第40話:王都の夏は蒸し暑すぎるので、国境の山奥へ避暑(逃亡)します
――ジリジリ、ジリジリと、空が焼け焦げるような音が聞こえてきそうだった。
七月半ば。真夏を迎えた王都の気候は、控えめに表現しても「この世の地獄のサウナ風呂」そのものだった。
周囲を緩やかな丘陵に囲まれた盆地地形である王都は、夏になると湿気が一切逃げ場を失って滞留し、大気そのものが煮え滾ったスープのようになって人々の体力を容赦なく削り取っていく。
街ゆく人々は日陰を求めて青息吐息で彷徨い、普段は格式高く背筋を伸ばしている高位貴族たちですら、屋敷の奥で氷嚢を抱えてぐったりと項垂れる季節。
そして――グランヴェル公爵本邸の私の私室でもまた、一人の元社畜OLがベッドの上で完全に液状化していた。
「……あ、つ、い……。溶ける……。私の脳みそが完全にプリンのように液状化して耳から流れ出そうよ……」
天蓋付きのベッドの上、薄手のシルクネグリジェ一枚になった私は、大の字になって天井を見上げていた。
額にはじっとりと汗が滲み、自慢の艶やかな黒髪が首筋にペトリと張り付く。不快指数のメーターがあるならば、今頃針が音を立ててへし折れ、計測器ごと爆発しているところだ。
前世の社畜時代、私は日本の凶悪極まりない熱帯夜と湿気に散々痛めつけられてきた。
だが、前世には人類の叡智の最高傑作――【エアコン(冷房二十四度設定・風量強)】が存在した!
どんなに外が灼熱地獄だろうと、帰宅してリモコンのスイッチをピッピッと押しさえすれば、文明の利器が心地よい除湿された冷風を部屋中に満たしてくれたのだ。
それに比べて、この世界はどうだ。
エアコンがない。
扇風機もない。
アイスクリームは王宮の地下氷室から運ばせる超高級品で、食べるそばからドロドロに溶けていく。
「リディエ……冷風の魔導具はどうなったの……?」
「申し訳ございません、お嬢様。ヒューゴ様が開発された『局所冷却式エーテル循環ファン一号』ですが、王都の極度の湿気を吸い込みすぎた結果、内部の結界石がショートし、先ほど煙を上げて氷漬けになったまま沈黙いたしました」
枕元で大きな氷の塊を銀のボウルに入れ、大団扇でパタパタと風を送ってくれていたリディエが、汗一つかかない涼やかなポーカーフェイスで告げた。
駄目だ。あの天才職人ヒューゴの技術ですら、この王都の凶悪な湿気の前には無力だった。
自前の古代魔力で部屋ごと凍らせる結界を張るという手もあるが、以前エアコン結界を張った結果、地下の千年の瘴気を浄化して神官長シルヴァンを狂信者へジョブチェンジさせたトラウマがある。あの手の魔力放射は、また余計な奇跡を引き起こして周囲の崇拝度を跳ね上げる危険性が高すぎる。
「もう嫌……! 湿度八十パーセント超えの無風状態で、どうやって至高の二度寝を貪れというのよ! 背中とシーツが密着して蒸れるのよ! 寝返りを打つたびに汗でペタペタ鳴るのよ!! こんな劣悪な労働環境……じゃなくて生活環境、労基署に通報してやるわ!!」
私はシーツを蹴っ飛ばし、半狂乱でベッドの上でジタバタと暴れた。
睡眠。それは私の生きる理由であり、二度目の人生のすべてだ。
その睡眠が、ただの「蒸し暑さ」ごときに妨害されるなど、断じてあってはならない!
「クリストフッ!!」
「は、はひぃっ!! お呼びでございますか、お嬢様ァッ!!」
扉が開き、首から冷感タオルを巻き、右手に胃薬を握りしめた筆頭執事クリストフが転がり込んできた。
「クリストフ、我がグランヴェル家の領地台帳を持ってきなさい! 今すぐよ!!」
「り、領地台帳でございますか!? は、ただちに!!」
数分後、クリストフが抱えてきた分厚い羊皮紙の帳簿を、私はベッドの上に乱暴に広げさせた。
指先でページを猛烈な勢いでめくっていく。
あるはずだ。王家をも凌ぐ権勢と財力を誇る筆頭公爵家なのだ。王都の灼熱地獄から逃れるための、涼しい場所の一つや二つ、持っていないはずがない。
「……あったわ!!」
私の指先が、帳簿の北端――王国の北の山岳地帯に記された一つの離宮の名でピタリと止まった。
「【アウグスブルク高地・白樺の離宮】……! 標高千五百メートル、清流の源流に面し、夏でも最高気温は二十度前後、夜には暖炉が必要なほどの涼風が吹き抜ける……!」
私の瞳が、砂漠でオアシスを見つけ出した旅人のようにギラギラと輝いた。
これよ。
これこそが、私の求めていた約束の地だわ!
標高千五百メートル!
天然のクーラー!
湿気ゼロの高原の風!
木々のざわめきを聞きながら、カシミアの薄手毛布にくるまり、窓を開け放って一日中ゴロゴロ読書とお昼寝を満喫する……!
想像しただけで、脳内からエンドルフィンがドバドバと溢れ出てくる。
「決めたわ! クリストフ、今すぐ出発の準備をしなさい! 私はこの白樺の離宮へ避暑に向かうわ!!」
「えっ!? ひ、避暑でございますか!?」
クリストフが目を白黒させて帳簿を覗き込んだ。
「し、しかしお嬢様! このアウグスブルク高地は、我が国の最北端……隣国バルディニア帝国との国境に極めて近い山岳地帯でございますぞ!? 道中の山道は険しく、王都のような豪奢な設備もございません! 避暑であれば、南の保養地や湖水地方の別荘のほうが……」
「南なんて論外よ! 南はもっと暑いに決まってるでしょうが! 私が求めているのは『涼しさ』なの! 山! 高原! ひんやりした空気! それ以外は一ミリも妥協しないわ!!」
私はベッドから飛び降り、拳を握りしめて力説した。
国境に近い? そんな地理的な些事など、涼しい風の前にはハエの羽音ほどの重みもない。
それに、王都を離れることには、もう一つ特大のメリットがあった。
(……そうよ。王都にいたら、あの愛が重すぎる男たちに四六時中包囲されるんだもの!)
王太子レオポルトは隙あらば公爵邸へ高級スイーツを送りつけてきて「君のために公務を片付けてきた」と執務室に居座ろうとする。
近衛騎士団長マティアスは「聖女様の安寧を守る」と称して門前で仁王立ちし、神官シルヴァンは屋根の上で二十四時間祈祷を捧げ、ヒューゴは珍妙な魔導具を搬入し、クロエは「お姉様ァ!」と泣きながら突撃してくる。
息が詰まる。
暑苦しい。
物理的な暑さに加えて、男たちの情熱の熱気で公爵邸の室温が体感五度くらい上がっているのだ。
「いい、クリストフ。今回の避暑は【完全なるお忍び】よ。大掛かりな馬車隊や護衛の騎士団なんて連れて行ったら、準備に何日もかかるし、道中が暑苦しくてたまらないわ。供はリディエ一人で十分よ! 荷物も最小限、着替えと本とクッションだけを積んで、今すぐ出発するわよ!!」
「お、お嬢様ァァァッ!? 公爵令嬢様が侍女一人だけで国境付近へ向かうなど、前代未聞の暴挙でございますぞッ! せめて公爵閣下のご許可を――」
「お父様には『ちょっと涼しいところへ昼寝に行ってきます、探さないでください』って手紙を置いておけばいいわ! さあリディエ、荷造りよ! 三十分で終わらせなさい!!」
「畏まりました。夏用の薄手羽毛布団と、お昼寝用アイマスクを最優先でトランクへ詰め込みます」
リディエの手際の良さは神がかっていた。
私の号令からわずか四十分後。
公爵家の裏門から、目立たない濃紺の一頭立ての小型快速馬車が、砂埃を上げて猛スピードで王都を脱出していったのである。
御者台には手練れの御者、車内には私とリディエ、そして山のようなお昼寝グッズ。
「ふふ……あははは! 脱出成功よ!!」
馬車の窓から遠ざかる王都の街並みを眺めながら、私は勝利の美酒……ならぬ冷たい麦茶をごくごくと喉に流し込んだ。
さらば、灼熱の蒸し風呂都市!
さらば、重すぎるストーカー軍団!
待っていて、私の愛しの高原リゾート! 誰にも邪魔されない至高の自堕落ライフが、私を呼んでいるわ!!
――しかし。
私が「涼しい場所で昼寝したい」という純度百パーセントの欲望だけで王都を飛び出したその時。
残された王宮の中枢では、文字通り国家の存亡を揺るがすレベルの、前代未聞の大パニックが爆発していたのである。
***
「……何だとッ!? もう一度言ってみろ、マティアス!!」
王宮、最上階の王太子執務室。
ドガァァァンッ!と執務机を両手で叩き割らんばかりの勢いで立ち上がったのは、王太子レオポルトだった。
その美貌は蒼白を通り越して血の気を完全に失い、碧眼には狂乱と恐怖の炎が燃え盛っている。
部屋の中央では、近衛騎士団長マティアスが、砂塵にまみれた甲冑姿のまま片膝をついて深々と頭を垂れていた。
マティアスの引き締まった唇は激しく震え、その手には、公爵邸の私室に残されていたという一枚の置き手紙が握られていた。
「はっ……! 今朝午前十時、エレオノーラ閣下はわずかな身の回りの品と侍女一人だけを伴い、お忍びの快速馬車にて公爵邸を出立されました。……向かわれた先は、最北端の国境山岳地帯、【アウグスブルク高地】でございます!!」
「アウグスブルク……!? なぜだ、なぜあんな最果ての地にエレオノーラが!?」
レオポルトが頭を抱えて呻いた。
その時、部屋の扉がバタンと勢いよく開け放たれ、純白の法衣を乱した筆頭神官シルヴァンが、青ざめた顔で滑り込んできた。
シルヴァンの手には、神殿の情報網が捉えた緊急の軍事観測報告書が握りしめられている。
「殿下! マティアス卿! 神殿の星象観測班より緊急電報です! ……アウグスブルク高地の国境の向こう側、帝国の領内において、大規模な軍勢の移動が観測されました!」
「……何だと!?」
マティアスが弾かれたように顔を上げた。
シルヴァンは息を荒らげ、冷徹な仮面をかなぐり捨てて叫んだ。
「先日の使節団の決裂、そしてヴァルデマール将軍の無様な撤退を受け……帝国軍の主戦派、ゴットフリート将軍率いる【鉄騎兵団】五千が、独断で越境侵略の構えを見せております! 奴らは国境の防備が手薄なアウグスブルク高地を電撃突破し、手始めにグランヴェル家の離宮を制圧して、王国の喉元へ刃を突き立てる腹積もりです!!」
「な……何てことだ……ッ!!」
レオポルトの背筋に、巨大な氷柱が突き刺さった。
帝国の精鋭五千による電撃侵略。
そして――その侵攻ルートのまさにド真ん中、防衛部隊もいない無防備な離宮へ向かって、エレオノーラが単身で向かっている。
――その瞬間。
部屋にいた三人の男たちの脳内で、常人の理解を遥かに超越した、猛烈な【深読みの連鎖爆発】が発生した。
「……ま、さか……」
マティアスが、大剣の柄を握りしめ、ワナワナと肩を震わせた。
その琥珀色の瞳から、大粒の熱い涙がポロポロと零れ落ちる。
「……あのお方は……エレオノーラ閣下は、最初から知っておられたのだ……!」
「え……?」
「先日の会談を思い出せ! エレオノーラ閣下は、ヴァルデマール将軍を前にして『耳元でブンブンうるさい蠅は、叩き落とすに限る』と言い放たれた! あのお言葉は……使節団への威嚇などではなかったのだ!」
マティアスは床を拳で殴りつけた。
ドォン!と鈍い音が響く。
「あのお方は……使節団の失敗に焦った帝国の主戦派が、暴発して国境を越えてくることを、あの瞬間にすでに完全に予見されていたのだ! もし王宮が軍を動かせば、全面戦争の口実を帝国に与えてしまう……! だからこそ! あのお方はあえて護衛もつけず、公爵家の私兵も動かさず……ただ一人で、自らを【囮】にして前線へ赴かれたのだッ!!」
「お、囮だと……!?」
レオポルトが息を呑んだ。
脳裏に浮かぶのは、あの凛々しく、誇り高い深紅の瞳の少女。
(エレオノーラ……! お前は……お前という女性は、どこまで……どこまで国を愛し、どこまで自分を犠牲にすれば気が済むのだ……ッ!!)
レオポルトは胸を掻きむしった。
激痛。引き裂かれるような愛おしさと、己の無力さに対する慟哭。
敵は五千の重装騎兵。
いくらエレオノーラが規格外の古代魔力を持っていようとも、彼女はたった十六歳の華奢な少女なのだ。
それを、一国の王家が、軍が、神殿が気づかぬ間に、たった一人で背負い込み、敵の大軍が押し寄せる最前線の山奥へと、命を投げ出す覚悟で立ちはだかろうとしている。
『ちょっと涼しいところへ昼寝に行ってきます、探さないでください』
あの置き手紙の文字が、レオポルトの目には、もはや「生きて帰れるか分からぬ戦場へ向かう者の、悲壮なる遺書」にしか見えなくなっていた。
『昼寝』――すなわち、永遠の眠り。
『探さないで』――すなわち、己の死を悼んで国を乱すなという、至高の遺言。
「ああ……神よ……!」
シルヴァンが膝をつき、胸の前で固く手を組んで天を仰いだ。
「自らの命を薪として投げ打ち、民を戦火から守るための【愛国的な親征】……! あのお方こそが、我が信仰のすべて……本物の、現世に降臨された守護聖女様だ……ッ!!」
「うおおおおおおおおっっっッッッ!!!!」
レオポルトは咆哮した。
腰の宝剣を抜き放ち、刀身を天へと突き上げる。
その瞳には、もはや理性のリミッターなど欠片も残っていなかった。
愛する女が、命を賭けて戦場へ向かったのだ。
男として、王太子として、ここで動かねば何のための剣か! 何のための王権か!
「全軍に通達ッ!!」
レオポルトの怒号が王宮の廊下を突き抜けた。
「近衛騎士団の全戦力を直ちに召集せよ! 王城の守備兵、神殿の神聖騎士団、動かせる兵は一兵残らずアウグスブルク高地へ急行させろ!! 馬を潰せ! 車輪を焼き切れ! エレオノーラの髪の毛一本、敵の刃に触れさせてなるものかァァァッッ!!」
「はっ!! 近衛第一、第二騎兵連隊、ただちに出撃いたします!!」
「神殿の全結界班を招集! 最速の神聖軍馬で殿下に続きます!!」
王都が、蜂の巣をつついたような未曾有の軍事動員へと突入していった。
近衛の軍靴の音が石畳を揺らし、白銀の騎兵隊が砂煙を上げて北の街道へと雪崩を打って出撃していく。
国家の最高戦力が、ただ一人の少女を救うためだけに、狂乱の進撃を開始した瞬間だった。
***
――そして、その頃。
王都を遠く離れ、北へとひた走る快速馬車の車内では。
「ふあぁぁぁ……涼しい! 風が! 風が生き返るように涼しいわぁぁぁっ!!」
私は馬車の窓から身を乗り出し、高原の爽快な空気を胸いっぱいに吸い込んでいた。
標高が上がるにつれて、あの王都のドロドロとした湿気と熱気は嘘のように消え去り、窓から吹き込んでくるのは、針葉樹の清々しい香りを孕んだひんやりとした天然の冷風。
気温はまさに二十度前後。長袖のブラウス一枚でちょうど心地よい、奇跡の気候である。
「リディエ、見て! あの青空! あの白樺の木立! 完璧よ! 私の選択は大正解だったわ!!」
「お嬢様がご機嫌麗しく何よりでございます。間もなく、目的地たる白樺の離宮へと到着いたします」
リディエが銀の小皿に盛り付けた、冷たい巨峰の粒を差し出してくる。
それを一つ口に放り込むと、弾けるような果汁の甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。
「んん〜っ! 美味しい! 最高ね! 着いたらすぐに庭園にリクライニングチェアを出させましょう! ふかふかのクッションを敷いて、高原の風を浴びながら、夕方までぶっ続けで昼寝をするのよ!!」
私は満面の笑みを浮かべ、シートの上でご機嫌に足をパタパタと揺らした。
背後の王都で、王太子と騎士団長と神官長が「聖女様の親征だ!」「命に代えても守り抜く!」と血眼になって軍勢を率いて爆走してきていることなど。
そして――自分が向かっているその離宮の目と鼻の先に、隣国の好戦的な将軍率いる【鉄騎兵団五千】が、まさに獲物を狙う牙を剥いて越境侵略を開始しようとしていることなど。
至福のシエスタ(昼寝)に胸を躍らせる悪役令嬢は、銀河系の彼方ほどにも気づいていなかったのであった。




