第42話:お庭の水撒き用スプリンクラー(※古代大洪水級)のスイッチオン
――ザラリ。
指先で撫でた頬に残る、乾いた微粒子の不快な感触。
それは、入念なスキンケアと王都からの逃避行によって手に入れたはずの、私の至高の「美肌」と「安眠」が、無残にも暴力的な土足によって蹂躙された決定的な証拠だった。
「……信じられない。何なのよ、これ……」
白樺の離宮のプライベート庭園。
心地よい高原の風に吹かれ、ふかふかの接触冷感シルクマットに身を沈め、今まさに至高の昼寝へと旅立とうとしていた私の楽園は、わずか数分にして世紀末の砂漠地帯へと変貌を遂げていた。
庭園を取り囲む生垣の向こうから、もうもうと立ち上る黄褐色の砂煙のカーテン。
大地を激しく揺るがす重低音。
そして――。
ジャリッ。
口の中に入り込んだ砂粒が、奥歯の間で忌々しい音を立てて砕けた。
その瞬間、私の頭蓋骨の中で、何重にも張り巡らされていた理性の防壁が、音を立てて木っ端微塵に消し飛んだ。
(砂……! 砂を噛んだわ……!
この私が! 休日に! わざわざ王都から半日も馬車に揺られて山奥まで避暑に来たこの私が……!
なぜ、屋外で泥水をぶっかけられたようなジャリジャリ感を味わわなければならないのよぉぉぉっ!!)
前世の社畜時代、私は幾度となく理不尽な環境破壊に耐えてきた。
春先の強烈な黄砂と花粉のダブルパンチで目と鼻を真っ赤に腫らし、洗車したばかりの軽自動車が翌朝には泥まみれになり、オフィスの換気扇から吹き込んできた埃で喉を痛めながら深夜残業をこなしていた、あの惨めな日々。
だが、今の私はブラック企業のしがない平社員ではない。
国家予算すら動かせるグランヴェル筆頭公爵家の一人娘であり、あり余る財力とチート魔力を持った悪役令嬢なのだ!
なぜ二度目の人生でまで、こんな砂埃の暴力に耐え忍ばねばならないのか!
私はデッキチェアの脇で仁王立ちになり、砂煙の向こう――離宮の正門へと続く街道を睨みつけた。
そこには、黒光りする金属の甲冑に身を包み、身の丈を超える長槍を構えた無数の騎兵集団が、大地を揺るがしながら猛然と突進してくる姿があった。
馬の蹄が巻き上げる赤土の煙。
ギラギラと下品に光る鉄の槍先。
そして、先頭の男が振り回す巨大な戦斧。
「……何なのよ、あの黒光りする集団は。虫? 巨大なカナブンか甲虫の群れかしら? 砂煙を上げて、うちの庭を汚すんじゃないわよ!!」
激昂する私の怒声に、盾のように大団扇を構えていたリディエが、即座に観察眼を光らせて冷静な声で報告を挟んだ。
「お嬢様、あれは昆虫ではございません。漆黒の重装甲冑、胸元に刻まれた双頭の鷲の紋章……間違いなく、隣国バルディニア帝国の主戦派が誇る精鋭部隊【鉄騎兵団】でございます。先頭で戦斧を掲げているのは、団長のゴットフリート将軍かと推測されます」
「知るか!! 将軍だろうがゴキブリだろうが、私の庭に土足で踏み込んで砂煙を撒き散らしている時点で同列の害虫よ!!」
私は足元の芝生を踏みつけた。
見れば、さっきまで青々と瑞々しかった芝生の上には、無残にも赤茶色の砂埃がびっしりと降り積もり、サイドテーブルの上のクリスタルピッチャーに至っては、泥水を注ぎ込まれたかのように茶色く濁り果てている。
私の接触冷感マットはザラザラ。
カシミアの薄手毛布は埃まみれ。
そして何より、私の顔面と首筋が乾燥と土埃によって悲鳴を上げている!
(許せない……! 万死に値するわ!
埃は美肌の天敵! そして何より、私の神聖なるお昼寝の静寂をぶち壊した罪は、いかなる理由があろうとも絶対に免責されないわ!!)
この汚染された空気を、今すぐ清浄化しなければならない。
舞い散る砂埃をことごとく叩き落とし、庭の隅々まで洗い流し、ついでにあの黒光りする騒音の発生源を私の視界から物理的に消し去らねば、安心して二度寝に入ることもできないではないか!
「リディエ!!」
「はっ、お呼びでしょうか」
「この庭の、散水用の魔導具はどうなっているの!? 毎朝庭師が芝生に水を撒くための、あのスプリンクラーよ!!」
私の問いに、リディエは迷うことなく庭園の片隅――大理石の花壇の陰に設置された、真鍮製の操作盤を指し示した。
「噴水広場の地下水脈に直結した、広域自動散水魔導具【アクア・スプリンクラー】でございます。離宮の地下深くから汲み上げた清純な湧水を、魔導ノズルによって庭園全体へ霧状および放水状に散布する機構となっております」
「それよ!! 今すぐスイッチを入れなさい! 最大出力! リミッターを解除して、庭中の埃を一粒残らず洗い流すのよ!!」
「畏まりました。最大散水モードを起動いたします」
リディエが身軽な動作で操作盤へと駆け寄り、真鍮のレバーを力強く引き倒した。
カチリ、と重厚な作動音が響き、庭園の芝生の各所に埋め込まれていた数十基の散水ノズルが、カタカタと音を立てて地上へとせり上がってくる。
そして――。
シュシューーーッ……。
ノズルの先端から、プシューと頼りない音を立てて、白い霧状の水が噴き出し始めた。
高原のそよ風に揺れ、涼やかに芝生を湿らせていく微細なミスト。
普段の庭の手入れであれば、実に風雅で優雅な光景だろう。
だが――。
「……はあ!?」
私は眉間に深い深いシワを寄せ、仁王立ちのまま叫んだ。
「何よそのチョロチョロした水は!! 打ち水じゃないのよ!? 見なさい、あの押し寄せてくる巨大な砂煙の津波を! あんな霧吹きみたいな水圧で、あの猛烈な土煙が落ちるわけないでしょうが!!」
街道の向こうから迫り来る砂埃は、もはや高さ数十メートルの巨大な土壁となって空を覆い尽くさんとしているのだ。
あんな生ぬるいミストなど、届く前に砂煙の熱風で蒸発してしまう。
前世の社畜時代、年末の大掃除でオフィスの頑固な油汚れやヘドロを落とすために導入された、あの奇跡の文明の利器を思い出せ!
そう――【超高圧洗浄機】だ!
そして、火災現場で猛火を力づくでへし折る【消防隊の消火栓ホース】だ!
(水圧が足りないと、泥汚れなんて落ちないのよ!!
汚れを落とす基本は、圧倒的な水量と、対象の表面ごと削り落とすレベルの超・高・圧!
チョロチョロ撒いてる暇があったら、ダバダバと湖ごとぶっかけて、埃の粒子ごと押し流しなさいよ!!)
「どきなさい、リディエ! 私が直接やるわ!!」
私は大股で操作盤へと歩み寄った。
操作盤の中央、真鍮のカバーの奥で淡く青白い光を放っているのは、散水魔導具の心臓部たる【水属性の励起魔石】。
本来であれば、下級魔導士が微小な魔力を流し込み、弁の開閉を制御するためだけの小さな核石だ。
私はその魔石の上へ、迷うことなく白磁のような両手をガシッと押し当てた。
「水圧が足りないなら、圧力を足せばいいだけの話よ!!」
イメージせよ。
前世のテレビ通販で見た、コンクリートの苔を一瞬で吹き飛ばす最強モデルの高圧洗浄機。
水門を一気に開放した瞬間の、何千トンもの水圧が作り出す轟音の濁流。
そして、洗車場のジェット洗車ガンが放つ、鉄板すら凹ませるような超凝縮ウォーターカッター!
(埃を洗い流せ! 空気を洗え! 私の庭に、一片の砂粒も残すんじゃないわよォォォォッッ!!)
ドバッッッッ!!!!
私の体内の魔力回路から、怒りの感情をトリガーにして、規格外の古代魔力が奔流となって解き放たれた。
蛇口をひねるどころではない。
ダムの底を爆破して直結させたかのような、文字通り桁が十個ほど狂い咲いた膨大な魔力エネルギーが、手のひらを通じて、手のひらサイズの小さな散水魔導具の核へと、怒涛の勢いでドバドバと注ぎ込まれていったのである!
――ビキビキビキビキッッッ!!!!
操作盤の真鍮フレームが、過負荷の悲鳴を上げて青白い火花を散らした。
核石は光り輝くどころか、眩い白銀の太陽のように発光し、地下深くへと伸びる魔力パイプを通じて、アウグスブルク高地の底を流れる広大な巨大水脈――千年の氷河が溶け出した無尽蔵の地下水へと、直接その超常の圧力が叩き込まれたのだ!
***
「突撃ィィィッ!! 離宮の庭へ雪崩れ込めッ!!」
その時、白樺の離宮の正門前、わずか百メートル手前。
大地を蹴立てて疾走していたバルディニア帝国鉄騎兵団長、ゴットフリート将軍は、勝利を確信して獰猛な雄叫びを上げていた。
目の前に見えるのは、瀟洒な白亜の洋館と、美しい庭園。
護衛の騎士団の姿はない。
防壁もなければ、迎撃用のバリケードすら存在しない。
庭園の真ん中に、パニックを起こしたのか立ち尽くしている二人の少女の影が見えるだけだ。一人は侍女、そしてもう一人は――あの深紅の瞳を持つ、グランヴェル公爵令嬢エレオノーラ!
(もらったァッ!!)
ゴットフリートは巨大な戦斧を振り上げ、口角を吊り上げた。
(小娘一人、護衛もなしに突っ立っておるわ! 我が五千の鉄騎兵の突進力をもってすれば、離宮の門ごと庭を平らに踏み潰すなど瞬き一つの間よ!
生け捕りにし、帝国の鎖で繋ぎ止めて、我が武名を大陸全土に轟かせてくれるわァッ!!)
兵士たちの士気は最高潮に達していた。
重装甲冑の擦れ合う金属音と、五千頭の軍馬の咆哮が、地鳴りとなって高地を揺るがす。
――だが。
正門の敷居を、先頭の騎兵が跨ごうとした――その、刹那。
――キュイィィィィィィィィィィンッッッッ!!!!
「……ぬ!?」
ゴットフリート将軍の耳朶を、鼓膜を直接針で刺すような、超高周波の金属摩擦音が貫いた。
馬たちが、突如として狂乱したように前足を振り上げ、いななきを上げる。
地響きが、止まった。
いや、止まったのではない。
馬の蹄の音など比べ物にならないほどの、大地の底深く――マグマの爆発すら思わせるような、凄まじい超低周波の唸り声が、足元の岩盤を突き抜けて響いてきたのだ。
「な、なんだ!? 地響き……!? 地震かッ!?」
「しょ、将軍! 前方を見ろッ!! 離宮の庭園が……ッ!!」
副官の悲鳴のような絶叫に、ゴットフリートが視線を跳ね上げた。
そして――彼の眼球が、驚愕のあまり限界まで見開かれた。
「……な……に……?」
離宮の庭園。
その中央に位置する美しい白大理石の噴水、そして芝生の各所に設置されていた無数の散水ノズル。
そこから――。
ドォォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!
噴水ではない。
散水などという言葉は、この世の辞書から永遠に抹消されるべきだった。
大地を粉砕し、天を穿つようにして噴き上がったのは――直径数十メートルに達する、白銀と青碧の光を放つ【超巨大な超高圧水柱】だった。
一本ではない。
十本、二十本、三十本!
庭園のあらゆる散水口から、天へと向かって極太の水の大樹が林立するように噴き上がり、その高度は一瞬にして百メートル、二百メートルを突破して雲の底へと突き刺さった。
巻き上げられていた黄褐色の砂煙など、水柱が放つ凄まじい風圧と衝撃波によって、わずかコンマ一秒で綺麗サッパリと吹き飛ばされ、虚空へと霧散していく。
だが、真の恐怖は、空へと吹き上がった水が重力に従って落ちてくる――その瞬間だった。
「ば……馬鹿な……ッ!? 水が……落ちてこない……!?」
ゴットフリートの喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
空へと噴き上がった数十万トンの水塊は、ただ落下するのではなく――エレオノーラが無意識に込めた「高圧洗浄で前方の汚れを押し流す」という指向性イメージに引きずられ、空中で巨大な【水の壁】へと姿を変えていたのだ。
幅、およそ五百メートル。
高さ、およそ百メートル。
それは、湖一つ分をまるごと圧縮し、垂直に切り立てて立ち上がらせたかのような、圧倒的な水属性の絶壁。
水面は超高圧によって青白く発光し、激しい渦を巻きながら、空気を引き裂く轟音を鳴り響かせている。
「み……水属性の……戦略級……古代魔法……だと……!?」
ゴットフリートの手から、誇り高き巨大戦斧が滑り落ち、カランと虚しい音を立てて石畳に転がった。
歴戦の猛将の顔面から、サーッと血の気が引き、土気色へと塗り潰されていく。
理解が追いつかない。
物理法則が、魔導の常識が、彼の脳内で音を立てて崩壊していく。
「詠唱はどこだ……!? 魔法陣の展開は……!? 儀式魔導の触媒すらなく……! なぜ……なぜただの小娘が、庭先から海一つ分の大津波を呼び出せるのだァァァッッ!?」
五千の鉄騎兵たちが、恐慌を極めて悲鳴を上げた。
逃げようとする。
だが、馬が恐怖のあまり泡を吹いてその場にへたり込み、一歩も動かない。
重厚な装甲が、今や自らを縛る棺桶の重りとなって兵士たちを地面に縫い止めていた。
そして――。
天を衝く巨大な水の絶壁の頂点。
散水ノズルの操作盤に手を当てたまま、不機嫌そうに仁王立ちする深紅の瞳の悪役令嬢が、冷徹極まりない声で、ピシャリと言い放ったのだ。
「……埃ごと、綺麗サッパリ洗い流されなさい!!」
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッッ!!!!
天が崩れ、地が割れた。
百メートル級の超高圧の神聖津波が、怒涛の勢いで前方の街道へ――突進してきた五千の鉄騎兵団目掛けて、垂直に崩落を開始したのである。




