第32話:安眠妨害の蚊を払うように放ったデコピン(※古代戦略級)
――天国だった。
これ以上の極楽が、果たしてこの広大な世界のどこに存在するというのか。
樹齢数百年を数える巨大な神木の根元、青々と茂る草の絨毯の上に敷き詰めた、最高級シルクのピクニックシート。
頭を包み込むのは、グランヴェル公爵邸の私室から持ち出した特製の低反発ビーズクッション。そして身体を優しく覆うのは、雲のように軽やかで温かなカシミアの薄手ブランケット。
梢の隙間からこぼれ落ちる柔らかな初夏の陽光が、私のまぶたを心地よい琥珀色に染め上げ、通り抜ける薫風が耳元でサラサラと心地よい葉擦れの音を奏でていた。
(……すぴー……すぴー……むにゃ……そうよ課長、その仕様変更はぜんぶ来世のスケジュール帳に書き込んでおいてちょうだい……有給休暇の邪魔をする奴は、全員お祈りメールの刑よ……)
夢の舞台は、青い海と白い砂浜が広がる常夏の南の島。
波打ち際に立てられた木造の平屋コテージのテラスで、私はヤシの木に吊るしたハンモックに揺られながら、大粒のサクランボが乗った特大のトロピカルパフェをスプーンですくい、喉を鳴らしていた。
働かなくていい。
書類に追われなくていい。
定時出社も、深夜残業も、休日の緊急電話も存在しない、完全無欠の不労所得ライフ。
前世の社畜時代にすり減らし、ささくれ立っていた私の魂が、ふかふかの微睡みの海の中でみるみるうちに修復されていくのを感じていた。
――そう。
その、至福のユートピアが、無残にも暴力的な不協和音によって踏みにじられる、その瞬間までは。
――ズズズズズズズズ……。
(……んん? なんなの……? 地震かしら……?)
まどろみの底で、背中に伝わる不快な微振動に眉をひそめた。
大地が、小刻みに、しかし重々しく震えている。
それだけではない。
さっきまで心地よく頬を撫でていたはずの清涼な森の風が、突如としてピタリと止まり――代わりに、生ゴミを真夏の炎天下で一週間放置して煮詰めたような、吐き気を催すほどに生臭くドロドロとした悪臭が、私の繊細な鼻腔をダイレクトに蹂躙してきたのだ。
(くっ……くっさぁぁぁぁぁいっ!? な、何よこの臭い!? 誰よ、私の神聖なアウトドア寝室の風上に、下水処理場のヘドロをぶちまけた不届き者は……!?)
前世の記憶が、警報アラームをけたたましく乱打した。
金曜の深夜、連日の徹夜作業を終えてようやくベッドに倒れ込んだ午前四時。
泥のように意識を手放しかけたまさにその瞬間、隣の部屋の住人が突如として壁を貫くような大音量でヘヴィメタルを流し始めた時の、あの殺意。
あるいは、ようやく取れた日曜日の朝、疲れ果てて惰眠を貪っていたところへ、インターホンを十連打して鳴り響いた新聞の強引な勧誘員と、それに共鳴してけたたましく吠え立てる近所の野良犬のハーモニー。
安眠の妨害。
それは、過労死を経験した私にとって、核戦争の勃発よりも重く、絶対に許すことのできない大罪である。
だが、事態は悪臭と振動だけでは終わらなかった。
――グオオオオオオオオオオオオオオオンッッッッ!!!!
鼓膜が破裂するかと思うほどの、凄まじい大音響。
それは獣の鳴き声などという生易しいものではなかった。
大気を引き裂き、空間を歪め、周囲の樹木の葉を一斉にパラパラと叩き落とすほどの、悪意と暴力の塊のような超重低音の咆哮。
同時に、突風のような生温かい息が、私の顔面を真正面から直撃した。
――ピキリ。
私の脳内で、理性を繋ぎ止めていた最後の一本の極細ワイヤーが、派手な火花を散らして千切れ飛んだ。
「…………」
私は、鬱陶しそうに、実に不機嫌そうに、右の片目だけをスッと薄く開けた。
視界の半分を覆い尽くしていたのは、天を突くほどに巨大な、漆黒の毛並みを持つ巨躯だった。
立ち並ぶ大樹を爪楊枝のようにへし折り、私のピクニックシートのすぐ目の前に仁王立ちしていたのは――体長優に八メートルを超える、筋骨隆々たる巨獣。
頭部には禍々しくねじれた三本の魔角。
裂けた大口からは、滴り落ちただけで地面の青草をジュウジュウと黒く溶かす強酸の唾液。
そして、血走った深紅の双眸が、シートの上に転がる私を「格好の獲物」として見下ろし、巨大な岩石をも粉々に砕くであろう鋭利な白銀の鉤爪を、今まさに頭上高くへと振り上げているところだった。
学園の安全神話を粉砕し、地脈の暴走によって千年の封印を破って解き放たれたAランク上位魔獣――【災厄の黒巨熊】。
かつて一つの要塞都市を一夜にして壊滅させ、近衛騎士団の精鋭部隊が命を削ってようやく地下深くに封じ込めたという、生ける天災。
歴戦の武人ですらその威圧感を前にすれば腰を抜かし、浅瀬エリアにいた教師や生徒たちが絶望の悲鳴を上げて逃げ惑った、伝説の怪物である。
その怪物が、眼下に横たわる華奢な公爵令嬢を八つ裂きにせんと、渾身の力で爪を振り下ろそうとした――その、刹那。
私の思考回路を占めていたのは、恐怖でも、絶望でも、驚愕でもなかった。
(……うるさい)
ただ、それだけだった。
(うるさい。臭い。汚い。風通しが悪い。
せっかく……せっかく南の島でトロピカルパフェを口に運ぶところだったのに……!
誰が……誰の許可を得て、私の至高の有給休暇に土足で踏み込んできているわけ!?)
怒髪天を衝くとは、まさにこのことだ。
休日の早朝、布団を頭から被っているまさにその耳元で、巨大なハエがブンブンと旋回し、さらに目覚まし時計が狂ったようにベルを乱打しているような苛立ち。
起き上がるのも面倒だった。
ブランケットから手足を出すのも億劫だった。
私は低反発クッションに頭を沈めたまま、半開きの緋色の瞳で、頭上から振り下ろされようとしている巨大な鉤爪をジロリと睨み上げた。
そして――。
「……うるっっっっさい!! 眠いって言ってるでしょ、あっち行きなさいよ!!」
前世で、休日の朝にけたたましく鳴り響くセールスの迷惑電話の受話器を、乱暴にガチャリと叩き切った時の苛立ちそのままに。
私はブランケットの隙間から、白磁のような右手の人差し指と親指をスッと覗かせ――。
パチンッ、と。
まるで、耳元をかすめた鬱陶しい蚊を一匹、指先で弾き飛ばすかのように。
生活魔法の『風(本来は机の上の埃やパンくずを吹き飛ばす程度の、微風を起こす初歩魔法)』をイメージしながら、その指先を軽やかに、前方の空間目掛けて弾いたのだ。
――そう、本人はただの「デコピン」のつもりで。
***
しかし。
エレオノーラ・フォン・グランヴェルという肉体は、決して「普通の人間」ではなかった。
彼女の魂に深く刻まれた、前世の社畜時代に培われた「安眠を妨害された怨嗟のエネルギー」。
そして、公爵令嬢の肉体に生まれつき備わっていた、建国の神代より受け継がれし「神話を塗り替える規格外の古代魔力」。
二つの超常的な因子が、「眠い」という純度一万パーセントの理不尽な怒りを導火線にして、完全に点火してしまったのだ。
彼女が指先を弾いた瞬間――。
カッ……!
世界の「音」が、完全に消滅した。
初歩の生活魔法などという枠組みは、最初の千分の一秒で蒸発した。
エレオノーラの指先から放たれたのは、大気中の全エーテルを極限まで圧縮し、分子の結合すら引きちぎる絶対真空の刃――神代の魔導書において『天地を断つ神の爪』と記されていた、戦略級古代断層魔法【超高圧縮・真空断層波】だった。
爪を振り下ろそうとしていたカラミティ・ベアの赤い瞳が、信じられないものを見たかのように見開かれた。
怪物の眼前、わずか数センチの空間。
そこに現れたのは、光すら飲み込む漆黒の幾何学断層。
ギィィィィィィィィィィィンッッッッ!!!!
空間そのものが悲鳴を上げるような、金属的な摩擦音が森を劈いた。
次の瞬間。
――ジュッ。
消えた。
断末魔の咆哮を上げる暇すら与えられなかった。
要塞都市を滅ぼし、鋼鉄の鎧すら弾き返したはずの八メートルを超えるAランク巨獣の肉体は――真空の断層に触れた刹那、細胞の一つ一つが分子レベルで解体され、血の一滴、骨の欠片すら残さず、完全に、跡形もなく、虚空の彼方へと消滅したのだ。
だが、エレオノーラの放った「デコピン」の余波は、一匹の怪物を消し去る程度では到底収まらなかった。
ドォォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!
遅れてやってきた衝撃波が、演習林の深層部を襲った。
巨熊が立っていた場所を起点として、扇状に広がる破壊の光条。
樹齢数百年を誇る巨木の群れが、立ち並ぶ岩山が、鬱蒼と生い茂っていた原生林のすべてが――まるで巨大なスプーンで掬い取られたかのように、根こそぎ抉り取られ、宙へと吹き飛ばされていく。
幅、およそ五十メートル。
奥行き、およそ数百メートル。
立ち入り禁止区域の結界ごと、森の半身が綺麗サッパリと更地に開拓され、吹き荒れた暴風は遠くの雲すら一瞬で吹き散らし、頭上には吸い込まれそうなほどの青空がポッカリと口を開けた。
大地には、まるで巨大な神の指で薙ぎ払われたかのような、滑らかで巨大な直線のクレーターが刻み込まれていた。
魔獣の存在した痕跡は、クレーターの入り口に、ポツンと転がった一本の黒く焦げた魔角の先端だけだった。
――そして。
これほどの天変地異が吹き荒れたというのに。
フワリ……。
エレオノーラが横たわっていたピクニックシートの周囲、半径三メートルの領域だけは――彼女が無意識に張っていた『安眠用防音・防風結界』によって守られ、草の葉一枚、埃の粒子一つすら乱れることなく、完璧な静寂が保たれていたのである。
***
「……ふう。静かになったわ」
指先をブランケットの中へと戻し、私は満足げに小さく息を吐き出した。
悪臭は消え去り、耳障りな咆哮もピタリと止んだ。
日光が少し眩しくなったような気がしたが、まあ木陰の角度が変わったのだろう。
低反発クッションの位置を頭の下で少し調整し、私は寝返りを打ってブランケットを肩まで引き上げた。
(……よし、体制完了。さあ、トロピカルパフェの続きを……今度こそ、誰にも邪魔されずに味わってやるんだから……)
思考をシャットダウンする。
再び訪れる、心地よい微睡みの波。
私はものの三秒で、再び深い深い、至福の夢の世界へとダイブしていったのだった。
――己が放った「生活魔法」の余波が、演習林の半分を消滅させ、学園の歴史を根底から揺るがす未曾有の事態を引き起こしていることなど、夢にも思わずに。
***
「急げッ!! 遅れをとるなッッ!!」
原生林の木々を薙ぎ倒しながら、鬼気迫る形相で疾走していたのは、近衛騎士団長マティアス・ヴァルデンだった。
非番でありながら学園近郊の警備拠点で待機していた彼は、演習林から打ち上げられた緊急事態を告げる赤色信号弾、そして直後に発生した異常な魔力爆発を感知し、直属の近衛精鋭騎兵二十名を率いて結界を強行突破してきたのだ。
「団長! 前方、立ち入り禁止区域の第十層結界が完全に粉砕されています! この魔力波形……間違いなく、封印されていたAランク上位魔獣【災厄の黒巨熊】です!」
「馬鹿な……! なぜそんな怪物が学園の演習林に……! いや、それよりもエレオノーラ閣下だ! 閣下の御身は無事なのかッ!?」
マティアスの琥珀色の瞳は、血走らんばかりに充血していた。
演習林の入り口で、泣き叫ぶクロエと教師陣から「エレオノーラ様が一人で深層へ向かわれた」と聞かされた時の戦慄。
もし、あのお方の御身に万が一のことがあれば。
王太子レオポルトは狂乱し、神官シルヴァンは神殿軍を動かし、国そのものが内乱の炎に包まれる。
何より――マティアス自身が、自らの命を捧げると誓った至高の主を失うことなど、耐えられるはずがなかった。
「閣下……! どうか、どうかご無事で……ッ!!」
マティアスは大剣の柄を固く握りしめ、前方を塞ぐ最後の茂みを力任せに切り払った。
背後からは、必死の形相で追いついてきた実技担当教官や観測班の教師たち、そして涙と泥で顔をぐしゃぐしゃにしたクロエが雪崩れ込んでくる。
そして――彼らの視界が、一気に開けた。
「……なっ」
マティアスが、足を止めた。
後続の近衛兵たちが、教官たちが、クロエが、言葉を失ってその場に凍りついた。
「……な、なんだ……これは……?」
教官の口から、魂の抜けたような呻きが漏れ出た。
彼らの眼前に広がっていたのは――かつて鬱蒼とした巨木の原生林だったはずの場所ではなかった。
幅五十メートル、奥行き数百メートルにわたって、木々も、岩も、土壌すらも綺麗サッパリと蒸発し、天を衝くような青空の下にポッカリと穿たれた、巨大な直線の更地。
地面の断面は、まるで神の剃刀で切り取られたかのように滑らかで、大気中には今なお、人智を超えた至高の神聖魔力の粒子が、キラキラと白銀の粉となって舞い散っていた。
「……消えている……?」
マティアスが震える声で呟いた。
「黒巨熊の……気配が、完全に消滅している……? 討伐されたのではない……存在そのものが、大気中から抹消されたというのか……!?」
クレーターの入り口、わずかに焼け焦げた地面の上に、ポツンと転がっていた黒い角の破片。
あれほど凶悪を極めたAランク魔獣が、悲鳴を上げる暇すらなく消し去られた決定的な証拠。
そして――。
その巨大な更地の真ん中。
奇跡のように傷一つなく残された、樹齢数百年の巨大な神木の根元。
「……あ」
クロエが、息を呑んで指差し、両手で口元を覆った。
そこには。
純白のシルクシートの上で、カシミアのブランケットにすっぽりと包まり、低反発クッションに頭を預けて――。
「……すやぁ……すやぁ……むにゃ……」
穏やかに、あまりにも安らかに、規則正しい寝息を立てている、絶世の公爵令嬢エレオノーラの姿があった。
乱れ一つない夜の帳のような黒髪。
白磁の頬は微かに桜色に染まり、口元には小さな満足げな笑み。
周囲に吹き荒れたはずの天変地異の嵐など、まるで別世界の出来事であったかのように、彼女の周囲だけが、完璧な静寂と平和に包まれていたのだ。
「…………っ」
マティアスはその場に、ドサリと、重い鉄の甲冑を軋ませながら両膝を突き立てた。
大剣を取り落とし、震える両手で自らの顔を覆う。
その指の隙間から、熱い涙がポロポロと零れ落ちていく。
「……ああ……なんという……なんという御方だ……!」
マティアスの唇から、魂を絞り出すような震える声が漏れた。
「他の生徒たちに危険が及ばぬよう、単身で最深部へと先回りし……国家を滅ぼしかねぬAランクの災厄を、誰の手も借りず、ただ一人で……跡形もなく消滅せしめたというのか……!」
「マティアス卿……! この更地……これは、失われた神代の超高圧縮空間魔法の痕跡ですぞ……!」
教官が腰を抜かし、泥の上に座り込んだままガタガタと震えていた。
「詠唱の痕跡も、魔法陣の展開跡すらもない……! あのような規格外の奇跡を、呪文一つ唱えずに成し遂げられたというのか……! それほどの力を振るいながら……己の功績を誇ることもなく、まるで『何もなかった』とばかりに、静かに身を休めておられる……!」
「お姉様……ッ!」
クロエが駆け寄り、シートの数歩手前でバサリと平伏した。
泥だらけの額を草地に擦り付け、感涙に咽び泣く。
「お姉様は……私たちを守るために、己の莫大な魔力を削り、一人で戦ってくださったのですね……! それなのに、疲れた素振りすら見せず、私たちに気を使わせまいと、あのように安らかに眠っておられるなんて……! どこまで……どこまで孤独に、すべてを背負われるおつもりなのですか、お姉様ァッッ!!」
近衛兵たちが一斉に兜を脱ぎ、胸に手を当てて跪く。
教師たちが手を合わせ、天を仰いで神に感謝を捧げる。
森の更地の中央で、エレオノーラを取り囲む男たちと少女の瞳には、もはや人間に対する尊敬の域を遥かに越えた、絶対的な「信仰」の炎が燃え盛っていた。
――そして。
その中心で、ただ「うるさい虫をデコピンで払った」つもりの悪役令嬢は。
「……むにゃ……マンゴー増量で……」
幸せそうに寝言を漏らしながら、至高の二度寝を満喫し続けていたのであった。




