第22話:王太子の嫉妬、騎士団の焦燥、そして最悪の同盟結成
「……リディエ。私、今とても冷静に現実を受け止めようと努力しているのだけれど、目の前にあるこれ、何かしら」
私が引き攣りきった笑みを浮かべ、震える指先で指し示した先。
そこは、本来であれば優雅な猫脚のテーブルや、座り心地の良い革張りのソファが置かれていたはずの、私の広々とした私室の中央だった。
しかし現在、その空間は――まるで王立博物館の第一収蔵庫か、あるいはどこかの大富豪の遺産目録展示場のような惨状と化していた。
部屋の床が見えない。
天井近くまで積み上げられた、紫紺のビロードが張られた豪奢な桐箱の山。
リボンで飾られた桐箱の隙間からは、純度百パーセントの金塊がインゴットのまま無造作に顔を覗かせ、怪しげな燐光を放つガラス瓶には「霊峰千年の万能霊薬」「神鳥の生き血を凝縮した滋養強壮エキス」などと仰々しい金文字が踊っている。
さらに奥には、触れるだけで部屋中の空気が凍りつきそうな「氷嶺の白百合」の生花が花瓶ごと百基以上並べられ、部屋の隅には「王室専属の宮廷医官十名をいつでも派遣可能」と書かれた国王陛下の直筆親書が、黄金の額縁に入れられて鎮座していた。
「レオポルト殿下、ならびに王宮各省からの『特級お見舞い品目録』でございます」
リディエは一切の感情を排した涼やかな声で、巻物のように長く垂れ下がった受領目録を読み上げ始めた。
「殿下直筆のお見舞い状が朝の便だけで計七通。内容はいずれも『我が至宝たるエレオノーラ、その無垢なる肉体に毒の残滓が一滴たりとも残らぬよう、この世のあらゆる解毒薬と滋養の粋を集めさせた』とのこと。また、万が一の後遺症に備え、南方諸島から買い付けたという樹齢三千年の神木から削り出した特注の療養用安眠ベッドが、現在馬車四台に分乗して王都へ向かっております」
「重い!! 見舞いの圧が物理的にも精神的にも質量兵器レベルで重すぎる!!」
私は両手で頭を抱え、ベッドの上で激しく転がり回った。
毒? 解毒薬? 後遺症?
誰が病気になったというのか。誰が毒を盛られたというのか。
私は昨日、テラスでちょっと苦くて舌が痺れる東方の新作ハーブティーを「うーん、目がシャキッとするわね!」とゴクゴク飲み干し、あまりの爽快感におかわりまで要求しただけだ。
おかげで今朝の目覚めは前世の二十八年間の人生を含めても過去最高にスッキリしており、肌はツヤツヤ、視界はクリア、血行が良すぎてベッドの上でラジオ体操の第一から第二まで完璧に踊り狂えそうなほど元気いっぱいである。
「そもそも、なんで私が毒を盛られた前提で話が進んでいるのよ! 私、昨日の午後からずっとピンピンしてるでしょうが!」
「お嬢様が平然と飲み干されたあのお茶に、巨象を一瞬で絶命させる神殿秘伝の猛毒『冥府草のエキス』が致死量の十倍以上混入されていたことは、すでに司法省の公式記録として確定事項となっております」
「致死量十倍!? あんな美味しいエナジードリンクにそんな物騒なものが入ってたわけないでしょうが!!」
「お嬢様の味覚と胃袋の耐久力につきましては、現代の医学および毒物学の常識を超越しておりますので、議論の余地はございません」
リディエは手帳をパタンと閉じ、眼鏡の奥の瞳で冷徹に私を見つめた。
反論できない。
前世でブラック企業の過酷な残業地獄を生き抜くために、ドラッグストアの最も怪しい棚から買い集めた劇薬スレスレの栄養ドリンクを胃袋に流し込み続けていた私のジャンク耐性。
それに加えて、この公爵令嬢の身体が生まれつき持っている無自覚のチート魔力と超生命力。
二つが合体した結果、神話の猛毒がただの「ちょっと苦いビタミンC補給」として処理されてしまったらしい。
――そして、その結果が、今朝のあの門前の惨劇だ。
神殿の長老たちが一晩で全員丸坊主になり、「聖女様に毒を盛ってしまった、神の雷で魂を焼かれる!」と錯乱して門前で土下座をかまし、そのまま司法省へ自首していったという、あのホラー映画のような光景。
「……もう嫌」
私は羽毛布団を引き寄せ、芋虫のように体を丸めた。
こめかみがズキズキと痛む。
冷静に、これまでの軌跡を振り返ってみよう。
・夜会に行こうとしたら、暗殺者が潜伏していてドタキャンが救国劇になった。
・ケーキを食べようとしたら、市場の小麦を買い占めて隣国の経済テロを粉砕した。
・散歩に行こうとしたら、ドレスを汚されてブチギレて道路工事をして裏社会を壊滅させた。
・テラスでお茶を飲んだら、暗殺毒を一気飲みして宗教界の腐敗を一網打尽にした。
「……外に出ると、百パーセントの確率で国家規模の大事件が起きるじゃないのよぉぉぉっ!!」
私はシーツに顔を押し当て、押し殺した絶叫を上げた。
呪われている。絶対にこの世界は私の自堕落ライフを全力で阻止しようと呪いをかけてきている。
私はただ、働きたくないだけなのだ。
美味しいものを食べて、誰にも邪魔されず、昼過ぎまで寝ていたいだけなのだ。
それなのに、一歩でも敷居を跨いで外へ出れば、トラブルが向こうから全力疾走で突っ込んできて、私の足元に転がり込み、なぜか私が世界を救ったことになって周囲の好感度が爆発四散する。
「学んだわ。私、前世の失敗から何も学んでいなかった社畜だったけれど、今世でついに真理に到達したわ」
「お嬢様、どのような真理でございましょうか」
「トラブルを避ける唯一にして絶対の方法……それは『最初から現場に行かないこと』よ!!」
ガバッと布団から跳ね起き、私は高らかに人差し指を天へと突き上げた。
「リディエ! 私は今日この瞬間をもって、無期限の【完全引きこもり宣言】を発令します!」
「完全引きこもり、でございますか」
「そうよ! 一歩も! この部屋の敷居から外には出ないわ! 食事はすべてベッドの上、読書もベッドの上、昼寝はもちろんベッドの上! 誰が来ようと居留守を使い、面会はすべて拒絶! 外に出なければ事件も起きない、事件が起きなければ勘違いもされない! 私はこのふかふかの要塞に籠城して、一生ゴロゴロして暮らしてやるんだから!!」
完璧なソリューションだった。
前世の社畜時代、夢にまで見ながら一度も実現できなかった「究極のインドア有給消化」。
外の人間が何を騒ごうと、知ったことではない。
私は公爵令嬢なのだ。働かなくても無限に湧き出る富がある。
誰にも邪魔されない、私だけの自堕落パラダイスを、この四畳半……ならぬ三十畳の豪奢な寝室の中に築き上げてみせる!
「さあリディエ、読書用の天板と、最高級の羽毛クッションをあと五つ持ってきなさい! あと、厨房に命じて塩気の効いたポテトチップス的な揚げ芋のスナックと、冷えた炭酸水を用意させるのよ! 私の至高のインドアライフの開幕よーっ!」
ベッドの上にクッションの山を築き、ご機嫌でダイブする私。
これで平和が訪れる。
外の世界の面倒な人間関係など、すべて壁の向こうの出来事だ――。
――しかし。
私が「部屋から出ないからセーフ」と完全に油断しきっていたまさにその時。
外の世界では、私の想像を絶するレベルで、男たちの理性と狂気が限界を突破しようとしていたのである。
***
王宮、最上階――王太子執務室。
普段であれば、整然とした静寂と、最高級の香木が微かに香る格式高いその部屋は、今や荒れ狂う嵐の前の海原のような、息の詰まる殺気に満ち満ちていた。
――ドゴォォォォォンッッッ!!!!
黒檀の分厚い執務机が、凄まじい音を立てて軋んだ。
書類の山が宙を舞い、真鍮のペーパーナイフが床に突き刺さる。
「……毒だと? もう一度言ってみろ、マティアス」
立ち上がった王太子レオポルトの碧眼は、血走らんばかりに充血し、瞳の奥には青白い狂気の炎が燃え盛っていた。
プラチナブロンドの美しい髪は乱れ、軍装の胸元は激しい息遣いで上下している。
社交界で「氷の貴公子」と称された冷徹な仮面は完全に剥ぎ取られ、そこにあるのは、自らの最も尊い宝を害されかけた獣の、剥き出しの凶暴性だった。
「エレオノーラが……俺の、俺の未来の妃となるべき尊い女性が、毒を盛られただと……!? あのような……あのようなおぞましい劇薬で、命を奪われかけていたというのかッ!!」
机を両手で押し潰さんばかりに体重をかけ、レオポルトは咆哮した。
その怒気は、室内の空気を物理的に震わせるほどだった。
「神殿の長老どもだと!? 既得権益にしがみつくあの腐れ外道どもが、あろうことかエレオノーラに手をかけようとしただと!? 今すぐ近衛の全軍を動員しろ! 自首した奴らも含め、一派の者を全員地下牢から引きずり出し、広場で四肢を八つ裂きにして晒し首にしてやる!!」
「殿下、どうかご下知をお待ちください!」
部屋の中央で、白銀の甲冑を纏った近衛騎士団長マティアスが、床に片膝をついて深々と頭を垂れていた。
歴戦の軍人たるマティアスの精悍な顔面もまた、蒼白に染まり、奥歯をギリギリと噛み締める音が室内に響く。
「……私の不覚です。近衛騎士団が公爵邸の周囲を警護しておきながら、納入業者という初歩的な盲点を突かれ、あの方の口元にまで凶刃を侵入させてしまった……! 武人として、あのお方の盾たる者として、恥じ入るばかりでございます!」
マティアスは自らの胸板を拳で叩きつけた。
鈍い金属音が響く。
彼にとっても、エレオノーラはもはや単なる主君の婚約者ではなかった。
自らの家の至宝たるミスリルを躊躇なく投げ与え、困窮していた部下たちを救い、軍の腐敗を一目で見抜いてみせた「真の軍神」。
その至高の御身が、一歩間違えれば冷たい骸となって転がっていたかもしれないのだ。
想像しただけで、マティアスの全身の血が逆流するような焦燥と憤怒がせり上がってくる。
「殿下! 処刑の手続きは司法省に任せるとして、今最も急務とすべきは、エレオノーラ閣下の身辺警護の抜本的改革でございます! もはや門前や外周の見回り程度では生ぬるい! 公爵邸の敷地内に我が団の第一小隊を常駐させ、出入りする物資はすべて抜き打ちではなく全数検査、召し上がるものすべてに三名の毒見役を配置すべきです!」
「甘い!!」
レオポルトが一喝した。
「毒見役だと!? 毒見が倒れた後、微量の毒がエレオノーラの唇に触れたらどうする気だ! 公爵邸の料理人を全員解雇し、王室の専属料理長を送り込む! 食材は王家の直轄地から魔法で空輸させ、調理の一工程ごとに近衛兵が監視をつけろ! 二度と……二度とあいつを、危険な目に遭わせてたまるものか!!」
レオポルトは頭を抱え、苦悶の表情を浮かべた。
脳裏に浮かぶのは、あの凛々しく、誇り高い深紅の瞳の少女。
(エレオノーラ……! お前はなぜ、いつも一人で全てを受け止めてしまうのだ……!)
報告書によれば、彼女は毒を盛られたことに気づきながら、あえて笑顔で飲み干したという。
それは、神殿の長老たちに自らの圧倒的な神性を見せつけ、無血で自首へと追い込むための、命懸けの捨て身の布石。
国を憂い、民を憂い、神殿の腐敗を一掃するために、己の肉体すら実験台のように差し出すその崇高な献身。
愛おしい。
尊い。
そして――狂おしいほどの独占欲と、守りきれなかった己への無力感が、レオポルトの胸を焼き焦がしていた。
「あいつの隣に立つ男として……俺は、あまりにも無力だ……! これ以上、あいつに泥をかぶらせてなるものか……! 俺の命に代えても、エレオノーラをこの世のあらゆる悪意から隔離してみせる……!」
レオポルトの瞳に宿る過保護の炎が、もはや人道的な境界線を踏み越えようとしていた。
――その時だった。
「……随分と、勇ましいことでございますね。王太子殿下」
静寂を切り裂くように、鈴の音のように澄んだ、しかし氷柱のように冷徹な美声が執務室の入り口から響いた。
「誰だッ!?」
マティアスが即座に抜刀の体勢を取り、レオポルトが鋭い視線を向ける。
部屋の扉を音もなく押し開けて入ってきたのは――プラチナシルバーの長い髪をなびかせ、純白と金糸の法衣を優美に纏った青年。
ルミナス神殿の若き最高意思決定者、筆頭神官シルヴァン・エデルシュタインだった。
「シルヴァン……! 貴様、なぜここにいる! 神殿の長老どもがしでかした大罪の責任を取りにきたのか!?」
レオポルトが敵意を剥き出しにして睨みつける。
王家と神殿。
長年、国家の主導権を巡って冷戦を続けてきた二大巨頭。
特にシルヴァンは、若くして神殿の中枢に登りつめた冷酷無比な知性派であり、レオポルトにとっても最も警戒すべき政敵の一人だった。
しかし、シルヴァンはその敵意を、涼やかな笑み一つで受け流した。
彼の菫色の瞳は、先日の冷淡な計算高さとは打って変わり、熱病に冒されたような、底知れぬ狂気の光を湛えている。
「長老たちの処遇につきましては、すでに全権を掌握した我が神殿より、極刑を含めた全面的な司法委ねの書状を提出済みでございます。……ですが殿下、私がここへ参ったのは、そのような世俗の始末書の話をするためではありません」
シルヴァンは音もなく歩み寄り、執務机の前で立ち止まった。
そして、冷笑を浮かべながら、マティアスとレオポルトを一瞥したのだ。
「近衛騎士団の常駐? 食材の監視? ……失礼ながら、軍人や王族の方々の考える防衛策というのは、いささか脳筋が過ぎるのではないでしょうか」
「何だと、貴様……!」
マティアスの眉間に青筋が浮かぶ。
だが、シルヴァンは一切怯むことなく、自らの細い指先をスッと持ち上げた。
その指先から、淡い白銀の神聖粒子が微かに立ち上る。
「エレオノーラ様を狙う悪意は、物理的な刃や、料理に混ぜる毒だけに留まりません。目に見えぬ呪詛、遠隔からの魔力汚染、大気中に散布される遅効性の瘴気……そのような霊的侵略に対し、貴方方の鋼鉄の剣や鎧が、一体何の役に立つというのです?」
「ぐっ……」
マティアスが言葉に詰まる。
シルヴァンの指摘は、痛いところを突いていた。
神聖力や呪詛の領域において、近衛騎士団の物理的な武力は無力に近い。
「エレオノーラ様は……あのお方は、神の肉体を持たれた至高の聖女様です」
シルヴァンの声が、熱っぽく震えを帯びた。
「あのお方は、神話の猛毒すらも自らの内で浄化し、神殿の腐敗を一掃するために、あえて毒杯を飲み干してくださった……! 我ら神殿を救うため、あのお方は己の御身を削って奇跡を起こされたのです! そのような尊い御方を、二度と危険に晒すなど……神への冒涜、万死に値する大罪です!」
シルヴァンは胸に手を当て、狂信者の笑みを深めた。
「ですから、提案に参りました。殿下、そして騎士団長殿」
「……提案だと?」
「ええ。物理的な警備は、近衛騎士団が担当なさればよろしい。しかし、霊的・魔術的な警護には、我が神殿の最高戦力たる【神聖騎士団】および【結界術士班】を配置すべきです」
シルヴァンの瞳が、獲物を狙う蛇のように細められた。
「公爵邸の周囲に、神殿秘伝の二十四時間体制による多重神聖結界を展開いたします。出入りする人間は、使用人から親族に至るまで、魂の穢れを測定する霊視門を通過させ、外部からの飛翔物、虫の一匹、空気の微粒子に至るまで、神聖力によって完全に濾過・遮断する。……公爵邸を、神の領域たる【不可侵の聖域】へと造り替えるのです」
息を呑むような提案だった。
一国の公爵邸を、神殿の最高結界で完全に隔離する。
それは実質的に、公爵邸を国家の中の独立した要塞都市へと変貌させることを意味していた。
「……ふざけるな」
レオポルトが低く唸った。
「神殿の私兵を公爵邸に常駐させるだと? エレオノーラを神殿の鳥籠に閉じ込め、お前たちの偶像として囲い込む気か! あいつは俺の婚約者だ! 神殿の道具にはさせん!」
「おやおや、嫉妬ですか、殿下?」
シルヴァンは嘲笑うように首を傾げた。
「偶像などと滅相もない。あのお方こそが、我が信仰のすべて。道具にするのではなく、我らが命を捧げてあのお方の安寧の礎となるのです。……それに、殿下。貴方のそのくだらない独占欲のせいで警備に隙が生じ、再びエレオノーラ様の御身に危険が及んだら……貴方は自らの命を絶って責任を取れますか?」
「貴様ッ……!!」
レオポルトの腰の剣が、鞘の中でカチリと音を立てた。
マティアスもまた、シルヴァンを威圧するように一歩踏み出す。
一触即発。
王太子、近衛騎士団長、そして筆頭神官。
この国の最高権力を握る三人の男たちが、互いの胸倉を掴み合い、血で血を洗う権力闘争が始まってもおかしくない空気だった。
――しかし。
その張り詰めた殺気の中で、マティアスがふと、重々しく口を開いた。
「……殿下」
「マティアス、止めるな。この無礼な神官の首を――」
「シルヴァン閣下の物言いには万死に値する無礼がありますが……言っている内容の『結果』については、一理ございます」
レオポルトが息を呑み、信じられないものを見る目でマティアスを見つめた。
「マティアス、貴様……神殿の軍門に下る気か!?」
「滅相もございません! 我が忠誠は殿下に、そして我が剣はエレオノーラ閣下にのみ捧げられております! しかし……!」
マティアスは悔しげに拳を握りしめ、床に視線を落とした。
「昨日の事件……もし、敵が物理的な毒ではなく、神殿の禁呪による呪殺を仕掛けていたとしたら、我が団の力では防ぎきれませんでした。……あのお方を護るためなら、泥水をすすることすら厭いません。近衛の武力と、神殿の結界術……その双璧をもってあのお方を囲まねば、二度と同じ過ちを繰り返さないという保証がどこにありましょうか!」
「…………っ」
レオポルトの言葉が、喉の奥で詰まった。
悔しい。
政敵であるシルヴァンの力を借りるなど、王太子のプライドが許さない。
だが――それ以上に、エレオノーラを失うかもしれないという恐怖が、レオポルトの冷徹な理性を圧倒していた。
(あいつを……二度と、あんな危険な目に遭わせるわけにはいかない……!)
レオポルトは深く息を吐き出し、拳を解いた。
そして、シルヴァンを射抜くような眼光で見据えた。
「……条件がある」
「何なりと」
「神聖騎士団の指揮権の一部は、マティアスに預けろ。近衛と神殿兵の連携を密にし、いかなる死角も作らせん」
「よろしいでしょう。現場の防衛動線は、騎士団長殿の采配にお任せいたします」
「そして……エレオノーラとの謁見は、公務を除き、俺の同席なしでは一切認めん」
シルヴァンはフッと優雅に微笑み、胸に手を当てて一礼した。
「無論でございます。あのお方の神聖なるお昼寝の時間を邪魔するような真似は、神にかけていたしませんよ。……ふふ、利害が一致したようで何よりです」
その瞬間。
歴史上、常に反目し合い、互いの足を引っ張り合ってきたはずの「王家」「近衛軍」「国教神殿」という国家の三大権力が。
ただ一人の少女――【エレオノーラ・フォン・グランヴェルを守り、囲い込む】という、狂気じみた一点において、強固極まりない最悪の同盟を結成してしまったのである。
「直ちに動け」
レオポルトが冷徹に命じた。
「王宮の特別予備費を全額開放する。資材、結界石、人員……すべて公爵邸へ注ぎ込め!」
「はっ! 近衛第一小隊、出動いたします!」
「神殿の結界術士班、ただちに公爵邸の上空および地下霊脈の封鎖に取り掛からせましょう」
男たちの瞳に宿る、昏く熱い光。
それはもはや防衛などという生易しいものではなかった。
神輿に担ぎ上げた唯一無二の至宝を、誰の目にも触れさせぬよう、鉄と光の檻で永遠に閉じ込めようとする、狂気的なまでの愛の包囲網だった。
***
――そして、その頃。
公爵本邸の自室では。
「サクサク……パリパリ……んん〜、この揚げ芋、塩気が絶妙だわぁ」
私はベッドの上に山のように積み上げた羽毛クッションに埋もれ、特製のリクライニング読書台に小説を立てかけながら、銀のボウルに入ったポテトチップスを貪っていた。
右手にはスナック、左手には冷えた炭酸水。
部屋着は締め付け感ゼロのシルクガウン。
室内には心地よいラベンダーのアロマが漂い、防音カーテンのおかげで外の物音一つ聞こえない。
「最高ね……。やっぱり人間、引きこもりに限るわ。部屋から一歩も出なければ、王太子も騎士団長も神官も近寄ってこないし、悪徳令嬢としての面倒な公務も発生しない。完璧な有給消化ライフよ」
私は炭酸水を喉に流し込み、至福のため息をついた。
「この調子で、あと三ヶ月くらいベッドの上でゴロゴロしていれば、社交界からも忘れ去られて、そのうち『あいつは引きこもりの役立たずだ』ってことで、晴れて国外追放されるに違いないわ! ふふ、あははは! 私の自堕落勝利の方程式が完成したわね!」
ベッドの上でご機嫌に足をパタパタと揺らす私。
まさか、自分の屋敷の外で、愛が重すぎる男たちによって「国家最高レベルの軍事要塞化工事」が、文字通り今この瞬間から着工されようとしていることなど――。
幸せそうにスナックをつまむ悪役令嬢は、夢にも思っていなかったのであった。




