第31話:追放ポイント稼ぎのサボり授業
抜けるような紺碧の空。初夏の陽光が燦々と降り注ぎ、見上げるほどに高くそびえる原生林の木々が、心地よい薫風にサワサワと葉を揺らしている。
王立貴族学園の敷地北側に広がる、広大な結界隔離区域――通称『演習林』の入り口前広場。
そこには、普段の優雅な制服ではなく、革鎧や魔導外套を身に纏い、腰に木剣や魔導杖を携えた一年生の生徒たちが、緊張と興奮の入り混じった顔つきで整列していた。
「……信じられない。なぜ私が、こんな湿気と虫にまみれたジャングルで、泥臭いサバイバル演習などという野蛮極まりない肉体労働を強いられなければならないのよ」
私は隊列の最後尾、木陰の涼しい場所に陣取りながら、心底うんざりしたため息を吐き出した。
本日のカリキュラムは、学園名物の実技演習『演習林における魔獣討伐実技』。
学園があらかじめ安全管理している演習林の浅瀬エリアに放たれた、FランクからDランク程度の低級魔獣を生徒たちが討伐し、その角や爪などの部位を持ち帰ってスコアを競い合うという、体育会系のノリ全開の授業である。
「お姉様! 日傘をお持ちいたしました! あ、それともお疲れでございますか!? もしよろしければ、このクロエが即席の椅子となり、お姉様の尊い御足を支えさせていただきますが!!」
私の背後から、子犬のようにパタパタと駆け寄ってきたのは、男爵令嬢クロエ・ランカスターだった。
あの放課後のサロンで、賞味期限切れ間近の王室御用達高級スイーツを「残したら承知しないわよ!」と無理やり胃袋に押し付けた結果、なぜか忠誠心メーターがカンストし、私の専属狂信者第1号へとジョブチェンジしてしまった原作乙女ゲームの主人公である。
今日も今日とて、朝一番で私の教室の席の前に正座し、教科書を運び、埃を払い、こうして野外実技の場にまで金魚のフンのように付き従っているのだ。
「……結構よクロエ。人間を椅子にする趣味はないわ。それと、私の半径二メートル以内への接近は禁止って、今朝も言ったはずでしょうが」
「はいっ! 近寄るなという厳しい戒めの中に込められた、私への温かい配慮……! 魂に刻み込んでおります、お姉様!」
「配慮なんて一ミリも入ってないわよ! 純度百パーセントの拒絶よ!!」
私はこめかみを押さえて天を仰いだ。
何を言っても「尊いお心遣い」として変換される。この世界の住人の脳内には、一体どんな欠陥翻訳エンジンが標準搭載されているのか。開発者を呼び出して前世のデスマーチ並みに問い詰めたい。
だが――ふと、私の脳裏に一筋の光明が差した。
(……待ちなさいよ? よくよく考えてみれば、この実技演習……絶好のチャンスじゃないかしら?)
私は腕を組み、口元に不敵な笑みを浮かべた。
前世の社畜時代、私は会社で行われる『春の新人合同野外ブートキャンプ研修』なる地獄の行事を経験したことがある。泥まみれになって丸太を担ぎ、山道を何十キロも歩かされ、最後には全員で社歌を絶叫させられるという、労働基準法を窓から投げ捨てたような拷問イベントだった。
あの時、誰もが死んだ魚のような目をしながらも、人事評価シートの減点を恐れて必死に愛想笑いを浮かべ、チームワークアピールに励んでいたものだ。
だが、今の私は違う。
人事評価? 出世? そんなものは知ったことか!
私の目的は、この学園で誰よりも輝かしい成績を収めることではない。
誰が見ても弁解の余地がないレベルの【無能な怠惰令嬢】として落第点を叩き出し、貴族院から「公爵家の名に泥を塗る恥晒し」と糾弾され、婚約破棄からの国外追放――南の島でのエンドレス有給休暇ライフを手に入れることなのだ!
(そうよ……! この実技演習の採点基準は、討伐スコアと協調性評価! ならば、その真逆を突っ走ればいいだけの話じゃないの!)
広場の前方では、実技担当の屈強な教官が、大音声でルールを説明していた。
「――よって、本演習は三名から四名のパーティーを組み、互いに連携を取りながら魔獣を討伐すること! 採点官が林内に潜んで諸君らのチームワーク、判断力、戦闘技能を厳正に審査する! 怪我を恐れず、日頃の鍛錬の成果を見せよ! では、各自パーティーを組め!!」
教官の号令とともに、生徒たちが一斉に動き出す。
普段から派閥を組んでいる貴族令息たちや、特待生の魔導士たちが、互いに声を掛け合って陣容を整え始めた。
そして案の定――教室の男子生徒たちの熱烈な視線が、一斉に私へと向けられた。
「エ、エレオノーラ様……! もしよろしければ、我がパーティーに――」
「お姉様! 前衛はこのクロエが命を賭して務めますので、どうか私と――」
「お断りよ」
私は群がろうとする生徒たちの言葉を、氷柱のように冷え切った一言でスッパリと切り捨てた。
扇子をパチンと鳴らし、傲岸不遜極まりない態度で胸を張る。
「汗臭い男たちと徒党を組むなんて虫唾が走るわ。それにクロエ、貴女のような小娘の足手まといを連れて歩く暇など、私にはないのよ。……私は一人で行くわ。誰の力も借りず、誰とも連携など取らない。私に指図できる人間など、この学園には一人も存在しないもの」
「「「なっ……!?」」」
周囲の生徒たちが息を呑む。
教官が「し、しかしエレオノーラ閣下、演習規則において単独行動は……」と慌てて口を挟もうとしたが、私は冷淡な緋色の瞳で睨みつけ、ピシャリと言い放った。
「規則? 我がグランヴェル公爵家の意向よりも重い規則が、この学園にあるとお思いかしら? 文句があるなら、私の成績表に最低評価の『不可』をつけて落第させればよろしいわ!」
言い切った。
完璧だ。これぞ絵に描いたような身勝手な傲慢令嬢!
チームワークの完全拒絶。
教官への恫喝。
協調性ゼロの単独行動。
これで協調性評価は文句なしのマイナス百点、実技スコアもゼロ点にすれば、学期末の通知表には燦然と『F判定(落第)』の烙印が押されるに違いない!
「では、失礼。私の神聖な散歩の邪魔をしないことね」
私はブレザーの裾を優雅に翻すと、呆然と立ち尽くす生徒たちを置き去りにして、演習林のゲートを一人で悠々とくぐり抜けた。
(ふふ……あははは! 大成功よ! これで誰にも邪魔されずにサボれるわ!!)
背後で、クロエが「お姉様……! 自らを孤立させてまで、他の生徒たちに魔獣の獲物を譲るおつもりなのですか……!?」などと、相変わらず脳のネジが明後日の方向へ吹き飛んだ妄言を叫んでいたような気がしたが、知るか! 聞こえない! 私の耳は今、完全遮音モードである!
***
鬱蒼と生い茂る木々の合間を縫って、私はスタスタと歩を進めていた。
演習林の入り口付近――いわゆる浅瀬エリアからは、早くも生徒たちの勇ましい掛け声や、小型の角ウサギや牙イノシシと交戦する派手な魔法の破裂音が響いている。
採点官たちも、その浅瀬エリアに集中的に配置されているはずだ。何十人もの生徒たちの動きを記録し、危険があれば即座に介入しなければならないのだから。
(ふん、ご苦労なことね。汗を流してモンスターを追いかけ回すなんて、前世の休日出勤と同じくらい無意味だわ)
私は浅瀬エリアの喧騒を背に、迷うことなく林の奥へと足を進めた。
木々の密度が増し、頭上を覆う枝葉が日光を遮り、周囲の空気がひんやりと冷たくなっていく。
生徒たちの声は完全に聞こえなくなり、耳に届くのは風が梢を揺らすサラサラという音と、遠くの小鳥の囀りだけ。
歩くこと約二十分。
私は、演習林の深層部――立ち入り禁止区域を示す黄色い結界ロープのすぐ手前にある、ぽっかりと開けた小さな空き地へとたどり着いた。
「……あら、素晴らしいじゃないの」
思わず感嘆の息が漏れた。
そこには、樹齢数百年はあろうかという巨大な神木がどっしりと根を張り、その周囲にはふかふかの青草が天然の絨毯のように広がっていた。木漏れ日が柔らかく揺れ、風通しは抜群。鳥の鳴き声すら心地よい環境音となり、採点官の気配は微塵もない。
「決まりね。こここそが、本日の私の【有給消化特等席】よ!」
私は制服のポケットから、四角く折り畳まれた魔法収納ポーチを取り出した。
中から取り出したのは、公爵邸からこっそり持参してきた最高級シルクのピクニックシート。
それを大樹の根元の平らな草地の上に広げ、四隅を石で固定する。
さらに、空気を入れて膨らませる特製の低反発ビーズクッションを二つ設置し、肌触り抜群のカシミアの薄手ブランケットをファサリと広げた。
あっという間に、薄暗い森の奥深くに、極上のアウトドア・ベッドルームが完成したのである。
「ふう……極楽、極楽……」
私は革靴を脱ぎ捨て、クッションに頭を預けてシートの上に大の字になった。
制服のブレザーの襟元に手を伸ばし、パチンと留め具を外す。
昨日、ヒューゴが狂気的な技術で完成させた『全自動相槌マシーン一号』――襟元につけておくだけで、本人が爆睡していても勝手に頷いて「なるほど」と呟くあのサボりブローチを、ポケットへと仕舞い込んだ。
「ここには講義をする教授も、見てくる生徒もいないんだもの。相槌マシーンすら不要よ。完全なる、純度百パーセントの惰眠を貪ってやるわ」
目を閉じると、大樹の葉が擦れ合う微かな囁きが、最高の子守唄となって私の鼓膜を撫でた。
魔獣討伐のスコア? ゼロ点よ。
協調性評価? もちろんゼロ点よ。
夕方、演習終了の合図が鳴るまでここで爆睡し、手ぶらで戻って「一匹も狩れませんでしたわ、かったるいんですもの」と鼻で笑ってやればいい。
そうすれば、教官も学園長も頭を抱え、私の成績表には輝かしい落第点が刻まれる。
「……おやすみなさい、私の愛しの南の島……今夜の夢は、ココナッツジュースでお願いね……」
私は幸せそうに口元を緩め、秒速で深い深い、泥のような意識の底へと沈んでいったのだった。
――しかし。
私が「完璧なサボりスポット」として選んだその場所の、わずか数百メートル先。
立ち入り禁止区域の境界線の奥深くでは、学園側が誰一人として予期していなかった【破滅の秒読み】が、まさに始まろうとしていたのである。
***
「……おい、なんだこの振動は?」
浅瀬エリアの中央、生徒たちの討伐状況を木の上から監視していた実技担当教官の男が、ピクリと眉を跳ねさせた。
足元の太い枝が、ビリビリと小刻みに震えている。
風の音ではない。
大地そのものが、奥底から呻き声を上げているかのような、不気味な超低周波の重低音。
「教官! 魔導測定器のエーテル波形が乱れています! 地下の霊脈が……突如として逆流を始めました!」
地上で水晶球を抱えていた観測班の若手教師が、悲鳴のような声を上げた。
水晶球の内部が、血のようなドス黒い赤色に染まり、激しく明滅を繰り返している。
「逆流だと!? 馬鹿な、演習林の地脈は先週、神殿の結界術士によって安定化処理が施されたばかりだぞ!」
「わかりません! 深層の……立ち入り禁止区域の最深部、千年前の古代封印陣の基石に、巨大な亀裂が発生しています! 内部の魔力圧力が、臨界点を突破しますッ!!」
――ドォォォォォォォォンッッッ!!!!
演習林の最奥から、大地を引き裂くような凄まじい地響きが轟いた。
浅瀬エリアにいた生徒たちが、悲鳴を上げてその場にへたり込む。
木々が激しく揺れ、鳥たちが狂乱したように一斉に空へと飛び立ち、森の空気が一瞬にして凍りつくような冷気と、吐き気を催すほどの濃密な腐敗臭へと塗り替えられた。
「グ……オォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!」
大気を震わせ、鼓膜を破らんばかりの、凶悪極まりない咆哮。
その声を聞いた瞬間、歴戦の軍人でもある教官の顔面から、サーッと血の気が引いていった。
「な……なんだ……あの咆哮は……!? 低級魔獣の声ではない……! まさか……まさか……ッ!?」
「きょ、教官ッ! 封印結界が……第十層結界が粉砕されました!!」
観測班の教師が、腰を抜かして泥の上に倒れ込んだ。
震える指先で指し示した森の奥。
立ち並ぶ巨木が、まるで爪楊枝のようにバキバキと音を立てて薙ぎ倒され、もうもうと立ち込める黒煙と砂埃を突き破って、巨大な黒い影が姿を現しつつあった。
体長は優に八メートルを超える。
全身を覆うのは、鋼鉄の剣すら弾き返すであろう針金のような漆黒の剛毛。
筋骨隆々たる四肢には、岩をも両断する鋭利な白銀の鉤爪。
そして、裂けた口からはダラダラと強酸の涎を垂らし、頭部には三本の禍々しい魔角を生やした、伝説の災厄――。
「さ……【災厄の黒巨熊】……ッッ!?」
教官の喉から、絶望的な掠れ声が漏れた。
Aランク上位魔獣。
かつて隣国との国境地帯で一つの要塞都市を一夜にして壊滅させ、近衛騎士団の精鋭中隊が命を削ってようやく地下深くに封印したとされる、生ける天災。
学園の安全な演習林などに、決して存在してはならないはずの怪物が、地脈の暴走によって封印を破り、地上へと解き放たれてしまったのだ!
「まずい……まずいぞ!! あんなもの、学生はもちろん、我々教官が束になっても太刀打ちできん!!」
教官は懐から緊急招集用の赤色信号弾を取り出し、震える手で空へと打ち上げた。
ヒュルルルル……パーンッ!と、上空で赤い煙が炸裂する。
「全生徒に通達ッ!! 演習は即時中止だ!! 武器を捨てて全力でゲートへ走れ!! 逃げろォォォッ!!」
阿鼻叫喚の地獄絵図が幕を開けた。
浅瀬エリアにいた貴族の生徒たちが、我先にと悲鳴を上げながら脱出口へと殺到する。
転ぶ者、泣き叫ぶ者、恐怖で失禁して動けなくなる者。
教師陣が必死に生徒たちを抱え上げ、防壁魔法を展開しながら後退を始める。
そんなパニックの渦中。
逃げてきた生徒たちの波を逆走するように、必死の形相で周囲を見回している少女がいた。
「お姉様……!? お姉様は何処にいらっしゃるのですかッ!?」
クロエ・ランカスターだった。
彼女は周囲の生徒たちに突き飛ばされながらも、必死に泥だらけの足を動かし、森の奥へと視線を凝らしていた。
「ランカスター男爵令嬢、何をグズグズしている! 早く逃げろ、死にたいのか!!」
逃げてきた教官がクロエの腕を引っ張ろうとした。
だが、クロエはその手を力づくで振り払った。
その大きな琥珀色の瞳は、恐怖を通り越し、狂乱の光を宿していた。
「教官……! エレオノーラお姉様のお姿が見えません!! お姉様は……お姉様はまだ、森の中にいらっしゃるのですッ!!」
「な……何だとッ!?」
教官の動きが、ピタリと止まった。
血の気が、完全に失せる。
エレオノーラ・フォン・グランヴェル。
筆頭公爵家の一人娘。王太子レオポルトの婚約者。
そして、この国の全権力を掌握する男たちが命懸けで守ろうとしている、至高の至宝。
その彼女が――避難生徒の列の中に、いない。
「馬鹿な……! エレオノーラ閣下は単独行動を……まさか……まさか……ッ!」
教官の視線が、黒巨熊が咆哮を上げる森の最深部――黒煙が立ち上る立ち入り禁止区域の方向へと吸い寄せられた。
その瞬間。
教官の、そして周囲にいた教師や生徒たちの脳裏に、凄まじい雷撃のような【誤解】が直撃した。
『私は一人で行くわ。誰の力も借りず、誰とも連携など取らない』
『私の神聖な散歩の邪魔をしないことね』
演習前、エレオノーラが冷淡に言い放った、あの言葉。
あれは――協調性の欠如などではなかったのだ。
「あのお方は……気づいておられたのだ……!」
教官がガクガクと膝を震わせながら叫んだ。
「地下の地脈の異常を……封印の綻びを、エレオノーラ閣下は最初から察知されていたのだ! 他の生徒たちを巻き込まぬよう、あえて冷たく突き放して単独行動を取り……一人で、一人で魔獣の出現地点へと先回りされたのだッ!!」
「お姉様……ッ!!」
クロエが絶叫した。
涙が、ボロボロと頬を伝い落ちる。
「私たちを守るために……! 一人で……あの凶悪な怪物と戦うために、森の奥へ向かわれたというのですか……ッ!? あんなにもお優しく、あんなにも気高いお方を……一人で死なせてたまるものですかァッッ!!」
「待て、ランカスター! 行くな!!」
制止の声を振り切り、クロエは木剣を握りしめて森の奥へと駆け出そうとした。
教師陣がパニックに陥り、生徒たちが「エレオノーラ様が……!」「我らの聖女様が、一人で囮になってくださっている!」と涙を流して叫び声を上げる。
浅瀬エリアは、もはや統制不能の宗教的な大混乱へと叩き落とされていた。
***
――そして、その頃。
大混乱の震源地となっている森の最深部。
巨大な神木の根元では。
「すぴー……すぴー……むにゃむにゃ……だから言ったじゃない、課長……この案件の納期は来世よ……」
カシミアのブランケットに包まり、低反発ビーズクッションに頭を埋めた私は。
初夏の爽やかな木漏れ日を浴びながら、よだれを一筋垂らし、この上なく幸せそうに爆睡を貪り続けていた。
浅瀬で巻き起こっている未曾有のパニックも。
自分が「生徒を守るために単身で前線へ赴いた孤高の守護者」として涙ながらに拝まれていることも。
そして――。
ズズズズズズ……ッ!!
すぐ頭上の枝葉を押し分け、血走った赤い眼球を持つ巨大な黒い影が、生臭い息を吐きながら音もなく忍び寄ってきていることすらも。
夢の中で南の島のパフェを頬張る元社畜OLは、これっぽっちも気づいていなかったのである。




