第24話:真夜中の脱走計画! 窓を開けたらファンクラブの総会だった
草木も眠る丑三つ時――午前二時。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったグランヴェル公爵本邸の私室で、私は暗闇の中、息を潜めてカッと両目を見開いた。
(……時は、満ちたわ)
掛け布団を音もなく跳ね除け、猫のようにしなやかな身のこなしでベッドから滑り降りる。
室内には時計の針が刻む規則正しいチクタクという音だけが響いていた。
専属侍女のリディエは、隣室の控室で深い眠りについているはずだ。いくら有能無比なパーフェクトメイドとて、人間である以上は睡眠が必要なはず。そして、屋敷中の使用人たちも夢の底に沈んでいる時間帯である。
私は自室のクローゼットの奥から、今日のために昼間のうちにこっそり隠しておいた「脱走用特製アイテム一式」を引っ張り出した。
まず広げたのは、豪奢なフリルもレースもついていない、深緑色の動きやすい綿の長袖シャツと、丈夫な革張りのスラックスだ。
公爵令嬢が身につけるにはあまりにも質素だが、仕立ては一流の職人に特注させたもので、軽さと伸縮性は抜群。これなら屋根を跳ぼうが木立を駆け抜けようが、動きを阻害されることはない。
ネグリジェを脱ぎ捨て、素早く服に袖を通す。腰には幅広の革ベルトを巻き、足元には音の出ない特製のショートブーツを履き込んだ。
「ふふ……似合うじゃないの。前世の終電ダッシュ用スニーカー通勤スタイルを思い出すわね」
鏡に映る自分の姿に満足げに頷き、続いて床に置いた革製のリュックサックを手に取る。
前世で幾度となく経験した台風や地震に備える「防災リュックパッキング理論」を応用した、究極の夜逃げセットだ。
一番底には、重量の嵩まない最高純度のダイヤモンドとルビーの原石をぎっしり。いざとなれば路地裏の質屋で一生遊んで暮らせる現金に化ける。
その上には、グランヴェル家の刻印が入っていない無記名の王室金貨を革袋に三つ。
隙間には、高カロリーで日持ちのする高級ドライフルーツとショコラバーを敷き詰め、万が一のための万能解毒ポーションと止血帯を詰め込んである。
総重量はおよそ十五キロ。普通の令嬢なら持ち上げることすらできない重さだが、無自覚チート魔力と筋力を持つ私にとっては、羽毛クッションを背負っているのと何ら変わりない。
「よし。重量バランスも完璧ね」
リュックのストラップを両肩に通し、胸元のチェストベルトをパチンと留める。
私の瞳には、獲物を狙う歴戦のサバイバーのような、ドス黒く鋭利な光が宿っていた。
(誰が……誰があんな息の詰まる軍事要塞で、一生鳥籠のカナリアをやっているもんですか!!)
昨日の光景を思い出すだけで、胃の奥から酸っぱいものが込み上げてきそうになる。
十歩おきに配置された近衛騎士の銀色軍団。
屋根の上で二十四時間体制で呪文を唱え続ける神殿の結界術士たち。
食材の全数検査に、二重の毒見役。
門の前を通る貴族たちが馬車から降りて土下座していくという、世紀末の宗教国家のような地獄絵図。
あんな環境に引きこもっていたら、外界からのトラブルは防げても、内側から押し寄せてくる「過保護という名の重力」によって圧殺されてしまう!
婚約破棄を待つ? 無理だ。
悪評を立てて追放されるのを待つ? 不可能です。
だって、外堀を埋めて要塞を作った張本人たち――王太子レオポルト、騎士団長マティアス、筆頭神官シルヴァンが、揃いも揃って私を「神の奇跡」「至高の国母」として崇め奉っているのだ。
彼らが健在である限り、私がどんな悪行を働こうと、すべて「尊い自己犠牲」「深淵なる救国策」へとポジティブ脳内変換されてしまう。
「待っていたら詰む。受動的な悪役令嬢の時代は終わったのよ。これからは――能動的な脱走ニートの時代よ!!」
計画はシンプルにして完璧だった。
目指すは、王国の最南端に位置する常夏の諸島群――パルミア諸島。
一年中温暖で、青い海と白い砂浜が広がり、果物がたわわに実る楽園。
今夜のうちに王都の城壁を越え、偽造身分証(※前世の社畜仕込みの完璧な筆跡模写で自作した)を使って街道を南下し、港町から定期船に乗って高飛びする。
南の島に着いた暁には、浜辺に小さな平屋を建て、ヤシの木にハンモックを吊るし、毎日昼まで寝て、起きたら新鮮な魚を焼き、波の音を聞きながら二度寝するのだ。
有給休暇の永久機関。エンドレス無職生活。
これこそが、ブラック企業で命を落とした私が手に入れるべき、正当な魂の安寧である!
「問題は、あの要塞化した警備網だけど……ふふん、私の魔力を甘く見てもらっては困るわね」
私は胸の前で指を組み、体内の魔力回路を静かに巡らせた。
イメージせよ。
前世のステルス戦闘機、光学迷彩、そして防音サッシの三重奏を。
自らの姿を光の屈折によって周囲の景色と同化させる【完全光学隠蔽】。
足音、衣擦れの音、心臓の鼓動すら外部へ漏らさない【絶対無音結界】。
そして、自らの放つ生体熱と魔力波動を完全にゼロへと偽装する【波長遮断コート】。
フッ……と、私の身体の輪郭が揺らぎ、次の瞬間には鏡の前から私の姿が完全に消失した。
気配もない。音もない。
床に落ちる影すら存在しない。
「完璧だわ……。これなら神殿の結界術士だろうが、マティアスの鷹のような目だろうが、絶対に感知できないはずよ!」
私は足音を立てずに、二階の自室のテラス窓へと歩み寄った。
正面玄関から出るのはさすがにリスクが高い。
だが、この二階の窓から庭園の巨大な糸杉の枝へと飛び移り、そこから外壁の死角を縫って敷地の外へと脱出すれば、十歩おきに並ぶ脳筋近衛兵たちの頭上を軽やかに飛び越えられるはずだ。
窓の真鍮の鍵に手をかける。
カチリ、と微かな金属音が響いたが、無音結界がその音を完璧に飲み込んだ。
(さらば、重すぎる愛の監獄! さらば、過労死寸前の王妃ルート! 私は……私は自由なニートになるのよぉぉぉぉぉっ!!)
勝利を確信した笑みを浮かべ、私は両手で窓を――勢いよく、外側へと押し開けた!
――バァンッ!!!!
その、瞬間だった。
「…………えっ?」
私の思考回路が、音を立ててショートした。
飛び込んできたのは、ひんやりとした真夜中の夜風ではなかった。
顔面を焼き焦がさんばかりの、熱波。
そして――漆黒の夜闇などどこにも存在しない、真昼の太陽を真下から叩きつけられたかのような、目も眩むばかりの白銀と黄金の光の海だった。
「ま……まぶしっっっっ!?」
思わず両腕で顔を覆った。
何事だ。何が起きている。
夜の二時だぞ? 新月の夜だぞ?
なぜ、私の目の前に広がる庭園が、まるで真夏の正午の広場のように煌々と照らし出されているのか!?
目を細め、指の隙間から恐る恐る眼下の庭園を見下ろした。
そして、私の視界に飛び込んできたのは――。
「……は?????」
庭園の芝生の上。
そこに、百基を超える巨大な魔導篝火が、まるでスタジアムの照明塔のように円陣を組んで配置され、もうもうと青白い神聖な炎を天へと吹き上げていた。
昼間よりも明るい。影の一つすら許さない完全なる光の牢獄。
だが、そんな照明設備など、その場に集結していた「面々」の異常さに比べれば、道端の小石に等しかった。
中庭の中央。
焚き火の熱気の中、抜き身の大剣を地面に突き立て、全身から湯気を立ち上らせながら直立不動で立っていたのは――近衛騎士団長マティアス・ヴァルデン。
甲冑姿のまま、額に汗を光らせ、獲物を狙う猛獣のような眼光で周囲を睥睨している。
そのすぐ右隣。
豪奢な敷物の上に正座し、銀の杖を両手で抱え、熱に浮かされたような恍惚の表情で数珠を繰りながら、夜通しの祈祷をブツブツと捧げ続けていたのは――筆頭神官シルヴァン・エデルシュタイン。
その背後には、同じく白装束を着た結界術士たちが二十名以上、膝をついてコーラス隊のように低音の賛美歌をハミングし続けている。
そして――何よりも。
中庭に設置された豪奢な天幕の前。
軍馬から降り立ったばかりの、肩で息をする金髪の貴公子――王太子レオポルト・フォン・アウグスト。
彼は夜会用の正装のマントを泥で汚しながら、手には湯気を立てる銀の二段重箱(※王室特製の夜食スイーツ)を大事そうに抱え、狂気じみた情熱を湛えた碧眼をギラギラと輝かせていた。
(な……な、な、何なの……!? 何やってるの、この人たち……!?)
私の全身の毛穴から、サーッと冷や汗が噴き出した。
夜中の二時よ?
国家の最高権力者たちが、なぜ一介の公爵令嬢の庭先に全員集合しているのか。
なぜ、篝火を焚いて、野外フェスのような熱気で庭を占拠しているのか。
――そして、最悪なことに。
私が勢いよく窓を開けたその音と風圧は、いくら光学隠蔽をしていようとも、大気の揺らぎとして、歴戦の怪物たちの感覚を刺激するには十分すぎた。
――ピクッ。
マティアスの耳が跳ねた。
シルヴァンの祈祷が止まった。
レオポルトが弾かれたように顔を上げた。
三人の視線が、同時に――二階のテラス窓、まさに今、リュックを背負って窓枠に足をかけようとしていた私の位置へと、レーザービームのように突き刺さったのだ。
(ヒッ……!? や、ヤバい! 隠蔽魔法を張っているから見えてないはず……見えてないはずよね!?)
私は息を止め、石像のように硬直した。
だが、現実は無慈悲だった。
私の放っていたチート魔力による隠蔽結界は、あまりにも純度が高すぎた。
結果として――周囲の魔導篝火の光を浴びた瞬間、透明化するどころか、光を乱反射して【七色に煌めく神々しい人型のオーラ】となって、夜空にクッキリと浮かび上がってしまっていたのである!
「……っ!」
庭にいた男たちが、一斉に息を呑んだ。
レオポルトの瞳が、限界まで見開かれる。
マティアスの大剣が、カタカタと音を立てて震え出す。
シルヴァンの菫色の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちる。
「……あ……ああ……」
レオポルトの唇から、震える歓喜の吐息が漏れた。
そして、彼は手に持っていた重箱を従者に預けるや否や、ドサリと、泥水が跳ねる芝生の上に両膝を突き立てたのだ。
「エレオノーラァァァッッッ!!」
夜空を引き裂くような、魂の底からの絶叫だった。
「お前は……お前という女性は、どこまで……どこまで気高く、どこまで俺たちの心を揺さぶれば気が済むのだ……ッ!!」
「……は?」
私の口から、乾いた声が漏れた。
え? 何? 何を言っているの、この人?
「見ろ、皆の者ッ!」
レオポルトは立ち上がり、両手を広げて二階の窓辺――七色に光り輝く私を指差した。
「こんな夜更けだぞ!? 毒を盛られ、心身ともに休まらねばならぬはずの彼女が……俺たちの働きを気遣い、わざわざ寝所から起き上がり、窓辺から温かな眼差しで見守ってくれていたのだ……ッ!!」
「えっ? いや、私服に着替えて逃げようとしてただけ――」
「おおおおおっ……!!」
私の心の声など、マティアスの野太い咆哮にかき消された。
マティアスが、大剣を地面に突き刺したまま、その場に深々と平伏したのだ。
鉄の甲冑がジャリッと音を立てて地面に擦れ合う。
「我が主の……我が主エレオノーラ閣下の温かな眼差し……! このマティアス、武人として、これ以上の栄誉がこの世にありましょうか……ッ! 閣下自らが窓辺に立ち、我ら兵の労をねぎらってくださるとは……! 我が命、今この瞬間より、閣下の安眠のためだけに燃やし尽くすことを誓いますッ!!」
「いや、安眠したいから逃げようとしてるんだけど!?」
「ああ……神よ……ルミナスの主よ……!」
今度はシルヴァンだった。
彼は銀の杖を放り出し、泥の上に額を擦り付け、狂信的な笑みを浮かべながら涙を流していた。
「貴女の放つ神聖な輝きは……月明かりすら霞ませる……! 夜の闇を払い、我ら罪深き者に降り注ぐ、至高の慈愛の光……! ああ、麗しの聖女様……! 貴女が窓辺に立たれただけで、この敷地内のすべての悪霊が浄化され、大気が祝福で満ちていく……!!」
「違う!! これただの光学迷彩のバグだから!!」
私の悲痛なツッコミは、誰の耳にも届かない。
それどころか、篝火の周囲にいた近衛騎士百二十名、神殿の結界術士三十名、さらにはレオポルトの近習たちに至るまでが――ドサドサドサッと、まるでドミノ倒しのように一斉に地面に跪き、私に向かって両手を掲げて祈り始めたのだ。
「エレオノーラ様……!」「我らの聖女様……!」「夜風に当たられるお姿の、なんと神々しいことか……!」
割れんばかりの囁きと賛美の嵐。
眼下に広がるのは、夜中の二時に開催された、純度一万パーセントの【エレオノーラ様非公式ファンクラブ真夜中の総決起集会】だった。
レオポルトが、感涙に濡れた顔で私を見上げ、手を伸ばして叫ぶ。
「エレオノーラ! 夜風は身体に毒だ、どうか部屋の中へお戻りください! 君の安らぎは、俺たち全員が命に代えても守り抜く! 君はただ、そこで美しく微笑んでいてくれればいいのだ……ッ!!」
「…………」
私は、窓枠に片足をかけた姿勢のまま、完全に硬直していた。
背中には、金貨と宝石がぎっしり詰まった重いリュック。
着ているのは、動きやすい庶民風のスラックス。
手には、南の島への脱走ルートを記した地図。
そして眼下には――私の「慈愛」に魂を撃ち抜かれ、涙を流して平伏する国家最高戦力と王太子。
(……あ、これ)
私の脳内時計が、チクタクと静かに鳴り響いた。
(……逃げられないわ)
悟った。
完全に、理解してしまった。
今、ここから飛び降りたらどうなるか?
「聖女様が天から舞い降りてこられた!」と全員でダイビングキャッチされ、毛布にくるまれ、王室特製スイーツを無理やり口に運ばれ、ベッドへと丁重に護送されるだけだ。
逃走ルート? ない。
死角? あるわけがない。
だって、この男たち、私が寝ている間も一睡もせず、庭で篝火を焚いて私の窓を見上げ続けていたのだから!
「…………」
私は、すっと足を引っ込めた。
七色に輝いていた隠蔽魔法を、パチンと解除する。
そして、眼下で熱烈な視線を送ってくる男たちに対し――冷え切った、感情の完全に抜け落ちた瞳で一瞥をくれ。
――バタンッッッッ!!!!
勢いよく、両手で窓をピシャリと閉めた。
鍵をガチャンと二重にかけ、閂を落とし、さらに分厚い防音遮光カーテンを、腕が千切れんばかりの勢いでシャーーーッッと引き戻した。
部屋の中に、再び訪れる静寂。
私はリュックを背負ったまま、床の上に膝から崩れ落ちた。
「……う……うわああああああああんっっっ!!!!」
絨毯を両拳で激しく叩きながら、私は声の限りに号泣した。
「逃げられない……! 全然逃げられないどころか、包囲網がミリ単位で狭まってるじゃないのよぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!」
何なのあの男たち!
ストーカーにも程がある! 過保護の過剰摂取でこっちが死ぬわ!
夜中の二時に庭で篝火を焚いて見張りをする王太子と騎士団長と神官長がどこにいるのよ! 仕事しろ! 寝ろ! 頼むから自分の家へ帰って寝てくれ!!
「私の南の島が……! 私のヤシの木が……! 波の音を聞きながらのエンドレス有給休暇ライフが、またしても光の彼方へ消え去っていくわぁぁぁぁぁっ!!」
床に突っ伏して悶絶する私。
しかし、私のその血を吐くような悲痛な叫びは――自室に張り巡らせた【完全防音結界】のせいで、窓の外の男たちには、一文字たりとも届いていなかった。
***
一方、窓の外――庭園では。
「……おお」
窓がピシャリと閉ざされた瞬間、レオポルトは胸を押さえ、熱い吐息を漏らしていた。
「見たか……? あのお姿を……」
「はっ……!」
マティアスが、涙を拭いながら深く頷いた。
「我らに労いの眼差しを向けられた後、己の存在が警備の集中を乱さぬよう、あのように素早く、慎み深くカーテンを引かれた……。己の美しさが我らを狂わせることを知っておられるからこその、配慮に満ちた幕引き……!」
「ええ、まさにその通りです」
シルヴァンが立ち上がり、恍惚とした笑みを浮かべて胸に手を当てた。
「あのお方は、言葉など不要だと仰ったのです。『私は貴方たちを信じています。だからこそ、安心して眠りにつきます』と……あの閉ざされた窓こそが、我らに下された絶対の信頼の証……!」
「エレオノーラ……!」
レオポルトは天を仰ぎ、拳を固く握りしめた。
「俺は誓う! お前が安心して眠れる世界を、この手で必ずや創り上げてみせる! 誰一人として、お前の安寧を乱すことは許さん!!」
「「「おおおおおおおおっっっっ!!!!」」」
中庭に、男たちの狂気じみた忠誠の雄叫びが轟き渡った。
彼らの士気は、今や限界を突破して成層圏へと突入していた。
エレオノーラを守るための鉄壁の要塞は、今夜の出来事を経て、もはや神話の神殿すら凌駕する絶対の不可侵領域へと昇華してしまったのである。
――こうして。
悪役令嬢エレオノーラの、命懸けの真夜中の脱走計画は、完膚なきまでの大失敗に終わり。
彼女の「働かない自堕落ライフ」への脱出ルートは、男たちの深すぎる愛と勘違いによって、二度と開かぬ鉄の扉で完全に封鎖されたのであった。




