第30話:胃袋を掴まれたヒロイン、忠誠心カンストの狂信者へジョブチェンジ
――ギュウウウウウウッ!!
夕暮れの茜色がステンドグラスを透過し、豪奢な第二サロンの床に長い影を落としていた。
その光の境界線の上で、私の華奢な両手は、今まさに万力のような凄まじい握力で包み込まれていた。
(……痛い。普通に指の関節がミシミシ鳴ってるんだけど、この子、どこからそんな馬鹿力を出しているのかしら……!?)
目の前で私の両手を天に向かって掲げるように握りしめているのは、他ならぬ男爵令嬢クロエ・ランカスター。
先ほどまで「小鹿のように震えていた哀れな貧乏ヒロイン」の姿は、そこには影も形もなかった。
頬を紅潮させ、鼻の頭を赤くし、大粒の涙をボロボロと零しながらも、その琥珀色の瞳の奥には――獲物を逃すまいとロックオンした大型肉食獣のような、ギラギラとした超新星爆発レベルの熱量が灯っていた。
そして、テーブルの上。
高さ四十センチのタワーパフェ、濃厚なショコラタルト、山盛りのマカロン、フィナンシェ、シュークリーム。
成人の屈強な男性が三人がかりでも胃もたれで倒れ伏すであろう、公爵家秘蔵の王室御用達スイーツの山脈は――まるでイナゴの大群が通り過ぎた後の麦畑のように、一片の生クリームすら残さず、完膚なきまでに消失していた。
(ブラックホールなの……? この子の胃袋には、異次元に通じる空間断層でも空いているわけ……!?)
私の脳内ツッコミが追いつかない。
前世の社畜時代、私は理不尽な上司から「頼んだものは残すな」と大盛りラーメンを強要されて泣きながら吐きそうになっていた同僚を何人も見てきた。
だからこそ、この「無理やり高級スイーツを詰め込む拷問」によって、クロエが激しい胃もたれと精神的苦痛に悶え、「エレオノーラ様に虐められた!」と泣き寝入りするシナリオを描いていたのだ。
それが、どうだ。
彼女は泣いた。確かに泣いた。
だがそれは苦痛の涙ではなく、「こんなに美味しいもの、生まれて初めて食べましたぁぁぁっ!」という魂の歓喜の号泣であり、あろうことか一瞬で全てを平らげてしまったのだ。
「あ、あの、クロエ……? とりあえず、その……手を離してくれないかしら。私の指の骨がそろそろ悲鳴を上げているのだけれど」
私が引き攣った笑みを浮かべて懇願すると、クロエはハッとしたように身を震わせ、慌てて手を離した。
そして、パッと両手を胸の前で祈るように組み直す。
「も、申し訳ございませんエレオノーラ様! 私ったら、あまりの感動に我を忘れて……! ですが……ですがッ!!」
クロエは再び身を乗り出してきた。
その距離、わずか三十センチ。吐息がかかりそうなほどの至近距離だ。
「本当に……本当においしかったです! 私、ここ数日、パンの耳をお水でふやかして食べていただけで……お腹がペコペコで、頭がクラクラして……。それを、エレオノーラ様はすべて見抜いてくださっていたのですね! 私の貧しい身の上を哀れみ、プライドを傷つけないよう、あえて『命令』という形にしてあんなにも豪華なお菓子を……!」
「……えっ?」
私の口から、本日何度目になるかわからない間抜けな声が漏れた。
プライド? 配慮?
違う。断じて違う。
私はただ、賞味期限の迫った過剰在庫を押し付け、激しい胃もたれで苦しませてヘイトを稼ごうとしただけの、ド直球の嫌がらせである。
(ま、まずいわ……! この子、頭のおめでたさがレオポルトと同レベルの超絶ポジティブ深読みフィルターを搭載しているわ……!)
背筋に冷や汗がツッと伝う。
ここで「お礼を言われて美談で終わる」などという悪夢を受け入れるわけにはいかない。
私の目的は、悪役令嬢としてヘイトを集め、最終的にこのヒロインに王太子レオポルトを押し付けて、自分は晴れて国外追放(南の島でニート生活)を勝ち取ることなのだ。
(落ち着きなさい、エレオノーラ。まだ手遅れじゃないわ。餌付けは成功したのよ。胃袋を満たして警戒心を解いたのなら、ここからが本番よ! 本来の乙女ゲームのシナリオ通り、彼女の視線を王太子へ誘導してやればいいのよ!!)
私は咳払いを一つし、わざとらしく冷淡な表情を作り直した。
ソファの上で再び腕を組み、顎をツンと上げて、上から見下ろすようにクロエを睨みつける。
「……フン、勘違いしないでちょうだい。私はただ、みすぼらしい生徒が視界に入るのが鬱陶しかったから、余り物を処分させただけよ。恩に着る必要なんて微塵もないわ」
「はい! どこまでも無欲で気高きお心遣い、魂に刻み込みました!」
(通じてない! 一ミリも嫌味として機能していないわ!)
眩しそうに目を潤ませるクロエのピュアすぎる眼差しに気圧されそうになるのを、私は前世の営業スマイルの根性で無理やり押し返した。
ここだ。ここで一気に畳み掛けるのだ。
「いいこと、クロエ・ランカスター? よく聞きなさい」
私は身を乗り出し、極めて真剣な、しかしどこか含みを持たせた声音で語りかけた。
「貴女のような持たざる者が、この弱肉強食の名門学園で生き残るのは並大抵のことではないわ。私のような気まぐれな貴族に頼るのではなく……もっと絶対的で、優しくて、頼りがいのある【最強の盾】を見つけるべきよ」
「最強の……盾……?」
クロエが小首をかしげる。
よし、食いついてきた。私は心の中でニヤリとほくそ笑み、用意していた決定的な名前を口にした。
「そうよ。例えば――王太子レオポルト殿下よ!」
ババンッ!と効果音が鳴り響きそうな勢いで、私は言いきった。
「殿下はね、見た目は少々プライドが高くて近寄りがたいけれど、その実、誰よりも正義感が強くて、困っている者を決して見捨てない慈悲深いお方よ! 身分の差などに囚われず、真面目に努力する者を正しく評価してくださる、誠実で立派な殿方なの!」
どうだ。完璧なプレゼンテーションだ。
レオポルトの美点をこれでもかとアピールし、ヒロインの乙女心に火をつける。
実際、あいつは私に対しては重すぎる愛を暴走させる狂気の忠犬だが、公務においては非の打ち所がない完璧超人だ。男爵令嬢が頼る相手としては、これ以上の優良物件は大陸中を探しても存在しない。
私は畳み掛けるように、優しく、しかし有無を言わせぬ強い口調で告げた。
「何か困ったことや、理不尽な目に遭うようなことがあったら……迷わずあの男に相談しなさい! 私の名前を出してもいいわ。『エレオノーラ様に虐められました』と泣きついても構わない! 殿下に頼れば、あの人は必ず貴女の手を取り、全力で守ってくださるはずよ!!」
(言ったわ! 完璧よ!!)
私は心の中で特大のガッツポーズを突き上げた。
これだ。これこそが、悪役令嬢による「運命の恋の架け橋」だ!
クロエがレオポルトに相談を持ちかける。
レオポルトは健気なクロエを守るために動き出す。
二人の間に恋の炎が燃え上がり、レオポルトは「エレオノーラ、お前のような冷酷な女よりも、クロエのほうが百倍ふさわしい!」と私に婚約破棄を叩きつける!
そして私は、「まあ、殿下がお望みなら仕方ありませんわね」と涙を拭うふりをして優雅に王宮を去り、南の島でヤシの木にハンモックを吊るして一生ゴロゴロ寝て暮らすのだ!
(さらば、過労死確定の王妃ルート! こんにちは、波の音を聞きながらのエンドレス有給休暇ライフ!!)
私は輝かしい未来を確信し、満足げな笑みを浮かべてクロエの返答を待った。
さあ、頬を染めなさい。
「殿下……そんな立派なお方が……!」と胸を高鳴らせなさい!
――しかし。
私の熱烈なプレゼンを受け止めたクロエ・ランカスターの反応は。
私の予想の遥か斜め下、地殻を突き破って地球の裏側へと到達するような、狂気の方向へと舵を切っていたのである。
***
(……ああ……)
クロエの胸の中で、言葉にならない激しい感情の濁流が渦巻いていた。
耳の奥で、エレオノーラの澄んだ声が、神の福音のように木霊している。
『何か困ったことがあったら、あの男に相談しなさい』
『殿下に頼れば、あの人は必ず貴女の手を取り、全力で守ってくださるはずよ』
(……なんという……なんというお方なの……!?)
クロエの全身に、鳥肌が猛烈な勢いで広がっていく。
信じられなかった。
目の前に座るエレオノーラ・フォン・グランヴェルは、王太子レオポルト殿下の正統なる婚約者だ。
未来の王妃の座を約束され、世界で最も権力と栄華に近い場所にいる至高の令嬢。
普通の女性であれば、他の女――それも若く、身分の低い特待生の少女が婚約者に近づくことなど、微塵も許さないはずだ。嫉妬に狂い、排除し、二度と視界に入らないよう徹底的に叩き潰すのが、貴族社会の女たちの常識だ。
それなのに。
あのお方は、今、何と仰った?
『困ったことがあったら、殿下に相談しなさい』
『頼ればきっと助けてくれる』
(あのお方は……己の婚約者である王太子殿下の庇護すらも……持たざる私に、惜しげもなく譲ろうとされている……!?)
クロエの心臓が、早鐘のように激しく脈打つ。
息が詰まるほどの衝撃だった。
エレオノーラは知っているのだ。
平民上がりの貧乏男爵令嬢であるクロエが、この学園でどれほど過酷な差別に晒されているかを。
だからこそ、自分が与えられる最大の盾――国家の最高権力者である王太子レオポルトの力を使ってでも、クロエを守ろうとしてくださっているのだ。
『私の名前を出してもいいわ』
その言葉の意味を考え、クロエは息を呑んだ。
もしクロエが王太子の庇護を受ければ、社交界は「エレオノーラ公爵令嬢が婚約者を奪われた」と騒ぎ立てるかもしれない。彼女の名誉に泥が塗られるかもしれない。
それでも構わないと。
自らの名誉や婚約者の愛すらも犠牲にして、ただ一人の見ず知らずの貧しい少女を救うために、差し出そうというのか。
(どこまで……どこまで無私で、どこまでお優しいお方なの……!?)
涙が、再びクロエの視界を覆い尽くした。
王太子レオポルト?
立派な殿方?
そんなもの、どうでもよかった。
クロエの心には、王太子の金髪も、碧眼も、その権力すらも、一ミリたりとも響いていなかった。
クロエの魂を根底から揺さぶり、その胸を熱く焦がしていたのは――。
目の前で、不器用に腕を組み、冷淡な仮面を被りながら、全身から溢れ出るような慈愛の光を放っている、この絶世の公爵令嬢ただ一人だったのだ!
(殿下に奪わせるものですか……!)
クロエの心の中で、かつてないほどの決意の炎がボウッと音を立てて燃え上がった。
(こんなにも気高く、こんなにも孤独に、世界を愛しておられるエレオノーラ様を……政略結婚の檻に閉じ込め、公務で苦しめようとする王室なんかに渡してたまるものですか! あのお方を守るのは……殿下じゃない! この私が、私の命のすべてを賭けて、あのお方の盾になるんだ……!!)
ガタッッッッ!!!!
クロエは勢いよく立ち上がった。
その顔には、先ほどまでの怯えや涙は微塵も残っていなかった。
宿っていたのは――自らの神を見出し、生涯の信仰を捧げることを誓った、狂信者特有の純粋で圧倒的な覚悟の光。
「……え?」
エレオノーラが目を丸くする。
その驚愕の表情すらも、クロエにとっては愛おしく、神々しかった。
クロエは一歩踏み出し、再びエレオノーラの両手を――今度は慈しむように、しかし絶対に離さない鋼の意思を込めて、ギュッと力強く握りしめた。
そして。
サロンの静寂を切り裂くように、澄み渡る声で高らかに宣言したのだ。
「私、決めましたッッ!!」
「……は、はい?」
「エレオノーラお姉様!! 私の命と人生のすべてを、お姉様のために捧げます!!」
「……はあぁぁぁぁぁっ!?」
エレオノーラの口から、本日一番の悲鳴のような絶叫が飛び出した。
お姉様?
命と人生のすべて?
クロエはエレオノーラの困惑などどこ吹く風で、目を爛々と輝かせながら、一気に言葉を叩きつけた。
「殿下に相談なんて絶対にいたしません! お姉様が自らを犠牲にしてまで私に譲ろうとしてくださったその尊い御心、無駄にはいたしません! お姉様を縛る王妃教育も、殿下からの重すぎる愛も、不届きな害虫どもも……このクロエが、命に代えてもお姉様から叩き落としてみせます! 殿下なんかに、お姉様を奪わせたり絶対にしませんからぁぁぁぁっ!!」
「ちょ……ちょっと待ちなさいよ!? お姉様って誰よ!? 殿下なんかって何よ!? あなた、原作ヒロインでしょうが!! なんで王太子のフラグを自ら粉砕骨折させてるのよぉぉぉぉぉっ!!」
エレオノーラが必死に手を引っこ抜こうとするが、クロエの手はまるで接着剤で固定されたかのようにびくともしない。
胃袋に大量の高級糖分を補給されたヒロインのバイタリティは、完全にリミッターを解除していた。
「お姉様! 私、明日から毎朝お姉様の教室へお迎えに上がります! お姉様の教科書をお持ちし、お昼寝用のクッションを叩いて整え、お姉様に群がる不届きな貴族どもを片っ端から追い払います! お姉様の笑顔のためなら、私、悪魔にだって魂を売ってみせます!!」
「いらない! 怖い! 目が据わってるのよ、あなた!!」
サロンの中に、悪役令嬢の悲鳴が木霊した。
王太子のフラグを立てるはずが。
自分を嫌わせるはずが。
なぜか、原作ヒロインを一番の熱烈で狂信的な「忠犬親衛隊員第1号」へとジョブチェンジさせてしまったのだ。
「リディエ! リディエ、助けなさい! この子を引き剥がしなさいよ!!」
私が助けを求めて叫ぶと、部屋の隅で事の顛末を眺めていた専属侍女のリディエが、スッと歩み寄ってきた。
彼女は手帳にサラサラと羽ペンを走らせながら、一切の感情を交えずに告げた。
「おめでとうございます、お嬢様。男爵令嬢クロエ様の完全なる心服、および専属信徒化の手続きが完了いたしました」
「完了させるなァァァァァッッッ!!!!」
「なお、クロエ様のこの熱烈な忠誠心により、王太子殿下が学園内でお嬢様に接近する難易度は、従来の約三倍に上昇するものと推測されます。殿下にとって、最も厄介な恋敵が誕生いたしました」
「恋敵って何よ! 私が欲しいのは恋敵じゃなくて身代わりなのよ!!」
私の絶叫など、夕暮れの空へと虚しく吸い込まれていく。
クロエは私の手を握りしめたまま、「お姉様……一生ついていきます!」と感涙の笑みを浮かべて離そうとしない。
(……終わったわ)
私はサロンの天井を仰ぎ見た。
王太子レオポルト:重度の忠犬。
騎士団長マティアス:私設護衛。
筆頭神官シルヴァン:狂信的ファンクラブ会長。
魔導具師ヒューゴ:技術顧問の座を押し付けてきた信徒。
そして――原作ヒロイン・クロエ:愛が重すぎる狂犬親衛隊。
(外堀が……埋まるどころか、もう誰も入れない絶対不可侵の要塞国家が完成しつつあるじゃないのよぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!)
南の島が、またしても光速で遠ざかっていく。
私の愛しのエンドレス有給休暇ライフは、自らが放った「高級スイーツの押し付け」という名の浅はかな悪行によって、またしても完膚なきまでに木っ端微塵へと粉砕されてしまったのであった。




