第41話:のどかな昼下がりをぶち壊す、地響きと砂埃の不届き者たち
――サワサワサワ、と梢を渡る風の音が、まるで銀鈴を振るうかのように涼やかに耳朶をくすぐっていた。
王都から小型快速馬車を走らせること半日余り。
急峻な山道を登り詰めた先に開けたアウグスブルク高地は、まさに外界のあらゆる穢れと灼熱から隔絶された、天空の楽園そのものだった。
標高千五百メートル。
見上げる空は抜けるようなコバルトブルーで、雲一つなく澄み渡っている。四方を囲む白樺の原生林からは、フィトンチッドの芳醇な清香が漂い、風が肌を撫でるたびに、王都で毛穴という毛穴にへばりついていたあのねっとりとした湿気と熱気が、嘘のように洗い流されていく。
気温は、まさに理想郷の二十一度。長袖の薄手ブラウス越しに感じる大気は、ひんやりとしていて、吸い込むだけで肺の隅々まで洗われるかのような錯覚を覚えるほどだった。
「……はあぁぁぁぁ。天国。ここが正真正銘の天国だわ……」
グランヴェル公爵家がこの高地に所有する避暑用別荘――通称【白樺の離宮】。
白亜の大理石と自然石を組み合わせて建てられたその瀟洒な洋館の前に広がる、手入れの行き届いた広大なプライベート庭園の中央で、私は至福のため息を深く深く吐き出していた。
庭園には、高山植物の青や紫の可憐な花々が咲き乱れ、中央の噴水からは清らかな湧水が涼やかな飛沫を上げている。
そして――その芝生の特等席に、私の命によって完璧な陣容でセッティングされたのは、前世の高級リゾートホテルのプールサイドすら裸足で逃げ出すレベルの【究極のシエスタ(昼寝)ステーション】だった。
「お嬢様、ご注文のセッティングが完了いたしました」
専属侍女のリディエが、汗一つかかない無表情のまま、優雅に一礼して手元を示した。
芝生の上に設置されたのは、人間工学……ならぬ貴族工学の粋を集めて作られた、無段階リクライニング機能付きの特注デッキチェア。
座面には、帝室御用達の絹織物職人が織り上げたという、肌に触れた瞬間に体感温度を二度下げる【極冷接触冷感シルク】の特製マットが敷き詰められている。
頭部を支えるのは、内部に微細な空気層を含んだ低反発ジェルクッション。
さらに、日差しを完璧に遮断しつつ心地よい木漏れ日だけを透過させる、幅二メートルを超える大判の麻製パラソルが頭上に広げられていた。
サイドテーブルには、離宮の冷涼な地下水でキンキンに冷やされたクリスタルガラスのピッチャー。中には、高地特産の野生の木苺とミントを浮かべた天然炭酸水が、涼しげな水滴を纏ってスタンバイしている。
「素晴らしいわ、リディエ! 完璧よ! あなたの手際の良さには、前世の敏腕コンシェルジュも脱帽するレベルだわ!」
「過分なお言葉、光栄に存じます。離宮の管理人たちには『お嬢様の安眠のため、周囲一キロメートル以内の芝刈りおよび大声での会話を厳禁とする』旨、厳達してございます」
「ナイスよ! 分かってるじゃないの!」
私はご機嫌でデッキチェアへと身を沈めた。
ふわり、と身体が宙に浮いたかのような錯覚。
体重が完全に分散され、腰にも肩にも一切の負荷がかからない。背もたれに体重を預けると、ひんやりとしたシルクの冷感がじわじわと肌を癒やし、高原のそよ風がふわりと前髪を揺らした。
(ああ……これよ。これこそが、ブラック企業で連日終電帰り、ボロアパートの壊れかけのエアコンの生ぬるい風に当たりながら泣いていた私が、夢にまで見続けた本物の【有給休暇】よ……!)
目を閉じると、白樺の葉が擦れ合う微かなざわめきと、遠くの小鳥の囀りだけが鼓膜を揺らす。
王都のような重苦しい湿気はない。
愛が重すぎる王太子レオポルトの熱烈な視線もない。
暑苦しい筋肉を誇示して門前で仁王立ちする騎士団長マティアスも、屋根の上で祈祷を捧げる腹黒神官シルヴァンも、爆発する魔導具を持ち込んでくるヒューゴも、「お姉様ァ!」と泣きついてくる狂信ヒロインのクロエも、ここには誰一人として存在しないのだ。
完全なる、絶対の孤独。
誰にも邪魔されない、私だけの自堕落パラダイス。
「……ふふ。おやすみなさい、下界の喧騒……。私はこれから、日が暮れて肌寒くなるまで、一歩もここから動かずに泥のように眠り狂ってやるんだから……」
私は薄手のカシミア毛布を胸元まで引き上げ、幸せそうに口元を緩めた。
意識が、心地よい微睡みの海へとゆっくり、ゆったりと沈降していく。
夢の中で、冷たい桃のジェラートをスプーンですくおうとした――まさに、その刹那だった。
***
――その時。
白樺の離宮から南へわずか数キロメートル、アウグスブルク高地へと通じる唯一の峡谷街道において。
大地そのものを粉々に踏み砕かんばかりの、暴力的な軍靴の響きが轟いていた。
――ズドドドドドドドドドッッッ!!!!
――ゴオオオオオオオオオオッッッ!!!!
峡谷の断崖に反響する、数千頭の巨馬の蹄音。
大地が悲鳴を上げて軋み、乾いた赤土が巨大な竜巻のような土煙となって天を覆い尽くしていく。
立ち並ぶ木々はなぎ倒され、街道沿いの野鳥や小動物たちは狂乱して四方八方へと逃げ惑っていた。
進軍していたのは、バルディニア帝国の主戦派が誇る最強の機動打撃部隊――【鉄騎兵団】五千。
兵士たちはいずれも、帝国の誇る漆黒の重装甲冑に身を包み、身の丈を超える長槍と重厚な戦斧を携えている。
騎乗している軍馬すらも、額から胸元にかけて鋼鉄の装甲を纏った、体高二メートルを超える凶暴な軍用巨馬。
ただそこを行進するだけで、小国の軍勢なら戦意を喪失して逃げ出すであろう、圧倒的な鉄と暴力の塊だった。
その大軍勢の先頭。
巨大な黒毛の軍馬に跨がり、血に飢えた猛禽のような眼光で前方の山並みを睨みつけていたのは――鉄騎兵団長、ゴットフリート将軍だった。
「進めッ! 速度を落とすな!! 日の高いうちに峡谷を抜け、高地を一気に制圧せよ!!」
ゴットフリートの野太い怒号が、砂塵の嵐を切り裂いた。
彼の胸中には、煮え滾るような憤怒と、底知れぬ野心が渦巻いていた。
先日の使節団の無様な撤退。
歴戦の猛者と謳われたヴァルデマール将軍が、公爵令嬢エレオノーラの「あくび」と「ハエを叩き落とせ」という一言に怯え、条約調印書を放り出して王都から逃げ帰ってきたという醜態。
本国の参謀本部は震撼し、国境部隊に「即時後退」を命じたが――ゴットフリートは、その決定を真っ向から嘲笑い、唾を吐き捨てていた。
(ヴァルデマールの老いぼれめが! 小娘のハッタリ一つに怯え、尻尾を巻いて逃げ出すとは帝国の軍人の風上にも置けぬわ!!)
ゴットフリートは手綱を握る革手袋をギリリと軋ませた。
(小娘のデコピンで森が消えた? 十万の軍勢を一撃で滅ぼす古代魔力? 片腹痛いわ! どうせ王国側の魔導士ども総出で仕掛けた大掛かりな幻影か、誇大妄想のデマに決まっている!
十六歳の小娘が一人で軍勢を滅ぼせるはずがなかろうが!!)
ゴットフリートは好戦派の軍人だ。
平和などクソ食らえ、外交交渉など弱者の戯言。
力こそが正義であり、領土と富は鉄と血によって奪い取るものだと信じて疑わない男だった。
だからこそ、彼は本国の参謀本部の撤退命令を握り潰し、独断で配下の五千の精鋭を動員して越境侵略へと踏み切ったのだ。
そして――何よりも天が味方したとしか思えない僥倖。
潜入させていた密偵からもたらされた、信じがたい極秘情報。
『エレオノーラ・フォン・グランヴェルが、護衛もつけず、侍女一人だけを連れて国境最前線のアウグスブルク高地の離宮へ向かった』
(くくく……! 天は我が鉄騎兵団に味方したぞ!!)
ゴットフリートの唇が、獰猛な三日月を描いて吊り上がった。
(あの傲慢な公爵令嬢め、ヴァルデマールを追い払ったことで完全に油断しよったな! 護衛もなしに国境付近の無防備な別荘で避暑だと? 飛んで火に入る夏の虫とはこのことよ!)
作戦は至極単純、かつ完璧だった。
手始めに、アウグスブルク高地に建つ白樺の離宮を電撃的に急襲・包囲する。
中にいるエレオノーラを生け捕りにし、人質として王国の喉元に突きつけるのだ。
筆頭公爵家の一人娘にして、王太子の婚約者。
彼女の身柄さえ握れば、関税の撤廃どころか、国境領土の割譲、莫大な賠償金、あらゆる帝国の要求を無条件で呑ませることができる。
もし抵抗するならば――その場で首を刎ね、見せしめとして王都の城門に晒し首にしてやればいい。
「公爵令嬢の首を獲り、王国の喉元に刃を突き立ててくれる!!」
ゴットフリートは腰の巨大な戦斧を天へと突き上げ、背後の兵たちを鼓舞するように咆哮した。
「全軍、突撃隊形!! 前方の白樺の離宮を包囲せよ!! 羽虫一匹逃がすなッ!! 帝国の武威を、あの温室育ちの貴族どもに骨の髄まで刻み込んでやれェェェッッ!!」
「「「オオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!」」」
五千の鉄騎兵たちの雄叫びが、アウグスブルク高地の青空を引き裂いた。
大地を蹴立て、猛烈な突進速度で街道を駆け上がる漆黒の大軍勢。
その怒涛の進撃の先――まさに街道の終点に位置する白樺の離宮の庭園へと、狂気的な熱気と砂煙の津波が、一直線に雪崩れ込もうとしていたのである。
***
――ズズズズズズズズズズズズズズ……ッ!!!!
(……んん?)
まどろみの底。
南の島の浜辺で、まさに冷たいパフェの最初の一口を口に運ぼうとしていた私の脳内に、突如として不快極まりない振動が割り込んできた。
ガタガタガタガタッ!
ミシミシッ!
背中を預けていた特注のデッキチェアが、小刻みに、しかし激しく振動している。
サイドテーブルの上のクリスタルピッチャーが、カチャカチャと悲鳴のような金属音を立て、水面に激しい波紋を描いていた。
(……な、何なの……? 地震……?)
私は眉根を寄せ、重いまぶたをわずかに持ち上げた。
だが、揺れは収まるどころか、秒単位で激しさを増していく。
――ズドドドドドドドドドドッッッ!!!!
――ゴオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!
それは、地殻変動の揺れなどでは断じてなかった。
無数の重い質量が、大地を暴力的に叩きつけるような、リズミカルで凶悪な重低音。
そして――何よりも。
ゴホッ! ゲホッ!
「……っ!? な、何これっ!?」
突如として、白樺の木立を吹き抜けて庭園を襲ったのは――高原の爽やかな薫風などではなかった。
もうもうと立ち込める、視界を黄色く染め上げるほどの【凄まじい砂埃の嵐】。
そして、鼻腔の粘膜をチリチリと焼き焦がすような、汗と馬糞と錆びた鉄の混ざり合った、吐き気を催すほどの悪臭だった。
パラパラパラパラッ……!
私の至高のシエスタを彩るはずだった、純白の極冷接触冷感シルクマットの上に。
ふかふかの低反発ジェルクッションの上に。
そして、私の手入れの行き届いた艶やかな黒髪と、スキンケアを終えたばかりの白磁の肌の上に。
容赦のない勢いで降り注ぐ、乾いた赤土の粒子と砂埃。
サイドテーブルの上の冷たい天然炭酸水は、一瞬にして茶色く濁った泥水へと成り果て、周囲に咲き誇っていた可憐な高山植物たちは、吹き荒れる突風に薙ぎ倒されて無残に散らばっていく。
「…………」
静寂。
私の脳内で、前世の社畜時代から幾重にも張り巡らされていた、理性の安全装置が。
――バチィッッッッ!!!!
音を立てて、完全にショートした。
(……砂?)
私はデッキチェアの上で、ゆっくりと、実にゆっくりと上半身を起こした。
指先で、自らの頬をそっと撫でる。
ザラリ。
指先に残る、不快極まりない土の感触。
目を開ければ、さっきまで吸い込まれそうな青空だったはずの天蓋は、茶褐色の巨大な砂煙のカーテンによって完全に覆い隠されていた。
前世の記憶が、濁流となって脳裏を満たす。
――連日の残業で肌荒れに悩み、ようやく奮発して買った高級美白美容液を丁寧に塗り込み、完璧な保湿状態で眠りについた、日曜日の朝。
隣のビルの解体工事が事前告知なしで突如として始まり、開け放っていた窓から大量のコンクリート粉塵と騒音が部屋中に吹き荒れ、布団も、肌も、喉も、すべてがジャリジャリに汚染された、あの絶望と激怒の記憶。
美肌の大敵。
埃。
乾燥。
そして――何よりも、安眠の妨害。
「……なに?」
私の口から、地を這うような重低音が漏れ出た。
低反発クッションを鷲掴みにする指先が、白くなるほど強張る。
「お、お嬢様……! これは、ただ事ではございません!」
リディエが素早く私の前に立ちはだかり、大団扇を盾にして砂煙を遮ろうとした。
しかし、砂埃の量はあまりにも規格外すぎた。
庭園の生垣の向こう――離宮の正門へと続く街道から、地鳴りのような怒号と、金属の擦れ合う轟音が、津波のように押し寄せてくる。
『包囲せよッ!! 離宮の出口を塞げ!!』
『小娘を逃がすなッ!! 生け捕りにせよォッッ!!』
五千の軍勢が上げる、野蛮極まりない雄叫び。
黒光りする無数の槍の穂先が、砂煙の向こうでギラギラと凶悪な光を放ち、大地を揺るがしながら、まさにこの庭園の目と鼻の先へと雪崩れ込んできているのが見えた。
「…………」
私は立ち上がった。
カシミアの薄手毛布が、ハラリと芝生の上に落ちる。
その毛布の端もまた、飛来した砂埃によって薄汚れていた。
私の緋色の瞳に、スーッと、絶対零度の冷気が宿った。
感情の起伏すら通り越した、純度一万パーセントの、ドス黒い殺意の静寂。
「……何なのよ、あれ」
私の声は、驚くほど静かだった。
だが、その一言が発せられた瞬間、周囲の空気がビリビリと激しく震動し、足元の芝生が凍りついたかのように白く霜を帯び始めた。
「せっかく……。
せっかく王都の灼熱地獄から逃げ出して……。
標高千五百メートルの涼しい風を浴びながら……。
誰にも邪魔されずに、至高の昼寝を楽しもうとしていたのに……」
私は組んだ腕の隙間から、庭園の柵を乗り越えて突進してくる黒光りする集団を、般若のような冷酷な眼差しで睨みつけた。
「なに、あの黒光りする集団……? 虫? 巨大なゴキブリの群れかしら?
砂煙を上げて、私の庭を汚して……。
私の接触冷感マットをザラザラにして……。
私の肌を乾燥させて……。
あろうことか、私の神聖なるお昼寝の時間を、土足で踏みにじるだなんて……」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
私の足元から、大気を歪めるほどの無自覚の古代魔力が、漆黒と黄金の陽炎となって立ち上り始めた。
不快指数のメーターは、すでに天元突破していた。
相手が隣国の正規軍だろうが、五千の重装騎兵だろうが、知ったことではない。
今の私にとって、目の前の軍勢は――休日の朝の静けさをぶち壊し、部屋の中に泥靴で踏み込んできた、ただの【万死に値する安眠妨害の害虫ども】以外の何物でもなかったのだ。
「……許さない」
私の唇から、氷柱のように冷え切った宣告が零れ落ちた。
「絶対に……一匹残らず、叩き出してやるわ……!!」
怒髪天を衝いた悪役令嬢エレオノーラ。
彼女の「快適な昼寝環境を取り戻すための理不尽な反撃」の火蓋が、今まさに切って落とされようとしていたのである。




