第20話:致死毒を一気飲みした悪役令嬢、「ちょっと苦くて効くわね」と微笑む
――トトトトト……。
南庭テラスの心地よい静寂の中に、銀のポットから琥珀色の液体が白磁のカップへと注がれる、涼やかな水音が響き渡っていた。
注がれた紅茶の表面には、初夏の柔らかな木漏れ日が反射し、キラキラと黄金の波紋を描いている。立ち上る湯気は、まるで熟れきった白桃の果汁をそのまま煮詰めたかのような、芳醇で甘やかな香りを漂わせていた。
王室御用達のベルマン商会が、今朝一番で公爵邸へと納入した最高級茶葉『天山白桃紅茶』。
見た目は非の打ち所がない、至高のアフタヌーンティーの一杯だ。
――そう、その液体の中に。
巨象すら一滴で即死させ、皮膚に触れるだけで肉を爛れさせるという、ルミナス神殿最奥の秘毒【冥府草のエキス】が、致死量の十倍以上も溶け込んでいることさえ除けば。
「お嬢様、天山白桃紅茶でございます。蒸らし時間は規定よりわずかに長めに取り、茶葉の持つ滋養とコクを極限まで引き出しております」
専属侍女のリディエが、一切の隙のない完璧な所作でカップを私の前に置いた。
透き通るような白磁の縁に、優美な金彩。
湯気とともに漂ってくる甘い香りに、私の鼻腔がくすぐられる。
「ありがとうリディエ。見た目も色合いも素晴らしいわね。……ふふ、最近は昼寝ばかりで少し頭が重かったのよ。ここで一杯、魂を覚醒させるようなお茶を飲んで、シャキッと目を覚まさせてもらおうかしら」
私はご機嫌でカップの取っ手に細い指を滑り込ませた。
これから起こるであろう大惨事のことなど、露ほども知らずに。
***
(……くくっ、かかったぞ……! あの傲慢な小娘め、疑いもせずにカップを手に取りおった!)
テラスから百メートルほど離れた、手入れの行き届いたバラ園の生垣の物陰。
初夏の濃い緑の隙間から、二つの黒い筒先――神殿の特務工作員に支給される暗視・望遠魔導眼鏡が、テラスのテーブルの一点へと向けられていた。
レンズを覗き込んでいるのは、神殿旧神官派の実行部隊を束ねる男、ジークス神官。
神聖なる純白の法衣の上に黒い隠密マントを羽織った彼は、草むらの中に身を潜めながら、醜悪な歓喜に肩を震わせていた。
(ベルマン商会の買収は完璧だった。納品された茶葉の壺には、大司教バルタザール様から直々に賜った【冥府草のエキス】が、一滴残らず染み込ませてある……!)
冥府草。
その名を思い浮かべるだけで、ジークスの背筋にはツラリと冷たい汗が流れる。
かつて太古の神話時代、神に叛逆した巨神族を滅ぼすために調合されたとされる、神殿最凶の呪詛毒。
無味、無臭、無色透明。
銀の食器に触れても黒変せず、いかなる毒物探知の魔導具にも一切の反応を示さない。
しかし、その実態は「触れた生体組織の魔力循環を瞬時に壊死させ、心臓を物理的に握り潰す」という、この世で最も冷酷無比な即効性の神経・魔力毒だ。
以前、実験のために捕獲した体長五メートルを超える凶暴なワイバーンに、冥府草の希釈液を一滴だけ肉に垂らして食わせたことがあった。
結果はどうだったか。
肉を呑み込んだワイバーンは、咆哮を上げる暇すらなく、わずか二秒で血反吐を撒き散らし、全身の血管を破裂させて絶命した。解剖した体内は、まるで内側から焼き尽くされたかのように真っ黒に炭化していたという。
(あの怪獣ですら一滴で即死したのだ。それを、人間の華奢な小娘が……あんな濃厚に煮出した毒茶を一口でも飲んでみろ)
ジークスの唇が、下劣な三日月を描いて吊り上がる。
(喉を通った瞬間に気道が焼け爛れ、肺が破裂し、心臓が凍りつく! 公爵令嬢の首を掻っ切る必要すらない。ものの十秒で、あの高飛車な悪女は泡を吹いて転がり、二度と口を利けぬ冷たい肉塊に成り果てるのだ!)
そうなれば、神殿の利権は守られる。
エレオノーラを「真の聖女」と祭り上げて調子づいていた若造シルヴァンは、後ろ盾を失って失脚。
自分たち旧神官派の長老たちが、再び神殿と国家の富を思うがままに貪ることができるのだ。
(さあ飲め! 飲み干すがいい、傲慢な公爵令嬢! 神の領域に土足で踏み込んだ代償を、己の血の味とともに噛み締めるがいいわッ!!)
ジークスは息を呑み、魔導眼鏡のピントをエレオノーラの紅い唇へと限界まで絞り込んだ。
***
「……ふう、ふう」
私はカップに軽く息を吹きかけ、立ち上る湯気を揺らした。
甘い白桃の香りが鼻腔をくすぐる。
素晴らしいわ。やっぱり一流の商人が持ってくる茶葉は格が違う。
私は優雅にカップを傾け、その琥珀色の液体を、まずは一口――ちびりと口の中に含んだ。
その、瞬間だった。
――バチィッッッッ!!!!
「…………っ!?」
舌の上に液体が触れた刹那、まるで高圧電流の流れる電線を直接舐めさせられたかのような、凄まじい衝撃が口腔内を駆け抜けた。
甘い白桃の香りの奥底から、突如として噴き出してきたのは――。
舌の根元を万力でギリギリと締め上げるような、暴力的で、強烈極まりない【極限の苦味】。
そして、歯茎と上顎の粘膜をチリチリと焼き焦がすような、ケミカルで独特の強烈な刺激と痺れだった。
(……な、何これっ!?)
普通の貴族令嬢なら、この時点で「ギャッ!」と悲鳴を上げてカップを投げ捨てるか、ショックで失神していただろう。
だが、私の脳細胞は、全く別の回路へと接続されていた。
この味。
この、舌が麻痺するような強烈な苦味。
この、喉の奥を薬品で直接撫で回されるような、暴力的な刺激臭。
この――およそ自然界の植物とは思えない、身体の全感覚を強制的に叩き起こすような、狂気的なケミカル感。
(……知ってる。私、この味を……知ってるわ……!!)
ドバッ、と前世の記憶のダムが決壊した。
脳裏に蘇るのは、深夜二時のブラック企業のオフィス。
納期まであと二十四時間。残りのタスクは山積み、バグは無限増殖、隣の席の後輩は過呼吸で倒れて救急搬送され、自分も四十度の高熱と激痛の胃痙攣に襲われていた、あの地獄のデスマーチの夜。
意識がプツリと途切れそうになるたび、私はデスクの引き出しからそれを取り出していた。
ドラッグストアの最も暗い棚の隅に鎮座していた、一本千二百円の超高級・劇薬指定寸前の栄養ドリンク――【超絶覚醒・魔神皇帝ゴールドMAX(アルギニン五千ミリグラム・無水カフェイン五百ミリグラム配合・要薬剤師対面販売)】。
胃壁を破壊し、寿命を前借りし、心臓を無理やりドラム缶のように乱打させて意識を覚醒させる、あの激マズで、ドブのように苦く、飲むたびに喉がカッと熱くなった、あの『社畜の命の水』の味そのものじゃないの!!
(な、懐かしい……! 懐かしすぎるわ!!)
私の胸の奥から、謎の感動が込み上げてきた。
この異世界に転生してからというもの、私の口に入るものといえば、素材の味を生かした高級料理か、甘くて上品なスイーツばかりだった。
どれもこれも美味しかったが、前世でジャンクフードと高濃度カフェインを燃料にして生きていた社畜の魂には、どこか物足りなさが残っていたのだ。
あの、胃を直接殴りつけてくるような刺激。
飲むだけで「あ、今私の血管が太くなったな」と錯覚させるような、あの暴力的な覚醒感。
それが、今。
この華奢な公爵令嬢の身体の喉元に、怒涛の勢いで流れ込んできたのだ!
――ズズズズズ……ッ!
その時、私の体内で、二つの規格外の要素が奇跡の化学反応を起こしていた。
一つは、前世の過酷極まりない労働環境で培われた、添加物と劇薬エナジードリンクに対する「異常な耐性」。
そしてもう一つは――グランヴェル公爵令嬢の肉体に生まれつき備わっていた、息をするように古代魔法を操る「無尽蔵の古代チート魔力と、規格外の超回復生命力」である。
冥府草の猛毒が、私の胃粘膜から毛細血管へと染み込もうとした瞬間。
私の体内に眠る膨大な神聖魔力が、無自覚のうちに自動防衛システムを作動させた。
細胞一つ一つが黄金の輝きを放ち、侵入してきた毒素の分子構造を、まるで巨大なシュレッダーにかけるかのように超高速で分解・無力化。
それどころか――。
『おや? なんか身体を活性化させる成分が入ってきたぞ?』と勘違いした私の魔力は、分解した毒素の残滓を、極めて純度の高い「エネルギー源」として再合成し、全身の細胞へと急速チャージし始めたのだ!
カッ……!
視界が、一瞬でパッと明るくなった。
重かった頭の奥のモヤが、まるで台風一過の青空のように吹き飛んでいく。
血流が加速し、指先までポカポカと温かくなり、背筋がシャンと伸びる感覚。
「……んん〜〜〜〜っっっ!!」
私は思わず、喉の奥から快楽の声を漏らしてしまった。
効く。
めちゃくちゃ効くわ、これ!
前世の『魔神皇帝ゴールドMAX』を三本一気飲みした時以上の、凄まじい覚醒感が全身を駆け巡っている!
「お、お嬢様……? いかがなさいましたか?」
リディエが珍しく、訝しげに小首をかしげた。
私は目を見開き、パッと顔を輝かせた。
「リディエ、これ……すっごく効くわ! ちょっと苦くて舌が痺れるけど、胃の奥にカーッと染み渡って、目がものすごくシャキッとするわよ!」
「……苦い、でございますか? 白桃紅茶は甘みが特徴の茶葉のはずでございますが」
「きっと霊峰の高山植物特有の、良薬口に苦しってやつね! ああ、素晴らしいわ! 最近の寝不足……じゃなくて寝過ぎによる倦怠感が、嘘みたいに吹き飛んでいく!」
私はもはや我慢できなくなり、カップの両端を掴むと――。
――ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、ぷはぁぁぁぁぁっ!!
貴族令嬢の作法など完全にかなぐり捨てて、致死量十倍の猛毒が入った熱々の紅茶を、まるで真夏の炎天下で部活帰りに飲むスポーツドリンクのように、一気呵成に喉へと流し込んだ。
最後の一滴まで綺麗に飲み干し、トン、とソーサーの上にカップを置く。
ぷはーっ、と息を吐き出す私の顔色は、毒で青ざめるどころか、血行が良くなりすぎてほんのりと桜色に染まり、お肌はツヤツヤ、緋色の瞳は爛々と輝いていた。
「美味しかったわ! 最高ね、このお茶! ねえリディエ、おかわりちょうだい! なんならポットごと持ってきて、直接注いでくれてもいいわよ!!」
満面の笑みでティーカップを差し出す私。
その姿は、どこからどう見ても「健康そのものの元気いっぱいな令嬢」以外の何物でもなかった。
***
「…………は?」
バラ園の物陰で、魔導眼鏡を構えていたジークス神官の口から、間抜け極まりない乾いた音が漏れ出た。
彼の脳の処理能力は、完全に限界を超えて焼き切れていた。
(……な、なんで……?)
ジークスの指先が、ガタガタと音を立てて震え、持っていた魔導眼鏡がツルリと滑り落ちそうになる。
(なんで……死んでないんだ……!?)
幻覚を見ているのかと思った。
飲んだのだ。確かに、あの小娘は飲んだ。
一口どころではない。
一滴で巨象を即死させ、一舐めでワイバーンを炭化させる【冥府草のエキス】が、致死量の十倍以上も濃縮されたあの黒い呪いの液体を。
こともあろうに、ゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲み干したのだ。
常識で考えれば、唇に触れた瞬間に肉がただれ、一口飲み込んだ瞬間に喉から血を噴き出して絶命していなければおかしい。
なのに、現実はどうだ。
彼女は血反吐を吐くどころか、「ぷはぁ」と爽快な息を吐き出し。
苦痛に悶えるどころか、「胃に染み渡る」「目がシャキッとする」と満面の笑みを浮かべ。
あろうことか――「おかわりを寄越せ」「ポットごと直接飲ませろ」と、さらなる毒の補給を要求しているのだ!!
「ひ……ヒィィィッ……!?」
ジークスの喉から、引き攣った悲鳴が漏れた。
恐ろしいのは、それだけではなかった。
ジークスは神殿の特務工作員だ。魔力の視覚化に長けた彼の目は、エレオノーラの身体の周囲で起きていた「異常事態」を正確に捉えていた。
彼女は、毒を防御していなかったのだ。
解毒魔法の展開も、神聖結界による遮断も、解毒のポーションの摂取すらしていない。
ただ生身の胃袋で、神話の猛毒を丸ごと受け止め――そして、自らの内なる魔力だけで、まるでただの肉料理を消化吸収するかのように、毒素をエネルギーへと変換してみせたのだ。
毒を無効化したのではない。
毒を『喰らい』、自らの糧として吸収したのだ。
(ば……化け物だ……ッ!!)
ジークスの全身を、底知れぬ悪寒と恐怖の津波が呑み込んだ。
人間ではない。
あんなものは、人間の肉体ではない。
太古の邪神すら滅ぼした冥府草を、ただの「ちょっと苦い健康茶」として平然と飲み干す存在など、この世界のどこに存在する。
魔王か? 邪神か?
いや、違う。
彼女の身体から溢れ出ているあの光――毒を飲み干したことで、かえって純度を増して輝き始めたあの透き通るような白銀のオーラは、紛れもなく至高の神聖力そのものだった。
(あのお方は……あのお方は、神の肉体を持っておられるのだ……! 神代の猛毒すらも寄せ付けず、あらゆる穢れを自らの内で浄化し、光へと変えてしまわれる……! シルヴァン様の仰っていたことは、真実だったのだ……! あのお方こそが、神がこの地上へ遣わされた、唯一無二の【生ける神性】……真の聖女様だったのだァッッ!!)
ジークスの心の中で、長老派への忠誠などという矮小な感情は、一瞬で消し炭となって吹き飛んだ。
残ったのは、神仏の前に立たされた一個の矮小な罪人としての、底知れぬ畏怖と、魂の震え。
(我らは……我ら旧神官派は、一体何という御方に仇なそうとしていたのだ……!? 神の化身に毒を盛るなど……神への最大の叛逆……! 魂ごと地獄の業火で永遠に焼かれても足りぬ、万死に値する大罪ではないか……!!)
「ひ、ヒィィィィィッ……! お許しを、お許しをぉぉぉぉっ……!」
ジークスは魔導眼鏡を放り出し、泥まみれになりながら草むらを這いずり回った。
歯の根が合わず、ガチガチと音を立てて震え、失禁寸前の恐怖で涙と鼻水を垂れ流しながら、彼は脱兎のごとく神殿へ向けて逃げ出した。
一刻も早く、あの愚かな長老たちに伝えねばならない。
手を引け、と。
あの御方は、人間が手を出していい存在ではない。
今すぐ自首し、神仏の前に額を擦り付けて許しを請わねば、神殿そのものが神の雷によって地上から消滅させられるのだ、と――!
***
「……あー、美味しかった! 身体が軽いわ!」
ジークスが恐怖のあまり狂乱しながら逃げ去っていったことなど露ほども知らず、私は二杯目の紅茶を優雅に飲み干していた。
いやあ、素晴らしい。
全身に活力がみなぎっている。
前世で栄養ドリンクをキメて、終電間際のオフィスでゾーンに入った時のあの無敵感が、副作用の動悸や息切れなしで完全に再現されているのだ。
「お気に召していただけて何よりでございます。ベルマン商会には、明日以降もこの茶葉を最優先で確保するよう手配させておきます」
「ええ、よろしくねリディエ! 毎朝飲みたいくらいだわ!」
私は満面の笑みを浮かべ、ガゼボの長椅子の上で気持ちよく背伸びをした。
これなら、いくら昼寝をしても頭が痛くなる心配はない。
美味しいスイーツを食べて、効き目抜群のエナジー紅茶を飲んで、午後はふかふかのベッドで心ゆくまで二度寝を貪る。
これぞ、私が目指した究極の貴族令嬢ライフだ。
「ふふふ……最近は誰からも邪魔されないし、本当に平和ね。このままいけば、誰にも文句を言われずに、一生ダラダラ遊んで暮らせるんじゃないかしら?」
青空を見上げながら、私は能天気に微笑んだ。
――だが、その時の私は、知る由もなかったのだ。
私が「ちょっと苦いエナジードリンク」として飲み干したその一杯が、王都の宗教界の勢力図を一夜にして根底から覆し、翌朝、神殿の最高幹部たちが全員揃って丸坊主になり、公爵邸の門前に土下座の列を作るという、前代未聞の怪現象を引き起こすことになろうとは――。




