第37話:隣国からやってきた偉そうな使節団と、三段重ねのアフタヌーンティー
――学園祭の悪夢から数日。
王立貴族学園の敷地内で、ただ買い食いのためにお団子を頬張っていただけの私が、なぜか「一枚のメモで隣国の暗殺テロ部隊をピタゴラスイッチで壊滅させた希代の軍略家」として全校生徒から涙ながらに拝み倒され、前代未聞の【学園名誉終身生徒会長】なる終身名誉職を押し付けられた事件の爪痕は、今なお私の精神に深い影を落としていた。
「……もう嫌。学園なんて二度と行かない。あそこは学び舎じゃない、私を神輿に担ぎ上げて過労死させようとするカルト結社の総本山よ……!」
グランヴェル公爵本邸、豪奢極まりない自室のベッドの上で、私は羽毛布団を頭からすっぽり被り、芋虫のように丸まっていた。
名誉終身生徒会長。響きだけは立派だが、要するに「未来永劫、学園のあらゆるトラブルの責任を負わされる終身名誉ブラック名誉職」ではないか。
冗談ではない。私の夢は南の島でのエンドレス有給休暇生活なのだ。学園の生徒会長なんていう、前世の生徒会室で深夜まで文化祭のパンフレットを印刷させられていた社畜予備軍のようなポジション、タダでもいらない。
だからこそ、私は決断した。
登校拒否である。
「学園祭のテロ事件による精神的ショックで療養中」という、誰がどう見ても嘘っぱちな診断書(※公爵家の権力で即座に発行させた)を叩きつけ、公爵邸の自室に立てこもる完全防衛体制へと移行したのだ。
ここなら安全だ。
外に出なければ、暗殺者に遭遇することもない。
適当なメモを書いてテロリストを壊滅させることもない。
美味しいスイーツを食べ、ふかふかのベッドで昼過ぎまで寝る。これこそが、あるべき貴族令嬢の姿というものだ。
――そう、確信していた私の安息を打ち破ったのは、他ならぬ実の父親だった。
「エレオノーラ、すまないが少し付き合ってくれないか」
ノックと共に部屋に入ってきたのは、グランヴェル筆頭公爵マキシミリアン。
国王すら一目置く冷徹無比な大貴族でありながら、一人娘の私に対しては砂糖菓子よりも甘い親バカの権化である。
彼は仕立ての良い黒の執務服に身を包み、困ったように眉を下げていた。
「お父様? 私、見ての通り重篤な仮病……じゃなくて療養中なんですけれど」
「ああ、分かっている。無理をさせるつもりはないんだ。ただ……隣国のバルディニア帝国から、特使の使節団が我が公爵本邸に乗り込んできてね。正式な外交会談の席に、どうしても君を同席させろと強硬に要求してきたのだよ」
「……はあ? 使節団? なんで私が他国の使節団なんかに会わなきゃいけないのよ」
私は布団から顔だけを出し、心底かったるそうに唇を尖らせた。
外交。
それは前世で言えば「利害関係がドロドロに対立している気難しい大口取引先との、胃に穴が開きそうな役員同席接待会食」に等しい。
一言一句に政治的な駆け引きが絡み、愛想笑いを浮かべ、相手の腹を探り合う……そんな過労死への片道切符のような場に、なぜ私がノコノコと出向かねばならないのか。
「お断りよ。私は引きこもりの悪徳令嬢よ。外交なんて小難しいこと、一文字も分からないわ」
「うむ、断っても良いのだがね。相手は帝国軍の重鎮、ヴァルデマール将軍率いる強硬派だ。先の学園祭で捕縛された工作員の一件もあり、帝国側は我がグランヴェル公爵家と王家の離間を狙って揺さぶりをかけてきている。……君が姿を見せねば、『公爵家は娘を隠さねばならぬほど怯えている』と侮られる恐れがあってね」
マキシミリアンは困ったように微笑み、私のベッドサイドへ歩み寄ると、甘やかすように私の頭をポンポンと撫でた。
「安心しなさい。君が言葉を発する必要は一切ない。ただ私の隣に座り、座っているだけでいいのだ。……それに、我が家の誇る最高峰のパティシエに、君の大好物をふんだんに使った【特製のアフタヌーンティースタンド】を用意させてある。会談の間、それを優雅につまんでいてくれればいい」
「…………」
特製のアフタヌーンティースタンド。
その甘美な響きに、私のピクニック欲……ならぬ食い意地アンテナがピクリと反応した。
(座っているだけでいい……? 喋らなくていい……? しかも、最高級のスイーツが食べ放題……?)
脳内計算機が高速で弾き出される。
部屋で一人で食べるのもいいが、父の同席する公式の席で出される茶菓子となれば、公爵家の威信をかけた一級品中の超一級品に違いない。
退屈な大人の政治談議をBGM代わりに聞き流しながら、指一本動かさずに最高峰のスコーンやケーキを貪るだけの簡単なお仕事。
前世の社畜時代、「座ってお茶を飲んでいるだけで時給が発生する会議」がいかに至高のサボり環境であったかを、私は痛いほど知っている。
「……仕方ないわね。お父様の顔を立てて、座ってあげるだけなら付き合ってあげてもよろしくてよ」
「おお、さすがは我が愛娘! なんと心強いのだ!」
マキシミリアンは顔を輝かせ、即座に侍女たちへ私の着替えを命じたのだった。
***
グランヴェル公爵本邸、最高格式を誇る大会議応接間。
重厚なマホガニーの円卓が中央に鎮座し、壁には建国の英雄たちの肖像画が厳かに並んでいる。
部屋の空気は、真冬の氷河のように張り詰めていた。
円卓の片側には、私と父マキシミリアン。
私は深紅のビロードに金糸の刺繍が施された、いかにも「傲慢な高貴さ」を誇示する特注のドレスに身を包み、ゆったりと革張りの椅子に腰掛けていた。
そして――円卓を挟んだ正面。
そこに座っていたのは、漆黒と真紅の軍服に無数の勲章をジャラジャラと吊るした、筋骨隆々たる巨漢の老人だった。
――ヴァルデマール・フォン・バルディニア将軍。
隣国バルディニア帝国の主戦派を束ねる歴戦の猛者。
これまで数々の小国を恫喝と謀略によって屈服させ、「帝国の鉄血牙」と恐れられてきた大軍人である。
顔面には歴戦の証たる深い刀傷が刻まれ、その鋼色の瞳からは、常人であれば視線を合わせただけで呼吸困難に陥るほどの、濃厚で鋭利な「殺気」が実体化して立ち上っていた。
将軍の背後に控える帝国使節団の武官たちもまた、全員が獲物を値踏みする鷹のような冷酷な視線をこちらへと向けている。
(……うわあ、すごい目つき。前世で、納品物の仕様ミスで億単位の損害賠償を請求しに怒鳴り込んできたクライアントの鬼専務そっくりね)
私は心の中で冷めたツッコミを入れながら、退屈そうに指先を眺めた。
普通なら震え上がるような殺気なのだろうが、前世のデスマーチで理不尽な怒号と罵声を浴び慣れすぎた私の社畜メンタルにとっては、「はいはい、圧迫面接お疲れ様です」程度のBGMに過ぎない。
そんな私の目の前へ――待望のブツが、銀のワゴンに乗せられて運ばれてきた。
――カチャリ。
給仕長が恭しくテーブルの中央、私の真正面にセットしたのは、白銀に輝く優美な【三段重ねのアフタヌーンティースタンド】だった。
「……っ!」
私の緋色の瞳が、キラリと歓喜の光を宿した。
素晴らしい。一目見ただけで分かる、芸術品の領域だ。
一段目には、極薄のパンに挟まれたスモークサーモンとディルのフィンガーサンドイッチ、そしてトリュフの香る濃厚なエッグカナッペ。
二段目には、今まさにオーブンから取り出されたばかりの、湯気を微かに立ち上らせる黄金色のスコーンが二種類。その脇には、陶器の小鉢に山盛りにされた本物の手作りクロテッドクリームと、自家製の甘酸っぱいラズベリージャム。
そして三段目には、宝石のように艶やかなピスタチオのマカロン、艶やかなグラサージュが施された一口オペラ、季節の巨峰をあしらった小さなタルトレット――。
甘いバターと焼きたての小麦、そして淹れたてのダージリンの芳醇な香りが、部屋を支配していた殺伐とした空気を一瞬で塗り替えていく。
(最高……! お父様、ナイス采配よ! このクロテッドクリームのぽってり感、完全に本物じゃないの!)
私は父が「座っているだけでいい」と言った言葉を、都合よく百パーセント額面通りに解釈した。
会話? しないわよ。
外交? 知るわけがない。
私の全神経、全知性、全集中力は今、目の前のスコーンをいかに美味しくいただくかという「カロリー摂取の最適化」へと全振りされていた。
***
「……グランヴェル公爵。単刀直入に本題に入らせていただこう」
重々しく、大気を震わせるような低音で口を開いたのは、ヴァルデマール将軍だった。
将軍は鋼色の瞳を細め、手元の外交文書を指先でトントンと叩いた。
「先の学園祭における騒乱……我が国の特務部隊が関与したなどという根も葉もない噂が流れているようだが、甚だ遺憾である。我がバルディニア帝国は、貴国との平和を心から望んでいる。……しかし、貴国の王家が我が国に対して不当な関税を課し、軍備を増強している現状は、決して看過できるものではない」
露骨な言いがかり。
先の暗殺テロの証拠を完全に握られているにもかかわらず、逆ギレして外交的圧力をかけてくる帝国の常套手段である。
マキシミリアン公爵が冷徹な笑みを浮かべ、反論しようと口を開きかけた――その時だった。
――サクッ。
静寂な応接間に、軽快で心地よい、乾いた破砕音が響き渡った。
「……ぬ?」
ヴァルデマール将軍の眉がピクリと跳ねた。
視線を向けると――。
そこには、将軍の放つ凄まじい威圧感の暴風雨のただ中で。
二段目のスタンドからプレーンのスコーンを指先で優雅に二つに割り、そこに惜しげもなく山盛りのクロテッドクリームを塗りたくり、さらにその上から深紅のラズベリージャムをたっぷりと乗せている、公爵令嬢エレオノーラの姿があった。
そして彼女は、将軍の鋭い眼光など一ミリも気にする素振りすら見せず、それをパクリと小さく口に運んだのだ。
「…………」
もぐもぐ、と咀嚼するエレオノーラ。
白磁のような頬が、至福の喜びにほんのりと桜色に染まる。
(……んん〜〜〜っ! 美味しい! 外側はサクサクなのに、中はしっとり! 濃厚な乳脂肪のコクと、ジャムのキュッとした酸味が混ざり合って、口の中が完全に英国貴族の午後だわ……!)
エレオノーラは満足げに小さく息を吐き出すと、銀のトングに手を伸ばした。
次は、三段目のスタンド。
淡いパステルグリーンのピスタチオのマカロンを、これまた優雅な手つきで自らの皿へと移す。
(このマカロン、ピスタチオのガナッシュがたっぷり詰まっていて最高ね。次はこれにしようかしら……)
完全なるマイペース。
国家の存亡を揺るがす外交恫喝の席において、彼女の関心は「スコーンの次はマカロンか、それともサンドイッチに戻るべきか」という点にのみ注がれていた。
***
「…………っ!?」
その光景を目の当たりにした瞬間、ヴァルデマール将軍の背筋に、冷たい氷柱を直接突き立てられたかのような戦慄が走った。
(な……何だ、この小娘は……!?)
ヴァルデマール将軍は、数々の戦場を潜り抜けてきた百戦錬磨の武人である。
彼の放つ威圧感は、並の小国の国王であればその場に失神し、歴戦の騎士ですら冷汗を流して膝を屈するほどの「真の殺気」だ。
それを受けながら。
こともあろうに、目の前の少女は――眉毛の一筋すら動かしていない。
恐怖の青ざめもない。
動揺による視線の泳ぎもない。
それどころか、将軍の放つ殺気を、まるで初夏のそよ風でも浴びるかのように涼しい顔で受け流し、ただひたすらに、優雅にお菓子を口へ運び続けているのだ。
(微塵も……微塵も動じておらん……!!)
ヴァルデマールの奥歯が、ギリリと音を立てた。
帝国使節団の武官たちもまた、信じられないものを見る目で息を呑んでいる。
(我が帝国の威を借る恫喝……国家の命運を左右する刃のごとき言葉の数々が……この小娘にとっては、菓子をつまむ手すら止める価値もないというのか……!?)
ヴァルデマールの脳内で、猛烈な深読みが高速回転を始めた。
(そうか……! これが、あの【エレオノーラ・フォン・グランヴェル】か……!
王都の食糧危機を私財で救い、地下の古代瘴気を一掃し、先日は我が軍の最精鋭【黒蠍】を指先一本動かさずに壊滅させたという、王国の真の支配者……!)
将軍の額から、ツラリと一筋の脂汗が流れ落ちた。
手強い。あまりにも手強すぎる。
ヴァルデマールはこれまで、数々の外交の場で相手の動揺を誘い、主導権を握ってきた。
だが、感情を一切表に出さず、ただ静かに菓子を食み続けるこの少女の前にあっては、あらゆる心理戦の仕掛けが、まるで巨大な綿の山に矢を射込むかのように無力化されてしまう。
(あえて……あえて茶と菓子を口にすることで、こちらの攻撃を完全に『無駄口』として切り捨てているのだ……!
『貴様らの脅迫など、私のお茶の時間のBGMにもならん』と……無言の圧力でこちらの格の低さを嘲笑っているのか……!!)
「……くっ」
ヴァルデマールは手元の書類を握りしめた。
底知れない。
この小娘の心臓には、一体どんな鋼鉄が埋め込まれているというのか。
歴戦の軍人を前にして、ここまで完璧に「眼中にない」という態度を貫ける人間が、この世に存在するはずがない。
(化物め……! グランヴェル公爵が娘を同席させたのは、愛娘の道楽などではない……! 我が帝国に対する、絶対的な武力と知略の誇示……! 『我が娘一人すら揺るがせぬ貴様らに、この国を脅す資格などない』という、無言の宣戦布告なのだッ!!)
ヴァルデマール将軍の瞳に宿っていた傲慢な光は、完全に消え失せていた。
代わりに宿ったのは――底知れぬ深淵を前にした、敗残兵のような冷え切った恐怖と畏怖だった。
***
「……んぐ、んぐ。ぷはぁ」
ダージリンの紅茶を優雅に飲み干し、私はナプキンでちょんちょんと口元を拭った。
美味しかった。
スコーンは絶品、ピスタチオのマカロンは甘みと香ばしさのバランスが完璧、フィンガーサンドイッチの塩気も素晴らしい箸休めになった。
三段スタンドの上のスイーツは、すでに七割方が私の胃袋の中へと綺麗に消滅している。
(ふう……ごちそうさまでした。やっぱり美味しいものを食べている時間って最高ね)
私が心底満足して、小さく吐息を漏らすと。
隣に座っていた父マキシミリアンが、親バカ全開の蕩けそうな笑顔を向けてきた。
「どうだいエレオノーラ、口に合ったかい?」
「ええ、とても美味しかったわ、お父様。特にクロテッドクリームの鮮度が素晴らしかったわね」
「そうかそうか! 厨房のパティシエにボーナスを出しておこう。……おかわりを持ってこさせようか?」
「そうね、もしあるなら、あのピスタチオのマカロンをあと五つほどいただきたいかしら」
のほほんとした親子の会話。
だが、その会話を聞いた正面の帝国使節団の面々は――まるで「我が軍の首をあと五つほど刎ねておけ」と宣告されたかのように、一斉に顔面を蒼白にして肩を跳ね上がらせたのだった。
(……あら? なんか向かいの将軍さん、さっきより顔色が悪くないかしら?)
私が首を傾げながら視線を向けると、ヴァルデマール将軍はビクッと体を強張らせ、震える手で自らの軍服の襟元を正した。
「……ふ、ふん。グランヴェル公爵、およびエレオノーラ閣下……。貴殿らの……貴殿らの揺るぎなき覚悟、しかと見届けた」
掠れた声で、将軍が呟く。
「……本題の……要求事項の提示に移らせていただこう……」
その声には、先ほどまでの傲岸不遜な威圧感など微塵も残っていなかった。
ただただ、目の前でマカロンのおかわりを要求する「深紅の瞳の怪物」の機嫌を損ねまいとする、必死の緊張感だけが漂っていたのである。
――そして、会談は。
帝国側が用意していた「さらなる理不尽な無理難題」の開示へと、重苦しく進んでいくこととなる。
しかし、すでに満腹になって猛烈な睡魔に襲われ始めていた悪役令嬢が、その要求に対してどんな「致命的な一撃」を叩きつけることになるのか――この時の将軍は、まだ知る由もなかったのである。




