第18話:闇の支配者の涙目と、美しい石畳の完成
西の空が、燃えるような茜色から深い紫紺へと移ろい始めていた。
夕暮れの冷涼な風が王都の屋根を吹き抜けていく中、私は馬車の窓から顔を出し、眼下に広がる光景をまじまじと見下ろしていた。
「……うっそでしょ。本当にできちゃったわけ?」
思わず素っ頓狂な声が口をついて出た。
わずか数時間前まで、そこは王都で最も薄汚れたドブ川のような泥濘だった。
長年の雨水とヘドロが混ざり合い、腐敗臭を放つ水たまりが口を開け、通りかかる馬車の車輪を呑み込み、私の純白のシルクドレスに致命的な泥跳ねをお見舞いした、あの忌まわしき悪夢の未舗装路。
それが、どうだ。
――カツン、カツン。
馬車を降りた私のハイヒールが、心地よい澄んだ乾いた音を路面に響かせた。
足元に広がっていたのは、夕日を浴びて淡い琥珀色に照らし出された、息を呑むほどに美しい石畳の大通りだった。
グランヴェル公爵家の建材倉庫から力づくで運び出させた、最高級の白御影石。
職人が半年かけて磨き上げるような硬質な石材が、寸分の狂いもなく、まるで巨大なパズルのピースのように隙間なく敷き詰められている。
水たまりは一つとして残っていない。
泥のぬかるみも、漂っていた悪臭も完全に消え去り、路面の中央はわずかに高く、両脇には計算された傾斜で雨水を逃す見事な排水溝まで掘り込まれていた。
「……これ、ほんの半日で素人が作ったの? 前世の道路公団でもここまで爆速で舗装工事を終わらせられないわよ」
私の呟きに、背後に控えていたリディエが手帳を片手に淡々と応じた。
「お嬢様が命じられた『一時間おきの休息』と『無制限の牛肉シチュー支給』、そして何より『日没までの完成で金貨三枚』という前代未聞のインセンティブが、作業員たちの潜在能力を限界突破させたようでございます。元石工、元左官、元舗装職人といった腕利きの元技術者たちがスラム中から名乗りを上げ、完璧な指揮系統のもとで作業が完遂されました」
見渡せば、新しく敷かれた石畳の両脇には、泥と汗にまみれた数百人の男たちが、ツルハシやスコップを手に直立不動で整列していた。
全員が息を荒らげ、全身から湯気を立ち上らせている。
疲労困憊のはずだった。
しかし、その瞳には淀んだ絶望など微塵もなく、まるで大一番の合戦を勝ち抜いた精鋭兵のような、誇らしげな熱気が満ち満ちていた。
「え、エレオノーラ様……!」
列の先頭から、一人の大男が進み出てきた。
昼間に過呼吸で倒れかけ、牛肉シチューを泣きながら平らげていた元石工のガストンだ。
彼は泥にまみれた作業着のまま、私の足元に膝をつき、両手で路面を指し示した。
「ご命令通り……日没までに、この区画の泥道をすべて敷き詰めました! 石の継ぎ目には水を通さぬよう石灰と樹脂を流し込み、基礎には割栗石を二層に敷いて叩き固めてあります! 重量級の荷馬車が十台すれ違おうと、決して軋みも沈みもいたしません!」
「……へえ、随分と頑丈に作ってくれたものね」
私は組んだ腕の隙間から、爪先でトントンと御影石の表面を叩いてみた。
揺るぎない硬度。泥の一片すら靴底に付着しない。
これなら、どんなに大雨が降ろうと、馬車が跳ね飛ばす汚水に怯える必要はない。
「よし! これで泥跳ねの心配なく、いつでも『カフェ・ド・フルール』にパフェを食べに行けるわね!」
私は心底満足して、パンと手を打ち合わせた。
ドレスを一着ダメにした恨みは深かったが、これで目的は完全に達成された。
明日からは、お気に入りの白い服を着て、誰にも邪魔されずに美味しいケーキを買いに来られるのだ。
「クリストフ!」
「は、はひっ! ここに!」
「約束通り、作業に関わった全員に金貨三枚を今すぐ耳を揃えて配りなさい! 一銭でも出し渋ったら、あなたの今月の給与明細を白紙にしてあげるわよ!」
「滅相もございません! すでに金貨袋の山を馬車から降ろさせております!」
クリストフが合図を送ると、公爵家の従者たちがずっしりと重い麻袋を次々と広場に運び込み、整列していたスラムの男たちへと手渡していった。
ジャラリ、と重厚な黄金の音が夕暮れの街に響き渡る。
「う……うわああああっ!」
「本物の金貨だ……! 三枚、間違いなく三枚あるぞォッ!」
「これで……これで子供たちに新しい服が買える! 薬が買えるぞ……!」
男たちが金貨を額に押し当て、泥だらけの顔を涙でぐしゃぐしゃに歪ませて歓声を上げる。
お礼を言おうと詰め寄ってくる男たちを前に、私は心底めんどくさそうに手をヒラヒラと振った。
「感謝なんていらないわよ。私はただ、自分の足元が汚れるのが嫌だったから、金であなたたちを買い叩いただけだわ。さあ、用が済んだならさっさと帰って、お風呂に入って寝なさい! 私も帰って寝るんだから!」
言い残し、私はドレスの裾を翻して馬車へと乗り込んだ。
お礼を言われる筋合いなどない。
私はただの我儘な悪役令嬢として、公爵家の富を身勝手に浪費し、スラムの住人をこき使っただけなのだ。
明日には貴族院の重鎮たちが「公爵令嬢がスラムの浮浪者に大金をばら撒いて公共事業を私物化した!」と激怒し、弾劾状を叩きつけてくるに違いない。
すべては計算通り、計画通りだ。
「出しなさい、リディエ」
「かしこまりました」
馬車が滑らかに発進する。
新しく敷かれた御影石の上を走る車輪は、ガタつき一つなく、まるで鏡の上を滑るように静かだった。
窓の外を見れば、ガストンを筆頭にした数百人の住人たちが、遠ざかる馬車に向かって深々と額を地面に擦り付け、祈るように両手を合わせているのが見えた。
「エレオノーラ様……! 慈愛の聖女様万歳ッ!」
「俺たちの命の恩人だ……! エレオノーラ様に神の祝福あれェェェッ!」
夕焼けの空に響き渡る熱烈な祈りを聞き流しながら、私は「ふふん、今に見ていなさいよ」と鼻歌を歌っていた。
――しかし。
その時、私が「パフェのための快適な散歩道」として敷き詰めさせたその分厚い石畳の、まさに【真下】では。
王国の存亡を揺るがすレベルの、前代未聞の阿鼻叫喚が吹き荒れていたのである。
***
「……おい。何が起きている。説明しろ」
薄暗い地下室の天井から、パラパラと乾いた土埃が落ちてきていた。
ランプの鈍い光の下、テーブルの上の帳簿を睨みつけていたカシアン・オルロフは、眉間をピキリと痙攣させながら顔を上げた。
銀縁眼鏡の奥の灰色の瞳には、隠しきれない苛立ちと、底知れぬ嫌な予感が渦巻いている。
ここはスラム街の地下数十メートルに張り巡らされた、古代の廃坑道を利用した巨大地下空間。
隣国バルディニア帝国の特務工作機関が、十数年の歳月と莫大な資金を投じて構築した、王国最大の非合法拠点――【帝国の影】だった。
地上のスラム街の劣悪な環境。
深い泥濘、入り組んだ長屋、徘徊する浮浪者、そして衛兵すら近寄らない最悪の治安。
それら全てが、この地下アジトを隠蔽するための「完璧なカモフラージュ」として機能していたのだ。
スラムの貧民にわずかな小銭を握らせて見張りをさせ、泥道に紛れ込ませた秘密の昇降口から密輸物資や暗殺部隊を王都内へと送り込む。
王宮の騎士団すらその存在に気づけない、絶対不可侵の地下要塞のはずだった。
それなのに。
先ほどから、頭上――天井の岩盤の向こうから、ドスン、ドスンと響く無数の杭打ちの音と、地響きのような大振動が鳴り止まないのだ。
「報告はどうした! 地上で何が起きているのかと聞いているんだ!」
「は、会頭……ッ! それが……!」
坑道の奥から、工作員の男が転がるように駆け込んできた。
顔面は蒼白、呼吸は乱れ、額からは冷や汗が吹き出している。
「地上への第一連絡路、および第三脱出路のハッチが……開きません!」
「……何だと?」
カシアンは立ち上がった。
「開きませんとはどういうことだ。あそこの隠し扉は、地上の崩れかけた掘っ建て小屋の床下、泥炭のぬかるみに偽装されているはずだろう。外から鍵でもかけられたというのか?」
「い、いえ……! 鍵などという生易しいものではございません! 上から……とんでもない質量の【岩石】が、隙間なく敷き詰められているのです!」
「岩石……?」
「は、はい! 外へ出ようとハッチを押し上げようとしたのですが、ピクリとも動かず……ノミで突いて確認したところ、厚さ三十センチを超える最高級の白御影石が、何十枚も何百枚も、通路の真上に敷設されております! 完全に……物理的に封鎖されています!!」
「な……ッ!?」
カシアンの喉から、間の抜けた呻きが漏れた。
白御影石? スラム街の泥道に?
何を言っているんだコイツは。スラムのドブ泥の上に、なぜ貴族の宮殿に使うような最高級建材が敷かれているというのだ。
「他の出口はどうした!? 港湾部へ抜ける密輸用の第二通路は!?」
「だ、駄目です! あそこも排水路の改修と称して、上から大量の石灰モルタルを流し込まれ、出口ごと固められました!」
「物資搬入用の昇降リフトは!?」
「リフトの出口があった空き地には、現在、公爵家の最高級敷石が山積みにされており、重量超過でワイヤーが破断いたしました!」
「ば……馬鹿な……ッ!!」
カシアンは机を激しく叩いた。
全身の血の気が、サァーッと引いていく。
全滅だ。
十数年かけて築き上げた、地上へ通じる極秘ルートのすべてが――たった半日のうちに、完全に、寸分の狂いもなく、物理的に圧殺・封鎖されたのだ。
「誰が……誰がこんな真似を指示した!? 王宮の近衛か!? 神殿の異端審問官か!?」
「そ、それが……指示を出したのは、王家でも神殿でもありません……!」
「なら誰だ!!」
「……エレオノーラ・フォン・グランヴェル筆頭公爵令嬢ですッ!!」
――ヒュッ。
カシアンの喉が、引き攣った音を立てて凍りついた。
「エレオノーラ……また、あの女か……!?」
膝から崩れ落ちそうになるのを、カシアンは机の端を掴んで必死に堪えた。
頭の中で、バラバラだったピースが、恐ろしい速度で一つの絵を結んでいく。
(夜会の暗殺を予見し、あえてドタキャンして警備を動かして未然に防いだ……。
我が商会が仕掛けた小麦の買い占めテロを看破し、圧倒的な私財で全在庫を奪い取って市場を防衛した……。
そして……今度はこれか……!?)
カシアンの背筋を、巨大な氷柱で背骨を撫で回されたような、戦慄の悪寒が駆け上がった。
(あの女……最初から知っていたのだ。このスラム街の地下に、我が帝国の心臓部が潜んでいたことを……!)
カシアンの猛烈な深読みが、光速を超えて暗黒の深淵へと突入していく。
(なぜ、軍隊を動かさなかった? なぜ、騎士団を率いて踏み込んでこなかった? ……そうだ、下手に軍を動かせば、我がアジトは警戒して地下通路から王都の外へと逃亡する! 証拠を隠滅され、首謀者を取り逃がすことになる!
だからこそ……あの女はあえて『ドレスが泥で汚れて癇癪を起こした』という茶番を演じたのだ……!!)
カシアンの額から、大粒の脂汗がボロボロとこぼれ落ちる。
(『ドレスが汚れたから道を直せ』という完璧な口実! それによって、何の手続きもなしに、誰にも敵意を悟らせることなく、大量の資材と作業員をスラム街へと送り込んだ!
しかも……あろうことか、我が商会が情報源や手足として利用していたスラムの貧民たちを、破格の日当と食事で丸ごと買収したのだ!
金を手に入れた貧民どもは、もはや我が商会の端金などに見向きもしない! 奴らにツルハシを握らせ、自らの手で、自らの住処の地下にある我がアジトの出入口を埋め立てさせた……!!)
「な、なんという……なんという冷徹にして悪魔的な策略だ……ッ!!」
カシアンは自らの両手で顔を覆い、絶望の嗚咽を漏らした。
軍隊を一兵も動かさず。
血を一滴も流さず。
ただの「我が儘な令嬢の思いつきによる公共工事」という完璧な合法の仮面を被ったまま、帝国の誇る特務工作機関の喉元を、分厚い御影石で物理的に踏み潰してみせたのだ。
「かい、会頭……! さらに悪い知らせがございます……!」
工作員が、もはや泣きそうな声で書類を差し出してきた。
「地上を通り抜けた衛兵の報告によりますと……あの泥道が完璧な石畳に舗装されたことで、王都近衛騎士団の騎馬パトロール隊の巡回ルートが変更されました……! これまで泥濘を避けて通らなかった近衛の重装騎兵が、五分おきにあの通りを疾走しております!」
「……っ!」
「さらに、大金を手に入れたスラムの住人たちが、治安の維持を叫んで自警団を結成いたしました! 『エレオノーラ様が下さった美しい道を汚す不届き者は許さん』と、路地裏の不審者を片っ端から衛兵に通報しております! 我が商会の末端の構成員が、すでに十二名、身元を怪しまれて捕縛されました……!」
「終わりだ……」
カシアンの手から、書類がハラハラと床に落ちた。
完璧だった。あまりにも完璧すぎて、笑いすら起きない。
出入口を封鎖され、退路を断たれ、地下に閉じ込められた工作員たち。
地上に出れば、ピカピカの石畳の上を近衛騎士が巡回し、かつて味方だったはずの貧民たちが目を光らせて通報してくる。
スラム街の闇を隠れ蓑にしていたネズミたちは、太陽の光の下へと完全に引きずり出されたのだ。
帝国の十年におよぶ王都侵略計画は、たった半日の「お散歩用道路工事」によって、文字通り更地にされて消滅したのである。
「エレオノーラ・フォン・グランヴェル……」
カシアンは膝をつき、薄暗い地下室の天井を見上げた。
その分厚い岩盤の向こうには、今頃、あの深紅の瞳を持つ怪物が、優雅に紅茶を傾けているはずだ。
最初から、すべて見えていたのだ。
王都の光も、闇も、地下に蠢く帝国の陰謀も。
彼女にとっては、国家転覆を狙う帝国の特務機関など、ドレスの裾についた泥水の一滴にすら満たない、路傍の小石に過ぎなかったのだ。
「……勝てるわけが、ない……」
カシアンの銀縁眼鏡が、床に落ちて鈍い音を立てた。
敵対すれば、次は間違いなく一族諸共、存在そのものを歴史から消される。
生き残る道は、ただ一つ。
「……会頭?」
「……オルロフ商会の全資産、全帳簿をまとめろ」
カシアンは震える声で、しかしはっきりと命じた。
その瞳から、帝国の密偵としての誇りは完全に消え失せていた。
そこにあるのは、絶対強者の軍門に下る敗残兵の、冷え切った恭順だけだった。
「我が商会はこれより、帝国本国との通信をすべて遮断する。……そして、この地下を掘り進めて公爵邸への抜け道を作り……エレオノーラ閣下の御前に、我が商会の首輪の鎖を差し出す」
「ひ、平伏するのですか……!? あの悪魔のような令嬢に……!」
「悪魔ではない……!」
カシアンは床に拳を叩きつけ、血を吐くように叫んだ。
「あのお方は……世界の盤面を支配する、真の支配者だ……! あの御方の足元に侍ることこそが、この大陸で生き残る唯一の道なのだ……!!」
地下の暗闇に、闇の支配者の涙と絶叫が木霊していた。
***
――そして、その頃。
公爵本邸の豪華絢爛なバスルームでは。
「ふあぁぁぁ……極楽、極楽……。やっぱり歩き回った後は、薔薇の花びらを浮かべた熱いお風呂に限るわねぇ」
私は大理石の巨大なバスタブに肩まで浸かり、ふわふわの泡を手ですくいながら、幸せそうに息を吐き出していた。
泥のついたドレスはリディエに頼んで即座に処分させたし、足元にはもう泥道もない。
明日からは、新しくできた綺麗な石畳を通って、優雅にカフェへ通い放題だ。
「お嬢様、お風呂上がりの冷たいマンゴージュースをご用意いたしました」
「ありがとうリディエ。気が利くわね」
グラスを受け取り、喉を鳴らして飲み干す。
濃厚な甘酸っぱさが、疲れた体に染み渡る。
「ふふ……これで明日あたり、貴族院から『スラム街で勝手な工事をして職権乱用だ!』ってお叱りの手紙が届くはずよ。そうしたら私は『何が悪いの? 私のドレスのほうが道より大事よ!』って開き直ってやるわ。そうすれば、今度こそ悪徳令嬢として国外追放……南の島への道が拓けるはずだわ!」
湯船の中で、私は勝利を確信して足をパシャパシャと揺らした。
自分の我儘工事が、王都最大の裏社会組織を壊滅させ、帝国の最高幹部を完全降伏に追い込んでしまったことなど、露ほども知らずに。
「さあ、明日はどんな悪事を働いてやろうかしら! 私の自堕落ニート生活への道は、まだまだこれからよ!」
夜の静寂の中、悪役令嬢の能天気な高笑いが、湯気とともにバスルームへと響き渡っていたのだった。




