第38話:帝国の無理難題と、悪役令嬢の盛大なおあくび
――カチリ、カチリ、カチリ。
グランヴェル公爵本邸の大会議応接間。壁に掛けられた黒檀の柱時計が、重苦しく、規則正しい秒針の音を刻み続けていた。
会談が始まってから、すでに優に一時間が経過している。
初夏の西日がステンドグラスの縁を赤く染め始め、天井から吊り下げられた魔導シャンデリアの淡い光が、円卓を挟んで対峙する者たちの表情を濃淡深く浮き彫りにしていた。
円卓の空気は、張り詰めた弓の弦のようにギリギリと軋み、今にも火花を散らして爆発しそうなほどの殺気と重圧に満ちていた。
同席している王国の外務文官たちは、一様に青ざめた顔で書類を抱きしめ、呼吸の音すら押し殺して脂汗を垂らしている。
なぜなら――正面に座る隣国バルディニア帝国の特使、ヴァルデマール将軍が、その鋼色の瞳に凶暴な光を宿しながら、最後通牒とも言える分厚い外交文書を卓上へと叩きつけたからだ。
「――以上が、我が偉大なるバルディニア帝国皇帝陛下の名において下された、貴国への『正式なる要求事項』である」
地鳴りのような重低音が、部屋の壁をビリビリと震わせた。
ヴァルデマール将軍は、歴戦の軍人特有の分厚い胸板を反らせ、円卓に両肘をついて身を乗り出した。
先ほどまではエレオノーラの異様なマイペースぶりに気圧されていた将軍だったが、本題である条約の提示に入ったことで、帝国軍の頂点に君臨する古強者としての傲岸不遜な覇道を取り戻していた。
「要約しよう。第一に、我が帝国から貴国へ流入する全鉱物資源および工芸品に対する関税の【完全なる撤廃】。ならびに、貴国が独占している西海航路の自由航行権を無条件で帝国海軍に明け渡すこと」
文官たちから、ヒュッと息を呑む音が漏れた。
関税の完全撤廃と航路の譲渡。
それは実質的に、王国の経済的自立を根底からへし折り、帝国の経済的植民地へと成り下がることを意味する法外な要求だった。
だが、将軍の口から放たれた第二の要求は、それを遥かに凌駕する、国家の尊厳を泥靴で踏みにじる暴挙そのものだった。
「そして第二に――両国の恒久平和の証として、グランヴェル筆頭公爵家より、そこのエレオノーラ令嬢を、我が帝国の第六皇子バルタザール殿下へ【側室】として輿入れさせることだ」
「…………っ!」
応接間の空気が、音を立てて凍りついた。
外務文官の一人が、恐怖のあまり持っていたペンを取り落とし、絨毯の上に転がった。
第六皇子バルタザール。
社交界でその名を知らぬ者はいなかった。
齢六十を超え、肥満と酒色に溺れ、数々の側室を気まぐれに虐待しては離宮へ幽閉してきたという、帝国きっての悪名高き好色漢。
王太子レオポルトの正妃となるべき筆頭公爵家の至宝たる娘を、そんな色情狂の老皇子の「側室」として差し出せというのだ。
それは単なる婚姻要求ではない。
王国に対する、そして建国の祖たるグランヴェル公爵家に対する、この上ない公開処刑じみた屈辱の宣告だった。
「……ふざけた真似を」
低く、冷え切った声が漏れた。
私の隣に座っていた父、マキシミリアン・フォン・グランヴェル公爵である。
普段は冷徹な政治家であり、娘の前ではとろけるような親バカの仮面を被っている父の眉間に、今や青筋がクッキリと浮かび上がっていた。
青い瞳には、絶対零度の殺意が宿り、父の全身から漏れ出る膨大な魔力が、室内の絨毯をパチパチと静電気のように波打たせている。
「我が娘を、あの豚の側室だと? ……ヴァルデマール将軍、貴殿は今、この地で我が公爵家の全戦力と全面戦争を始めたいと、そう仰っているのか?」
父の放つ圧倒的な威圧感。
しかし、ヴァルデマール将軍は不敵な三日月を描いて唇を歪めた。
将軍の手が、背後に控える使節団の武官たちへ合図を送る。
武官たちが一斉に軍服の懐に手を滑り込ませ、室内は一触即発、一言の失言で血で血を洗う乱闘へと発展しかねない極限の緊張感に包まれた。
「全面戦争? くくっ、選ぶのは貴殿らだ、公爵」
将軍は冷酷に嗤った。
「拒絶するならば、帝国軍十万の鉄騎兵が、来月にも貴国の国境線を蹂躙することとなろう。……国家の平和か、娘一人の身の安全か。大貴族として、賢明なる選択をされると信じているぞ」
息の詰まる沈黙。
文官たちは恐怖に震え、父マキシミリアンは抜刀寸前の殺気を滾らせ、将軍は勝ち誇った笑みを浮かべて返答を待つ。
王国の運命が、まさに一枚の薄氷の上で揺れ動いていた。
――そう、その時。
誰もが唾を飲み込み、歴史の転換点を固唾を呑んで見守っていた、まさにその瞬間。
「…………」
円卓の最も華やかな席で、私は――壮絶な【生理現象】との死闘を繰り広げていた。
(……ね、眠い……ッ!!)
私の脳細胞は、すでに国家の存亡どころの騒ぎではなかった。
限界だった。
キャパシティの完全なる破綻。
先ほど、私は三段重ねのアフタヌーンティースタンドに乗っていた最高級スコーンを二つ完食し、たっぷりのクロテッドクリームとジャムを胃袋に流し込み、さらに父に頼んでおかわりしたピスタチオのマカロンを五つ、まるまる平らげていたのだ。
極上の糖分。
濃厚な乳脂肪分。
そして、温かいダージリンの紅茶。
それらが私の胃袋の中で渾然一体となり、急速に血糖値スパイクの津波を引き起こしていた。
さらに追い討ちをかけるように、暖炉の薪がパチパチと心地よいリズムで燃え盛る温もり。
椅子は最高級の羽毛が詰まった特注の革張り。背中を預ければどこまでも優しく沈み込んでいく。
(前世の……前世の社畜時代を思い出すわ……!)
金曜日の午後二時。
昼休みに調子に乗って炭水化物山盛りのカツカレー大盛りを食べた直後、薄暗い役員会議室でプロジェクターの光を眺めながら、役員の長々とした自慢話を聞かされていた、あの地獄の時間帯!
まぶたの裏に、十キロの鉛の重りをぶら下げられたかのような強烈な引力。
首の筋肉が弛緩し、視界が白く霞み、頭の奥で霧笛のようなボーッとした音が鳴り響く。
将軍の言葉?
聞こえていた。確かに耳には入っていた。
なんか「関税がどうこう」「航路がどうこう」、そして「豚の側室がどうこう」とか言っていた気がする。
だが、今の私の脳みそにとって、そんな世俗の政治用語は、ただの「耳障りな周波数の子守唄」にすら満たなかった。
(話が……長いのよ……!!)
私の心の中で、前世の限界OLの魂が、理不尽な会議に対する怨嗟の咆哮を上げた。
もう一時間よ?
座っているだけでいいって言われたから座っていたけれど、お腹はいっぱいだし、紅茶も飲み干したし、デザートも残っていない。
これ以上、おっさんたちの小難しい怒鳴り合いを聞かされて、私に一体何のメリットがあるというのか。
側室? 関税? 戦争?
知るか! そんなものは外務省と軍部で勝手に書類を作って稟議を回しなさいよ!
私の勤務時間はとっくに終了しているのよ!!
(……ああ、もうダメ。限界。意識が……飛ぶ……)
ズズズ……と、私の喉の奥から、肺の奥底に溜まっていた二酸化炭素が一気に逆流してきた。
人間が、生理的欲求の頂点において、自らの肉体を睡眠へと強制移行させようとする時に発生する、不可抗力の空気の奔流。
普通の貴族令嬢なら、ここで必死に舌を噛んで耐えるか、せめて扇子を取り出して口元を隠すのが最低限のマナーだろう。
だが、今の私には、扇子を広げる筋力すら惜しかった。
指一本動かすのも億劫。
早くこの無意味な会議を終わらせて、自室のふかふかのベッドへダイブしたいという本能だけが、私の肉体を支配していた。
そして。
私は――。
「ふあぁぁぁぁぁぁぁぁ……あーあ」
両手をだらしなく膝の上に投げ出したまま。
顎が外れんばかりに口を縦に大きく開け、喉の奥のピンク色の粘膜まで丸見えになるほどの勢いで。
目尻にプクリと大粒の涙を浮かべながら、応接間の隅々まで木霊するような、ド直球の【盛大なおあくび】を炸裂させたのである。
――静寂。
時が、止まった。
ヴァルデマール将軍の咆哮も、父の殺気も、文官たちの震えも、すべてが真空パックされたかのように凍りついた。
その静寂の真ん中で、私は涙で霞む目をパチクリと瞬かせ、組んでいた脚をゆったりと組み替えた。
そして、緋色の瞳でヴァルデマール将軍を半開きの目で見下ろし、心底めんどくさそうに、気だるげな声を絞り出したのだ。
「……ねえ。話、長すぎない? もう帰って寝ていいかしら。お腹いっぱいで眠いんだけど」
***
「――ッッッッ!!!!」
ヴァルデマール将軍の心臓が、ドクンと激しい音を立てて跳ね上がった。
視界が、急速に白く明滅する。
耳の奥で、血液がゴウゴウと激流のように音を立てていた。
(な……何だと……!?)
将軍の脳内で、今起きた出来事が、戦略級の雷撃となって炸裂していた。
あくび。
この小娘は今――あくびをしたのだ。
手で隠すことすら怠り。
扇子を使うことすら拒絶し。
あろうことか、帝国使節団の正面で、堂々と口を開け、目尻に涙を浮かべてあくびを噛み殺してみせたのだ。
そして、放たれた言葉。
『話、長すぎない? もう帰って寝ていいかしら。お腹いっぱいで眠いんだけど』
(ば……馬鹿な……ッ!!)
ヴァルデマール将軍の額から、滝のような脂汗が噴き出した。
手足の先から、サーッと血の気が引いていく。
戦慄。驚愕。そして、底知れぬ狂気への畏怖。
今、将軍が突きつけたのは何だったか?
関税の撤廃。
航路の譲渡。
そして――公爵令嬢エレオノーラを、好色狂の老皇子の側室として差し出せという、国家と女性の尊厳に対する最大の凌辱宣告だ。
普通の人間なら、激怒して剣を抜くか、屈辱に震えて泣き叫ぶはずの局面である。
それに対して。
彼女は――退屈そうにあくびをした。
(激昂するでもない……! 反論するでもない……! ただ『話が長い』と……『眠い』と言い放っただと……!?)
将軍の猛烈な深読みが、光速を超えて暗黒の深淵へと突入していく。
(まるで……まるで、我が帝国の突きつけた国家存亡の脅迫など、道端の石ころが転がる音ほどにも価値がないと言わんばかりではないか……!
十万の鉄騎兵の進軍予告? 老皇子への側室要求?
そんなもの、彼女にとっては――『昼下がりの昼寝を邪魔する程度の退屈な戯言』に過ぎないというのか……ッ!?)
――ゾワワワワッ!!
将軍の全身の毛穴が、一斉に逆立った。
恐怖。
本物の、絶対強者を前にした時にしか味わえない、魂の芯を凍りつかせる悪寒。
ヴァルデマール将軍の濁った瞳に、突如として【幻影】が見えた。
あくびを噛み殺し、気だるげに頬杖をつくエレオノーラ。
その華奢な少女の背後に――。
ゆらりと立ち昇る、漆黒と黄金の巨大な影。
建国の神話に謳われし、天を覆い尽くすほどの巨躯を持つ【王国の守護竜】。
あらゆる人間の策謀を、あらゆる国家の軍勢を、ただの一息で塵へと変えてしまう絶対の捕食者が――彼女の背後で静かに目を細め、退屈そうにこちらを見下ろしているかのような、圧倒的な神威の幻影。
(あ、あのお方は……最初から、盤面のすべてを支配しているのだ……!)
将軍の喉が、引き攣った音を立てた。
(我が帝国が国境に軍を集結させつつあることも……使節団の恫喝がただの虚勢であることも……すべて、すべて見抜いた上で、あえて『あくび』という最大の侮辱をもって返答されたのだ!
『貴様らの軍勢など、私の昼寝の時間を削る価値すらない』と……!
『これ以上下らん寝言をほざくなら、我が一息で帝国軍十万を灰燼に帰すぞ』という……無言の、絶対的な宣戦布告……!!)
「ひ……っ」
将軍の背後に控えていた武官の一人が、耐えきれずに小さく悲鳴を上げて後ずさりした。
軍服の懐に忍ばせていた暗殺用の短剣を握る手が、ガタガタと震えている。
抜けるはずがない。
あんな怪物を前にして、刃を向けることなどできるはずがない。動いた瞬間に、あの深紅の瞳から放たれる未知の古代魔力によって、存在そのものを消滅させられるに決まっているのだ。
「ぐ……ぐぬぅ……ッ」
ヴァルデマール将軍は、震える手で自らの膝を強く押し付けた。
屈辱。だがそれ以上に、逃れようのない死の予感。
歴戦の猛者として培ってきた本能が、警報をけたたましく鳴り響かせていた。
これ以上、この女を刺激してはならない。
彼女が完全に「眠気を邪魔されて不機嫌」になった瞬間――この応接間ごと、自分たち使節団全員がこの世から消し去られる、と!
***
「…………ふっ」
一方、その殺伐とした沈黙の中で。
私の隣に座っていた父マキシミリアンは――静かに、しかし心底誇らしげに口元を綻ばせていた。
(……見事だ、エレオノーラ)
マキシミリアンの胸の中で、親バカの情熱が銀河の果てまで燃え上がっていた。
(帝国の傲慢な要求に対し、怒りを露わにして反論すれば、相手の挑発に乗ることになる。
だが……あくび一つで、相手の要求を丸ごと『聞くに値しないゴミ』として切り捨てる……!
なんという肝の据わり方、なんという冷徹無比な外交手腕だ……!
さすがは我が娘……! 帝国軍の猛将を前にして、眉一つ動かさず、ただの一撃で相手の戦意を完全にへし折ってみせるとは……ッ!!)
父の瞳に宿っていた殺気は、瞬時に「娘への無限の賛美」へと上書きされていた。
マキシミリアンは手元の書類をパタンと閉じ、冷涼な美声を響かせた。
「……聞いた通りだ、ヴァルデマール将軍。我が娘にとって、貴殿らの提案など、昼寝の時間を割く価値すらないようだ」
その言葉が、使節団の棺桶に最後の釘を打ち込んだ。
周囲の外務文官たちも、息を呑んでエレオノーラを見つめていた。
(す、すごい……! あの大帝国を相手に、あくび一つで完全論破してしまわれた……!)
(これぞ筆頭公爵家の誇り……真の女傑の器だ……!)
(エレオノーラ様……! あのお方こそが、この国の真の守護神であられる……ッ!)
尊敬。崇拝。神格化。
部屋中の人間が、胸に手を当ててエレオノーラを拝むような眼差しで見つめている。
***
「……ん? 何よみんなして、変な顔で見つめてきちゃって」
私は目尻の涙をハンカチでちょんちょんと拭いながら、怪訝そうに首を傾げた。
なんか空気がさらに静かになった気がする。
でもまあ、いいわ。
言いたいことは言ったのだ。
「話が長い」「眠い」「帰る」。
これ以上ないほどストレートな、やる気のない無能令嬢アピールである。
こんな失礼極まりない態度を取られたら、プライドの高い帝国の将軍なら「無礼者めが! 破談だ!」と席を蹴って帰るはずだ。
そして帝国の使節団から「公爵令嬢は礼儀知らずの愚か者だ」と社交界に悪評をバラ撒いてもらえば、私の悪役令嬢ポイントは爆上がりである。
(さあ怒りなさい! 机を叩いて退散なさい! そして私を『稀に見る失礼女』として帝国全土に悪名を轟かせなさい!!)
私は期待に満ちた目で、正面のヴァルデマール将軍を見つめ返した。
――しかし。
将軍の口から絞り出されたのは、怒声などでは断じてなかった。
「……ぐ……貴殿らの……貴殿らの真意、しかと……しかと胸に刻んだ……」
ガタガタと音を立てて立ち上がる将軍。
その顔面は土気色に濁り、背筋は微かに丸まり、先ほどまでの威圧感はどこへやら、まるで嵐の去るのを待つ老木のように頼りなくなっていた。
「……本日のところは……これにて、引き下がらせていただこう……」
「えっ? あ、もう帰るの?」
私が拍子抜けして呟くと、将軍はビクゥッ!と肩を跳ね上がらせ、怯えたように視線を逸らした。
そして、逃げるように踵を返し、足早に扉へと向かっていったのだ。
背後の武官たちも、まるで死線から脱出するかのように、転がるような勢いで将軍の後に続いていく。
バタン、と重厚な扉が閉まる。
「……あら。本当に帰っちゃったわ」
私はポカンと口を開けた。
怒鳴り散らされるかと思いきや、あっさりと退散していった。
まあいい。これで面倒な会議は強制終了だ。
「お父様、私、もう部屋に戻って寝ていいかしら?」
「ああ、もちろん大儀だったよ、エレオノーラ! 今日はゆっくり休み続けなさい!」
父の満面の笑みに見送られ、私は「やったー!」と心の中で小躍りしながら、自室のベッドへとスキップで向かったのだった。
――しかし。
この時、会談を終えて公爵邸を飛び出した帝国使節団が。
去り際にエレオノーラが何気なく呟いた【とある一言】を巡って、さらなる絶望のパニックへと叩き落とされることになろうとは――。
夢の世界へと秒速でダイブした悪役令嬢は、夢にも思っていなかったのであった。




