第36話:一歩も動かずテロリストを壊滅させた悪女、名誉生徒会長の座へ
ふあぁぁぁ……と、本日何度目になるか分からない優雅な(そして極めてだらしのない)大あくびを零しながら、私は天蓋付きベッドの分厚いマットレスから、のそのそと這い出した。
カーテンの隙間から差し込む光は、すでに正午の白さから、少しばかり赤みを帯びた柔らかな琥珀色へと移ろい始めている。時計の針を見れば、午後二時半を回ったところだった。
「……んん〜〜っ! 寝たわ。これ以上ないくらい寝たわ……!」
背中を伸ばし、両腕をぐーっと上に突き上げる。
午前中に最高級のモンブラン・タワーを完食し、満腹中枢を極限まで満たした状態で飛び込んだシエスタ(昼寝)の海。
途中で何の邪魔も入らず、インターホンの連打も、上司からの緊急内線も、悪夢の熊の咆哮すら聞こえない、純度百パーセントの至高の睡眠。前世の社畜時代、土曜日の昼下がりに泥のように眠りこけて、目が覚めた瞬間に「ああ、生きててよかった」と涙ぐんでいたあの安らぎが、今世の圧倒的な富と安全の中で完全に再現されていた。
――グウゥゥゥ……。
その時、私の胃袋が小さく可愛らしい(しかし実に主張の激しい)音を立てた。
「……あら。お腹が空いたわね」
あれだけ巨大なモンブランを食べたというのに、健康すぎる公爵令嬢の身体は、数時間の熟睡によって早くもエネルギーを消費し尽くしたらしい。
空腹を感じた瞬間、私の脳裏にパッと閃いたのは――今日という日の【外界の状況】だった。
(そういえば……今日は王立貴族学園の学園祭当日だったわね)
ベッドから降り、スリッパに足先を滑り込ませながら、私は窓の外を眺めた。
遠く、北東の空に、わずかに色とりどりの祝祭用の魔導花火が小さく弾けているのが見える。
学園祭。
準備段階から徹底的にボイコットし、「邪魔だから机を壁に寄せろ、木材で道を塞げ、二度と来るな」と罵倒メモを叩きつけて生徒会を追い払った、あの忌々しいイベント。
実行委員長だの、警備動線管理だのといった面倒極まりないタダ働き労働は、すべて生徒会のガリ勉エリートたちに押し付けてやったのだ。今頃、会場は大混乱に陥り、私の悪口で盛り上がっているに違いない。
だが――。
(……学園祭といえば、模擬店よね)
じゅるり、と口の中に唾液が分泌された。
前世の記憶が疼く。
高校や大学の文化祭。準備や片付けは地獄のデスマーチだったが、当日、露店で買い食いするあのジャンクな美味さだけは、紛れもない正義だった。
鉄板でジュージューと焼かれるソースの香ばしい匂い、甘いタレをたっぷり絡めた香ばしい焼き団子、焼きたてのクレープ、肉汁あふれる串焼きソーセージ……!
高級フレンチや宮廷料理ばかりを食べていると、無性にあの「露店の安っぽくて暴力的な旨味」が恋しくなるのが、元庶民の悲しい業というものだ。
「リディエ」
「はい、お嬢様」
私が小さく呟いた瞬間、部屋の隅の影からスッと音もなく専属侍女のリディエが現れた。相変わらず気配の遮断技術が暗殺者レベルである。
「ちょっと学園祭へ顔を出してくるわ。着替えを用意しなさい。一番軽くて、歩きやすくて、食べ歩きに適したやつをね」
「かしこまりました。学園指定のブレザーに、動きやすいプリーツスカートをお手配いたします。……なお、お嬢様、学園祭の会場周辺は現在、大変な熱気に包まれているとの報告が入っておりますが」
「知ったことじゃないわ。私はただ、屋台の美味しいものを買い食いしに行くだけよ。開会式も終わったこの時間なら、面倒な挨拶もセレモニーも全部終わっているでしょうしね」
私は鼻歌まじりに制服へと着替え、髪を軽く整えると、公爵家の馬車へと乗り込んだ。
美味しいお菓子を食べて、少し散歩して、夕方にはまた帰ってベッドにダイブする。
これぞ、完璧な休日の過ごし方というものだ。
***
学園の正門前に到着すると、そこはまさにお祭り騒ぎの真っ只中だった。
平民から貴族まで、色とりどりの平服に身を包んだ大群衆が押し寄せ、大道芸人の笛の音と、香ばしい露店の煙が青空の下に立ち込めている。
私はリディエだけを従え、人混みに紛れるようにして模擬店ストリートへと足を踏み入れた。
「ふふ……いい匂い! やっぱりお祭りといえばこれね!」
目移りしそうな屋台の列。
私は真っ先に、香ばしい醤油とみりんの焦げる匂いを漂わせていた東方風の露店へと突撃した。
露店主の学生から、焼きたてアツアツの【黄金蜜醤油の特大三色団子】を一本買い求め、金貨を一枚放り投げる。お釣りを受け取る間も惜しんで、私はさっそく団子にかぶりついた。
「はむっ……! んん〜〜っ! 外側はカリッと香ばしくて、中はもっちもち! 甘じょっぱいタレがたまらないわね……!」
もぐもぐと咀嚼しながら、私は串を片手にご機嫌で歩道を進んだ。
右手にはお団子の串、左手には薄手のハンカチ。
これよ、これこそが学園祭の醍醐味よ。
生徒会の連中に顔を合わせないよう、裏道を通ってメインストリートの端っこを抜け、中央広場の様子でも遠巻きに冷やかして帰るとしよう。
――しかし。
中央広場へと続く大通りに足を踏み入れた瞬間、私は何やら違和感を覚えた。
「……ん? 何かしら、この空気」
お団子を口に運ぶ手が、ピタリと止まる。
広場に近づくにつれて、人々の「ワイワイ」という楽しげな歓声が、徐々に引き攣ったような、息を呑むような異様な静寂へと変わっていったのだ。
何重もの人垣ができている。
生徒たち、来賓の貴族たち、そして一般の市民たちが、遠巻きに広場の中央を囲み、誰一人として動こうとしない。
しかも、その人垣の最前列を固めているのは――抜き身の大剣を携え、銀色に光り輝く重装甲冑で身を固めた、王宮近衛騎士団の精鋭部隊だった。
(……何あれ? なんで学園祭の中央広場に、近衛の重装歩兵が展開してるわけ?)
首を傾げながら、私は人垣の隙間から、ひょっこりと顔を出して広場の中央を覗き込んだ。
そして――そこに広がっていた「惨状」を目撃した瞬間、私はお団子を喉に詰まらせそうになった。
「……ゲホッ!? な、何なの……あれ……!?」
広場の中央。
本来であれば、優雅なカフェテラスの机や椅子が並んでいるはずのその場所は――まるで、大型台風が直撃した後の建築現場のような地獄絵図と化していた。
広場の東側には、何百台もの頑丈なオーク材の机と椅子が、雪崩のように崩れ落ち、巨大な木製の瓦礫の山を築いている。
その瓦礫の山の中央には、何やら煙をブスブスと噴き上げ、車輪がへし折れてひっくり返った【謎の巨大な鉄の荷車】が突き刺さっていた。
そして――何よりも。
その瓦礫の山の真下。
ボロボロに引き裂かれた黒い外套を着崩し、顔面を青アザと鼻血でぐしゃぐしゃに腫らし、見るも無残にグルグル巻きの魔導ロープで縛り上げられた――七、八名の屈強な男たちが、まるで干物のように地面に転がされていたのだ。
男たちの足元には、禍々しい紫色の燐光を放つ暗殺用の毒針や、対人用の爆裂魔導具が、無力化された状態で無造作に散乱している。
(……は?????)
私はお団子の串を握りしめたまま、完全に固まった。
(な、何これ……? 学園祭の出し物……?
演劇部の『悪徳テロリストを成敗する正義の騎士団ショー』的なやつ……?
いや、にしては血の匂いがリアルすぎるし、あの縛られてる男たちの目が完全に死んでるんだけど……治安悪すぎない!?)
ドン引きである。
学園祭のど真ん中で、なぜこんなハードボイルドな警察密着二十四時みたいな捕縛劇が繰り広げられているのか。
近寄ったら面倒なことに巻き込まれるに決まっている。
私はサッと背を向け、お団子を片手に速やかに撤退しようと踵を返した。
――だが。
運命の神は、いや、私の周囲を取り囲む狂信的な男たちは、私を見逃してはくれなかった。
「……ッ!! お、お前は……エレオノーラッッ!!」
人垣を割って、大地を揺るがすような金切り声が響き渡った。
(ゲッ……!?)
私が肩をビクッと跳ねさせた瞬間、視界の端から、眩い金髪を振り乱した長身の青年が、猛烈な勢いでこちらへ突進してきた。
王太子レオポルト・フォン・アウグスト。
普段の氷のように冷徹な気品など微塵もなく、その碧眼には大粒の涙が浮かび、息を荒らげ、正装のマントの裾を踏みそうな勢いで私の元へと駆け寄ってきたのだ。
「エレオノーラ! やはり来てくれたのか……! いや、最初からすべて見届けるために、このタイミングで姿を現したのだなッ!!」
「……は? 見届ける? 私、お団子買いに来ただけ――」
「見事だ……! あまりにも見事すぎるぞ、エレオノーラァッッ!!」
私の言葉など、レオポルトの狂気じみた大絶叫にかき消された。
レオポルトは私の両肩をガシッと掴もうとして、私が咄嗟にお団子の串を盾にして後ずさりしたため、空を切った自らの両手をそのまま胸へと押し当て、感涙にむせび泣いた。
「聞いたぞ! お前が残した、あの一枚のメモのことを!!」
「……メモ?」
「そうだ! 『中央広場の机を東の壁際に寄せろ』……! そして『北回廊を余った木材で通行止めにしろ』という、あのご下命だ!!」
レオポルトが振り返り、広場の瓦礫の山をドラマチックに指差した。
その背後から、重厚な軍靴の音を響かせ、近衛騎士団長マティアス・ヴァルデンが威風堂々と歩み出てくる。
マティアスの精悍な顔面は、かつてないほどの興奮で紅潮し、その琥珀色の瞳は獲物を前にした猛獣のようにギラギラと輝いていた。
「……マティアス卿まで、一体何の話をして――」
「閣下! 武人として、このマティアス、生涯消えることのない衝撃を受けましたぞッ!!」
マティアスは大剣の柄に手を当て、地面に膝を打ち付けて平伏した。
「あそこに転がっている不審者ども……あれは、隣国バルディニア帝国の主戦派が送り込んだ最精鋭暗殺部隊【黒蠍】の構成員どもです! 奴らはこの学園祭の混乱に乗じ、生徒たちを人質に取って王宮を脅迫しようと企んでおりました!」
「……はあ!? 暗殺部隊!?」
私の口から、素っ頓狂な声が飛び出した。
テロリスト? 隣国の暗殺部隊?
なんでそんな物騒な連中が、名門学園の文化祭に紛れ込んでるわけ!?
「奴らは旧校舎から北回廊を抜けて逃走する計画だったのです!」
マティアスが熱弁を振るう。
「しかし……あらかじめ貴女様が命じられた木材の防壁により、奴らは退路を完全に遮断されました! 慌てて迂回しようと中央広場へ踏み込んだところ、今度は東の壁際に整列された【机の長城】によって視界と逃げ場を奪われ、中央の狭い一本道へと誘導されたのです!」
「敵の潜入ルート、心理、退路の選択……そのすべてが、お前の敷いた盤面の上で完全に踊らされていたのだ、エレオノーラ!」
レオポルトが熱狂的に言葉を継ぐ。
「さらに……あそこに突っ込んでいる暴走荷車! あれは魔導具師ヒューゴが開発していた試作品だが……制御を失った荷車が広場へ突進してくるその突入角度、そして跳ね飛ばされたテロリストどもが机の壁に激突して崩壊に巻き込まれるその物理的着弾点に至るまで……! 貴女様は、すべて計算し尽くしておられたのですねッ!!」
「「「な、なんですってェェェェェッッッ!?!?!?」」」
周囲を取り囲んでいた数万人の群衆から、割れんばかりの驚愕のどよめきが轟いた。
広場の片隅から、油まみれのヒューゴが駆け寄ってきて、床に膝をつく。
「エレオノーラ様……! 俺の荷車が暴走することすら、あんたの描いたピタゴラスイッチの引き金だったのか……! 俺の未熟な技術すらも、救国の罠のピースとして組み込んでくださったのかよ……ッ!!」
「さすがはお姉様ですッッ!!」
人垣を突き破って飛び込んできたのは、男爵令嬢クロエだった。
彼女は両手を組み、瞳を爛々と輝かせながら私の足元へ滑り込んできた。
「一兵も動かさず! 血を一滴も流さず! ご自身は公爵邸で優雅に休息を取られながら、たった一枚のメモだけで国家転覆のテロを未然に壊滅させてしまわれるなんて……! 世界で一番気高く、世界で一番聡明な、我が至高のお姉様ァァァッッ!!」
「「「うおおおおおおおおおおっっっっ!!!!」」」
ドォォォォォォォンッッッッ!!!!
広場が、爆発した。
歓声。拍手。地鳴りのような賛美の嵐。
生徒たちが抱き合って涙を流し、来賓の貴族たちが脱帽して胸に手を当て、一般市民たちが「聖女様万歳!」「救国の軍神様万歳!」と天に向かって両手を掲げて叫んでいる。
――その、熱狂の嵐のど真ん中で。
私は、右手に食べかけの特大三色団子の串を持った姿勢のまま、完全に魂が口から半分抜け出た状態で硬直していた。
(……は?)
私の脳内ツッコミ処理装置が、過負荷で爆発四散した。
(な……なんでよ……!?
私……私、ただ準備が面倒くさかったから、『邪魔だから机を片付けろ』『木材で道を塞げ』『二度と来るな』って八つ当たりで殴り書きしただけよ!?
なんでそれがテロリストの逃走ルートを塞ぐ神託の布陣図になってるのよ!?
ヒューゴの荷車が突っ込んできたのなんて、ただの事故じゃないの!!
なんでそれが『計算され尽くしたピタゴラスイッチ』として処理されてるのよぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!)
叫びたい。
今すぐ大声で「全部ただの偶然よ! 私はただ団子を食いに来ただけの無職志望よ!」と叫び散らしたい。
だが、私の周囲に広がる空気は、もはや一個人の弁明などを受け付けるレベルを銀河系単位で突き抜けていた。
人垣が左右に割れる。
現れたのは、生徒会長ユリウス・フォン・クライン侯爵令息率いる、生徒会執行部の面々だった。
全員が涙で顔を濡らし、恭しく紫紺のクッションを掲げている。
そのクッションの上には――純金と白銀で精巧に鋳造された、歴代の生徒会長すら身につけたことのない、巨大な【王立貴族学園・最高栄誉終身生徒会長章】が燦然と輝いていた。
「エレオノーラ・フォン・グランヴェル閣下……!」
ユリウス会長が、私の足元に深々と平伏した。
「貴女様の比類なき知略、そして学園と生徒たちを陰から守り抜かれたその無私の愛に、全校生徒一同、心からの感謝と敬意を捧げます! 理事会、教授会、そして全校生徒の全会一致の決議に基づき……!」
ユリウスは立ち上がり、天へと向かって高らかに宣言した。
「エレオノーラ閣下を、王立貴族学園の歴史上初となる――【学園名誉終身生徒会長】へと推戴いたしますッッ!!」
――プァァァァァァァァァァンッッッッ!!!!
青空に、高らかな祝賀のファンファーレが鳴り響いた。
空を埋め尽くす七色の紙吹雪。
割れんばかりの拍手喝采。
レオポルトが感涙を流しながら拍手を送り、マティアスが剣を掲げ、ヒューゴが拳を突き上げ、クロエが花びらを撒き散らす。
「名誉終身生徒会長……エレオノーラ様万歳ッ!!」「我らの守護聖女様万歳!!」
熱狂。
歓喜。
全校生徒の熱い熱い愛の濁流。
その中心で、私は串についた最後の一粒のお団子を口にくわえたまま、虚空を見上げて涙目になっていた。
(なんでよぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!
私、ただ『邪魔だから片付けろ』って書いただけなのに!!
なんでサボろうとするたびに、私の肩書きが神様レベルに昇格していくのよぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!)
悪役令嬢エレオノーラの血を吐くような魂のツッコミは、鳴り止まぬファンファーレと、民衆の地鳴りのような大歓声の中へと――哀しくも、完全に、跡形もなく掻き消されていくのだった。




