第29話:悪役令嬢の陰湿ないじめ(※王室御用達高級スイーツの無理やりな押し付け)
放課後を告げる鐘の音が、夕暮れに染まり始めた学園の敷地に厳かに鳴り響いた。
部活動へと向かう生徒たちの足音や、談笑しながら校門へと向かう貴族たちの喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。
そんな黄昏時の静寂が降りてきた本校舎の三階、奥まった回廊の突き当たりに位置する【第二サロン】。
普段はごく限られた高位貴族の生徒しか利用を許されない重厚な防音扉の向こうで、私は一人、ふかふかの特注ベルベットソファの上にドカリと腰を下ろし、腕組みをして脚を組んでいた。
「……ふふ、ふふふ。整ったわね。完璧な舞台装置だわ」
私は一人、満足げな笑みを唇の端に刻み込んだ。
私の目の前――大理石を贅沢に削り出して作られた巨大なローテーブルの上は、現在、視界を埋め尽くすほどの甘美なカロリーの山脈によって完全に占拠されていた。
色とりどりのパステルカラーが眩しい、一口サイズの最高級マカロンがピラミッド状に積み上げられた大皿。
南方の最高級カカオをこれでもかと練り込み、表面に金箔が惜しげもなく散らされた、見るからに濃厚そうな漆黒のショコラタルト。
季節の完熟マンゴー、黄金桃、大粒の木苺が、雪山のような純白の生クリームの斜面に雪崩のように敷き詰められた、高さ四十センチ級の特大フルーツパフェ。
さらに、焼き立ての香ばしいバターの香りを放つフィナンシェや、カスタードが溢れんばかりに詰まったシュークリームの山――。
これらはすべて、あの悪夢の毒殺未遂事件以来、王太子レオポルトが「エレオノーラの衰弱した肉体を癒やすため」と称して、公爵邸へとピストン輸送させてきた王室御用達パティスリーの至高の芸術品たちである。
公爵邸の巨大冷蔵保管庫がパンク寸前になり、専属料理人たちが頭を抱えていたため、私はリディエに命じて馬車一杯分を学園へと持ち込ませていたのだ。
(賞味期限は……いずれも本日中、あるいは明日の朝まで! 捨てるのは前世の社畜仕込みの貧乏性が許さないけれど、自分で食べたら確実に胸焼けと胃もたれで救急搬送されるレベルの糖分爆弾よ!)
私は内心でニヤリと邪悪な笑みを浮かべた。
昼間、階段で目をつけた原作ヒロイン――貧乏男爵令嬢クロエ。
あの子をここに呼び出し、この甘味の山をこれでもかと胃袋にねじ込んでやるのだ。
(ふふふ……! これぞ、持てる者による持たざる者への最も陰湿で傲慢な暴力! 『食べきれなかったらどうなるかわかっているでしょうね?』と脅し、無理やり高カロリーを詰め込んで胃もたれ地獄を味わわせてやるわ! そして泣きじゃくったクロエが、明日あたり王太子レオポルトに『エレオノーラ様に酷い嫌がらせを受けました……!』と涙ながらに訴え出る! そうすれば、正義感の強いレオポルトは私に激怒し、愛想を尽かして婚約破棄を叩きつけてくれるはずよ!!)
南の島のエンドレス有給休暇ライフが、手の届くところまで近づいている。
私はスッと表情を引き締め、前世で見た「理不尽な要求で下請けを圧迫するモンスタークライアント」の傲慢な表情を顔面に張り付かせた。
コン、コン……。
その時、恐る恐る、今にも消え入りそうな微かなノックの音が、サロンの分厚い扉を揺らした。
「……来たわね。リディエ、通しなさい」
部屋の隅に影のように控えていたリディエが、無言で優雅に一礼し、扉を音もなく引き開けた。
***
「…………っ」
扉の隙間からサロンの中へと足を踏み入れた瞬間、クロエ・ランカスターは恐怖のあまり息を呑み、その場で凍りついた。
夕暮れの斜陽がステンドグラスを通して差し込む、豪奢極まりないサロン。
重厚な真紅の絨毯の奥、特注のソファに傲然とふんぞり返り、腕を組んで冷淡な緋色の瞳でこちらを射抜いているのは――筆頭公爵令嬢エレオノーラ・フォン・グランヴェル。
昼間の階段での、あの氷柱のような冷たい声が、クロエの耳の奥にまざまざと蘇る。
『放課後、第二サロンへ一人で来なさい。……逃げたら、絶対に許さないわよ』
クロエは両手で自らの制服のスカートをぎゅっと握りしめた。
指先が白くなるほど強張っている。
膝は生まれたての子鹿のように震え、心臓は早鐘のように激しく胸壁を打ち鳴らしていた。
(やっぱり……逃げられなかった。……私、退学させられるのかな。それとも……男爵家の取り潰しを言い渡されるのかな……)
クロエの実家は、領地の飢饉と重税によって借金まみれの極貧男爵家だった。
この王立貴族学園へ入学できたのも、奇跡的に成績優秀者としての特待生枠をもぎ取れたからだ。制服は近所のお下がりを何度も繕ったもので、教科書はボロボロの中古。
少しでも学費と生活費を浮かすため、クロエはここ数日、まともな食事すら口にしていなかった。
朝は白湯一杯。
昼休みは、学園のベーカリーの裏口で廃棄寸前だった乾燥したパンの耳を少しだけ分けてもらい、それを水でふやかして胃袋へと流し込むだけ。
夕方になれば空腹で目が眩み、階段で足をもつれさせて教科書をぶちまけてしまったのも、極度の栄養失調のせいだった。
そんなみっともない姿を、学園の頂点に君臨するエレオノーラに見咎められたのだ。
平民上がりの貧乏人が、高貴な学び舎の空気を汚していると――そう激怒されたに違いない。
「あ、あの……エ、エレオノーラ様……お言いつけ通り、参り……ました……」
クロエは涙を必死に堪え、震える声でカーテシーをとった。
どんな罵倒も、どんな侮辱も、家族のために耐え忍ぶ覚悟だった。
たとえ足元に泥水をかけられようと、退学届を投げつけられようと、頭を垂れて謝罪し続けるつもりだった。
だが――。
(……え?)
恐る恐る上げたクロエの視界に飛び込んできたのは、予想していた泥水でも、退学届でもなかった。
ふわ……と、温かく、甘美な香りが鼻腔をくすぐる。
サロンのテーブルを埋め尽くしていたのは、宝石のように艶やかなマカロンの山、黄金のフルーツが輝く巨大なパフェ、そして濃厚なショコラタルトの数々。
貧乏男爵家の食卓には一生並ぶことのない、王室の晩餐会でしかお目にかかれないような、至高のスイーツの博覧会だった。
「な……これ……は……?」
呆然と立ち尽くすクロエ。
その耳に、ソファの上から、これ以上ないほど尊大で、冷徹極まりないエレオノーラの怒声がピシャリと叩きつけられた。
***
「フン! みっともなく突っ立っていないで、さっさと座りなさいな!」
私は組んでいた脚を組み替え、扇子の切っ先をビシッとクロエの鼻先へ突きつけた。
可能な限り、前世で見た「現場の窮状を一切無視して無茶なノルマを押し付けるワンマン専務」の邪悪な表情をトレースしながら、傲慢極まりない声音で言い放つ。
「見て御覧なさい、その貧相で小汚い身体を! 骨と皮ばかりで、風が吹けば吹き飛びそうじゃないの! 同じ学園の生徒がそんなみすぼらしい姿でフラフラ歩いていたら、我がグランヴェル公爵家の視界が汚れるというものよ!」
どうだ。完璧な身分差別発言だ。
貧乏であることを真っ向から罵倒し、自らの特権意識をこれ見よがしにひけらかす。
クロエの琥珀色の大きな瞳が、衝撃を受けたように大きく見開かれている。よしよし、ショックを受けているわね。
私は扇子をパチンと閉じ、テーブルの上の甘味の山を豪快に指し示した。
そして、トドメの一撃として、最も残酷で、最も理不尽な悪徳命令を叩きつける!
「テーブルの上のものを、よーく見なさい! 王室御用達の最高級スイーツよ! これを――全部、残さずその胃袋の中に収めなさい!!」
「……え?」
クロエがポカンと口を開けた。
私は腰を浮かし、身を乗り出してクロエを上から睨みつけた。
「聞こえなかったかしら!? 一口でも残したら、タダじゃ置かないわよ! マカロンの一粒、タルトの生地のひとかけら、パフェの生クリームの一滴すら残すことは断じて許さないわ! その貧相な腹がはち切れるまで、全部食らい尽くしなさい!! 文句があるなら、我がグランヴェル家以上の権力を手に入れてからお泣きなさい!!」
言い切った。
完璧だ。これぞ悪逆非道の極み。
小柄な少女に対し、自分の体積の半分ほどもある濃厚なスイーツの山を「全部食え、残したら許さない」と脅迫しているのだ。
こんなの、ただの拷問である。
激しい胃もたれと胸焼け、そして急激な血糖値スパイクの恐怖。
前世の社畜時代、上司から「若手は全員大盛り完食が義務だからな」と脂ぎったラーメン二郎の大豚マシマシを無理やり奢られた時の、あの絶望的な圧迫感を完全に再現してやったのだ!
(ふふふ……! どうかしら! これなら文句のつけようがない陰湿ないじめでしょう! さあ、恐怖に震えて逃げ出しなさい! そして泣きながら王太子に『エレオノーラ様に無理やり甘いものを詰め込まれそうになりました!』って告げ口するがいいわ!!)
私は勝利を確信し、腕組みをしてソファの背もたれに深くふんぞり返った。
さあ来い、ヒロインの悲鳴!
私を思いっきり軽蔑して、部屋を飛び出して行け!
――しかし。
テーブルを挟んで立ち尽くしていたクロエの反応は、私の予想の遥か斜め上、成層圏を突き破る方向へと暴走を始めていたのである。
***
(……あ……)
クロエの視界が、急速に滲んでいく。
耳の奥で、エレオノーラの言葉が、何度も、何度も、激しい鐘の音のようにリフレインしていた。
『見て御覧なさい、その貧相で小汚い身体を!』
『骨と皮ばかりで、風が吹けば吹き飛びそうじゃないの!』
『これを全部、残さずその胃袋の中に収めなさい! 一口でも残したら、タダじゃ置かないわよ!』
(……全部、見抜かれていたんだ……)
ドサリ、とクロエは自らの膝の上に両手をついた。
全身の震えが、止まらない。
だが、それは恐怖によるものではなかった。
胸の奥底から、泉のように湧き上がってくる――圧倒的な、熱い、熱い衝動。
クロエは誰にも言えなかった。
男爵家の借金のことも。
毎日の昼食が、水でふやかしたパンの耳だけだったことも。
空腹で目が眩み、階段で倒れそうになっていたことも。
平民上がりの特待生として、貴族たちから蔑まれないよう、必死に平気なふりをして、笑顔を張り付かせて耐え忍んでいたのだ。
それを。
学園の頂点に立つ、あの深紅の瞳の公爵令嬢は――たった一目で、すべて見抜いていたのだ。
(あのお方は……私が飢えているのを、知っていたんだ……!)
クロエの胸を、激しい慟哭が締め付ける。
もし、エレオノーラが「可哀想に、お腹が空いているのでしょう? これを食べなさい」と優しく施しを与えていたら、どうなっていただろうか。
貧乏男爵家とはいえ、クロエにも貴族としての誇りがある。憐れみによる施しを、素直に受け取ることはできなかったかもしれない。周囲に知られれば、「公爵令嬢に恵んでもらった哀れな平民女」として、さらなる嘲笑の的になっていたかもしれない。
だからこそ。
エレオノーラは――あえて、自らを「傲慢な悪女」に仕立て上げたのだ。
『我がグランヴェル公爵家の視界が汚れる』
『一口でも残したら、タダじゃ置かないわよ』
悪役の仮面を被り、高圧的な命令という形を取ることで、クロエのプライドをこれっぽっちも傷つけず、ただ純粋に「命令だから食べざるを得ない」という完璧な逃げ道を作ってくださったのだ!
(なんて……なんてお優しい方なの……! ご自分の名誉を泥に落としてまで……こんな惨めな私に、最高級の温もりと滋養を与えてくださるなんて……!!)
ポロ……ポロポロポロ……ッ。
クロエの大きな琥珀色の瞳から、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出し、頬を伝って床へと零れ落ちた。
震える手で、テーブルの銀のフォークを握りしめる。
目の前に置かれた、純白の生クリームと黄金の桃が輝くパフェ。
クロエは震える手でスプーンを差し入れ、震える唇へと運んだ。
――ふわり。
口の中に入れた瞬間、舌の上でとろけるような極上の乳脂肪の甘みと、甘酸っぱい果汁のハーモニーが爆発した。
温かい。
甘い。
生きていてよかったと、魂の底から叫びたくなるような、奇跡の味。
「う……っ、うわああああああああんっっっ!!」
クロエはその場に崩れ落ちるように椅子へ座り込み、人目も憚らずに号泣した。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、スプーンを口に運び続ける。
「おいひい……おいしいです、エレオノーラ様ぁぁぁっ……! こんなに甘くて……こんなに美味しいもの……生まれて初めて食べましたぁぁぁっ……!!」
モグモグ、ゴクン。
クロエは涙と鼻水を流しながら、まるで何日も砂漠を彷徨った旅人がオアシスの水を貪るかのように、猛烈な勢いでパフェを口の中へと放り込み始めた。
続いて、濃厚なショコラタルトへ手を伸ばす。
サクサクのパイ生地が崩れ、芳醇なカカオの香りが口いっぱいに広がるたび、彼女の瞳からボロボロと新たな涙がこぼれ落ちていく。
「全部……全部食べますっ! 一口も残しませんっ! エレオノーラ様の……エレオノーラ様のくださった温もりを……一粒たりとも無駄になんてしませんからぁぁぁっ!!」
***
「…………え?」
ソファの上で腕組みをしていた私は、完全に思考がフリーズしていた。
視界の処理が追いつかない。
え?
何?
どういう状況?
私の目の前で、小柄なヒロインが――両目から滝のような涙をボロボロと垂れ流しながら、凄まじいスピードでケーキを吸引していた。
パフェのスプーンが光の残像を描き、マカロンがまるでスナック菓子のように次々と小さな口へと吸い込まれ、濃厚ショコラタルトがものの数秒で半分消滅している。
泣いている。
嗚咽を漏らしている。
「おいしいですエレオノーラ様!」と叫びながら、ものすごい勢いで完食へ向かって爆走しているのだ。
(……え、ちょ、ちょっと待って? なんで泣いてるの……?)
私の背筋に、冷たい汗がタラリと流れた。
(そんなに……そんなに嫌だったわけ!? 甘いものが苦手だったの!? 『一口でも残したら許さない』って言ったのを、本気にして命懸けで胃袋に詰め込んでるの!?)
ドン引きである。
前世の社畜時代、上司からの理不尽なアルハラやフードハラスメントに耐えかねて、泣きながらジョッキを空けていた後輩の姿がフラッシュバックする。
違う、私はそんなパワハラ上司になりたかったわけじゃない!
ちょっと意地悪をして、王太子にチクってもらいたかっただけなのだ!
あんな小さな女の子が、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、必死に喉にタルトを押し込んでいる姿を見せつけられては、前世の良識ある一般市民メンタルが耐えられない!
「あ、あの、クロエ……? そんなに無理して食べなくても……」
私が思わず身を乗り出し、引き気味に声をかけようとした――その時。
ガタッッッッ!!!!
クロエが勢いよく立ち上がった。
テーブルの上には、あれほど山積みになっていたスイーツの皿が、まるで大型台風が通過したかのように、綺麗サッパリと空っぽになっていた。
残ったのは、わずかなパイ生地の粉だけ。
胃袋のどこにあの質量が収まったのか物理の法則を疑うレベルの、完全なる完食である。
「ごちそうさまでしたッッ!!」
クロエは涙に濡れた顔をキュッと拭い、キラキラと眩い光を宿した瞳で、まっすぐに私を見つめてきた。
その瞳にあったのは――怨嗟でも、恐怖でもなかった。
宗教画に描かれる聖母を見上げる巡礼者のような、純度百パーセントの、底知れぬ狂気すら孕んだ「崇拝」の光だった。
「……え?」
私が固まる中、クロエはテーブルの脇をすり抜け、猛烈な勢いで私の足元へと駆け寄ってきた。
そして――。
ギュッッッッ!!!!
「……ひゃいっ!?」
私の両手が、クロエの小さく温かい両手によって、骨がきしむほどの力で固く、固く握りしめられていた。
放課後のサロンに、夕暮れの赤い光が差し込む中。
悪役令嬢エレオノーラの「王道いじめ作戦」は、またしても取り返しのつかない方向へと、音を立てて脱線しようとしていたのである。




