第1話:過労死OL、筆頭公爵令嬢に転生したので全力で有給消化に入ります
ピピッ、ピピッ、ピピッ――。
けたたましい電子音が鼓膜の奥を引っ掻き回す。
午前四時半。始発電車に乗り込み、午前二時に退社する生活を丸三週間続けていた。
ディスプレイの青白い光に照らされたエクセルシートの数字は、乱視と疲労のせいで二重三重に滲んで判読できない。
デスクの端には、空になったカフェイン飲料の黒い小瓶が七本、まるで墓標のように並んでいた。胃袋の粘膜が悲鳴を上げ、吐き気と冷や汗が同時にこみ上げる。
「……あ、これ、死ぬやつだわ」
そう呟いたのが、私の前世における最期の記憶だった。
キーボードに額から崩れ落ち、硬いキートップが額にめり込んだ感覚を最後に、私の視界はプツンとブラックアウトしたのである。
享年、二十八歳。
有給消化率は堂々の〇パーセント。昇進の約束は反故にされ、ボーナスは業績悪化の名目で三割カット。絵に描いたようなブラック企業で骨の髄まで搾り取られた、哀れな社畜OLの呆気ない幕引きだった。
――そして。
「……ん?」
鼻腔をくすぐったのは、嗅ぎ慣れた安物の栄養ドリンクの薬品臭でも、湿気たオフィスの埃っぽい空気でもなかった。
甘く、どこまでも上品な薔薇の香り。
頬に触れる布地は、綿やポリエステルとは次元の違う、滑らかでとろけるような最高級シルク。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは蛍光灯の白い天井ではなく、繊細な金の刺繍が施された豪奢な天蓋だった。
ベッドの広さだけで、前世で住んでいたワンルームマンションの居室がすっぽり収まりそうな規格外のスケールである。
「お目覚めになられましたか、エレオノーラ様」
静謐で凛とした声がすぐ耳元から降ってきた。
反射的に跳ね起きそうになった体を、羽毛の柔らかい沈み込みが引き留める。
枕元に控えていたのは、一切のシワがない純白のエプロンドレスを着こなした、氷のように怜悧な顔立ちの美少女だった。
背筋をピンと伸ばし、銀のトレイに乗せたティーカップを恭しく掲げている。
「……え、だれ?」
「寝起きの混乱でございますか。ご安心ください、本日の朝摘みダージリンをご用意いたしました。適温でございます」
無駄のない所作で差し出された白磁のカップ。そこに映り込んだ自分の顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。
黒髪に隈だらけの疲弊しきった顔面はどこにもない。
そこにあったのは、陽光を浴びて輝く濡れ羽色の艶やかな黒髪に、抜けるように白い肌、そして冷淡なまでの美貌を誇る、緋色の瞳を持った絶世の美少女の姿だった。
――ドバッ。
頭の奥底で、何かが決壊した。
激流のように脳内へと流れ込んでくる見知らぬ記憶と知識。
グランヴェル筆頭公爵家。
王家と並び立つどころか、建国の祖とともに国土に結界を敷いた大貴族であり、独自の軍事力と国家予算の数割を握る財政網、王家ですら立ち入れない治外法権を持つ、国内最高峰の絶対権力者。
そして私は、その現当主マクシミリアン・フォン・グランヴェルの一人娘――エレオノーラ・フォン・グランヴェル。
(……思い、出した……! ここ、前世で深夜残業の合間に現実逃避で遊んでいた乙女ゲーム『王冠のロンド』の世界じゃないの!)
しかも、よりによってエレオノーラ。
容姿端麗、頭脳明晰、生まれながらに古代級の規格外魔力をその身に宿しながら、傲慢で我儘放題に振る舞い、主人公である平民上がりのヒロインを虐め抜いた末、物語のクライマックスで王太子に断罪され、国外追放を言い渡される悪役令嬢その人だった。
普通なら青ざめるところだろう。
破滅フラグを回避するために、聖女のように優しく振る舞い、好感度を稼ぎ、運命を捻じ曲げようと必死になるはずだ。
だが、前世で限界まで働き詰め、命を散らした社畜の魂は、全く別の結論を一瞬で弾き出した。
(ちょっと待ちなさいよ……)
私はベッドの上で拳を握りしめ、プルプルと震えながら己の内なる状況を再確認した。
身分:国王すら頭が上がらない筆頭公爵家の一人娘。
財力:一生かけて豪遊しても使い切れない無限の資産。
魔力:息をするだけで古代魔法を発動できるチートスペック。
未来:悪行を重ねれば、婚約破棄されて『国外追放』。
(国外追放……? それってつまり、王妃教育という名の地獄の激務研修から解放され、公爵家の莫大な慰謝料を懐に放り込んで、誰も自分を知らない南の島あたりで一生ゴロゴロ昼寝して暮らせるってこと……!?)
天啓だった。
神様、ありがとう。過労死した私へのボーナスステージはこれだったのね。
誰が働くものか。誰が王妃になって国家の重荷を背負い、書類仕事に追われるものか。
二度目の人生の行動指針が、鋼の強度でバチリと定まった。
「働いたら負け。私は今日から、全力で有給消化に入ります!」
「かしこまりました。それでは朝食の手配をいたします」
私が思わず高らかに叫んだ決意に対し、枕元に控えていた侍女――リディエは、眉一つ動かさずに深々と一礼した。
彼女は私の専属侍女であり、どれだけ突拍子もない命令を下しても機械のように淡々とこなす、極めて有能な共犯者だ。
「エレオノーラ様、本日の予定でございますが」
リディエが手帳を開き、流れるような口調でスケジュールを読み上げ始める。
「午前中は王室から派遣された礼法指南役による立ち居振る舞いの指導、正午からは隣国の歴史に関する講義、午後からはグランヴェル領の年次収支報告書の確認、そして夕刻からは――」
「ストップ」
私はベッドから身を乗り出し、手のひらをビシッと突き出した。
「夕刻からは何?」
「……婚約者であられる王太子レオポルト殿下主催の、春の親睦夜会でございます。今夜は殿下の十八歳を祝う前哨戦であり、エレオノーラ様は主賓として殿下のお隣でファーストダンスを踊られる手はずとなっております」
げっ、と声が出そうになった。
夜会。
貴族社会の縮図。息の詰まるコルセットで内臓を圧迫され、足の痛むヒールを履き、顔筋が引き攣るほどの作り笑いを浮かべながら、腹黒い貴族どもと社交辞令の応酬を繰り広げる、あの地獄の飲み会。
(冗談じゃないわ! 前世で散々付き合わされた取引先との接待ゴルフと深夜の接待麻雀を思い出すじゃないの! なんで異世界に来てまで時間外労働をしなきゃいけないのよ!)
しかも相手は婚約者の王太子レオポルト。
プライドが高く、政略結婚を露骨に嫌っており、原作ゲームではエレオノーラに対して常に冷淡な態度を取り続けていた男だ。
そんな男の隣で愛想笑いを振りまくなど、時給一億円積まれてもお断りである。
「リディエ」
「はい、お嬢様」
「本日の予定、すべてキャンセルで」
リディエの切れ長の瞳が、ほんのわずかに微動だにした。
「……すべて、でございますか? 礼法指南役にはすでにお越しいただいておりますし、夜会は王室主催でございます。グランヴェル公爵家の威光があるとはいえ、主賓の不参加は王家に対する重大な不敬と取られかねませんが」
「構わないわ。断りなさい」
私はシーツを胸元まで引き上げ、優雅に顎をしゃくった。
「理由はどうなさいますか?」
「そうね……『頭痛が痛いから休む』と伝えてちょうだい」
「……『頭痛が痛い』、でございますね」
「ええ。あと熱っぽくてお腹も痛いし、なんだか全身の毛穴からやる気が蒸発してベッドから一歩も出られないって付け加えておいて」
小学生の仮病でももう少しマシな嘘をつく。
だが、これでいいのだ。むしろこれがいい。
王太子主催の夜会を、舐め腐った理由で当日ドタキャンする。
これほど完璧な悪役ムーブがあるだろうか?
プライドの塊であるレオポルトのことだ。間違いなく激怒し、侮辱されたと騒ぎ立てるに違いない。
そうすれば貴族院でも「公爵令嬢の横暴が目に余る」と問題になり、婚約破棄へのカウントダウンが一気に進む。
私はいずれ追放され、南の島でトロピカルジュースを飲みながら波の音を聞いて暮らすのだ。完璧すぎる。我ながら天才的なサボり計画だ。
「畏まりました。殿下および王宮側には『急な体調不良により、医師の厳命に従い安静に伏せっておられる』とだけ伝達いたします」
「えっ、ちょっと待って、もっと失礼な言い方にしてよ。『かったるいから行かないって言ってます』くらいダイレクトに伝えてちょうだい」
「お嬢様、言葉を飾るのが侍女の役目でございます。それでは、朝食をお持ちいたします」
リディエは私の抗議を完全にスルーし、優雅なカーテシーを残して部屋を出て行った。
まあいい。どんなオブラートに包もうが、結果として夜会をすっぽかすことに変わりはないのだ。
数分後、部屋の扉がノックされ、今度は青ざめた顔の中年男性が転がり込んできた。
グランヴェル公爵家の筆頭執事、クリストフである。
仕立ての良い燕尾服を着ているが、その額には滝のような汗が流れていた。
「お、お嬢様! リディエから聞きましたぞ! 本日の講義をすべて取りやめ、夜会を欠席されると……! ま、真でございますか!?」
「ええ、本当よクリストフ。私は今日、一歩もこの部屋から出ないわ。絶対にね」
私はベッドの背もたれに寄りかかり、ふんぞり返って見せた。
クリストフは胸を押さえ、胃痛に耐えるように顔を歪める。
「し、しかしお嬢様! お相手は王太子殿下でございます! いくら我がグランヴェル家が王家と対等の盟約を結んでいるとはいえ、直前のボイコットなど前代未聞! 国王陛下のお耳に入れば、いかに寛大な閣下(お父上)とて庇いきれず、貴族院からお叱りを受けるやもしれませんぞ!」
「あら、お叱り? 大いに結構じゃない。叱りなさいよ、何なら婚約を破棄してくれても構わないわ」
「な、何を不吉なことを……! 殿下とのご婚約は、我が公爵家と王家の絆を盤石にするための要! それを破棄などと軽々しく口になさいますな!」
「うるさいわね。休みたいと言ったら休むの。私の邪魔をするなら、あなたの今月の給金を三倍に増額して、無理やり一ヶ月の有給休暇を叩きつけて田舎に強制送還するわよ!」
「そ、それは困ります! 私が現場を離れたら公爵邸の帳簿が回りません!」
ブラック企業の社畜気質が染み付いているのか、クリストフは「有給」という単語に怯えて後ずさった。
この男も大概、仕事中毒のワーカホリックである。前世の私を見ているようで少々胸が痛むが、今は私の安眠のほうが百万倍大事だ。
「わかったら下がりなさい。私はこれから、二度寝という名の神聖な儀式を執り行うの」
「ううっ……閣下には私からご報告申し上げておきます……どうか、どうか明日からはご公務にお戻りくださいませ……」
クリストフは胃薬を求めるように腹を押さえながら、ヨロヨロと部屋を辞去していった。
静寂が戻った豪奢な天蓋付きベッド。
私はシーツに顔を埋め、深々と息を吸い込んだ。
(勝った……! 有給申請が通ったわ……!)
もちろん有給休暇などという制度はこの世界に存在しないが、気分は完全に勝ち組である。
時計の針はまだ午前九時を回ったばかり。
前世なら、すでに満員電車で押しつぶされ、理不尽な顧客からのクレーム電話に平頭を下げていた時間帯だ。
それがどうだ。
ここには怒鳴り散らす上司も、鳴り止まないチャットツールも、山積みの請求書もない。
ただ、広大で静かな部屋と、ふかふかのベッドがあるだけ。
「最高……これよ、私が求めていた人生はこれなのよ……!」
私は掛け布団を巻き込み、芋虫のようにベッドの上をゴロゴロと転がった。
グランヴェル公爵令嬢という最強のバックボーン。
王家ですら不可侵の治外法権を持つこの家系において、私がどれだけ我儘放題に振る舞おうと、即座に処刑されるような理不尽な法は存在しない。
せいぜい「手に負えない悪女」として婚約破棄され、持参金とともに領地の隅の別荘へ追放されるのが関の山だ。
追放万歳。辺境ニート万歳。
「お嬢様、朝食をお持ちいたしました」
ガラガラと音を立てて、リディエが銀色のワゴンを押して戻ってきた。
銀のクロッシュが開けられると、そこには黄金色に輝くふわとろのオムレツ、湯気を立てる焼きたてのクロワッサン、色鮮やかな季節の果物、そして濃厚なポタージュスープが美しく並べられていた。
「素晴らしいわリディエ。ベッドの上で食べるから、そこにトレイをセットして」
「畏まりました」
一切の小言も挟まず、リディエは手際よくベッド用テーブルをセッティングしてくれる。
スプーンですくったポタージュを口に運ぶと、濃厚なミルクと野菜の甘みが口いっぱいに広がった。前世で毎朝胃に流し込んでいた、コンビニの冷え切ったおにぎりやゼリー飲料とは天と地ほどの差がある。
「美味しい……! 染み渡るわ……!」
「グランヴェル領から今朝届いたばかりの新鮮な食材を使っております。お口に合いましたようで何よりです」
「リディエ、夜会の準備はどうなったの?」
「先ほど、王宮の式部官へ正式にお断りの書状を届けさせました。式部官は顔を青くして卒倒しかけておりましたが、筆頭公爵家からの通達とあれば受理せざるを得ません」
「ふふっ、いい気味ね。これでレオポルト殿下も私に愛想を尽かすに違いないわ」
オムレツをフォークで切り崩しながら、私はご機嫌で鼻歌交じりに笑った。
夜会をすっぽかされた王太子のプライドはズタズタ。
明日の朝には、激怒したレオポルトから「あのような礼節を弁えぬ我儘女とは婚姻を結べない!」と絶縁状が叩きつけられるはずだ。
そうすれば、私は晴れて自由の身。
「リディエ、今日の夕食の希望を出してもいいかしら?」
「何なりとお申し付けください」
「自室の暖炉でね、最高級のお肉を焼きたいの。ほら、前世……じゃなくて、以前聞いたことがあるのよ。ドラゴングリルの霜降り肉っていう、脂の乗った極上のやつ」
「……ドラゴングリルのヒレ肉でございますね。幻の最高級食材ですが、公爵家の地下食糧庫に昨日の討伐隊が持ち帰った鮮度抜群のものが保管されております」
「それよ! それを厚切りにして、極上の赤ワインと一緒に用意してちょうだい。夜会が開催されている時間帯、私はこの部屋で一人焼肉フェスティバルを開催するわ!」
他人が着飾って窮屈な社交辞令を交わしている間に、部屋着で高級肉を焼き、赤ワインを煽る。
これ以上の贅沢、これ以上の背徳感があるだろうか。
私の瞳は、悪役令嬢としての邪悪な野心ではなく、単なる食い意地と堕落への欲望でキラキラと輝いていた。
「畏まりました。暖炉の火加減と調理器具、ソムリエ厳選のヴィンテージワインを手配いたします」
リディエは完璧な一礼をして、静かに部屋を出て行った。
有能すぎる。前世の無能な上司どもに見せてやりたい手際の良さだ。
朝食を平らげた私は、再びシーツに潜り込み、心地よい満腹感に身を委ねた。
部屋の外からは、初夏の爽やかな風がカーテンを揺らす音だけが聞こえてくる。
パソコンのタイピング音もしない。
オフィスの電話のコール音もしない。
誰にも邪魔されない、私だけの時間。
「……ふあぁ……幸せ……」
大きなあくびを一つ。
私は目蓋を閉じ、二度寝の深い眠りへと落ちていった。
この時、私は知る由もなかったのだ。
私が「めんどくさい」「肉食って寝たい」という身勝手極まりない理由で放り投げたその夜会が、王国の歴史を揺るがす大事件の舞台となろうとしていたことを。
そして、私のこの怠惰極まるドタキャンが、周囲の人間たちによって「深謀遠慮の救国劇」として特大の勘違いを起こす、すべての始まりになろうとは――。




