第23話:公爵邸が王都最強の軍事要塞にクラスチェンジしてしまった件
ふあぁぁぁ……と、喉の奥が引き裂けんばかりの、実にだらしのない大あくびを一つ。
私はベッドのシーツの上で、まるで脱皮したての芋虫のようにモゾモゾと身をよじらせながら、ゆっくりと覚醒のまどろみを味わっていた。
「……んん〜〜っ! 最高。これよ、これこそが人類の到達すべき至高の境地だわ……!」
ふかふかの枕。身体のラインに合わせて沈み込む極上の羽毛布団。
時計の針を見れば、午前十一時を少し回ったところ。
昨日の午後高らかにぶち上げた【完全引きこもり宣言】は、早くも絶大な効果を発揮していた。
前世の社畜時代、休日の朝に上司から「今日出られる?」と無慈悲なメッセージが届くたび、心臓を鷲掴みにされて飛び起きていたあのトラウマ。
それに引き換え、今の私はどうだ。
仕事なし。公務なし。アポなし。
予定表は真っ白、義務感はゼロ。
外に出なければ、暗殺者に遭遇することもないし、小麦を買い占める羽目にもならないし、泥道でブチギレて公共事業を立ち上げることもないし、猛毒をエナジードリンク代わりに一気飲みしてジジイたちを出家させることもないのだ!
「完璧だわ……。トラブルはすべて外界にある。ならば、外界との接触を完全に断絶してしまえば、世界は永遠に平和なのよ。私ってば、なんて天才的な危機管理能力の持ち主かしら!」
私はベッドの上で自画自賛の拍手をパチパチと鳴らした。
さて、素晴らしい一日の始まりだ。
まずはカーテンを開けて、初夏の爽やかな陽光を浴びながら、ベッドの上で優雅にブランチのパンケーキを貪るとしよう。
私はシルクのガウンを羽織り、鼻歌まじりにスキップを踏みながら、バルコニーへと続く大きな両開きの掃き出し窓へと歩み寄った。
タッセルを解き、分厚い遮光カーテンを――バサリと、勢いよく両手で左右に引き開ける。
「おはよう、私の愛しの平穏な世界――」
――ガシャンッッッッ!!!!
――ビシィィィィィッッッ!!!!
「…………ぎゃっ!?」
視界が開けたその瞬間、私の網膜を焼き尽くさんばかりの、凄まじい閃光が炸裂した。
初夏の柔らかな木漏れ日などではない。
百万枚の鏡を一斉に反射させたかのような、暴力的な白銀の反射光。
そして、空気をビリビリと振動させる、異様なまでの重圧と金属の擦れ合う轟音。
「な……な、何……!? 空襲!? 核実験!? 超新星爆発!?」
私は目を手で覆いながら、隙間から恐る恐る外の景色を覗き込んだ。
そして――そこに広がっていた「地獄絵図」ならぬ「要塞絵図」を目撃した瞬間、私の顎は外れんばかりに床へと落下した。
「……は?????」
夢だろうか。
私はまだ、ベッドの中で悪夢の続きを見ているのだろうか。
目を擦り、二度見し、三度見した。
だが、窓の外に広がる光景は、一ミリたりとも変化しなかった。
――そこは。
昨日まで、丹精込めて手入れされた色とりどりの薔薇が咲き誇り、噴水が涼やかな水音を立て、蝶が優雅に舞っていたはずの、グランヴェル公爵本邸の広大な庭園だった。
しかし、今、私の眼下に広がっていたのは。
「……な、何なの、あの銀色の人垣……?」
敷地の外周をぐるりと囲む鉄柵の内側。
そこに、白銀の全身甲冑で隙間なく身を固めた近衛騎士たちが――等間隔で、きっちり十歩おきに、まるでチェスのポーンのようにズラリと配置されていた。
その数、ゆうに百名を超えている。
全員が長槍を地面に突き立て、抜き身の長剣を腰に差し、瞬き一つせず、直立不動の姿勢で外敵を睨みつけているのだ。十歩おきである。鳥の一羽、ネズミの一匹すら隙間をすり抜けられないほどの過密防衛ライン。
それだけではない。
ふと視線を上へ向けると、公爵本邸の屋根瓦の上。
普段なら鳩すら留まらないような高い屋根の尾根伝いに――純白の法衣に身を包み、銀の杖を構えた神殿の結界術士たちが、十メートル間隔でズラリと整列していた。
彼らは一糸乱れぬ動きで呪文を詠唱し続け、杖の先からは絶え間なく青白い神聖光が噴き出し、屋敷全体をすっぽりと覆う半透明の魔力ドームを維持している。
そのドームの表面には、触れた瞬間にあらゆる飛翔物を蒸発させるであろう古代迎撃ルーン文字が、バチバチと火花を散らしながら旋回していた。
さらに、前庭の中央。
かつて美しい噴水広場だった場所には、有刺鉄線ならぬ「対魔獣用拒馬」が幾重にも敷設され、土嚢が積み上げられ、中庭の芝生の上には巨大な天幕が設営されて、臨時の野戦司令部のような様相を呈していた。
「な……ななな……」
私の唇が、ガチガチと音を立てて痙攣する。
「なんなのこれぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっっ!!!!」
窓ガラスが割れんばかりの絶叫が、私の口から飛び出した。
何これ!? 何の冗談!?
ここは貴族の優雅な本邸でしょうが!
なんで一夜にして、隣国との国境最前線にある難攻不落の軍事要塞にクラスチェンジしてるのよ!?
「リディエェェェッ!! リディエ、今すぐここへ来なさいッッ!!」
私がパジャマのまま部屋の中へ飛び退いて叫ぶと、待機していた部屋の扉がスーッと滑らかに開いた。
現れた専属侍女のリディエは、手元に分厚い羊皮紙のバインダーを抱え、いつも通りの涼やかなポーカーフェイスで一礼した。
「お呼びでございますか、お嬢様。本日の朝食は、王室特製の低糖質ガレットと、神殿直轄農園で今朝収穫されたばかりの白ブドウのフレッシュジュースをご用意しております」
「朝食のメニューなんてどうでもいいわよ!! 見なさい、あの窓の外を!! あれは何!? 我が家はいつから敵国の侵略戦争の包囲網に遭っているわけ!?」
私が血相を変えてバルコニーを指差すと、リディエは窓の外へチラリと視線を流し、そして――なぜか、誇らしげに薄く胸を張った。
「ご安心くださいませ、お嬢様。我が公爵邸の防衛体制は、今朝午前五時をもって【防衛レベル・オメガ】へと移行いたしました」
「オメガって何よ!? アルファベットの最後じゃないの! これ以上ないってこと!?」
「はい。昨日の神殿長老会による卑劣極まりない毒殺未遂事件を受け、王太子レオポルト殿下、近衛騎士団長マティアス閣下、ならびに筆頭神官シルヴァン閣下が緊急会談を行われ、三者合同による『エレオノーラ様特別防衛部隊』が正式に編制された次第でございます」
「……は?」
私の口から、情けないほど間抜けな声が漏れ出た。
レオポルト? マティアス? シルヴァン?
あいつら、昨日の今日で、なんでそんな悪夢のドリームチームを結成してんの?
「リディエの説明を、手短にお願いできるかしら……。私の脳みそが現実逃避を始める前に」
「かしこまりました」
リディエは手元のバインダーをペラリとめくり、淡々と読み上げ始めた。
「第一に、物理的防衛。近衛騎士団より選抜された精鋭百二十名が公爵邸の外周を常時警備。十歩おきに一名を配置し、死角はゼロ。中庭にはマティアス閣下直率の即応騎馬隊が二十四時間体制で待機しております」
「待機しなくていい! 私の庭の芝生が蹄で傷むでしょうが!」
「第二に、魔術的・霊的防衛。神殿の結界術士班三十名が屋根および敷地の四隅に常駐。対呪詛・対瘴気・対空間転移の三重神聖結界を展開。外部から飛来する埃、花粉、羽虫に至るまで、神聖力によって分子レベルで焼却・無害化されます」
「私の部屋のエアコン結界と役割が完全に被ってるじゃないのよ!!」
「そして第三に、兵站および補給の完全統制。公爵邸に出入りするすべての食材、衣類、調度品は、王宮と神殿の合同検査場を通過したもののみ許可。外部の納入業者は一切の立ち入りを禁じられ、食材は王室直轄地から毎日魔法空輸。調理は王室専属料理長が担当し、お嬢様の口に入るすべての食事に対し、三段階の魔導鑑定と二名の毒見役が配置されます」
リディエはバインダーをパタンと閉じ、完璧な笑みを浮かべた。
「これにて、お嬢様が安心して至高のお昼寝とお引きこもり生活を享受できる環境が整いました。これでネズミ一匹、アリの一歩たりとも、お嬢様の視界に入ることはございません」
「安心できるかァァァァァッッッ!!!!」
私は頭を抱えてベッドの上に崩れ落ちた。
息が詰まる! 息が詰まりすぎて窒息死しそうだ!
ネズミが入らないのは結構だが、これじゃあ私自身が超厳重警備の最高機密施設に収監された特級囚人じゃないの!!
「お、お嬢様ァァァッ!!」
そこへ、廊下からバタバタと足音を響かせて飛び込んできたのは、胃薬の小瓶を首から下げた筆頭執事のクリストフだった。
相変わらず顔面は蒼白だが、その目には奇妙な熱狂の光が宿っている。
「ご無事で! いやはや、王宮と神殿が公爵邸のために国庫の予備費を全額吐き出すなど、建国以来前代未聞の奇跡にございます! 我が公爵家の警備費用は実質ゼロ、すべて王家と神殿の折半! 帳簿の神も歓喜の涙を流しておりますぞ!」
「クリストフ、あんたまで毒されてんじゃないわよ! 追い出しなさい、あいつらを! ここは我がグランヴェル家の私有地よ! 不法占拠で訴えてやりなさい!」
「滅相もございません! 門前をご覧くださいまし! 我が公爵家の威光は、今や王都の頂点へと君臨しておりますぞ!」
「門前……?」
嫌な予感に背筋を凍らせながら、私は再び窓辺へと歩み寄り、庭のずっと先にある正門へと視線を凝らした。
***
グランヴェル公爵邸の巨大な鉄の正門前。
そこには、普段の閑静な高級住宅街の空気など微塵も残っていなかった。
「止まれッ!! それ以上一歩でも敷居に近づけば、貴様の首が胴体と永遠の別れを告げることになるぞ!!」
地鳴りのような怒号を響かせていたのは、近衛騎士団長マティアス・ヴァルデンだった。
白銀の甲冑に身を包み、身の丈を超える大剣の切っ先を地面に突き立て、仁王立ちで睨みを利かせている。その琥珀色の瞳は獲物を狙う猛獣のように血走り、近寄る者すべてを威圧感だけで失神させそうな気迫を放っていた。
その隣には、純白の法衣を優美に翻した筆頭神官シルヴァン・エデルシュタインが、冷ややかな、しかし狂気的な微笑を浮かべて佇んでいる。
シルヴァンの掲げた銀の杖からは、門の前に巨大な光の魔法陣が展開されており、門を通過しようとする者の足元を青白く照らし出していた。
「通行証の提示を。……ふむ、王室御用達の文房具商ですか。ですが、貴方の魂の波長にはわずかな邪心が混じっていますね。エレオノーラ様の神聖なる領域に持ち込む紙に、そのような穢れた手で触れられては困ります。……騎士団長殿、連行を」
「応ッ!! 引っ立てい!!」
「ひ、ヒィィィッ!? 私はただ、最高級の羊皮紙を納品に来ただけで――ぶべらっ!?」
哀れな商人が近衛兵たちによって引きずられていく。
門の前では、通りかかった貴族の馬車が次々と停車を余儀なくされ、物陰から恐る恐る公爵邸の様子を伺っていた。
「な、なんだあの物々しさは……」
「近衛騎士団の精鋭に、神殿の最高結界班……? 王城ですら、あそこまでの警備は敷かれておらんぞ……」
「聞いたか? 昨日の毒殺未遂事件を受け、王太子殿下と神官長様が直々に協定を結ばれたそうだ……」
貴族たちの顔から、サーッと血の気が引いていく。
王家と神殿。
長年、冷戦を繰り広げてきた二大巨頭が、手を取り合い、完全なる一体となって警護している対象。
それが、グランヴェル公爵令嬢エレオノーラ。
「王家と神殿が、公爵令嬢一人を中心に完全に統合されたのだ……」
「逆らえるはずがない……。あのお方に睨まれたら、近衛の刃で切り捨てられるか、神殿の結界で魂ごと消滅させられるぞ……」
「この国の真の支配者は……国王陛下でも王太子殿下でもない。エレオノーラ様その人だ……ッ!!」
恐怖と戦慄。
通りかかる貴族たちは、公爵邸の門前に視線を向けることすら恐れ、馬車を大きく迂回させて脱兎のごとく逃げ出していく。
今や、グランヴェル公爵邸は、王都において誰一人として近づくことのできない「絶対不可侵の神聖要塞」として、貴族社会の頂点に君臨してしまったのだ。
***
「…………」
バルコニーからその光景を双眼鏡(※リディエが差し出してきた)で目撃した私は、完全に魂が抜けた顔で立ち尽くしていた。
「……ねえ、リディエ」
「はい、お嬢様」
「王都の貴族たちが、我が家の前を通る時に、馬車から降りて地面に平伏してから迂回して行ってるんだけど」
「お嬢様の絶対的なご威光に対し、最大限の敬意を払っておられるようでございます」
「敬意じゃないわよ! あれは完全に『触れたら即死する歩く災害』を見る目よ!!」
私は双眼鏡を放り出し、自室の絨毯の上を頭を抱えながら行ったり来たりした。
違う。
こんなはずではなかった。
私の計画では、部屋に引きこもって誰とも会わずにいれば、社交界から存在を忘れ去られ、「あいつは社交界にも出てこない無能な引きこもり令嬢だ」と悪評が立ち、婚約破棄されて、晴れて南の島へ追放されるはずだったのだ。
なのに、現実はどうだ。
引きこもった結果、王太子、騎士団長、神官長が狂気の同盟を結成。
公爵邸が王都最強の軍事要塞にクラスチェンジ。
社交界からは「この国の影の女帝」として畏怖され、誰も近寄れない。
「ちょっと待って……? これ、もしかして……」
私の脳裏に、氷水を一気に流し込まれたような戦慄が走った。
ガタガタと膝が震え出す。
「……逃げられないじゃないの」
そうだ。
外敵が入ってこられないということは――。
中から外へ出ることも、物理的に不可能だということだ!
十歩おきに配置された近衛騎士。
空を覆い尽くす神殿の三重結界。
中庭に陣取るマティアス。
門前で目を光らせるシルヴァン。
そして、一日に何度も手紙を送りつけてくる執念深い王太子レオポルト。
「こ……これじゃあ、夜中にこっそり私服に着替えて、金貨をリュックに詰めて、南の島へ夜逃げすることすらできないじゃないのよぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!」
絶叫。
前世でブラック企業に監禁され、オフィスのオートロックを外側から施錠されて「朝までデバッグ作業よろしく!」と言われた、あの絶望的な夜の記憶がフラッシュバックする。
鳥籠だ。
これは、愛と忠誠という名の、ダイヤモンドとミスリルでできた難攻不落の超巨大な鳥籠だ!
「嫌よ……! こんな息の詰まる要塞で一生暮らすなんて絶対に嫌!! 私は南の島で、ヤシの木の下で、水着でトロピカルジュースを飲みながらダラダラ昼寝するのよ!!」
私は拳を握りしめ、自室の窓を、そしてその向こうに広がる要塞の防衛ラインを睨みつけた。
緋色の瞳に、社畜がデスマーチから脱走する時特有の、ぎらりとした狂気の光が宿る。
「……見ていなさいよ、筋肉ダルマに腹黒神官、そして重度ストーカー王太子……! いくら要塞化しようと、私の『働きたくない、逃げ出したい意志』を舐めるんじゃないわよ……!」
悪役令嬢エレオノーラの、命懸けの「夜逃げ脱走計画」。
しかし、彼女が仕掛けようとする真夜中の脱走劇が、男たちの信仰をさらに別の次元へと引き上げてしまうことになろうとは――この時の彼女は、まだ知る由もなかったのである。




