第3話:王太子の瞳に浮かぶ涙と、悪役令嬢の深まる困惑
「ふふ、ふふふ……あはははは!」
公爵令嬢専用の広々としたドレッシングルームに、邪悪極まりない高笑いが響き渡っていた。
三面鏡の前に座る私の姿は、どこからどう見ても完璧な「身分を笠に着た傲慢な悪役令嬢」そのものだ。
艶やかに波打つ漆黒の長髪は、侍女のリディエの手によって優美な縦ロールへと巻かれ、深紅の豪奢なシルクドレスは惜しげもなく金糸のレースで飾られている。手首にはこれ見よがしに大粒のルビーのブレスレットを光らせ、口元には意地の悪そうな薄笑いを貼り付けていた。
「どうかしらリディエ? どこから見ても『性格の破綻した性悪女』に見えるかしら?」
私が扇子をパチンと鳴らして尋ねると、背後で私の髪に真珠のピンを挿していたリディエは、ミリ単位のブレもない真顔で応じた。
「お嬢様、控えめに申し上げても絶世の美貌でございます。冷ややかな眼差しが、見る者の魂を凍りつかせるような至高の気品を醸し出しております」
「違うのよ。気品じゃなくて『性悪さ』よ。ほら、見てこの角度。『フン、王太子が何よ。あんな男、私の足元にも及ばないわ』って感じが出ているかしら?」
「尊大で近寄りがたいオーラは存分に出ております」
「よし、合格ね!」
私は鏡の中の自分に向かって満足げに頷いた。
昨晩、王太子の夜会を「頭痛が痛い」という舐め腐った理由でドタキャンしてから半日。
先ほど、公爵邸の門番から「王家の紋章を掲げた馬車が、ものすごい砂煙を上げて猛スピードでこちらへ向かっている」という凶報……もとい、私にとっての朗報が飛び込んできたのだ。
(来たわ、ついに来たのよ! 私の破滅フラグが!)
前世の社畜時代、私は理不尽な取引先やパワハラ上司の怒号を数え切れないほど浴びてきた。
怒っている人間がどう動くかなど、手に取るようにわかる。
プライドの塊であるレオポルト殿下は、昨晩の夜会ですっぽかされ、貴族たちの嘲笑と好奇の目に晒されて恥をかいたはずだ。一晩中怒りで眠れず、血管をブチ切れさせながら、この私に怒鳴り込んでくるに決まっている。
『貴様のような傲慢で無礼な女、我が妃に迎えるわけにはいかない! 今すぐ婚約は破棄だ!』
『まあ殿下、酷いわ! 私を捨てるというの!?(棒読み)』
『黙れ! 顔も見たくない、辺境の領地へでも引っ込んで一生反省するがいい!』
『キャー! 追放なんてあんまりですわー!(やったーーー!!)』
脳内シミュレーションは完璧だ。完璧すぎて笑いが止まらない。
慰謝料としてグランヴェル家の莫大な持参金はそのまま私の懐に入るし、王妃教育という名の地獄の過重労働研修からも永遠にオサラバできる。
南の島へ行ったら、まずは白い砂浜の目の前にハンモックを吊るそう。ココナッツジュースを飲みながら、一日中昼寝をして、夜になったら波の音を聞きながら読書をするのだ。
「お、お嬢様ァァァッ!!」
ノックもそこそこに、ドレッシングルームの扉が勢いよく開け放たれた。
飛び込んできたのは、息も絶え絶えになり、顔面を真っ白にした筆頭執事のクリストフだった。あまりの動転ぶりに、いつも撫でつけている白髪のオールバックが何本か額に垂れ下がっている。
「クリストフ、騒々しいわよ。公爵家の執事たるもの、いつでも優雅でいなさい」
「ゆ、優雅になどしていられません! れ、レオポルト殿下が……王太子殿下が直々に乗り込んでまいりました! 通常の手続きもアポイントも全て無視して、近衛騎士団を引き連れてサロンへ直行されております!」
「あら、まあ。随分とお怒りのご様子ね」
「お怒りなどという生易しいものではございません! あのような殺気立った殿下のお姿、拝見したことがありませんぞ! お嬢様、一体昨晩何をしでかされたのですか……! このままでは我がグランヴェル家が王家と全面対決に――」
「心配いらないわクリストフ。全て私の計画通りよ」
私は扇子を優雅に広げ、立ち上がった。
計画通り、どころか願ったり叶ったりだ。アポなしで乗り込んでくるほど冷静さを失っているのなら、話は早い。
今ここで、盛大に殿下の神経を逆撫でしてあげれば、その場で婚約破棄の勅命が飛び出す可能性すらある。
「リディエ、クリストフ、サロンへ案内しなさい。お待たせしては失礼でしょう?」
私は口元に不敵な笑みを浮かべ、長い裾を翻して歩き出した。
目指すは、愛しの自堕落ニート生活への切符だ。
***
重厚な彫刻が施された応接サロンの扉の前に立つと、中からピリピリとした針を刺すような緊張感が漏れ出ていた。
廊下に控えている近衛兵たちも、普段の整然とした様子とは違い、どこか張り詰めた、異様な熱気を帯びた視線を私に向けてくる。
(ふふん、護衛たちまでピリピリしちゃって。よっぽど殿下が荒れ狂っているのね。いいわよ、受けて立とうじゃないの)
私は深呼吸を一つし、前世の営業先で最も嫌味なクライアントに対応した時の「冷淡で尊大な笑み」を顔面にセットした。
「開けなさい」
リディエが静かに扉を押し開ける。
部屋の中央、深紅の絨毯の上に立っていたのは、プラチナブロンドの髪を乱した王太子レオポルトだった。
いつもなら完璧に整えられているはずの軍装は襟元がわずかに緩み、マントには夜露が乾いたような汚れが残っている。一睡もしていないのは明白だった。
(さあ、怒鳴りなさい! 『貴様のせいで恥をかいた!』と罵りなさい!)
私は扇子を胸元でパタパタと揺らしながら、わざとらしくゆったりとした足取りで歩み寄った。そして、貴族令嬢の礼法を極限まで簡略化した、小馬鹿にしたような浅いカーテシーを披露する。
「ごきげんよう、レオポルト殿下。朝早くから、何のご用件かしら? 昨晩はあいにく『頭痛が痛くて』夜会に伺えませんでしたけれど……ふふ、私の顔を見に来てくださったのかしら?」
完璧な煽り文句だ。
仮病を隠そうともせず、むしろ殿下の都合など知ったことではないと言わんばかりの不敬な物言い。
これなら、どんなに温厚な人間でもブチギレる。ましてやプライドの権化であるレオポルトなら、即座に激昂して私を怒鳴りつけるはず――。
ところが。
「……っ、エレオノーラ……!」
レオポルトの口から漏れ出たのは、怒号ではなかった。
それはまるで、生き別れた最愛の肉親と奇跡の再会を果たしたかのような、熱く、震える、掠れた悲鳴だった。
「……え?」
私が扇子を止めて目を見張った瞬間、信じられない光景が視界に飛び込んできた。
レオポルトが、大股で私との距離を詰め――ドンッ、と音を立てて私の目の前に立ちふさがったのだ。
見上げると、彼の碧眼は真っ赤に充血し、瞳の奥にはギラギラとした熱狂の炎と、今にも零れ落ちそうな大粒の涙が浮かんでいた。
「で、殿下……?」
「言わなくていい……! 何も言わなくていいんだ、エレオノーラ……っ!」
ガシィッ!!
「ひゃっ!?」
私の両手が、レオポルトのたくましい手によって力任せに包み込まれた。
手袋越しでも伝わってくる、尋常ではない熱と震え。
えっ、ちょっと待って。何これ。
ビンタされるか、書類を投げつけられるかと思っていたのに、なんで両手をギュッと恋人繋ぎみたいに握りしめられているの?
「エレオノーラ……すまなかった。俺は……俺はなんて愚かな男だったんだ……!」
ボロボロと、本当に大粒の涙がレオポルトの頬を伝って流れ落ちた。
王太子が。社交界で「氷の貴公子」と恐れられ、滅多に感情を動かさないあの完璧主義者のレオポルトが、私の目の前で、鼻をすすりながら号泣している。
(えっ? えっ? 何が起きてるの!? 情緒不安定すぎない!? 昨晩すっぽかされたショックで精神崩壊しちゃったの!?)
混乱で思考がショートしかける私をよそに、レオポルトは私の手をさらに強く握りしめ、魂の底から絞り出すような声で熱弁を始めた。
「お前は……最初から知っていたのだな? 昨夜の夜会に、バルディニア帝国の暗殺者が潜伏していたことを……!」
「……は?」
「隠さなくていい! マティアスからすべて聞いた! 奴らは俺とお前が壇上で並び立ち、警備の意識が一点に集中する瞬間を狙っていた。だが、お前があえて直前に欠席したことで、お前を守るはずだった近衛の精鋭が外周へと配置転換され……結果として、潜んでいた暗殺者の逃げ場を完全に塞ぐことになったのだ!」
レオポルトの言葉が、私の耳を右から左へと猛スピードで通り過ぎていく。
あんさつしゃ?
けいびのさいへん?
ばるでぃにあていこく?
(……え? ちょっと待って? 私、昨日の夜、何してたっけ?)
私の脳裏に蘇るのは、暖炉の前で「ジュウウウッ!」と音を立てて焼かれていた極上のドラゴングリル肉。
お口の中でジュワッと広がる濃厚な脂の旨味。
三十年熟成の赤ワインをごくごく飲んで、「貴族最高〜! 働いたら負け〜!」とベッドでゴロゴロ転がっていた、あの自堕落極まりない時間の記憶だけだ。
暗殺者なんて、影も形も私の頭の中には存在していなかった。
っていうか、そんな物騒な奴が王宮にいたの!? 怖っ!! 行かなくて本当に良かったじゃないの!!
「お前は……グランヴェル家の情報網でいち早くその危機を察知しながら、事前に告発すれば敵に警戒されると悟り、あえて己の身に泥を塗る道を選んだのだな……!」
レオポルトの妄想機関車は、最高速度で暴走を続けていた。誰かブレーキを踏んでほしい。
「『頭痛が痛い』などという稚拙な嘘をついたのも、王家への不敬として周囲の耳目を自分に引きつけ、俺たちに警備の穴を悟らせるための、哀しいまでの暗号だったのだろう……! 己が社交界から『身勝手な悪女』と蔑まれるリスクを冒してまで、俺の命を……我が国の未来を救おうとしてくれたのか……!」
「い、いや、あの、殿下? それは流石に話を盛りすぎというか――」
「謙遜するな!!」
ビクッ!と私の肩が跳ね上がる。
レオポルトは私の手を自分の胸元――ドクドクと激しく脈打つ心臓の真上へと押し当てた。
瞳の充血がさらに増し、もはや狂信者のような輝きを放っている。
「俺は今まで、お前の冷ややかな視線を『傲慢さ』だと思い込んでいた! 政略結婚に縛られた自分を哀れみ、お前を遠ざけようとばかりしていた! だが違ったのだ……お前はいつだって、俺の何歩も先を見据え、言葉ではなく行動で国を、そして俺を守ってくれていたんだ……!」
(違う。全く違う。ただ肉食って寝てただけだっつーの!!)
喉元まで出かかった真実の叫び。
しかし、サロンの壁際に控えていた近衛騎士団長マティアスが、重々しく一歩前へ踏み出し、床に片膝をついて深々と頭を垂れた。
「エレオノーラ閣下。我が団の警備の甘さ、恥じ入るばかりにございます。閣下のあのような捨て身の布石がなければ、今頃殿下は……我が国は取り返しのつかない事態に陥っておりました。このマティアス、不覚の極み……生涯をかけて、貴女への不敬を償う所存です」
(騎士団長まで完全に毒されてるぅぅぅぅぅ!!)
嘘でしょ。
あの堅物で規律の鬼と名高いマティアスが、感動のあまり泣きそうな顔で私に平伏している。
振り返ると、部屋の隅にいた執事クリストフが「おお……お嬢様……なんと崇高な……」と両手を組んで天を仰ぎ、侍女リディエだけが「予定通りでございますね」と言わんばかりにスッと目を細めていた。リディエ、あなたは何を納得しているの!? 突っ込んでよ!!
「エレオノーラ」
レオポルトの甘く熱い声が、耳元に滑り込んできた。
彼は私の手を両手で包み直すと、その甲に、熱烈な誓いを込めるように恭しく唇を落とした。
チュッと吸い付くような音が、静かなサロンに生々しく響く。
「ひゃいっ!?」
変な悲鳴が出た。
前世で社畜街道を爆走し、恋愛偏差値がミジンコ並みだった私にとって、超絶美形の王太子からのガチな手の甲キスは刺激が強すぎる。心臓がバックバクいっている。
「誓おう、エレオノーラ。お前の気高い献身に、俺は必ず応えてみせる。お前を誰にも悪女などと呼ばせはしない。社交界の心無い連中が何か言おうものなら、王太子の名において全て叩き潰す!」
「えっ、いや、別に悪女って呼んでくれて構わないんですけど……」
「どこまで無欲なんだ……! 己の名誉すら顧みないというのか……!」
話が通じない。
完全に言語のプロトコルが破綻している。
私が何を言っても、全て「崇高な自己犠牲」と「謙虚さの現れ」というフィルターを通して変換されてしまうのだ。
「俺はこれから、お前にふさわしい男になるために国務を一から見直す! 二度とお前にこのような無茶をさせないよう、強固な国を創り上げてみせる! だから……どうか俺の隣にいてくれ。俺の生涯の伴侶として、この国を導いてほしい!」
キラキラキラ〜〜〜ン!
レオポルトの背後に、満開の薔薇の花束が見えた気がした。
原作ゲームの冷徹なツンツン王子はどこへ行った?
目の前にいるのは、主人の帰還に狂喜乱舞して尻尾を千切れんばかりに振っている、忠誠心カンストの大型犬そのものである。
(好感度ゲージが……天井を突き破って成層圏まで飛んでいっちゃってる……!)
求めていたのは、婚約破棄だった。
「お前のような女は追放だ!」という罵声だった。
それなのに、手元に転がり込んできたのは、重すぎる愛と、鉄壁の忠誠心と、逃げ場のない「将来の国母」ルートという名の特大の過労死フラグ。
「……あ、あの、殿下? 私、本当にただ寝ていただけなんですけど……」
「ふっ、まだとぼけるか。そんな照れ隠しも、今の俺には愛おしくてたまらないよ」
「照れ隠しじゃないです」
「ああ、エレオノーラ……! 昨夜の疲れが残っているのだろう、早く休むといい! 俺が側にいて看病したいところだが、山積みの国務を片付けねばならない! 今日の夕方、また極上の見舞い品を持って会いに来るからな!」
レオポルトは私の手を名残惜しそうに離すと、まるで世界を救った英雄を崇めるような眼差しを投げかけ、颯爽とサロンを後にした。
その後を追うマティアスも、「閣下、近衛の守備兵を公爵邸の周囲に増員しておきますゆえ、ご安心を!」と熱く敬礼して去っていく。
バタン、と重厚な扉が閉まった。
サロンに残されたのは、静寂。
そして――魂が口から半分抜け出た状態で、口をポカンと開けたまま立ち尽くす私一人だった。
「……リディエ」
「はい、お嬢様」
「今の、何?」
「殿下からの、極めて熱烈な求愛と感謝の儀でございましたね。おめでとうございます、お嬢様。王太子妃への道が、より一層盤石なものとなりました」
「おめでたくないわよぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!」
私の絶叫が、サロンの大理石の天井に木霊した。
頭を抱えてその場にしゃがみ込む。
破滅フラグを立てに行ったはずなのに、なぜか好感度が爆発して外堀を埋められた。
このままでは、王妃になって毎日十六時間労働、外交問題に頭を悩ませ、貴族の利権争いを調停する超絶ブラック労働地獄に叩き落とされてしまう!
「嫌よ……絶対に嫌! 誰が働くもんですか! 私は南の島でニートになるの!」
立ち上がり、ドレスの裾を強く握りしめる。
まだだ。まだ終わっていない。
夜会のドタキャンが奇跡的に裏目に出ただけだ。私の悪役令嬢としてのキャリアは始まったばかりなのだから。
「見てなさいよレオポルト……! 次は絶対に、弁解の余地もないくらいの極悪非道をやらかして、貴方に『この悪女め!』って言わせてみせるんだから……!」
燃え盛る執念の炎を緋色の瞳に宿し、私は次なる「自堕落追放計画」の策定へと取り掛かるのだった。
――それが、さらなる国家規模の大混乱を巻き起こす引き金になるとも知らずに。




