第43話:押し流される五千の鉄騎兵と、泥まみれの将軍
――ズッシャァァァァァァァァァァンッッッッ!!!!
それは、落雷の轟音でも、火山の噴火でもなかった。
天から地へと叩き落とされた、数百万トンを超える「超高圧の神聖水塊」が、アウグスブルク高地の峡谷街道そのものを真っ二つに叩き割らんばかりに炸裂した衝撃音だった。
白樺の離宮の庭園。
私が両手を押し当てた小さな真鍮製スプリンクラー操作盤から、怒涛の勢いで噴き上がった白銀と青碧の奔流。
前世の社畜時代、年末の大掃除で駐車場の頑固な苔とヘドロを吹き飛ばすために導入された「超高圧ジェット洗浄機」の噴射水流を、そのまま数万倍に巨大化させたような水の巨壁が、空を覆い尽くしていた。
幅五百メートル、高さ百メートル。
太陽の光を浴びてキラキラと神々しく輝きながらも、その実態は岩石をも分子レベルで削り砕く質量兵器そのものの超高圧水流波が――白樺の離宮の敷地境界線を、寸分の狂いもなく【絶対安全ライン】として飛び越え、前方から突進してきていた黒光りする軍勢目掛けて、垂直にド迫力の崩落を開始したのだ。
「う……うわあああああああああああああああっっっ!?」
「水だッ!? 天から湖が落ちてくるぞォォォォォッッッ!?」
街道を埋め尽くしていたバルディニア帝国鉄騎兵団の兵士たちが、喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。
逃げようとする。
だが、逃げられるはずがなかった。
彼らの背後は切り立った峡谷の一本道。左右は険しい岩肌。
そして何より――彼らが誇りとして身に纏っていたのは、いかなる矢も刃も通さぬと豪語していた、全身を隙間なく覆う漆黒の特厚重装甲冑だったのだ。
自重だけで数十キロ。騎乗する軍馬の装甲を含めれば、一騎あたり数百キロに達する鉄の塊。
急停止すらままならない猛烈な突進慣性のまま、彼らは眼前にそびえ立った「青い絶望の滝」へと、真正面から突っ込む形となった。
ドッバァァァァァァァァァァァァァンッッッッ!!!!
激突の瞬間、大気が白く弾け飛んだ。
先頭を走っていた重装騎兵数百騎が、まるで巨大なトラックに撥ね飛ばされたかのように、馬ごとまとめて十メートル以上も垂直に跳ね上げられた。
続いて、怒涛の勢いで雪崩れ込んできた本流。
ゴオオオオオオオオオオッ!という地響きとともに、白銀の濁流が街道を埋め尽くし、五千の鉄騎兵たちを一瞬にして呑み込んでいく。
「ぶべらっ!?」
「あばばばばばばばばばばばっっ!?」
鋼鉄の盾も、身の丈を超える長槍も、巨岩を叩き割る戦斧も、神聖水流の暴力的な圧力の前には木の葉同然だった。
兵士たちの手から武器が次々と弾き飛ばされ、濁流の底へと消えていく。
重装甲冑の隙間という隙間から、容赦のない勢いで高圧の水が侵入し、鎧の内部を満たしていく。
頑丈無比を誇った漆黒の甲冑は、今や彼らを水底へと引きずり落とし、自由を完全に奪い去る「身動きの取れない鉄の棺桶」へと成り果てていた。
「た、隊長ォォォッ! 流されるぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
「馬が……馬が泳げねえええええええええっ!!」
五千の精鋭部隊。
帝国の主戦派が誇り、周辺諸国を恐怖の底に叩き落としてきた無敵の鉄騎兵団は――剣を一筋交えることも、槍を一撃繰り出すこともなく。
ただただ、超巨大なウォータースライダーに強制搭乗させられた哀れな乗客のように、白泡を吹き上げる激流に揉まれながら、峡谷の坂道を下へ、下へと、猛烈なスピードで綺麗サッパリ押し流されていったのである。
***
「……ぷはぁっ!」
ゴボゴボと音を立てて渦巻く泥水の中から、必死の形相で顔を突き上げたのは、鉄騎兵団長ゴットフリート将軍だった。
歴戦の猛将の面影など、そこには欠片も残っていなかった。
自慢の豪奢な兜は激流に持っていかれて頭頂部は剥き出し、額からは泥水が滴り落ち、口の中にはジャリジャリとした砂と水草がみっしりと詰まっている。
「ゲホッ! オエッ! がはっ……! な、なん……だと……!?」
ゴットフリートは手足をバタつかせようとしたが、重装鎧にたっぷりと溜まった泥水が重すぎて、腕を持ち上げることすら困難だった。
水流の勢いは凄まじかった。
白樺の離宮の正門前から、峡谷の傾斜を一気に滑り落ちること数キロメートル。
彼らがようやく吐き出されたのは――アウグスブルク高地の麓に広がる、底なし沼のような広大な【泥濘地】だった。
ジャバジャバジャバ……ザザァァァァン……。
ようやく水流の勢いが収まり、泥濘地に静寂が戻りつつあった。
泥の海から、這うようにして上半身をもたげたゴットフリートが、震える両目で周囲を見渡した。
そして――彼の眼前に広がっていた光景は、もはや悪夢という言葉すら生ぬるい、前代未聞の地獄絵図……ならぬ【喜劇の泥沼フェスティバル】だった。
「……ひ、酷い……」
ゴットフリートの喉から、掠れた嗚咽が漏れた。
見渡す限りの泥の海。
そこに、五千の鉄騎兵たちが、まるで田植えを終えた直後の水田のように、頭から泥に突き刺さっていたり、仰向けになって手足をピクピクと痙攣させていた。
重装甲冑が仇となっていた。
泥の中に沈み込んだ兵士たちは、自重の重さで立ち上がることができず、まるでひっくり返った亀のように甲羅(鎧の背中)を泥に擦り付けながら、もがき苦しんでいる。
ある者は、泥水の上に兜だけを出して「ブクブクブク……」と泡を吐き出し。
ある者は、泥に足を取られて四つん這いになり、泥から抜け出そうと両手をバタつかせては、さらに深く泥濘へと沈んでいく。
その姿は、水辺でじたばたと蠢く【カエル】か、泥沼の底に這いつくばる【ザリガニ】そのものだった。
「だ、誰か……引っ張ってくれ……! 鎧が……泥を吸って立ち上がれん……!」
「おい、俺の槍はどこだ!? 剣がねえ! 全部流されたァッ!」
「馬が……馬が泥に埋まって抜け出せねえええええっ!!」
怪我人は、奇跡的なほどにいなかった。
水流そのものが、不思議なほど柔らかく、まるで生き物のように兵士たちを包み込んで運んだため、骨折した者すら一人もいない。
だが――【戦闘能力】は、完全なるゼロだった。
武器はすべて激流の底に流され、馬は泥に腹まで浸かって動けず、兵士たちは重い鉄屑を身に纏ったまま泥の海にプカプカと浮かんでいるだけ。
一国の正規軍五千が、ただの「泥まみれの無力な集団」へと、文字通り一網打尽に無力化されていたのだ。
「ば……馬鹿な……あり得ん……ッ!」
ゴットフリート将軍は、泥を吐き出しながら、震える手で泥濘の地面を爪が剥がれるほど強く掻きむしった。
涙が、泥にまみれた頬を筋となって流れ落ちる。
圧倒的な敗北。
屈辱などという次元ではない。
戦うことすら許されず、ただ「庭の水を撒かれただけ」で、五千の精鋭部隊が壊滅したのだ。
「た……たった一人で……」
ゴットフリートの瞳が、恐怖と畏怖で激しく見開かれた。
遥か山頂――白樺の離宮の方向を見上げ、彼はガタガタと歯の根を鳴らしながら、魂を絞り出すように絶叫した。
「たった一人で……我が鉄騎兵団五千を……!
まるで……まるで、庭の飛び石についた泥埃でも洗い流すかのように……!
一瞬で……死傷者を一人も出さずに、完全に無力化したというのか……ッ!!
こ、これが……これが王国の守護聖女……エレオノーラ・フォン・グランヴェルの力だというのかァァァッッ!!!!」
猛将の絶叫は、泥濘地に空しく木霊し、プカプカと泥に浮く兵士たちの啜り泣きの中へと消えていったのである。
***
――そして、その頃。
激流の起点となった、山頂の白樺の離宮の庭園では。
――プシュー……コポッ。
真鍮製の操作盤から心地よい微小な蒸気が上がり、散水魔導具のノズルがゆっくりと芝生の中へと格納されていった。
「……ふう」
私は操作盤から両手を離し、額に手を当てて小さく息を吐き出した。
手応えは抜群だった。
体内の古代魔力を「高圧洗浄機のジェット水流」のイメージに乗せて注ぎ込んだ結果、庭園のノズルから解き放たれた水流は、見事に前方の空間を綺麗サッパリと洗い流してくれたのだ。
私は庭園の芝生の上へ歩み出ると、満足げに周囲を見渡した。
「……あら、素晴らしいじゃないの!」
思わず感嘆の声が漏れた。
そこには、さっきまでの黄褐色に濁った砂煙の地獄など、微塵も残っていなかった。
空気を濁らせていた土埃は、天を衝く水柱の飛沫によって一粒残らず叩き落とされ、頭上には再び、吸い込まれそうなほどの澄み切ったコバルトブルーの青空が広がっている。
庭園の芝生は、たっぷりと水分を吸い込んで鮮やかなエメラルドグリーンに輝き、高山植物の花々は瑞々しい水滴を花弁に宿してキラキラと光を反射していた。
大気はしっとりと潤い、ひんやりとした清涼なマイナスイオンが庭いっぱいに満ち満ちている。
そして――何よりも。
「静かだわ……」
耳を澄ませても、さっきまで大地を揺るがしていた不快な地響きも、金属の擦れ合う下品な騒音も、野蛮な怒号も、一切聞こえてこない。
聞こえるのは、白樺の梢を渡るサラサラという涼風の音と、噴水の心地よいせせらぎ、そして水浴びを楽しむ小鳥たちの愛らしい囀りだけ。
離宮の正門へと続く街道を見下ろすと、あんなに群がっていた黒光りする集団(カナブンみたいな甲虫の大群)は、影も形もなくなっていた。
どうやら、豪快な水撒きに驚いて、下流のほうへと逃げ帰ってくれたらしい。
道端に残っていた砂埃も綺麗サッパリ押し流され、まるで今朝敷設されたばかりのようにピカピカに洗われた赤土の道が、一本すっきりと伸びているだけだった。
「完璧ね。やっぱり、泥汚れには圧倒的な水量と高圧ジェット洗浄に限るわ」
私は自画自賛の笑みを浮かべ、両手をパンパンと払った。
前世の大掃除のノウハウは、異世界においても完璧に通用したのだ。
害虫を追い払い、空気を洗い、庭をピカピカに磨き上げる。
これにて、私の快適なシエスタ環境の再構築は、百点満点で完了したと言える。
「お嬢様、お怪我はございませんでしょうか」
背後から、リディエが銀のトレイに載せた清潔なリネンタオルを差し出してきた。
相変わらずのポーカーフェイスだが、その瞳の奥には、どこか深遠なる宇宙を見つめるような静かな光が宿っている。
「怪我? 水撒き器のスイッチを押しただけで怪我なんてするわけないでしょうが。それよりリディエ、私のデッキチェアの様子はどうかしら?」
「はっ。お嬢様が展開された魔力障壁の指向性制御により、庭園内部には水滴一滴たりとも逆流してございません。極冷接触冷感シルクマット、低反発ジェルクッションともに、砂埃は完全に除去され、完璧な乾燥状態と清涼感を維持しております」
「よしっ! よくやったわ!」
私はタオルで指先を軽く拭うと、迷うことなく特注のデッキチェアへと歩み寄った。
座面に手を滑らせると、ひんやりとした極上の冷感が指先を包み込む。
ザラつきはゼロ。
湿気もゼロ。
完全に、私が望んでいた理想郷の寝床がそこにあった。
「ふあぁぁぁ……。埃が収まったら、急激にまた眠気が戻ってきたわね」
私は大きくあくびを一つ零すと、ドサリと、心底気だるそうにデッキチェアの上へ身体を投げ出した。
ふわりと沈み込むジェルクッション。
薄手のカシミア毛布を胸元まで引き上げ、深く息を吐き出す。
「リディエ、サイドテーブルの炭酸水を新しく持ってきてちょうだい。さっきのは泥が入っちゃったからね」
「かしこまりました。地下氷室より、新たに氷結抽出いたしました木苺の炭酸水をお持ちいたします」
「ええ、頼むわ……。ふう、やっと静かになったわ。埃も収まったし、空気も洗われて涼しくなったわね……」
私は目を細め、心地よい高原の風に身を委ねた。
王都の灼熱地獄から逃げ出し、半日かけて山奥までやってきた甲斐があったというものだ。
これで邪魔者はすべて消え去った。
夕方まで、誰にも邪魔されずに、至高の二度寝……いや、三度寝を満喫してやるのだ。
「……すぴー……すぴー……むにゃ……だから言ったじゃない、課長……休日に泥靴で人の部屋に上がっちゃダメなのよ……」
デッキチェアの上で、私は秒速で深い深い、泥のような微睡みの海へと沈んでいった。
――しかし。
本人は「お庭の打ち水で埃を払った」くらいの感覚で再び惰眠を貪り始めたその時。
数キロメートル下流の泥濘地では、泥まみれになった敵国の将軍が、彼女の放った「神聖水流」のあまりの慈悲と圧倒的破壊力のギャップに、精神を完全に打ち砕かれていたのである。
***
「……ゴットフリート将軍……」
泥濘地の真ん中。
泥だらけの甲冑を引きずりながら、這うようにしてゴットフリートの元へ辿り着いたのは、部隊の副官だった。
副官の顔面は蒼白を通り越し、青紫色に変色していた。
「……損害の……確認が、取れました……」
「……言え」
ゴットフリートは、泥の上に正座した姿勢のまま、震える唇を開いた。
「……死者は、何名だ。我が鉄騎兵団五千……何名の兵が、あの神代の激流に命を奪われた……?」
覚悟の問いだった。
あのような天変地異の直撃を受けたのだ。
重装鎧を纏った兵士など、溺死するか、水圧で骨を砕かれて圧死するのが道理。
千人か、二千人か。
全滅すら覚悟していたゴットフリートに対し、副官は――信じられないものを見たかのように、ポロポロと涙を零しながら首を横に振った。
「……ゼロ、です」
「……何?」
「死者、ゼロ……! 重傷者、ゼロ……! 軽傷者すら……泥を飲んで腹を下した者が数名いるだけで、五千の将兵全員……一片の骨折すらなく、生存しておりますッ……!!」
「な……に……?」
ゴットフリートの思考が、完全に停止した。
五千の重装騎兵を数キロメートル押し流すほどの巨大水流を叩きつけておきながら。
死者が、ゼロ?
怪我人すら、いない?
「そ、そんな馬鹿なことがあるかッ!? あれほどの質量、あれほどの衝撃波だぞ!? 人間など、肉片すら残らずミンチになっていなければおかしいはずだ!!」
「水が……水そのものが、神聖力を帯びていたのです……!」
副官は泥の地面に額を擦り付け、嗚咽を漏らした。
「流されている最中、激流は我らの身体を傷つけるどころか、まるで柔らかな布のように包み込み、岩に激突する寸前には水圧がクッションとなって衝撃を殺していました……!
それどころか……長旅で疲弊していた兵たちの古傷や筋肉痛が、あの水流を浴びたことで、綺麗サッパリ治癒してしまっているのです……ッ!!」
「…………ッッッッ!!!!」
ゴットフリートの全身に、雷撃のような悪寒が走った。
鳥肌が、全身の皮膚を粟立たせる。
(治癒……!? 敵兵を……我らを謀殺しようと攻め入った侵略軍を、押し流しながら治癒しただと……!?)
ゴットフリートの脳内で、常人の理解を遥かに超えた【深読みの嵐】が吹き荒れた。
(あのお方は……エレオノーラ・フォン・グランヴェルは、最初から全てを計算していたのだ……!
殺すためではない! 我が軍を滅ぼすためではなく……無駄な血を一滴も流さず、ただ戦意のみを完全にへし折るために、あのような神業の古代魔法を行使されたのだ……ッ!)
そう、ゴットフリートには見えていた。
あの離宮の庭先から見下ろしていた、深紅の瞳の少女の姿。
あれは怒りなどではなかった。
道に迷い、無駄な侵略戦争に身を投じようとしていた愚かな帝国軍を――まるで、泥遊びをして服を汚した子供を叱る母親のように、ただ『お清めの水』で洗い流してくださったのだ!
「ああ……神よ……!」
ゴットフリートは泥だらけの両手を天へと掲げ、大粒の涙をボロボロと零した。
「圧倒的な力で我らを打ち倒しながら……その命を奪うどころか、傷一つつけずに包み込んでみせた……!
これが……これが、王国の守護聖女の……本物の慈愛だというのか……ッ!!
我らは……我ら愚かな軍人どもは、一体なんという神仏に刃を向けてしまったのだァァァッッ!!」
泥濘地に響き渡る、歴戦の猛将の慟哭。
五千の鉄騎兵たちは、泥水に塗れ、武器を失いながらも、その胸の中には敗北の屈辱ではなく――人智を超えた聖女の慈愛に対する、絶対的な「信仰」の炎が灯り始めていた。
しかし――。
全身泥まみれになり、武器も食糧も流され、標高千五百メートルの冷涼な風に晒され始めた五千の男たちを、次に待ち受けていたのは。
高地特有の、急速に下がり始める【厳しい寒さ】という現実だった。
ガチガチガチガチ……ッ。
泥水に濡れた甲冑が熱を奪い、兵士たちの唇が急速に紫色へと染まっていく。
その哀れな姿を、昼寝から目覚めた悪役令嬢が再び目撃した時――彼女が放つ「次の理不尽な八つ当たり」が、この泥まみれの軍勢をさらなる狂信の渦へと叩き落とすことになろうとは。
デッキチェアの上で幸せそうに寝言を漏らす元社畜OLは、まだ知る由もなかったのである。




