第21話:神殿の長老たちが一晩で全員出家した理由
チュン、チュン、チュン――。
庭園の梢から聞こえる小鳥たちの愛らしい囀りと、遮光カーテンのわずかな隙間から漏れ出る柔らかな朝の陽光。
私は天蓋付きのベッドの中で、パチリと両目を見開いた。
「……えっ? うそ、嘘でしょう……?」
思わず自らの両手を顔の前にかざし、まじまじと見つめてしまった。
身体が、信じられないほど軽い。
羽毛布団を跳ね除けて上半身を起こすと、背骨の軋みも、肩の重みも、いつもの朝にまとわりつく気だるさも、綺麗さっぱり塵一つ残さず消滅していた。
頭の芯まで恐ろしいほどに澄み渡り、視界は前世のブルーベリーサプリの過剰摂取時以上にクリアで、全身の血液がまるで新品の高級潤滑油に入れ替えられたかのようにサラサラと駆け巡っている。
「な、何なのこの爽快感……!? まるで前世で、奇跡的に有給が取れて丸三日間泥のように眠った後の目覚めじゃないの……!」
原因は一つしか考えられなかった。
昨日、テラスで飲み干したあのお茶だ。
ベルマン商会が持ってきた『天山白桃紅茶』。
一口飲んだ瞬間に舌が痺れ、喉の奥を万力で締め上げられるような強烈な苦味とケミカルな刺激を放ち、あまりの懐かしさに前世の『超絶覚醒・魔神皇帝ゴールドMAX』を思い出して一気に飲み干した、あの激マズエナジー紅茶である。
「効きすぎよ! どんな劇薬成分が入っていたらこんなにシャキッとするのよ!」
恐るべきは東方の霊峰の秘茶である。
あまりにも目覚めが良すぎて、二度寝をするための「適度な眠気」という重要な燃料すら完全に燃え尽きてしまっていた。これでは二度寝ができないではないか。社畜の夢である「起きてすぐの惰眠」を阻害するとは、ある意味で恐ろしい副作用である。
「まあいいわ。身体が軽いのは悪いことじゃないし、午前中はベッドの上で読書でもして、昼食を食べたら改めて強制的に昼寝をキメ込んでやるんだから」
私が枕元のベルを鳴らし、朝食を運ばせようとした――その、まさに刹那。
――ズザザザザッ!! ドタドタドタドタッ!!
廊下の向こうから、何者かが転がりながら疾走してくる凄まじい足音が響いてきた。
この、足音だけで「胃に穴が開きました」と主張してくるリズム。
考えるまでもない。
「お、お嬢様ァァァッ!! お目覚めですかッ!? 生きておられますかァッ!?」
バンッ!と勢いよく扉が開かれ、飛び込んできたのは筆頭執事のクリストフだった。
その顔色は、もはや白を通り越して緑色に濁り、いつもの胃薬の瓶を握りしめた右手はプルプルと生まれたての子鹿のように震えている。
「クリストフ、朝から騒々しいわよ。私は見ての通り、健康そのものよ。むしろ血行が良すぎて、今なら庭を三周くらい全力疾走できるレベルでピンピンしてるわ」
「そ、それは重畳……いや、そうではなくてッ! 門前です! 我がグランヴェル公爵本邸の正門前を、今すぐご覧くださいまし!!」
「正門? 何よ、また王太子からの重すぎる愛の贈り物でも届いたの? それともマティアスが部下を引き連れて朝のラジオ体操でもやってるわけ?」
「そのような微笑ましいものであれば、私の胃袋は平穏を保てておりますぞ! 怪奇現象です! 集団発狂です! 神殿が……ルミナス神殿の最高幹部たちが、門前でとんでもないことになっております!!」
「……はあ?」
私は心底怪訝に思いながら、ベッドから降りてガウンを羽織った。
スリッパを引っ掛け、バルコニーへと歩み出る。
初夏の心地よい朝風を浴びながら、公爵邸の広大な前庭の先――重厚な鉄の正門の周囲を見下ろした瞬間。
「…………ぶっ!?」
私の喉から、変な吹き出し音が漏れた。
「な、何なの……あれ……?」
そこに広がっていたのは、我が目を疑うような異様な光景だった。
公爵邸の門前の石畳の上に、十数人の老人たちが、等間隔で綺麗に並んで平伏していたのだ。
ただの平伏ではない。
全員が、贅沢な金糸の刺繍が施された豪奢な法衣を着崩し、地面に這いつくばって額を石畳に激しく擦り付けている。
そして何より――。
ピカァァァァァッ……!
朝の太陽光を反射して、彼らの頭部から、眩いばかりの光が乱反射していた。
丸坊主。
見事なまでに、毛の一本すら残さずツルツルに剃り上げられた、無数の頭皮。
それが朝日に照らされ、まるでミラーボールのようにピカピカと輝き、門前を不気味に照らし出しているのだ。
「ま、眩しい……! 何なのあの集団反射板!? 新手の光線攻撃!?」
「お嬢様、あれはルミナス神殿の最高意思決定機関を牛耳る『長老会』の重鎮たち……大司教バルタザール閣下をはじめとする、旧神官派の最高幹部全員でございます!」
「長老会!? あの、神殿の利権にしがみついてるって噂の偉いジジイたち!?」
私は目を白黒させた。
神殿の長老といえば、国家予算並みの寄付金を動かし、国王すら無下には扱えない宗教界の重鎮中の重鎮だ。
それが、なぜ。
全員揃って頭を丸め、泥水が跳ねる門前の地面に額を擦り付け、ガタガタと震えながら土下座をしているのか。
「ひ、ヒィィィ……お許しを……お許しをぉぉぉ……!」
「神の化身であられる聖女様……! 愚かな我らに、どうか慈悲を……魂の救済をぉぉぉ……!」
風に乗って、老神官たちの泣き叫ぶような悲鳴交じりの祈祷が、かすかにテラスまで届いてくる。
全員が涙と鼻水で顔面をぐしゃぐしゃにし、恐怖で失禁しかけているのが遠目にも見て取れた。
「……ねえ、クリストフ」
「は、はひっ!」
「何あれ? 王都で新手の宗教的苦行トレンドでも流行ってるの? それとも頭を丸めて光を反射させるのが最新の厄除け儀式かしら?」
「滅相もございません! あの方々は今朝の夜明け前、突如として神殿から抜け出し、自らの手で髪を剃り落として門前に押し寄せたとのこと! 『エレオノーラ様に許しを乞わねば、魂が地獄の業火で焼かれる!』と錯乱状態で叫び続けておりますぞ!」
「…………」
私は無言で、バルコニーの窓をピシャリと閉めた。
そして、分厚い防音遮光カーテンを、両手で力任せにシャッと引いて外界を完全シャットアウトした。
「見なかったことにしましょう」
「お、お嬢様ァァァッ!?」
「関わりたくないわよ! 何なのあのピカピカ光るジジイの群れ! シンプルに絵面がホラーじゃないの! あんなのに関わったら、また変な宗教騒動に巻き込まれて私の睡眠時間が削られるに決まってるわ!」
私はベッドへ逆戻りし、掛け布団を頭からスッポリと被った。
怖い。
宗教の暴走は怖い。
私はただの元社畜OLなのだ。朝から丸坊主の集団に土下座される理由など、天地神明に誓って一つも思い当たる節がない!
――しかし。
私が「集団幻覚」として現実逃避を決め込んでいたその裏で。
昨夜から今朝にかけて、王都の中枢を揺るがす前代未聞のパニックが吹き荒れていたのである。
***
時計の針を、昨夜――エレオノーラが毒入り紅茶を「ちょっと苦くて効くわね」と飲み干した直後へと巻き戻そう。
ルミナス中央神殿、地下最深部の秘密会議室。
そこには、大司教バルタザールをはじめとする長老たちが、エレオノーラの「急死」の知らせを今か今かと待ちわびていた。
「そろそろか……?」
「うむ。ベルマン商会の茶葉が届き、午後の茶会で口にしたならば……今頃は胸を押さえて転がっておるはず……」
醜悪な笑みを浮かべ、祝杯のワイングラスを傾けようとしていた長老たち。
その部屋の重厚な扉が――ドガァァン!と、蝶番が吹き飛ぶような勢いで蹴破られた。
「ヒッ……ヒィィィィィッ!! た、助けてくれぇぇぇぇっ!!」
転がり込んできたのは、公爵邸のバラ園に潜入していた特務工作員のジークス神官だった。
純白の法衣は泥と枯草で汚れ、顔面は死人のように青ざめ、両目は狂乱の光を宿して充血している。
「ジ、ジークス!? 何事だ、その無様な姿は! エレオノーラは死んだのか!?」
「化け物だァッ!! あのお方は人間ではないッ!!」
ジークスはバルタザールの足元に縋り付き、叫び声を上げた。
「飲んだのです! あのお方は……あの希代の猛毒【冥府草のエキス】を、一口どころか、カップごと一気に飲み干されたのですッ!!」
「な、何だと……!?」
バルタザールが立ち上がり、ワイングラスを取り落とした。
ガシャンと砕け散るガラス。
「馬鹿なことを言うな! 冥府草だぞ!? 巨象すら一滴で即死する神話の猛毒だ! それを一気飲みして、生きておられるはずが――」
「生きておられるどころではありませんッ!!」
ジークスは自らの髪を乱暴に掻きむしり、白目を剥いて絶叫した。
「あのお方は……『ちょっと苦くて舌が痺れるけど、胃の奥に染み渡って目がシャキッとするわ』と……! 女神のような笑みを浮かべて、おかわりを要求されたのですッ!! 毒を無効化したのではありません! あのお方は、神話の猛毒を自らの生身の胃袋で喰らい、自らの神聖魔力の糧として吸収し、全身から黄金の光を放ち始められたのですッッ!!」
「「「な…………ッ!?!?!?」」」
秘密会議室にいた十数名の長老たちの思考が、完全に停止した。
冥府草を、喰らった?
ちょっと苦くて効く、と言って、おかわりを要求した?
「う、嘘だ……嘘だと言え……!」
「嘘ではありません! この目で見たのです! あのお方の神々しいまでの魔力……神話の邪神すら滅ぼした猛毒すらも、あのお方の前には一杯の滋養強壮茶にすぎなかった! あのお方は……あのお方は、神の肉体を持った絶対者……生ける現人神だったのです!!」
ジークスの言葉が、密室に冷酷な事実として突き刺さる。
その瞬間、長老たちの脳裏に、底知れぬ恐怖の津波が押し寄せてきた。
神の化身。
本物の、奇跡をその身に宿した聖女。
自分たちは、その至高の存在に対して、一体何を仕掛けたのか?
暗殺。
それも、神殿最凶の劇薬を用いた毒殺未遂。
「あ……あああ……」
バルタザールの贅肉のたるんだ顎が、カタカタと激しく震え出した。
全身から噴き出す、止まらない脂汗。
神を信じず、権力と利権の道具として宗教を弄んできた罰当たりな老人たち。
彼らは今、生まれて初めて「本物の神の怒り」という概念に直面したのだ。
「神罰だ……」
誰かが掠れた声で呟いた。
「我らは……我らは神の御子に毒を盛ったのだ……! 逆らえば……逆らえば、魂ごと地獄の底で永遠に焼かれる……! 一族郎党、末代に至るまで呪われ、肉体を千切りにされて業火に投げ込まれるぞ……ッ!!」
「ヒィィィッ! 嫌だ、死にたくない! 地獄に堕ちたくないぃぃぃっ!」
パニックは一瞬にして部屋全体へと感染した。
権謀術数を巡らせていた長老たちは、完全に精神を崩壊させ、泣き叫び、床を転げ回った。
あのお方は、毒を飲んでも眉一つ動かさなかった。
それはすなわち――『貴様らの浅薄な企みなど、全て見通しているぞ』という、無言の絶対的宣告ではないのか!?
あえて毒を飲み干し、笑顔を見せることで、自分たちに「最後の慈悲としての自首の猶予」を与えてくださったのではないのか……!?
「剃れ……ッ!」
バルタザールが、狂気じみた形相で叫んだ。
「髪を剃れェェェッ!! 世俗の富も、権力も、利権も全て捨てろ! 丸坊主になり、己の罪をすべて白日の下に晒し、聖女様の御前で土下座して命乞いをするのだ! さもなくば、夜明けとともに神の雷が我が神殿を灰燼に帰すぞォォォッッ!!」
その夜、神殿の地下では、剃刀の刃の音と、老人たちの悲痛な懺悔の泣き声が、夜通し響き渡り続けたのである。
***
そして、夜明け。
王宮の王太子執務室、および神殿の筆頭神官室に、前代未聞の激震が走った。
「……何だと?」
王太子レオポルトは、早朝に飛び込んできた近衛騎士団長マティアスからの報告書を前に、碧眼をこれ以上ないほど見開いていた。
「神殿の長老派……大司教バルタザールをはじめとする旧神官派の最高幹部全員が、夜明けとともに王宮の司法省へ自首してきた、だと……?」
「はっ……!」
マティアスもまた、信じられないものを見たかのように声を震わせていた。
「全員が頭を丸め、白装束に身を包み、自らが過去数十年にわたって行ってきた横領、密輸、賄賂、そして……エレオノーラ閣下に対する暗殺未遂の罪を、涙を流して自白いたしました。押収された裏帳簿は馬車三台分に達し、神殿の暗部が完全に白日の下に晒されております」
「暗殺未遂……!? エレオノーラに毒を盛っただと!?」
レオポルトが猛然と立ち上がった。その瞳に、苛烈な怒りの炎が燃え盛る。
「エレオノーラは無事なのか!? 今すぐ神殿を包囲し、あの一派を全員死刑に処す――」
「殿下、お待ちください! 閣下は……エレオノーラ閣下は、完全に無傷であられます!」
「何……?」
「自首した工作員の供述によりますと……エレオノーラ閣下は、盛られた劇毒を平然と笑顔で飲み干され、『ちょっと苦くて効くわね』と仰ったとのこと……。毒を完全に無力化し、その人智を超えた神性をもって、長老たちの心を一晩で完全にへし折り、自首へと追い込まれたのです……!」
レオポルトはその場に立ち尽くし、息を呑んだ。
彼の脳裏に、愛しい婚約者の凛々しい姿が鮮烈に浮かび上がる。
「エレオノーラ……! お前は……神殿の腐敗をも、その身一つで……!」
レオポルトの両目から、またしても熱い涙がポロポロと零れ落ちた。
「神殿の暗部を暴くため、法や軍を動かせば、宗教界との全面戦争になり国が割れる。だからこそ……彼女はあえて敵の毒杯を自ら干し、その圧倒的な神性を見せつけることで、血を一滴も流さずに敵を自壊させたのだ……! なんという……なんという深謀遠慮、なんという自己犠牲の愛なのだ……!!」
その頃、神殿の執務室でも。
筆頭神官シルヴァン・エデルシュタインが、窓の外を見つめながら、恍惚とした笑みを浮かべていた。
「……長老会が、全員自首、ですか」
手元の報告書には、長老たちが「全財産を国庫に返上し、罪を償うために辺境の最果ての修道院へ自主配刑を望む」と血判を押した嘆願書が添えられていた。
長年、シルヴァンの改革を阻み続けていた旧神官派の既得権益層が、一夜にして、文字通り根こそぎ消滅したのだ。
神殿の全権が、今やシルヴァンの手の中に転がり込んできた。
「エレオノーラ様……ああ、エレオノーラ様……!」
シルヴァンは自らの胸を掻きむしり、熱い吐息を漏らした。
菫色の瞳には、もはや後戻りできない領域へと達した狂信の光がギラギラと輝いている。
「私のために……神殿の腐敗を一掃し、私に全権を委ねるために、あえて毒杯を飲み干してくださったのですね……! 貴女様の深淵なる御心、このシルヴァン、生涯をかけてお応えいたします……! 我が神殿の全戦力、全財産、全信徒を……貴女様を護るための盾として捧げましょう……!!」
王宮と神殿。
二大権力の中枢で、エレオノーラに対する愛と崇拝のゲージが、もはや物理的な限界を突破して銀河の果てへと突き抜けていた。
***
――そして、その頃。
当の「救国の聖女」エレオノーラは。
「ふあぁぁ……」
自室のベッドの中で、分厚い羽毛布団を頭までスッポリと被り、小さく丸まっていた。
部屋の外からは、相変わらず門前で土下座を続ける丸坊主の老人たちの「聖女様ァァッ!」という悲痛な叫び声が、風に乗って微かに聞こえてくる。
「……怖い。絶対に部屋から出ないわ」
私は布団の中でブルブルと震えた。
「何なのよ、あのピカピカ光る集団……。朝から公爵邸の前で集団カルトの儀式でもやってるのかしら。近寄ったら変なツボとか買わされそうだわ。絶対に一歩も外に出ない! 今日はお昼寝も読書も全部ベッドの上で完結させてやるんだから!」
己が飲み干した「ちょっと苦いお茶」が、国家の巨大な宗教権力を一夜でひっくり返し、男たちの狂気を限界まで加速させたことなど、露ほども知らずに。
悪役令嬢エレオノーラは、ただひたすらに、恐怖の丸坊主集団から逃れるために、布団の奥深くへと引きこもり続けるのだった。




