第25話:名門学園に入学したけれど、私の席は最後列の窓際(昼寝特等席)一択です
抜けるような青空の下、初夏の陽光を浴びてそびえ立つ白亜の尖塔群。
王都の北東部に広がる広大な敷地を誇るその場所は、名門『王立貴族学園』――王族をはじめ、大貴族の令息令嬢から選りすぐりの特待生に至るまで、この国の未来を担うエリートたちが一堂に会する最高学府であった。
豪奢な大門をくぐり抜ける高級馬車の列。
仕立ての良い濃紺の制服に身を包んだ若者たちが、社交辞令の花を咲かせながら石畳の並木道を行き交っている。
そんな希望に満ちあふれた学び舎の入り口に、私は死刑台へと向かう囚人のような重い足取りで降り立っていた。
「……信じられない。なぜ私が、朝の八時半にこんな教育施設に登校しなければならないのよ……」
グランヴェル公爵家の紋章が刻まれた特注の黒塗り馬車のステップで、私は恨めしそうに青空を睨みつけた。
濃紺の上質なウール生地に、金糸の刺繍が施された学園指定のブレザー制服。本来ならぴっちりと首元まで留めるべきブラウスの第一ボタンを指先で外し、少しでも息苦しさを紛らわせようと胸元をパタパタと扇ぐ。
背後には、同じく学園の規則に従って侍女服を控えめなトーンに整えたリディエが、鞄を抱えて無表情に控えていた。
「お嬢様、王国の法において、十六歳を迎えた貴族籍の嫡子は最低二年間の学園履修が義務付けられております。公爵家とて、この国家規定を完全に免除することは叶いません」
「義務、義務って、前世の納税と就労の義務だけでお腹いっぱいなのよ! 義務教育なんて前世でとっくに修了したわ! 微分積分も世界史も社畜の処世術も履修済みなのに、なんで二度目の人生でまで朝礼と時間割に縛られなきゃいけないわけ!?」
心底からの叫びだった。
前世の社畜時代、私は毎朝七時の満員電車に揺られ、定時という名の幻想に縛られながら一日十四時間労働を繰り返していた。
だからこそ、過労死してこの異世界に転生した際、私は固く心に誓ったのだ。「二度と定時出社などしない」「好きな時に寝て、好きな時に起きる」と。
「……でも、まあいいわ」
私は気を取り直し、口元に不敵な笑みを浮かべた。
屋敷の状況を思い返せば、この学園登校は決して悪いことばかりではない。
あの悪夢の真夜中脱走未遂事件以来、グランヴェル公爵本邸は王太子レオポルト、近衛騎士団長マティアス、筆頭神官シルヴァンの手によって、文字通り「絶対不可侵の軍事要塞」へと魔改造されてしまっていたのだ。
庭には篝火、屋根には結界術士、十歩おきに銀ピカの甲冑騎士が仁王立ちし、夜中に窓を開ければファンクラブの総会が始まるという、息の詰まる地獄のような過保護空間。
それに比べれば、王宮や神殿の直属兵が敷地内に立ち入れないこの学園は、監視の目をかいくぐる絶好の抜け穴と言える。
「屋敷から出されたのなら、この学園内で究極のサボり環境を構築するまでよ! 教師の目を盗んで堂々と昼寝をし、落第点を叩き出し、『あの女は名門学園の面汚しだ』と貴族院から糾弾されて国外追放! これよ、これこそが真の逆転サクセスストーリーだわ!」
私は拳を握りしめ、胸を張って校舎へと足を踏み入れた。
***
貴族学園の高等部、一年生の中央大講堂。
吹き抜けの天井からは豪華なクリスタルの魔導シャンデリアが吊り下がり、階段状に並ぶ机には、すでに着席した数十名の高位貴族の生徒たちが集まっていた。
扉が開かれ、私が教室に一歩足を踏み入れた瞬間――。
ヒュッ、と室内の空気が音を立てて凍りついた。
「……あのお方が……」
「グランヴェル公爵令嬢、エレオノーラ様だ……!」
「王都を飢饉から救い、千年の瘴気を浄化されたという、生ける聖女様……!」
さざ波のような囁き声が、一瞬にして教室中を駆け巡る。
生徒たちの視線が、まるで強力な磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、一斉に私へと突き刺さった。
羨望、畏怖、崇拝、そして熱狂。
誰もが息を呑み、微動だにせず、私の次の一挙手一投足を見守っている。
(……うわぁ、視線が痛い。めちゃくちゃ見られてるわね)
前世で、大規模プロジェクトの初日キックオフ会議に遅刻して飛び込んだ瞬間のような、あの針の筵の感覚。
だが、今の私にはそんな他人の視線など気にしている余裕はない。
私の目的はただ一つ。
この教室における「最重要軍事拠点」を確保することだ。
私は教室の全体を、歴戦のハンターのような鋭い目つきでスキャンした。
前列中央? 論外だ。教師の唾が飛んできそうな最前線で寝られるはずがない。
中段の席? 左右を他人に挟まれてパーソナルスペースが確保できない。
ならば――答えは、ただ一つ。
スタスタと、私は迷いのない足取りで階段状の通路を登っていった。
目指すは、教室の最上段、一番奥の角。
教卓に立つ教師からはちょうど前列の生徒の頭で死角になり、右手には心地よい初夏の風と木漏れ日を運んでくる大きなアーチ窓。
学生時代から社畜時代に至るまで、すべてのサボり魔が喉から手が出るほど欲する伝説の聖域――【最後列の窓際(昼寝特等席)】である!
「ふう……ここよ。ここ以外にあり得ないわ」
私は誰の挨拶にも応じず、最奥の席の椅子をガタッと引いて腰を下ろした。
深く背もたれに体重を預け、足をゆったりと組み、窓枠に肘をついて頬杖をつく。
窓の外を見下ろせば、中庭の緑が揺れ、遠くの噴水のせせらぎが聞こえてくる。風通しも日当たりも最高、クッションさえ持ち込めば五秒で意識を手放せそうな神ポジションだ。
(完璧だわ……。あとは退屈な講義が始まれば、子守唄代わりに心地よい微睡みへダイブするだけよ)
私は内心でほくそ笑み、満足げに目を細めた。
――しかし。
教室にいた生徒たち、そして教壇に立っていた老教授の受け止め方は、私の意図とは百八十度、いや五百四十度ほどねじ曲がっていたのである。
***
「……息を呑むほどの気迫だ……」
前列に座っていた侯爵家の令息が、額にじっとりと冷や汗を浮かべながら呟いた。
エレオノーラ・フォン・グランヴェル。
彼女は教室に入ってくるなり、周囲の貴族たちの媚びへつらうような視線を一瞥のもとに切り捨て、一切の迷いなく最後列の窓際へと歩みを進めた。
本来、筆頭公爵令嬢という最高位の身分であれば、教室の中央、最も目立つ特等席に座るのが貴族社会の慣例である。
だが、彼女はそのような俗世の序列争いなど歯牙にもかけず、あえて最も全体を見渡せる高みへと陣取ったのだ。
「見ろ、あの座り姿を……」
「窓の外に視線を向けながらも、背筋は一片の乱れもなく、教室全体の生徒の動向を完全に把握しておられる……!」
「己の権威を誇示するためではなく、教室のすべてを冷静に観察するために、あの席を選ばれたのだ……」
教壇に立つ初老の魔導史学教授、オズワルドもまた、震える手で眼鏡を押し上げていた。
エレオノーラの放つ、冷徹なまでの静けさ。
窓枠に肘をつき、退屈そうに外を眺めるその横顔は、老教授の目には「この講義で教えられる程度の知識など、すでにすべて修めて退屈している大賢者」のように映っていた。
(なんという威厳……なんという気品……! 講義を始める前から、この老骨の拙い知識を値踏みされているかのようだ……! 心して講義を行わねば、グランヴェルの神童に鼻で笑われてしまう……!)
オズワルド教授はゴクリと唾を飲み込み、緊張で声を上ずらせながら、分厚い魔導史の教科書を開いた。
「え、ええと……では、帝国暦三百年代の魔導革命についての講義を始める……!」
***
「…………」
講義が始まって、わずか十五分。
私は、壮絶な地獄の拷問に耐えかねて、心の中で血の涙を流していた。
(……ね、眠れない……ッ!!)
肘をついたまま、私はピクリとも動けずにいた。
なぜか?
全校生徒の視線が、痛いのだ。
物理的な質量を伴って、私の全身に突き刺さっているのだ!
前列の生徒たちが、五分に一度のペースでチラチラと振り返っては、私の顔色を伺ってくる。
オズワルドとかいう白髭の教授は、黒板に文字を一つ書くたびにビクビクと私の方を見上げ、「エレオノーラ様、この解釈でよろしいでしょうか……?」と言わんばかりの怯えた視線を送ってくる。
おまけに、廊下の小窓からは、他のクラスの生徒や下級生たちが「聖女様を一目見たい」と群がり、何重もの人垣を作ってこちらの様子を覗き込んでいるのだ。
(何なのよこれ!? 動物園のパンダか何かなわけ!? こんな四方八方からガン見されている状態で、どうやって白目を剥いて爆睡しろって言うのよ!!)
前世の社畜時代を思い出す。
新入社員の頃、オープンスペースのオフィスのど真ん中に席を配置され、背後を上司や役員がひっきりなしに行き交う中、睡魔に襲われて必死にキーボードを叩くふりをしながら耐えていた、あの精神破壊の拷問時間!
寝たい。
猛烈に寝たい。
昨夜の真夜中脱走劇で体力を消耗し、朝早く叩き起こされた私の脳細胞は、今まさにシャットダウンを要求してアラームをけたたましく鳴り響かせているのだ。
だが、ここで下手に机に突っ伏して眠りこければ、周囲の狂信者たちが「聖女様がお倒れになられた!」「神殿から治癒術士を呼べ!」「王太子殿下に急報を!」と大パニックを起こし、大騒ぎになるのは火を見るより明らかだった。
そんな騒ぎになれば、私の平穏なサボりライフは初日で完全崩壊してしまう。
(くっ……! 目を開けたまま眠るか……? いや、無理よ、白目を剥いたら即座にバレるわ! 誰か……誰か私の代わりに、もっともらしく頷いて、ノートを取るふりをして、たまに相槌を打ってくれる『身代わり』が欲しい……!!)
切実すぎる願いだった。
前世で誰もが一度は夢見たであろう、「自分の代わりに仕事をしてくれる全自動身代わりロボット」。
それさえあれば、私はこの窓際で堂々と意識を飛ばし、南の島の夢を見ながら有給休暇を満喫できるのに!
――その時だった。
私の鋭敏すぎる地獄耳が、斜め前の席に座っていた男子生徒二人の、小声の密談を拾い上げた。
「……おい、聞いたか? また北校舎の地下でボヤ騒ぎがあったらしいぞ」
「ああ、あの平民特待生のヒューゴだろ? 学園の片隅のオンボロ工房に引きこもって、訳のわからないガラクタばかり作ってる偏屈野郎だ」
「貴族嫌いで有名で、教師の言うことも一切聞かないらしいぜ。成績は天才的だが、素行不良でいつ退学になってもおかしくないって噂だ」
――ピクッ。
私の脳内で、電球がパッと眩い光を放った。
(……平民特待生? 天才的な技術? 学園の片隅のオンボロ工房……?)
思い出した。
原作乙女ゲーム『王冠のロンド』のサブキャラクター。
平民出身でありながら、規格外の魔導工学の才能を持ち、しかし貴族社会のしがらみを心底嫌悪して誰にも心を開かない偏屈な天才職人――ヒューゴ・ベルンハルト!
(……いるじゃないの。ここに、最高の技術者が!!)
閃きが、雷光となって私の思考を駆け抜けた。
身代わりロボット。
自律型相槌マシーン。
常識的な魔導具師に頼めば「そんな不敬で怠惰な道具、作れるわけがありません」と一蹴されるような狂気のサボりグッズも、貴族嫌いで既存の権威を小馬鹿にしている偏屈な天才なら、金と技術的好奇心で釣れるのではないか!?
(決まりよ。こんな針の筵の教室に一秒たりとも座っていられるもんですか!)
限界だった。
私の「働きたくない、今すぐ寝たい」という欲望のメーターが、理性の防波堤を完全に決壊させた。
ガタッ。
私は音を立てて席を立った。
教科書も、ノートも、筆記用具もすべて机の上に放り出したままだ。
「ひぃっ!?」
教壇で黒板にチョークを走らせていたオズワルド教授が、悲鳴を上げて飛び上がった。
教室中の生徒たちが、息を呑んで私を見つめる。
講義の真っ只中。教授が熱弁を振るっている最中に、筆頭公爵令嬢が何の断りもなく立ち上がったのだ。
普通の学級崩壊どころの騒ぎではない。前代未聞の授業ボイコットである。
「え、エレオノーラ様……? い、いかがなされましたか……? 講義に何か不備でも……?」
オズワルド教授が青ざめた顔で震えながら尋ねてくる。
私は冷淡極まりない緋色の瞳で教授を一瞥し、扇子をパチンと鳴らして言い放った。
「退屈だわ。……あとは適当にやっておきなさい」
一言。
それだけを言い残すと、私はブレザーの裾を翻し、教室の扉へ向かって大股で歩き出した。
引き留めようとする生徒たちの間を堂々とすり抜け、扉をガラリと開けて、廊下へと消え去っていく。
(ふふん! どうかしら! 入学初日の最初の授業を、開始三十分で堂々とエスケープしてやったわよ! これぞ絵に描いたような問題児、不真面目な悪役令嬢の所業だわ! 早く生徒指導室に突き出して、停学処分からの国外追放の手続きを進めなさい!!)
内心で高笑いを上げながら、私はオンボロ工房のある北校舎の地下へと足早に向かった。
――しかし。
私が教室を立ち去った後の大講堂は、私の思い描いた「問題児への非難」とは、全く別の方向へと沸騰していたのである。
***
「……な、なんてことだ……」
オズワルド教授は、チョークを取り落とし、震える膝をついて教壇に崩れ落ちた。
その瞳には、恐怖ではなく、魂を根底から揺さぶられたような激しい感動が満ち満ちていた。
「『退屈だわ』……あのお方は、そう仰った……。我々が何百年も議論し続けてきた魔導革命の歴史など、あのお方にとってはすでに過去の遺物、議論する価値すらもないと……!」
「それだけではないぞ!」
廊下の窓から様子を見ていた上級生が、興奮に声を上ずらせて教室に飛び込んできた。
「見たか!? エレオノーラ様が向かわれた方角を! あの方角は……北校舎、平民の特待生たちが集まる魔導研究棟だぞ!」
「な、何だって……!?」
教室中が、蜂の巣をつついたような騒然たる空気に包まれた。
「貴族の子女が集まるこの大講堂の講義をあえて蹴り、入学初日に、自らの足で平民生徒の研究現場へと視察に向かわれたというのか……!?」
「身分にとらわれず、真に技術を持つ者を自らの目で見極めようとされているのだ……!」
「派閥争いに明け暮れる我ら貴族の浅ましさを叱責し、国の真の力たる技術者たちに光を当てようとされている……! なんという……なんという深淵なる指導者の器だ……ッ!!」
「エレオノーラ様……!」「真の改革者だ……!」「あのお方こそが、この腐敗した学園を変えてくださる……!」
拍手喝采。
ただ授業をサボって昼寝グッズを買いに行こうとしただけの悪役令嬢は、知らぬ間に「身分差の壁を打ち破る若き革命の旗手」として、学園中のエリートたちの心を完全に掌握してしまっていたのである。
***
「……くしゅんっ!」
北校舎の薄暗い地下通路を歩いていた私は、思わず盛大なくしゃみを一つ漏らした。
「何かしら、誰かが私の悪口でも言っているのかしら? いい傾向ね、悪評が広まるのは大歓迎よ」
鼻をすすりながら、私は地下の突き当たりにある、錆びついた鉄の扉を見上げた。
扉には手書きの歪な文字で、『魔導試作工房・関係者以外立ち入り禁止(特に貴族は即座に失せろ)』と乱暴に書き殴られている。
中からは、時折バチバチと火花が散る音と、何かが小さく爆発する鈍い音が漏れ聞こえていた。
「ふふ……いいわね、この治安の悪そうな雰囲気。私のサボりライフを支える名工は、どうやらこの奥にいるようね」
私は不敵な笑みを浮かべ、ノックもなしにそのオンボロ工房の扉を勢いよく蹴り開けたのだった。




