第44話:汚いから早く帰って! 悪役令嬢が投げつけた毛布とスープの山
――ふあぁぁぁぁぁ……ん。
本日何度目になるか分からない、全身の骨が蕩けそうなほど深くて長い大あくびを零しながら、私はデッキチェアの上でゆっくりと身じろぎをした。
瞼を開けると、視界に飛び込んできたのは、鮮やかな橙色と茜色が混ざり合った雄大な夕焼け空だった。
天を衝くような青空だったアウグスブルク高地の天蓋は、いつの間にか燃えるような薄暮の帳へと移ろい、西の山稜の向こうへと太陽が沈みかけている。
時計の針を見なくても分かる。午後五時を少し回ったところだ。
「……んん〜〜っ! 寝たわぁ……。これよ、これこそが私が求めていた本物のバケーションよ……!」
胸元まで引き上げていたカシミアの薄手毛布を跳ね除け、私は両腕を天に向かって思い切り伸ばした。
身体が軽い。羽毛のように軽やかだ。
あの鬱陶しい砂煙を巻き上げていた害虫集団を、庭の散水スプリンクラー(※前世の高圧洗浄機イメージ注入型)で豪快に洗い流した後の二度寝は、まさに至福の極みだった。
途中で騒音も起きず、心地よい清涼な風と白樺の葉擦れの音だけに包まれて貪った数時間の惰眠。前世の社畜時代、金曜の夜から土曜の夕方までぶっ続けで眠りこけた時以上の、圧倒的な魂の回復感である。
――ピュウウウウゥ……。
その時、高原特有の冷涼な風が、私の薄手のブラウスの裾をサッと吹き抜けた。
「……ひゃっ!? さ、寒っ……!?」
思わず自分の両肩を抱きしめて身震いした。
肌に触れる空気が、昼間の心地よい涼しさから一転して、肌を刺すような冷気へと牙を剥き始めていたのだ。
標高千五百メートルの山岳地帯。
盆地特有の蒸し暑さに喘ぐ王都とは完全に別世界であり、太陽が沈み始めた途端、気温は急降下して一気に十度近くまで冷え込むのが高原の常である。
「リディエ、ちょっと寒くなってきたわね。部屋へ戻って、暖炉に火を入れてもらいましょうか。ついでに温かいホットココアでも飲みたいわ」
「かしこまりました、お嬢様。離宮のサロンに暖炉を用意させ――」
リディエが静かに頭を下げかけた、その瞬間だった。
ふと、私の視界の端。
離宮の庭園の先、見晴らしの良い石造りのテラスの手すりの向こう側に、何やら奇妙な「うごめく影」が映り込んだのだ。
「……ん? 何かしら、あれ」
私は首を傾げながら、スリッパをパタパタと鳴らしてテラスの手すりへと歩み寄った。
手すりに両手を乗せ、眼下に広がる峡谷の坂道――そして、そのさらに下流に位置する広大な泥濘地を見下ろす。
そして――そこに広がっていた「光景」を目撃した瞬間、私の顔面は引き攣り、顎が外れんばかりにポカンと口を開けることとなった。
「…………は?」
私の口から、素っ頓狂な声が漏れ出た。
目を擦り、二度見した。
だが、夕暮れの斜光に照らし出されたその光景は、一ミリたりとも幻覚などではなかった。
「……な、何なのよ……あの地獄絵図は……!?」
離宮の敷地のすぐ外。
さっき、私がスプリンクラーの超高圧水流で綺麗サッパリ押し流してやったはずの、あの「黒光りする集団」――バルディニア帝国の鉄騎兵団五千が。
下流の泥沼から這い上がり、離宮の正門へと続く街道の入り口付近に、まるで打ち上げられた無数の海藻のように、ゾロゾロと這いつくばっていたのだ。
だが、その有様たるや、悲惨などという生易しいレベルを遥かに超越していた。
武器はない。
馬は泥濘に足を取られて立ち往生している。
そして何より――兵士たち全員が、頭の先から爪先に至るまで、赤茶色のドロドロとした泥水にまみれ、まるで「泥人間」と化した状態で、地面にペタリと座り込んでいたのだ。
さらに、追い討ちをかけるように吹き荒れる、高原の冷たい夕風。
――ガチガチガチガチガチガチッッッ!!
――ブルブルブルブルブルッッッ!!
テラスの上にいる私の耳にまで届くほどの、凄まじい歯の根の合わない音。
全身を重い鉄の甲冑で覆い、その隙間まで冷たい泥水をたっぷりと吸い込んだ男たちが、唇を紫色に変色させ、青白い顔をしてガタガタと震えている。
ある者は寒さのあまり膝を抱えて丸まり、ある者は泥まみれの戦友同士で肩を寄せ合って体温を分け合おうとし、先頭にいる筋骨隆々たる巨漢の将軍に至っては、泥水から顔だけを出して虚ろな目で天を仰ぎ、カタカタと震えながら涙を流していた。
「…………」
私は、ドン引きした。
背筋を駆け上がる、猛烈な悪寒と生理的嫌悪感。
「……う、うわぁぁぁぁぁぁ……っ!! 汚っっっっっっっっっない!!!!」
思わず手すりから二歩、三歩と飛び退いた。
両手で自分の身体を抱きしめ、露骨に顔をしかめる。
「なんなのあれ!? バイオハザード!? 沼地から湧いて出た泥ゾンビの群れかしら!? あんなドロドロの泥人間たちが、うちの離宮の目と鼻の先に何千人も溜まっているだなんて、視界に入るだけで猛烈に気分が悪くなるじゃないの!!」
心底からの悲鳴だった。
せっかく!
せっかく空気を洗い、庭をピカピカにし、清涼な高原の風を満喫しようとしていたのに!
テラスから優雅に夕日を眺めようとしたら、眼下に五千人の泥まみれの屈強な男たちが、ガタガタ震えながら蠢いているのだ。これほど凄惨な視覚的暴力が、この世のどこにあるというのか。
だが、問題は視覚的な不快感だけではなかった。
前世の社畜時代に培われた、私の「衛生管理と自己保身のセンサー」が、けたたましく警報アラームを乱打し始めたのだ。
(待って……? 濡れたまま、あの極寒の高原の風に晒されている……?
標高千五百メートルで、日没後の気温は一桁台……。
あんな状態で放置されたらどうなる!?)
――脳裏に蘇る、前世の冬のオフィスの悪夢。
年末の繁忙期、誰かが「ちょっと寒気がする」と言いながら無理して出社した結果、社内で新型インフルエンザが爆発的に蔓延!
フロアの半分がバタバタと高熱で倒れ、残された社員に二倍、三倍のデスマーチ業務が雪崩れ込み、阿鼻叫喚のパンデミック地獄と化した、あのトラウマ!!
(風邪よ……! 集団感冒! そして最悪の場合は、高原の悪質な集団疫病に発展するわ!!
あんな不潔極まりない泥人間たちが、うちの敷地の前で集団でゴホゴホと咳き込み始めたらどうなるのよ!?
飛沫感染よ! 空気感染よ!
もしあの病原菌の嵐が、風に乗ってこの離宮に吹き込んできたら……私のこのデリケートな喉と気管支が、一瞬で汚染されてしまうじゃないの!!)
絶対に嫌だ。
風邪を引いたら、喉が痛くてプリンも食べられない。
高熱を出したら、頭がガンガンして快適な昼寝どころではなくなる。
有給休暇の最大の敵は、病気による「病気休暇への強制振替」なのだ!
「あり得ない……! あんなバイオテロの温床みたいな集団を、うちの庭先に放置しておくわけにはいかないわ!!」
私の怒りと危機感のメーターが、一気にレッドゾーンへと振り切れた。
追い払わなければならない。
一刻も早く、あの不潔な泥人間どもを、私の視界から、そしてこの離宮の空気圏内から、物理的に完全排除しなければならない!
「リディエ!!」
「はっ、ここに」
「離宮の管理執事と使用人たちを全員、今すぐここへ呼び集めなさい!! 一秒の猶予もないわよ!!」
私の血相を変えた叫びに、リディエは即座に踵を返し、館の奥へと疾走した。
***
数分後。
離宮のテラスの下、中庭に集められたのは、青ざめた顔の管理執事ハンスをはじめとする、十数名の離宮使用人たちだった。
彼らは眼下に広がる泥まみれの帝国軍の姿を見て、完全に腰を抜かしかけていた。
「お、お嬢様……! て、帝国軍が……あの恐ろしい鉄騎兵団が、門前を取り囲んでおりますぞ……! い、いかがいたしましょう、王都の本邸へ救援要請の魔導通信を――」
「救援なんて呼んでる暇があったら、私の話を聞きなさい!!」
私はテラスの手すりから身を乗り出し、扇子をビシッと下へ突きつけて怒鳴り散らした。
「ハンス! この離宮の備蓄倉庫を今すぐ開けなさい! 冬場を越すために倉に眠っている【防寒用の毛布】が山ほどあるはずでしょうが!!」
「は、はひぃっ!? も、毛布でございますか!? 確かに、領民への越冬配給用として、上質な羊毛の毛布が数千枚ほど保管されておりますが……」
「ありったけ放り投げなさい!!」
「……は?」
ハンスが間の抜けた声を漏らした。
「聞こえなかったかしら!? 倉にある毛布を全部引っ張り出して、あそこの門前の泥人間ども目掛けて、片っ端から投げつけてやりなさいって言ってるのよ!!」
私は地団駄を踏みながら、矢継ぎ早に命令を叩きつけた。
「いいこと!? あんな濡れ鼠の泥人形どもを放置して、風邪でも引かれて、この離宮に疫病でも持ち込まれたら私の安眠と美肌が台無しになるじゃないの!! 一枚残らずくれてやるわ! 泥を拭かせて、身体をくるませなさい!」
それだけではない。
私の脳裏に、さらなる「不要在庫の処分案件」が閃いた。
「それから、厨房よ!! 昨日、私が到着する前に料理長が張り切って作りすぎて、結局余って冷蔵魔導庫で腐りかけている【前日の大鍋の野菜スープ】があるでしょうが!!」
「あ、はい……根菜と牛肉のポトフ風スープが、大樽に三つほど残ってございますが……」
「全部温め直して、大鍋ごとあいつらにぶちまけて……じゃなくて配ってきなさい!! もったいないから捨てられずにいたゴミ同然の残り物よ! ちょうどいいからあいつらの胃袋に押し付けて処分しなさい!!」
私はテラスから、眼下でガタガタ震えている泥人間たちを指差した。
そして、前世のブラック企業で、納期直前の現場に理不尽な怒号を浴びせかけていた鬼部長の形相を完全再現しながら、夕暮れの山並みに木霊するような大音声で言い放ったのだ!
「とにかく腹を満たして! 体を拭いて! 温かいものを腹に流し込んだら――一秒でも早く、私の視界から消え失せなさいッッ!!!!」
***
「…………ッッッッ!!!!」
峡谷の入り口、冷え切った泥濘地の上で。
凍死寸前の寒さにガチガチと歯を鳴らしていたバルディニア帝国鉄騎兵団長、ゴットフリート将軍の全身に、雷撃のような衝撃が走った。
夕闇が迫る空の下。
遥か山頂にそびえる白樺の離宮のテラス。
そこに仁王立ちし、夕日の残光を背負って深紅の瞳をギラつかせながら、大音声で叫んでいる絶世の少女の姿があった。
『防寒用の毛布をありったけ放り投げなさい!!』
『大鍋のスープを全部配りなさい!!』
『とにかく腹を満たして、体を拭いて、一秒でも早く消え失せなさい!!』
その凛々しく、大地を震わせるような怒声を聞いた瞬間。
ゴットフリートの、そして泥水に浸かっていた五千の兵士たちの息が、喉の奥でピタリと止まった。
「……な……」
ゴットフリートの唇が、震える。
耳を疑った。
自分たちは何者だ?
他国の国境を不法に侵犯し、あのお方の命を狙い、離宮を制圧して人質に取ろうと目論んだ、紛れもない【侵略者】であり、【卑劣な敵軍】だ。
敗北した今、武装解除された自分たちを待っているのは、冷酷な処刑か、地下牢での過酷な拷問、あるいは見せしめの虐殺のはずだった。
それなのに。
あのお方は、今、何と仰った……?
――ガタゴト、ガタゴトッ!
離宮の頑重な鉄の正門が、ゆっくりと左右に開かれた。
そこから現れたのは、武装した迎撃部隊などでは断じてなかった。
離宮の使用人たちが押す、何十台もの大型荷車。
その荷車の上には――夕暮れの冷気を遮るように、うずたかく積み上げられた、公爵家特注の極上の厚手ウール毛布の山!
さらに、荷車の中央に鎮座する巨大な銅鍋からは、もうもうと湯気が立ち上り、じっくりと煮込まれた牛肉と根菜、そして香草の、胃袋を直接鷲掴みにするような温かく芳醇な香りが、泥濘地いっぱいに広がってきたのだ。
「ひ……」
最前列にいた若い帝国兵の目から、ポロリと大粒の涙が零れ落ちた。
手渡されたのは、泥を吸った肌を優しく包み込む、ふかふかで清潔な純白の羊毛毛布。
そして、湯気を立てる木製の深皿に、並々と注がれた熱々の具沢山野菜スープ。
「あ……温かい……。神よ……温かいぞ……ッ!」
兵士の一人が、震える手で木匙を口に運んだ。
一口すすった瞬間、凍えきっていた食道から胃袋へと、奇跡のような温もりがじわりと染み渡っていく。
野菜の甘み。肉の旨味。塩気。
低体温症で死にかけていた五千の男たちの肉体に、生命の火が再び灯された瞬間だった。
「う……うわああああああああっっっ!!」
泥濘地のあちこちから、男たちの嗚咽と号泣が爆発した。
屈強な兵士たちが、泥だらけの顔を毛布に埋め、スープをすすりながら、子供のように声を上げて泣きじゃくっている。
「我らを……我らを助けてくださった……!」
「敵である我らに……凍え死ぬ寸前だった我らに、毛布を与え、温かな食事を恵んでくださった……!」
「…………っ」
ゴットフリート将軍は、差し出されたスープ皿を両手で受け止め、泥の上に深々と額を擦り付けた。
熱い涙が、泥で汚れた頬を激しく洗い流していく。
(……敗者を……辱めず……)
ゴットフリートの胸を、言葉にならない激しい慟哭が締め付けた。
耳の奥で、テラスからのエレオノーラの怒声が、何度も、何度もリフレインしていた。
『一秒でも早く、私の視界から消え失せなさい!!』
(あのお方は……あえて、あのような乱暴な悪態を演じておられるのだ……!)
ゴットフリートの脳内で、常人の想像力を遥かに超越した【狂気の神聖解釈】が、完璧な論理となって組み上がっていた。
(もし……もしあのお方が、慈悲深い聖女として優しく施しを与えていたらどうなる?
我ら帝国軍の武人のプライドはズタズタに引き裂かれ、施しを受け取ることすら恥じて、寒空の下で凍死を選んだかもしれん……!
だからこそ! あのお方は自らを『我が儘な悪女』に仕立て上げ、『汚いから消えろ』と怒鳴りつけることで……我らのプライドを守り、言い訳を与えてくださったのだ!)
『命令だから食べるのだ』
『早く立ち去れと怒られたから、毛布を被るのだ』――と!
(どこまで……どこまで深く、どこまで気高い御心なのだ……ッ!!)
ゴットフリートは震える手でスープを最後の一滴まで飲み干すと、泥まみれの全身に力を込め、ガバッと立ち上がった。
そして、遥か頭上のテラス――腕組みをして不機嫌そうに見下ろしている、あの深紅の瞳の少女に向かって。
ドサァッッッッ!!!!
鎧の膝を泥の中に力任せに打ち付け、帝国軍の最高礼――【絶対服従の平伏】を捧げたのである。
「エレオノーラ様ァァァッッッ!!!!」
夕暮れの山並みを引き裂く、歴戦の猛将の絶叫。
それに呼応するように、毛布にくるまった五千の鉄騎兵たち全員が、スープ皿を置き、一斉に泥濘地の上に頭を擦り付けて平伏した。
「「「エレオノーラ様ァァァッッッ!!!!」」」
地鳴りのような賛美の咆哮。
五千の男たちの瞳に宿っていたのは、侵略者の野心などでは断じてなかった。
己の命を救い、武人の魂を救ってくれた、現世に降臨せし唯一無二の神に対する――純度一万パーセントの、絶対の信仰の光だった。
***
「……えっ?」
一方、テラスの上で腕組みをしていた私は。
眼下で突如として巻き起こった、数千人規模の集団土下座と大合唱を目の当たりにして、完全に思考が停止していた。
「な……何なの、あれ……?」
頬が引き攣る。
え?
何?
私はただ、倉庫で埃を被っていた毛布を投げつけ、昨日から残っていた傷みかけの野菜スープを「残飯処理」として押し付け、「汚いから早く消えろ」と罵倒しただけなのだが。
なぜ、あいつらは泣いているのか?
なぜ、泥の上に頭を擦り付けて、私の名前を神仏のように連呼しているのか?
前世で言えば、ファミレスの厨房で余った廃棄寸前のスープと使い古しの雑巾を客に投げつけて「二度と来るな!」と怒鳴り散らしたようなものだ。普通なら激怒して警察を呼ぶ場面である。
「リディエ……あの人たち、スープに毒でも入っていたのかしら? なんか集団ヒステリーを起こしているように見えるのだけれど」
「いいえ、お嬢様。毒などは一切含まれてございません。お嬢様の放たれた深淵なる慈愛の叱責が、侵略者たちの凍てついた魂を、芯から撃ち抜いたものと推測されます」
「叱責に慈愛なんて一ミリも入ってないわよ!! 純度百パーセントの八つ当たりよ!!」
私の悲痛なツッコミなど、夕暮れの空へと虚しく吸い込まれていく。
眼下では、泥まみれのゴットフリート将軍が、何やら懐から羊皮紙を取り出し、涙をボロボロと流しながら、テラスの私に向かって高々と掲げているのが見えた。
(……待って。あの将軍、なんか持ってるんだけど……?
血で汚れた紙……? 何あれ、まさか呪いの手紙……!?)
悪役令嬢エレオノーラの「残飯と不要毛布の押し付け」という名の八つ当たりは。
男たちの重すぎる信仰心によって、またしても国家の歴史を揺るがす【決定的な降伏劇】へと、音を立てて雪崩れ込もうとしていたのである。




