の巡礼者のように、無言で、涙を流しながらその背後に続く。
白樺の離宮の正門をくぐり、庭園の芝生の手前。
テラスの真下へと辿り着いたゴットフリートは――。
ドッシャァァァァァァンッッッッ!!!!
大地が震えるほどの勢いで、石畳の上に両膝を打ち付け、額を石に叩きつけるようにして、極限の平伏を捧げた。
続いて、五千の兵士たち全員が、中庭の芝生を埋め尽くすようにして、一斉に地面へと額を擦り付けた。
「エレオノーラ様ァァァッッッ!!!!」
ゴットフリートは血判の押された羊皮紙を天へと高く掲げ、咽び泣きながら絶叫した。
「我らは……我らは貴女様を謀殺しようと攻め入った、恥ずべき泥棒犬にございます……!
それを……圧倒的な神の力で叩きのめしながら、命を奪うどころか……凍え死ぬ寸前だった我らに、毛布を与え、温かな食事を恵んでくださった……!
武人の誇りを守るため、あえて悪態を演じてまで我らの命を救ってくださったその深遠なる慈愛……ッ!!」
将軍の目から、新たな涙が溢れ出し、掲げた羊皮紙を濡らしていく。
「このゴットフリート……! そして我が鉄騎兵団五千の将兵一同……! 貴女様の気高さに、完全に屈服いたしましたッ!!
我が軍は無条件降伏を全面的に受け入れます! 二度と、二度と貴女様の地に弓引かぬことを誓います!
どうか……どうかこの血判の降伏文書をお納めくださいましィィィッッ!!!!」
「「「お納めくださいましィィィッッ!!!!」」」
五千の男たちの地鳴りのような咆哮が、夕闇のアウグスブルク高地を震わせた。
それは軍隊の降伏宣言などではなかった。
自らの神を見出し、生涯の魂を捧げることを誓った、狂信者集団の血の契約の儀式そのものだった。
***
「…………」
一方。
テラスの上で、手をシッシッと振っていた私は。
眼下で繰り広げられた、あまりにもおぞましく、あまりにも狂気じみた光景を前にして。
完全に、魂が口から九割ほど抜け出た状態で、石像のように硬直していた。
(……え?)
視界の処理が追いつかない。
脳内のニューロンが、バチバチと音を立ててショートしていく。
え?
何?
どういうこと?
私の目の前――中庭の綺麗な芝生の上に、さっきまで泥人間だった数千人の大男たちが、毛布を被った姿で一斉に土下座している。
そして、先頭の筋骨隆々たる巨漢の将軍が、親指からボタボタと血を流しながら、真っ赤な手形がベッタリと押された汚らしい紙切れを、涙と鼻水を垂れ流しながら掲げて叫んでいるのだ。
『無条件降伏を受け入れます!』
『血判の降伏文書をお納めください!』――と。
「……ひっ」
私の喉から、引き攣った短い悲鳴が漏れた。
後ずさりする。
二歩、三歩。
全身を駆け巡る、純度一万パーセントの鳥肌とドン引き。
(な……何なのよ、あれぇぇぇぇぇぇぇっ!?!?!?)
私の脳内ツッコミが、音速を超えて絶叫した。
(汚いっ!! 何あの紙、血がついてるじゃないのよ!!
親指を切って血判を押したの!? 衛生観念どうなってるのよ!? 破傷風とか感染症の心配はしないわけ!?
あんな血染めの紙切れ、誰が触りたがるというのよぉぉぉっ!!)
前世の社畜時代、私は契約書の捺印ミスや朱肉のかすれで法務部から散々怒られてきたが、自らの血液をベッタリ塗りたくって「契約成立です!」と持ってきた狂気のクライアントなど、一度たりとも見たことがない!
ホラー映画よ!
オカルトよ!
怪奇現象の類よ!!
しかも、書かれている内容が【無条件降伏】。
(降伏文書って何よ!? 私、一介の公爵令嬢よ!?
他国の正規軍の降伏文書なんて、国王陛下か外務省か近衛騎士団のトップが受け取るべき国家最高機密の公文書じゃないの!!
なんで山奥の別荘で昼寝してただけの女子高生(換算)が、五千の大軍の降伏文書を個人で受領しなきゃいけないわけ!?
そんなの受け取ったら、また王宮で書類仕事が増えて、表彰されて、国家の英雄に祭り上げられて、南の島が光速で遠ざかっちゃうじゃないのよぉぉぉぉぉっ!!)
いらない。
百パーセントいらない。
血染めの紙も、五千人の忠誠心も、降伏の栄誉も、チリ紙の端切れほどの価値すら感じない!
「い、いらないわよそんなものぉぉぉっ!!」
私はテラスの手すりを掴み、顔を引き攣らせながら絶叫した。
「血がついてて汚ったないのよ!! 誰がそんな不衛生な紙を受け取るもんですか!! 傷口を早く消毒しなさい! 絆創膏を貼りなさい! そしてさっさとその紙を持って、全員まとめて私の視界から消え失せなさいよぉぉぉぉっ!!」
悲鳴のような拒絶。
だが――。
「おお……っ! 我らの不潔さをお叱りになりながらも、このゴットフリートの身体の傷を……破傷の毒を案じてくださるとは……ッ!!」
将軍はさらに激しく号泣し、泥の石畳に額をゴツンゴツンと打ち付け始めた。
「なんと……なんという慈悲の深さだ……! 己の栄誉のために降伏文書を奪うことすら拒絶し、ただ敗者の健康を気遣われるとは……! 真の聖女様万歳ッ! 我らの魂の主、エレオノーラ様万歳ィィィッッ!!」
「「「エレオノーラ様万歳ッ!! 万歳ッ!!」」」
中庭を埋め尽くす五千の兵士たちが、感涙にむせび泣きながら一斉に唱和を始めた。
地鳴りのような賛美の大合唱。
拝まれている。
五千の毛布を被った男たちから、まるで後光の差す大仏か何かのように、熱烈な信仰の眼差しで拝み倒されているのだ。
「あ……あわわわわ……っ」
私は完全に言葉を失い、顎をガクガクと震わせた。
通じない。
日本語……じゃなくて王国の言葉が、一文字も通じていない。
何を言っても「尊い慈愛」として超絶脳内変換され、信仰の炎の薪にされてしまう。この世界の人間たちの深読みフィルター、一体どうしてこんなに分厚いのか!
「リディエ! リディエ、何とかしなさいよ!!」
私がパニックになって振り返ると、背後に控えていた専属侍女のリディエが、スッと前に進み出てきた。
彼女はどこから取り出したのか、清潔な銀のトングと、魔法滅菌処理が施された密閉ガラスケースを両手に構えていた。
「畏まりました、お嬢様。お嬢様の神聖なる御手を、他国の不衛生な体液で汚すわけにはまいりません」
リディエはテラスから中庭へと軽やかに飛び降りると、平伏するゴットフリート将軍の前へと歩み寄った。
そして、銀のトングで将軍が掲げる血染めの羊皮紙の端を「ヒョイッ」とつまみ上げ、一切素手で触れることなく、手元のガラスケースの中へとパタンと収納したのだ。
「グランヴェル公爵令嬢エレオノーラ様の代理として、本【無条件降伏文書】を受領いたしました。なお、お嬢様より『傷口を消毒せよ』との厳命が下されておりますので、後ほど離宮の救護班より消毒用アルコールとガーゼを配給いたします。受領後は、速やかに帝国領内へと撤退してください」
「は、ははぁっ……!! ありがたき幸せにございますッ……!!」
ゴットフリートは再び石畳に額を擦り付け、感涙に震えながら平伏した。
トングでケースを抱えたリディエが、身軽な跳躍でテラスへと戻ってくる。
そして、私に向かって完璧なカーテシーをとった。
「おめでとうございます、お嬢様。バルディニア帝国鉄騎兵団五千の完全無血降伏、および国境侵略軍の完全無力化が正式に完了いたしました。本件は、王国の軍事史上類を見ない大戦果として、王宮へ電報を打電いたします」
「完了させるなァァァァァッッッ!!!!
電報を打つな! その血まみれの箱を今すぐ焼却炉へ放り込みなさいよぉぉぉぉぉっ!!」
「致しかねます。これは国家の存亡に関わる第一級外交公文書でございますので、公爵家の特級金庫にて厳重に封印保管いたします」
リディエの鉄壁の事務処理能力が、私の叫びを完全にシャットアウトした。
「もう嫌ぁぁぁぁぁぁっ!!」
私は頭を抱えて絶叫した。
テラスのガラス扉を力任せに開け、部屋の中へと逃げ込む。
そして――。
バタンッッッッ!!!!
割れんばかりの勢いでテラスの扉を閉ざし、内側から鍵をガチャリと二重にかけ、厚手の遮光カーテンをシャッと力任せに引いた。
「帰って! 全員帰ってよ! 私はもう寝るわ! 明日の朝まで絶対に一歩も部屋から出ないんだからねぇぇぇぇぇっ!!」
部屋の中に響き渡る、悪役令嬢の魂の敗走宣言。
しかし、その怒声すらも、中庭に残された五千の兵士たちにとっては「我らに休息を促す聖女様の慈愛の配慮」として受け止められ、彼らは涙を流しながら、整然と隊列を組んで帝国領へと撤退を開始していったのである。
――そして。
ベッドにダイブし、羽毛布団を頭から被って現実逃避を始めた私には。
この時、アウグスブルク高地の麓に向かって――。
王太子レオポルト率いる近衛騎士団、シルヴァン率いる神殿軍、そしてマティアス率いる精鋭部隊が、血眼になって「聖女様をお救いせよ!」と怒涛の進撃で迫ってきていることなど。
これっぽっちも、知る由がなかったのであった。




