第39話:悪役令嬢の捨て台詞(※ハエの話)が、帝国を震撼させる
――プーン……ブウウウウウウン……。
張り詰めた静寂が支配するグランヴェル公爵本邸の大会議応接間に、その極めて耳障りで、不快極まりない羽音が低く響き渡っていた。
円卓の向かい側では、隣国バルディニア帝国の特使たるヴァルデマール将軍が、私の「盛大なおあくび」によって戦意をへし折られ、土気色の顔で立ち上がり、今まさに部下を引き連れて退室しようと重い足を踏み出したところだった。
普通なら、ここで外交交渉の打ち切りに伴う最後の舌戦や、去り際の捨て台詞の応酬があるべきなのだろう。
父マキシミリアンもまた、氷のような冷笑を浮かべ、席を立とうとする将軍の背中を鋭い眼光で見据えていた。
だが――私にとって、そんなおっさんたちのメンツを賭けた腹の探り合いなど、銀河系の彼方のチリほども興味がなかった。
私の全意識、全神経、そして前世の社畜時代から培われてきた「睡眠を妨害するものに対する無慈悲な殺意」は、今まさに、部屋の窓際を悠々と旋回している【一匹の影】へと一点集中していたのである。
(……なんなの、あいつは)
私はピクリと片眉を跳ね上げた。
窓辺のステンドグラス。初夏の陽光が差し込むそのガラス面を、ブンブンと低く濁った羽音を立てながら、我が物顔で飛び回る黒い物体。
体長一センチを超える、丸々と肥え太った巨大な秋のハエだった。
どこから入り込んだのかは知らないが、あの不潔極まりない黒い虫は、ガラスに何度も頭をぶつけては鈍い音を立て、さらにあろうことか、私が先ほどまで優雅に舌鼓を打っていたアフタヌーンティースタンドの残り香を嗅ぎつけ、テーブルの周囲を旋回し始めたのだ。
――ブゥゥゥゥン……。
(……許せない)
私の脳内で、前世の忌まわしい記憶の引き出しが、勢いよく開け放たれた。
前世の社畜時代。
連日の深夜残業で胃をボロボロにし、ようやく手に入れた日曜日の朝。
カーテンを閉め切り、ふかふかの布団に顔を埋めて、この世のすべての苦痛から解き放たれようとしていた、午前八時。
まさにそのタイミングで、どこからともなく部屋に侵入した一匹のハエが、私の耳元を「プーン」と掠め、顔にとまり、払っても払っても旋回を繰り返した、あの地獄のような朝の記憶。
あの時、私はハエ叩きを握りしめ、涙を流しながら狭いワンルームを半狂乱で駆け回り、貴重な休日の睡眠時間を完全に台無しにされたのだ。
(虫……! 美肌の大敵、安眠の破壊者、そして世界で最も無駄なストレスの根源!!
よりによって、私が今から部屋に戻って至高の二度寝を貪ろうとしている、この神聖な午後のひとときに……私の視界の中でブンブン飛び回るだなんて、万死に値する暴挙よ!!)
限界だった。
満腹感による強烈な睡魔と、それを阻害しようとする羽音への純度一万パーセントの苛立ち。
これ以上、この部屋に一秒たりとも座っていることなど、私には不可能だった。
外交儀礼? 相手がまだ部屋を出ていない?
知るか! 退勤時間を一分過ぎたオフィスから秒速でダッシュするのが、一流の社畜の鉄則である!
ガタッ!
私は椅子の背もたれを押し戻すようにして、音を立てて勢いよく立ち上がった。
その唐突な動きに、扉へと向かっていたヴァルデマール将軍の足がピタリと止まり、使節団の武官たちがビクゥッ!と肩を跳ね上がらせて振り返る。
私は彼らの怯えた視線など一瞥もくれず、窓辺のハエを緋色の瞳でギラリと射抜いた。
そして――手にした豪奢な扇子を、パチンッ!と鋭利な音を立てて閉じると、その切っ先を窓の外、西の空を飛ぶハエ目掛けてビシッと突きつけたのだ。
氷柱のように尖り、絶対零度の冷気を帯びた、気だるげにして冷酷無比な声音が、静寂の応接間に響き渡る。
「……耳元でブンブンうるさい蠅は、叩き落とすに限るわね」
一息。
私は心底忌々しそうに吐き捨てると、部屋の隅で直立不動の姿勢を取っていた執事クリストフへと視線を流し、投げやりに顎をしゃくった。
「クリストフ、あとは適当に追い払っておいて」
言い残すや否や、私は誰の返事も、父の制止も待たず、ドレスの裾をバサリと翻して大股で出口へと歩き出した。
扉の前に立ち尽くしていた帝国使節団の屈強な武官たちの間を、まるで障害物でも避けるかのように涼しい顔ですり抜け、そのまま廊下へと姿を消していったのである。
早く自室のベッドへダイブしたい。
その一心だけで、私は振り返ることもなく立ち去ったのだ。
***
「…………ッッッッ!!!!」
応接間の扉の脇で、ヴァルデマール将軍の全身が、まるで超高圧の電撃を浴びせられたかのように硬直していた。
膝が、ガクガクと音を立てて震え出す。
背中を、氷河の底から吹き上げるような死の突風が撫で上げていく。
(は……蠅……だと……!?)
将軍の脳内で、エレオノーラが放った一言が、超巨大な戦略魔導の直撃を受けたかのように炸裂していた。
耳元でブンブンうるさい蠅。
叩き落とすに限る。
あとは適当に追い払っておけ。
(……見抜かれていた……ッ!!)
ヴァルデマール将軍の額から、大粒の脂汗がボロボロと吹きこぼれ、軍服の襟元を濡らしていく。
彼の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、恐ろしい精度で一つの血塗られた絵画を結んでいた。
バルディニア帝国主戦派が、今回の使節団派遣と並行して進めていた【極秘軍事作戦】。
それは、使節団の恫喝が失敗した場合に備え、国境付近の山岳地帯に、帝国が誇る最精鋭部隊――十万の鉄騎兵団を、密かに分散して集結させつつあったことだ。
大軍を一度に動かせば王国の斥候に察知されるため、小隊規模に細分化し、国境の森や谷間に潜伏させ、まるで「無数の羽虫が飛び交うように」国境線を包囲していたのだ。
その作戦のコードネームは――奇しくも、【群蠅】。
(な……なぜだ……!? なぜ、皇帝直下の一部の将軍しか知らぬ最高軍事機密の作戦名を、あの小娘が知っているのだァッッ!?)
将軍の心臓が、破裂せんばかりに早鐘を打つ。
偶然?
馬鹿を言うな。このタイミングで、この外交交渉の決裂の瞬間に、あんな言葉が偶然口から出るはずがない!
『耳元でブンブンうるさい蠅は、叩き落とすに限るわね』
(あれは……! 我が軍の国境集結に対する、完全なる【宣戦布告にして殲滅予告】だ……!!)
将軍の背筋を、巨大な氷の塊が滑り落ちていく。
彼女は言ったのだ。
お前たちが国境でコソコソと蠢かせている十万の軍勢など、私の耳元を飛ぶ蠅の一匹にすら満たない、と。
そして――『叩き落とす』。
かつて王都の地下水脈に溜まっていた千年の古代瘴気を消滅させ、先日の演習林でAランク上位魔獣を森ごと更地に開拓したという、あの規格外の古代魔力。
あの神話を書き換えるほどの力を以てすれば――国境に集結した十万の帝国軍を、文字通り空から「叩き落とし」、一瞬で灰燼に帰すことなど、赤子の手をひねるよりも容易いという、絶対強者からの冷酷な死刑宣告!
さらに――。
『クリストフ、あとは適当に追い払っておいて』
(じ……執事……だと……!?)
ヴァルデマール将軍は、部屋の隅に立つ白髪の老執事クリストフを、血走った眼で見つめた。
一見すれば、胃薬の小瓶を握りしめてオロオロしているだけの哀れな老人にしか見えない。
だが、今の将軍の濁った目には、その老執事すらも「グランヴェル公爵家が飼いならす伝説の暗殺部隊の元締め」のように見えていた。
(我が帝国が誇る十万の精鋭軍の始末を……自ら手を下す価値すらないと、老執事一人に『適当に追い払え』と命じただと……!?
なんという……なんという圧倒的な侮蔑! なんという底知れぬ軍事力の差だ……!!)
「ひ……ヒィィィッ……!」
将軍の背後に控えていた武官が、恐怖のあまり失禁寸前で悲鳴を漏らした。
使節団の全員が、ガタガタと歯の根を鳴らし、立っていることすらままならない状態で床に膝をつきかけている。
「しょ、将軍……! 撤退を……今すぐ撤退をォッ!」
「この怪物が動けば……我が帝国は、本国ごと地上から消滅させられますぞ……ッ!!」
「わ……分かっておるッ!!」
ヴァルデマール将軍は、震える手で卓上に置いてあった条約の調印書を――署名すらされていない紙の束を、乱暴に放り投げた。
関税の撤廃? 航路の譲渡? 皇子への側室要求?
そんな外交交渉の紙切れなど、命に比べればただのゴミ屑同然だった。
一刻も早く、この悪魔の巣窟から逃げ出さねばならない。
あの深紅の瞳の怪物が、自室のベッドに入って本格的な「殲滅の号令」を下す前に、国境の軍を退かせねばならないのだ!
「ひ、引き上げるぞッ!! 全速力で王都を脱出せよォッッ!!」
ヴァルデマール将軍は、歴戦の威厳など完全にかなぐり捨て、脱兎のごとく廊下へと転がり出た。
背後の武官たちも、互いを突き飛ばし、足をもつれさせながら、悲鳴を上げてその後を追う。
帝国の誇る最高格式の使節団は――たった一言の「ハエの話」によって、尻尾を巻いた負け犬のように、公爵本邸から転がり落ちるように逃げ去っていったのである。
***
「…………」
嵐の去った応接間。
開け放たれた扉から吹き込む風が、卓上に散乱した外交文書の羊皮紙をパサパサと揺らしていた。
静寂の中、円卓の上座に座っていた父、マキシミリアン・フォン・グランヴェル公爵は――。
震える手で自らの口元を覆い、そして、フツフツと湧き上がる笑いを噛み殺すように肩を揺らしていた。
「……くっ……くくっ……ふははははははッッ!!」
応接間に、大貴族の豪快極まりない哄笑が響き渡った。
青い瞳に宿るのは、冷徹な政治家としての感銘、そして何よりも――愛娘に対する、底なしの親バカの情熱だった。
「見事だ……! あまりにも見事すぎるぞ、エレオノーラ!!」
マキシミリアンは立ち上がり、娘が去っていった扉に向かって両手を広げた。
「聞いたか、皆の者! 我が娘の、あの神がかり的な外交手腕をッ!!」
部屋の隅で縮こまっていた王国の外務文官たちが、感涙に咽び泣きながら一斉に顔を上げた。
「は、はいッ……! 信じられません……!」
「帝国の歴戦の猛将ヴァルデマールを……あのような傲岸不遜な怪物を相手に、一歩も引くことなく……!」
「あくび一つで相手の要求をゴミ箱へ叩き込み、去り際の一言で相手の極秘軍事行動を看破して完全降伏に追い込まれるとは……!!」
文官たちが次々と床に膝をつき、胸に手を当てて天を仰ぐ。
「『耳元でブンブンうるさい蠅は、叩き落とすに限る』……! なんと苛烈で、なんと美しい脅迫でしょうか!」
「帝国軍の国境侵略計画を完全に察知していなければ、あのような言葉が咄嗟に出るはずがありません!」
「それだけではないぞ! 『執事に適当に追い払わせろ』と言い放つことで、公爵家にとっては帝国軍十万など、私設の執事一人で処理できる程度の塵芥に過ぎぬと……相手の自尊心を完膚なきまでに叩き潰されたのだ!」
「そうだ、その通りだ!」
マキシミリアンは満足げに深く頷いた。
「相手が武力で脅しをかけてきたのなら、それ以上の絶対的な武威の幻影を叩きつけて屈服させる……! 我が娘ながら、恐ろしいほどの政治的胆力と軍略の才だ! 一兵も動かさず、血を一滴も流さず、ただの一言で帝国の軍門を退散させてみせたのだからな!」
公爵の言葉に、部屋中の文官たちが割れんばかりの拍手を送る。
「エレオノーラ様万歳!」「王国の守護神だ!」「真の救国の女傑であられる!!」
一方、部屋の隅で、当の「適当に追い払え」と命じられた筆頭執事クリストフは――。
「ひ、ヒィィィィィッ……! わ、私の胃袋がァッ……!」
胃薬の瓶を握りしめ、青ざめた顔で床にへたり込んでいた。
(お嬢様……! 私のような一介の老執事に、帝国軍十万を追い払えなどという国家滅亡級の無茶振りをなさらないでくださいましィィィッ!!)
哀れな執事の悲鳴など、部屋を満たす狂気的な賛美の嵐の中へと、綺麗さっぱり掻き消されていくのだった。
***
――そして、その日の夕刻。
王都から国境へ向かう街道を、狂ったように疾走する馬車の車内。
「急げッ!! 馬を潰しても構わん、車輪が焼き切れるまで走らせろォッッ!!」
ヴァルデマール将軍は、乱れた軍服の胸元を掻きむしりながら、血走った眼で咆哮を上げていた。
手元の小型魔導通信機を握る指先が、激しく痙攣している。
車内には、彼が直筆で書き殴った、本国の皇帝および参謀本部へ向けた【緊急至急電報】が散乱していた。
『緊急事態発生。グランヴェル公爵令嬢エレオノーラは、我が軍の【群蠅作戦】の全貌を完全に掌握せり。
敵は単身にて我が軍十万を瞬時に消滅せしめる戦略級古代魔力の行使を予告。
これ以上の挑発は帝国の滅亡を招く。
直ちに国境地帯の全軍に対し、後方五十キロへの即時全面撤退を命じられたし。繰り返す、直ちに撤退せよ!!』
「化け物め……! あの女は、人の姿をした神の雷そのものだ……!」
将軍は窓の外を振り返り、遠ざかる王都の輪郭を見つめてガタガタと震えた。
敵対してはならない。
あの深紅の瞳を持つ怪物を、二度と怒らせてはならない。
もし彼女の昼寝を妨害するような真似をすれば――今度こそ、帝国全土が彼女の放つ「デコピン」一発で更地に開拓されてしまうのだから!
***
――そして、その頃。
公爵本邸の、最高級の天蓋付きベッドの中では。
「ふあぁぁぁ……極楽、極楽……。やっぱり我が家のベッドが一番だわぁ」
私はシルクのパジャマに身を包み、ふかふかの羽毛布団に顔を埋めて、幸せそうにゴロゴロと身悶えしていた。
部屋の窓は完全に締め切られ、リディエが焚いてくれたラベンダーのアロマが心地よく漂っている。
あの鬱陶しいハエも、クリストフがハエ叩きで仕留めてくれたのか、羽音一つ聞こえない完全な静寂が戻っていた。
「ふふ……これで安心ね」
私は目を細め、満足げに微笑んだ。
「あの偉そうな将軍も、私のあまりの失礼さにブチギレて帰っていったしね。調印書も放り出していったってことは、交渉は完全に決裂よ!
今頃、帝国中で『グランヴェル公爵令嬢は救いようのない傲慢女だ』って悪口が広まっているはずだわ。これで私の悪評は国際的なものになったし、婚約破棄されて国外追放……南の島への脱出カウントダウンが、また一歩進んだわね!」
完璧だ。
私の悪役令嬢としてのキャリアは、順調そのものである。
明日あたり、貴族院から「帝国の使節団を怒らせて国家の危機を招いた」として、厳しい叱責の手紙が届くに違いない。
そうしたら、「何が悪いの? 私の昼寝のほうが大事よ!」と開き直ってやればいいのだ。
「さあ、明日はどんな悪事を働いてやろうかしら……」
心地よい疲労感と満腹感に抱かれながら、私は目を閉じた。
数秒後には、穏やかで可愛らしい寝息が、静かな寝室に響き始める。
自らが放った「ハエを叩き落とせ」という一言が、帝国の十万の大軍を恐怖のあまり後退させ、王国の英雄、救国の女傑として国内外の歴史書に刻まれることになろうとは――。
夢の中で南の島のハンモックに揺られる元社畜OLは、夢にも思っていなかったのであった。




