第2話:夜会をサボって部屋で霜降り肉を焼いていたら、王城が血の海(未遂)だった件
夜の帳が下りる頃、王都の空は深みのある群青色へと染まり始めていた。
普段のこの時間帯であれば、着飾った貴族たちが馬車を連ね、華やかな王宮の門前には色とりどりのドレスと豪奢な宝飾品が溢れかえっているはずだ。
窮屈極まりないコルセットで肋骨を締め上げ、息も絶え絶えになりながら扇子を揺らし、誰が誰と派閥を作ったの、どの家の令嬢が流行遅れのレースを着ているのと、笑顔の裏で毒針を刺し合う地獄の社交場――それが夜会である。
だが、今の私には一切合切、何の関係もない。
「……ふふ、ふふふふ。最高ね。これぞ文明、これぞ特権階級の極みだわ」
私は自室の毛足の長い絨毯の上にぺたりと座り込み、うっとりとした吐息を漏らしていた。
身にまとっているのは、締め付け感ゼロ、極上の肌触りを誇るシルクのネグリジェと、羽毛のように軽いガウンだけ。髪は結い上げるどころか適当に下ろしたままで、足元にはモコモコのルームシューズ。
そして私の目の前には、パチパチと心地よい音を立てて燃え盛る大理石の暖炉。
その赤々とした炎の真上には、無骨ながらも職人の魂が込められた特注の鋳鉄製グリルパンが鎮座していた。
――ジュウウウウウウウッ!!
肉塊が鉄板に触れた瞬間、暴力的なまでの芳醇な脂の爆ぜる音が部屋いっぱいに響き渡る。
立ち上る白煙とともに広がるのは、野性味がありながらも驚くほど澄んだ甘い肉の香りだ。
鉄板の上で踊っているのは、大人の手のひらふたつ分はあろうかという分厚いドラゴングリルのヒレ肉。鮮やかな赤身の間に、まるで職人がレース編みを施したかのような繊細な純白のサシが入り込んでいる。
「お嬢様、裏返しのタイミングでございます」
暖炉の脇に控えていたリディエが、感情の読めない涼やかな声で告げながら、長い銀のトングを私に差し出した。
彼女のトレイには、すりおろしたばかりの岩塩、数種類の乾燥香草、そして公爵家の地下ワイナリーで三十年熟成されたという深紅のヴィンテージワインが載せられている。
「ありがとうリディエ。見て、この完璧な焼き目……! 外側はカリッと香ばしく、内側には旨味の肉汁を極限まで閉じ込めるのよ」
トングで肉を返すと、黄金色の焦げ目がつけられた断面から、透き通った肉汁がぷくりと気泡を上げて溢れ出してきた。
パラパラと粗塩を振り、軽く香草を散らす。
前世の社畜時代、深夜二時にコンビニのレジ横で買った、いつ揚げられたかもわからない油の回ったチキンを貪っていた私に教えてやりたい。
人間、頑張って死んだ先には、こんな桃源郷が待っているのだと。
「ナイフとフォークをお使いになりますか?」
「いいえ、最初の一口は豪快にいきたいわ。切り分けて串に刺してちょうだい」
リディエは一切の眉根を動かさず、一口大にカットした極厚の肉片を銀のピックに刺して私に手渡した。
ふうふうと息を吹きかけ、熱々の肉を口の中へ放り込む。
「――んんんっっっ!?」
噛み締めた瞬間、歯が肉の繊維をすんなりと断ち切り、閉じ込められていた熱い肉汁が口内全体へ怒涛の勢いで押し寄せてきた。
重厚な旨味。それなのに脂っこさは微塵もなく、舌の上で甘やかに溶けて消えていく。噛めば噛むほど、古代竜の生命力がダイレクトに活力となって全身の細胞を満たしていくのがわかる。
「美味しい……! 何これ、お肉の形をした奇跡じゃないの……!」
すかさずリディエが差し出してきたクリスタルグラスの赤ワインを煽る。
芳醇な葡萄の渋みと酸味が肉の濃厚な脂をさらりと洗い流し、喉の奥に気品ある余韻だけを残していく。完璧だ。マリアージュという言葉はこの瞬間のために作られたに違いない。
「お気に召していただけて何よりでございます。ドラゴングリルは仕留めるのが極めて困難な上位魔獣ゆえ、王室の晩餐会でも年に一度出れば良いほうの逸品。公爵家の専属討伐隊が持ち帰った鮮度の賜物でございます」
「素晴らしいわ公爵家! 我が家の権力と財力、全力で骨の髄までしゃぶり尽くしてやるんだから!」
私がワイングラスを掲げて高笑いしていると、部屋の扉が控えめにノックされた。
現れたのは、日中よりもさらに顔色を土気色にした筆頭執事のクリストフだった。手には書類ではなく、胃薬の小瓶がしっかりと握られている。
「お、お嬢様……このようなところで肉を焼いておいででしたか……」
「あらクリストフ、あなたも食べる? 一口食べれば胃の痛みなんて吹き飛ぶわよ」
「滅相もございません! ……それよりも、王宮の夜会が始まってすでに一時間が経過いたしました。王宮からの使者が、先ほど式部官の署名入りで『エレオノーラ様の容態を案ずる』旨の書状を届けてまいりましたぞ」
「案ずる? ふん、どうせ『仮病を使って王家を侮辱する気か』という嫌味の前振りでしょう。放っておきなさい」
私は再び肉を一切れ口に放り込み、幸せそうに頬を緩めた。
「今頃、あのプライドの塊みたいなレオポルト殿下は、顔を真っ赤にして怒り狂っているはずよ。『主賓の婚約者にドタキャンされた哀れな王子』として、社交界の笑い者になっているんだから。ああ、せいせいするわ! 明日の朝には『不敬極まる悪女との婚約など白紙だ!』って怒鳴り込んでくるに違いないわね!」
そう。私の計画は完璧なのだ。
今夜のボイコットによって王太子の面子を徹底的に潰し、公爵令嬢としての傲慢さをこれでもかと見せつける。
激怒した王太子が国王に直訴し、婚約破棄。
王妃教育の重労働から解放された私は、公爵家の莫大な資産を元手に、常夏の島へ別荘を建てて一生昼寝して暮らす。
すべては思い通り。破滅フラグ万歳、悪役令嬢万歳である。
――しかし。
その時、私がお肉の脂の乗りに感動していたまさにその瞬間、王宮の大広間では、私の想像を絶する修羅場が幕を開けていたのである。
***
「……エレオノーラが、欠席だと?」
王宮の大広間、一段高い玉座の前に立つ王太子レオポルト・フォン・アウグストは、報告に上がった侍従長を冷たい碧眼で射抜いた。
プラチナブロンドの髪を完璧に撫でつけ、金糸の刺繍が施された豪奢な軍装に身を包んだ若き王太子は、社交界において「氷の貴公子」と称される冷徹な完璧主義者だ。
感情を滅多に表に出さない彼であったが、その眉間には隠しきれない不快の皺が刻まれていた。
「は、はっ……グランヴェル公爵家からの通達によりますと、急な激しい頭痛と発熱により、歩行すら困難な状態であると……」
「あの頑健そのもののエレオノーラが、急な発熱だと? 馬鹿な。今朝まで庭園で薔薇を眺めていたという報告が入っているぞ」
レオポルトは細い指先でグラスの脚を強く握りしめた。
政略結婚の相手とはいえ、エレオノーラは筆頭公爵家の一人娘。王家にとっても決して無下にできない最重要人物であり、今夜の親睦夜会は彼女を主賓として王太子の威信を貴族たちに示すための舞台だった。
それを、直前の体調不良というあまりにも見え透いた嘘でボイコットするとは。
「俺を侮辱する気か……? それとも、グランヴェル家が王家に対して何か不満を抱いているという無言の示威行動か……」
周囲の貴族たちも、主賓である公爵令嬢の不在に気づき、ざわざわと落ち着かない様子で囁き合っている。
王室と筆頭公爵家の不和か、それとも王太子の求心力の低下か――不穏な憶測が会場の空気を急速に重くしていく。
「――殿下」
張り詰めた空気を切り裂くように、重厚な軍靴の音が近づいてきた。
現れたのは、漆黒のマントを翻し、白銀の甲冑を隙なく着こなした長身の男――近衛騎士団長、マティアス・ヴァルデンだった。
彫刻のように整った精悍な顔立ちには一切の油断がなく、歴戦の猛者特有の鋭い眼光が会場全体を常に走査している。
「マティアスか。エレオノーラの件は耳に入っているな」
「はっ。式部官より報告を受けました。……少々、妙ですな」
「妙だと?」
「あの我の強い公爵令嬢が、このような見え透いた仮病で夜会を欠席するとは思えません。彼女が我儘を通すならば、もっと堂々と我が団の警備に難癖をつけるか、あるいは殿下の面前に乗り込んできて不満をぶつけるはず。直前の辞退……あまりにも唐突すぎます」
マティアスは顎に手を当て、軍人特有の研ぎ澄まされた嗅覚で違和感を捉えていた。
「いずれにせよ、主賓が不在となれば警備計画の変更が不可欠です。エレオノーラ閣下のために配置していた『最優先警戒ライン』――近衛第一小隊の精鋭八名が宙に浮くことになります」
グランヴェル公爵令嬢の安全確保は国家的重要事項であり、今夜の警備計画では、王太子の周囲とエレオノーラの周囲に二重の鉄壁の防衛網が敷かれる予定だった。
だが、エレオノーラが来ないとなれば、彼女の周囲を固めるはずだった近衛の精鋭部隊をそのまま遊ばせておくわけにはいかない。
「……マティアス、第一小隊の配置をどうする?」
「エレオノーラ閣下の動線として確保していた中央通路の警戒を解き、手薄になっていた外縁部――一般来賓および給仕係の通用口付近へとスライドさせます。今夜は隣国からの使節も紛れ込んでおりますゆえ、外周の警戒を強めるに越したことはありません」
「任せる。迅速に再編せよ」
「はっ!」
マティアスは鋭く敬礼し、踵を返して部下たちへ手信号で指示を飛ばした。
白銀の甲冑を纏った屈強な近衛騎士たちが、一糸乱れぬ動きで配置転換を開始する。
本来であれば、エレオノーラが優雅に歩くはずだった赤絨毯の脇から、会場の外縁――軽食やシャンパンが並ぶ給仕エリアへと、重厚な警戒網が音もなくスライドしていった。
そして――その瞬間だった。
(な、なんだ……!? なぜ近衛の精鋭がこちらへ来る!?)
銀のトレイにシャンパングラスを載せ、給仕係の制服を着て立っていた一人の痩せた男が、内心で激しく動揺していた。
男の名はハンス。表向きは王宮に臨時に雇われた給仕だが、その正体は隣国バルディニア帝国の主戦派に雇われた一流の暗殺者だった。
ハンスの計画は完璧なはずだった。
本来の手はずでは、主賓である公爵令嬢エレオノーラが入場し、王太子レオポルトと壇上で挨拶を交わす。
その瞬間、全貴族の視線と、会場内の護衛騎士たちの神経は壇上の一点へと集中する。
さらに、筆頭公爵家独自の私兵と王宮近衛騎士団の連携に生じるわずかな死角――エレオノーラを過剰に守ろうとするあまり、王太子の背後がわずかに手薄になる一瞬が存在することを、ハンスの雇い主は事前に割り出していたのだ。
その一瞬の隙を突き、祝杯のグラスを運ぶ給仕を装って背後から接近。
袖口に仕込んだバネ式の小型暗器から、触れただけで三秒以内に心臓を麻痺させる「ワイバーンの劇毒針」を王太子の首筋へ打ち込む――それがシナリオのすべてだった。
だが、どうだ。
待てど暮らせど、主賓の公爵令嬢が現れない。
それどころか、エレオノーラを迎えるために中央に集結していたはずの最強の騎士たちが、ぞろぞろと自分たちのいる給仕エリアへと展開してきたではないか!
(クソッ、配置が違う! 話が違うぞ! なぜ近衛第一小隊がこんな壁際に張り付いているんだ!?)
ハンスの額から、タラリと冷たい汗が一筋こぼれ落ちた。
近衛兵たちの放つ無言の重圧。歴戦の騎士特有の、殺気に対する異常な鋭敏さ。
ほんの少しでも不審な挙動を見せれば、一瞬で首と胴体が泣き別れになる距離に、三人の重装騎士が立ちふさがっているのだ。
(落ち着け……まだバレたわけではない。グラスを配るふりをして、別の退路を――)
ハンスが焦りから、ほんのわずかに視線を泳がせ、足先を後方の通用口へと向けた。
その、常人であれば絶対に見逃すような爪先の数センチのブレ。
「――そこな給仕」
氷柱のように冷徹な声が、ハンスの鼓膜を貫いた。
ハンスの心臓が跳ね上がる。
見ると、数歩先で近衛騎士団長マティアスが、獲物を狙う鷹のような鋭い眼光で自分を凝視していた。
「は、はい……何か御用でございましょうか、騎士団長様?」
「貴様、足運びが給仕のそれではないな。重心が極端に低く、左半身を不自然に庇っている」
「め、滅相もございません! 生まれつき足が少々悪く――」
「両手を上げろ。ゆっくりだ」
マティアスの手が、腰の長剣の柄へと音もなくかけられた。
周囲の空気が一気に凍りつく。近くにいた貴族たちが異変を察知し、悲鳴を上げて後退り始めた。
(ちくしょう、バレたか!!)
観念したハンスは、偽装をかなぐり捨てて左腕を振り上げた。
袖口から飛び出す鋼鉄の射出機。狙うは、十数メートル先で呆然とこちらを見ている王太子レオポルトの喉首――!
「死ね、王太子――ッ!」
だが、針が放たれるよりも早く、白銀の閃光が走った。
ズガンッ!!
「ぐあぁっ!?」
マティアスの剛腕から放たれた鞘付きの長剣が、正確無比にハンスの手首を粉砕した。
ガシャンと甲高い音を立てて床に転がり落ちる銀のトレイと、砕け散るシャンパングラス。
ハンスが激痛に叫び声を上げた瞬間には、すでに二人の近衛騎士が左右から組み付き、男の体を大理石の床へと叩きつけていた。
「動くな! 近衛を舐めるなよ、鼠めが!」
騎士がハンスの衣服を引き裂くと、右袖の裏側から鈍い光を放つ小型射出機と、先端が禍々しい紫色に染まった三本の極細針が転がり出た。
針の先から滴り落ちた一滴の液体が、床の絨毯に触れた瞬間、ジュウと音を立てて布地を真っ黒に変色させる。
「こ、これは……『ワイバーンの毒針』……! 帝国の暗殺ギルドが使う特級の猛毒だぞ!」
「暗殺者だ! 曲者を捕らえろ!」
静寂は一瞬にして阿鼻叫喚の怒号へと塗り替えられた。
騎士たちの怒鳴り声、貴族たちのパニックの悲鳴、抜刀される無数の剣の音。
大広間は、まさに血の海――の一歩手前の大混乱へと叩き落とされたのである。
***
「……報告を」
別室へと移動した王太子レオポルトは、青白い顔のまま、押収された毒針を見つめていた。
室内には、拘束された暗殺者の尋問を終えたマティアスだけが控えている。
「暗殺者はバルディニア帝国の手先でした。狙いは間違いなく殿下の御首。……奴の供述によれば、本来の計画では、エレオノーラ閣下と殿下が壇上で対面した瞬間、護衛の死角を突いて毒針を放つ手はずだったとのことです」
「……死角だと?」
「はっ。公爵令嬢をお迎えするための厳重な儀礼配置により、殿下の背後、給仕の立ち位置に数秒間だけ騎士の視界が届かない空白地帯が生じる計算だったようです。……恐ろしいことに、我が団の警備マニュアルを完全に逆手に取った計画でした」
マティアスは悔しげに拳を握りしめた。
もし、計画通りに夜会が進行していたら。
もし、主賓であるエレオノーラがいつも通り傲慢に赤絨毯を歩いていたら。
あの毒針は確実にレオポルトの首を貫き、今頃、王太子は冷たい骸となって転がっていたはずなのだ。
「だが……警備は変更された」
「はい。エレオノーラ閣下が急遽、夜会を欠席されたためです。宙に浮いた第一小隊を外縁部へと回した結果、潜伏していた暗殺者の逃げ場を塞ぎ、早期の発見・捕縛に至りました」
部屋の中に、重い沈黙が落ちる。
レオポルトは机に両肘をつき、震える指先で額を覆った。
彼の脳裏に、傲慢で、高飛車で、いつだって自分を冷めた目で見下ろしてくる婚約者の顔が鮮烈に浮かんできた。
(エレオノーラが……欠席したから、俺は助かった……?)
なぜだ?
なぜ、彼女はあんな稚拙な「頭痛」などという理由で、王太子の夜会をドタキャンした?
筆頭公爵家の誇り高い令嬢が、社交界中から「不敬」「非常識」と叩かれるリスクを冒してまで、なぜ――?
「……まさか」
レオポルトの口から、掠れた声が漏れ出た。
彼の瞳が、信じられないものを見たかのように見開かれる。
「マティアス、お前は先ほど言ったな。『あの我の強い女が、見え透いた仮病でサボるはずがない』と」
「はっ……申し上げました」
「そうだな。エレオノーラは誰よりも誇り高く、誰よりも聡明な女だ。そんな彼女が、理由もなく王家を侮辱するような真似をするはずがない……! もし、彼女が最初から――会場に暗殺者が潜んでいることを知っていたとしたらどうだ!?」
「なっ……!?」
マティアスが息を呑む。
レオポルトの頭の中で、バラバラだったピースが猛烈な勢いで噛み合わさっていく。もちろん、完全に明後日の方向へと。
「考えてもみろ! 公爵家の情報網は王家を凌ぐ! 彼女は帝国の暗殺計画を事前に察知していたのだ! しかし、下手に告発すれば敵は警戒して潜伏し、いつ再び俺の命を狙うかわからない! だから……だから彼女はあえて!!」
レオポルトは立ち上がり、熱情に浮かされたように激しく机を叩いた。
「自らが不敬の汚名を被り、周囲から嘲笑されることを承知の上で、直前にボイコットしたのだ! 己が不在となることで、俺たちに警備計画の変更を余儀なくさせ、暗殺者の動線を完璧に狂わせるために……!!」
マティアスはその言葉に、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
強面な騎士団長の頬に、サーッと鳥肌が立つ。
「なんという……なんという深謀遠慮……! 自らの名誉を泥に塗ってまで、殿下の命を、我が国の未来を救おうとされたというのか……!? あのお方は……あのお方はどれほどの覚悟で、あの欠席届を出されたのだ……!」
「エレオノーラ……! 俺は……俺はなんて愚かだったんだ!」
レオポルトの両目から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
政略結婚の相手として、常に一線を引いて接していた。冷淡な態度を取り、彼女の冷たい視線を「傲慢さの表れ」だと決めつけていた。
だが、違ったのだ。
彼女は誰よりも深く自分を想い、誰よりも国を憂い、たった一人で暗殺の刃から自分を守るために、悪役を引き受けてくれたのだ。
「マティアス! 明朝、一番でグランヴェル公爵邸へ向かうぞ!」
「はっ! 我が近衛騎士団の総力を挙げ、エレオノーラ閣下へ最大の謝意をお伝えせねばなりません!」
主従の瞳には、燃え盛るような崇敬と、取り返しのつかない巨大な勘違いの炎がギラギラと灯っていた。
***
――チュン、チュン、チュン。
小鳥の愛らしい囀りが、静かな朝の訪れを告げていた。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日を浴びながら、私はベッドの上で優雅に伸びをした。
「ふあぁぁぁ……よく寝たわぁ」
昨晩食べたドラゴングリルの肉は本当に素晴らしかった。
上質な脂のおかげか、今朝の私のお肌はかつてないほどプルプルで艶やかである。前世の万年睡眠不足でボロボロだった肌荒れが嘘のようだ。
「おはようございます、お嬢様。素晴らしい目覚めのご様子で」
リディエがワゴンを押して入ってくる。
今朝のメニューは、焼きたてのスコーンにたっぷりのクロテッドクリームと自家製ベリージャム、そして淹れたてのミルクティーだ。
「ええ、最高の朝よリディエ。昨夜はよく眠れたわ」
「それは何よりでございます。昨夜の王宮は、随分と騒がしかったようでございますが」
「あら、そうなの? ふふっ、きっと殿下が『あんな傲慢な女、今すぐ追放してやる!』って荒れ狂っていたのね。可哀想に、プライドを傷つけられちゃったかしら」
私はスコーンにジャムをたっぷりと塗りながら、満面の笑みを浮かべた。
怒り心頭の王太子が、怒鳴り込んでくるのも時間の問題だろう。
どんな顔をして迎えてあげようかしら。「あら、ごめんなさい殿下。私、頭痛が痛くてそれどころじゃありませんでしたの」と扇子で口元を隠して小馬鹿にしてあげようか。そうすれば完璧に破滅フラグが成立する。
「さあレオポルト殿下、いつでもいらっしゃい! 私の華麗なる国外追放劇の第一幕を開けてあげるわ!」
至福の朝食を味わいながら、私はまだ見ぬ自由なニート生活への期待に胸を膨らませていた。
階下から、地響きのような勢いで馬車が駆け込んでくる音が響いていることにも気づかずに。




