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第16話:泥水の一滴はドレスの命取り! 悪役令嬢、スラム街の全撤去(物理)を叫ぶ

「……もう嫌。屋敷に居場所がない。自室のベッドすら、あの銀髪神官の妄念に侵食されている気がするわ……!」


公爵邸の馬車の中、私は本革のシートに深々と体を沈め、窓の外を流れる王都の景色を恨めしそうに睨みつけていた。

あの筆頭神官シルヴァン・エデルシュタインが公爵邸に殴り込んできてから、まだ数日しか経っていない。

自室に張った「エアコン結界」の余波が、千年間地下に溜まっていた古代の瘴気を消し去ったとかいう、意味不明な奇跡のせいで、あの腹黒美形神官は完全にネジが吹き飛んでしまったのだ。


『エレオノーラ様、今朝も貴女様の神聖なる御姿を夢に拝見いたしました。神殿の聖女室を改装し、最高級の羽毛布団を三百枚敷き詰めてお待ちしております』

『本日の祈祷は全てエレオノーラ様に捧げました。貴女様が望まれるなら、神殿法を改正して昼寝を国教の教義に組み込みます』


毎朝届く、神聖な金文字で書かれた羊皮紙の手紙。

枚数は日に日に増え、今や一束の厚みが電話帳レベルに達している。手紙を運んでくる神官たちも、玄関で「聖女様のお屋敷だ……!」と涙を流して門柱に抱きつく始末だ。

王太子レオポルトが忠犬化し、騎士団長マティアスが私設護衛化し、そこへ神殿のトップまでが狂信的なファンクラブ会長として参戦してきた。

公爵邸にいても、どこからか熱烈な視線を感じて気が休まらない。

息が詰まる。窒息死しそうだ。


「リディエ、私は今日、絶対に俗世の快楽を貪るわよ。聖女だの信仰だの、小難しい戯言は全部カロリーの海に沈めてやるんだから!」


私が鼻息荒く宣言すると、向かいの席に座る専属侍女のリディエが、手帳から顔を上げて静かに頷いた。


「賢明なご判断かと存じます。王都中央広場に面した高級サロン『カフェ・ド・フルール』にて、本日より季節限定の【初夏摘み完熟マンゴーと黄金桃の特製タワーパフェ】が提供開始となっております。公爵家の名義で最上階の特別個室を押さえてございます」

「素晴らしいわリディエ! それよ、今の私に必要なのはそういう分かりやすい贅沢なのよ!」


私は膝の上に広がるスカートの裾を、うっとりとした手つきで撫で下ろした。

今日の外出のために、私はグランヴェル公爵家の威信をこれでもかと注ぎ込んだ、特注のドレスを身に纏っていた。

東方の霊蚕から紡ぎ出されたという、純度百パーセントの最高級ホワイトシルク。

光の当たる角度によって真珠のような淡い虹色の光沢を放ち、裾には王室御用達の刺繍職人が三ヶ月かけて手縫いしたという、繊細極まりない白百合のレースがふんだんにあしらわれている。

羽毛のように軽く、風を孕めば優美に揺れる、まさに芸術品。一着で平民の一家が十年は遊んで暮らせるという、目の飛び出るような超高級ドレスだ。


「見てリディエ、この完璧な白! 一点の曇りもない純白よ! これぞ貴族の贅沢、これぞ特権階級の勝利の証だわ!」


前世の社畜時代、私は白の服なんて絶対に買えなかった。

満員電車の埃、オフィスのコピー機のトナー、デスクで急いで流し込むコンビニのカップ麺のスープ、終電間際の居酒屋の油煙……白いブラウスを着ていこうものなら、夕方には必ず何かしらのシミがつき、泣きながら酸素系漂白剤に漬け込む羽目になっていたからだ。

黒、紺、グレー。汚れの目立たない暗い色のスーツばかりを着て、自分自身までオフィスの景色に同化させていたあの惨めな日々。

だが、今の私は違う。

どれだけ汚れても、二度と着ないで捨ててしまえるだけの無限の富がある。

この純白のドレスは、私が「二度と社畜には戻らない」という決意の象徴なのだ。


「お嬢様、間もなく目的地付近でございますが……少々道が混み合っております」


御者台からの声に、私は眉をひそめた。

馬車が速度を落とし、大通りから一本入った側道へと曲がっていく。

カフェの正面玄関前の大通りで水道管の点検工事が行われているらしく、馬車はカフェの裏手、商業区とスラム街の境界線に位置する狭い連絡路を通らざるを得ないようだった。


「仕方ないわね。ここからならカフェの裏口まで歩いてすぐでしょう。馬車を降りるわ」

「お、お嬢様! お待ちください!」


馬車のステップの横から、慌てた声とともに転がり込んできたのは、同行していた筆頭執事のクリストフだった。相変わらず手には胃薬を握りしめ、顔面を蒼白にしている。


「この辺りは王都でも治安のよろしくない、スラム街との境界区画でございます! 道路の舗装も行き届いておらず、泥濘やゴミが散乱しておりますぞ! 公爵令嬢様のような高貴なお方が、足をお付けになるような場所ではございません!」

「大げさねクリストフ。ほんの数十歩歩くだけじゃないの。私のこの完璧な優雅さで、泥道だろうがレッドカーペットに変えてみせるわよ」


私はクリストフの制止を鼻で笑い飛ばし、御者が差し出したステップへと優雅に右足を下ろした。

初夏の風が吹き抜け、シルクのドレスがふわりと広がる。

頭上には抜けるような青空。

美味しいパフェが待っている。

私の気分は最高潮だった。


――そう、その瞬間までは。


ガタゴトゴトッ!

バシャッ!!


「……え?」


すぐ脇の路地を、野菜を満載にした荷車が猛スピードで通り抜けていった。

木製の車輪が、路面にできた深く濁った水溜まりを、容赦のない勢いで踏み抜いたのだ。

跳ね上がる、黒褐色の汚水。

スローモーションのように視界が引き延ばされる。

飛び散る泥の飛沫。

それは宙を描き――私の、あの純白の、真珠のように輝いていた最高級シルクドレスの裾へと、一直線に降り注いだ。


ピチャッ。

ピチャピチャッ。


乾いた大理石ではなく、ドブ水とヘドロが混ざり合った、どす黒い泥水。

純白の白百合のレースの上に、無残な黒い斑点が、まるで呪いの刻印のように点々と咲き誇った。


「…………」


静寂。

世界から、すべての音が消え去った。


「お……お嬢様……?」


クリストフの引き攣った声が、遠くから聞こえる。

リディエが珍しく、スッと目を見開いて息を呑む気配がした。

だが、今の私の耳には、何一つ届いていなかった。


視界が、真っ赤に染まっていく。

泥。

汚水。

茶色いシミ。

私の脳裏に、前世の忌まわしい記憶の蓋が、爆音を立てて吹き飛んだ。


――雨の日の月曜日。

ボーナスをはたいて買った、生まれて初めてのブランド物のスーツ。

それを着て満員電車に乗り込んだ瞬間、隣のサラリーマンが持っていた濡れそぼったビニール傘を、無造作に太ももに擦り付けられた、あの冷たい感触。

――大雨の交差点。

客先へのプレゼン直前、猛スピードで水たまりを跳ね上げて走り去った大型トラック。頭から泥水を浴びせられ、ずぶ濡れになりながら、それでも「申し訳ありません」と客先に頭を下げ続けた、あの屈辱の午後。

――深夜のコインランドリー。

落ちない油染みをブラシで擦りながら、情けなさと過労で涙が止まらなくなっていた、あの惨めな夜。


(……許さない)


ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!

私の体の奥底から、黒いオーラが実体化して立ち上った。

前世の社畜時代に溜まりに溜まった、理不尽に対するすべての怨嗟。

そして、今世でようやく手に入れた「誰にも邪魔されない至高の安寧」を、たった一滴の泥水によって土足で踏みにじられたという、純度一万パーセントの理不尽への激怒。


「……なんなの」


私の口から、地を這うような重低音が漏れ出た。


「お、お嬢様……? す、すぐに予備のお召し物を――」

「なんなのよ、この道はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」


ドガァァァァァンッ!!


私の絶叫とともに、足元から無自覚の古代衝撃波が炸裂した。

敷石のないぬかるんだ泥土が四方八方へと吹き飛び、周囲の壁がビリビリと激しく震動する。

私はドレスの裾を鷲掴みにし、般若のような形相で足元の路面を睨みつけた。


「なんなのこの不潔極まりないドブ道はァッ! ぬかるみ! ヘドロ! 水たまり! どこを見ても泥! 泥! 泥! 私の純白のシルクが! 私の至高の白百合レースが! こんな薄汚い泥水のせいで台無しじゃないのよぉぉぉぉぉっ!!」


怒髪天を衝くとはこのことだ。

私の緋色の瞳には、もはや理性など欠片も残っていなかった。

あるのはただ一つ――この私のドレスを汚した、忌々しい「泥道」そのものに対する、絶対的な抹殺の意志だけだ!


「クリストフッッ!!」

「ヒ、ヒィィィッ! は、はいッ! 何でございましょうかァッ!?」


クリストフが悲鳴を上げながら直立不動で硬直する。

私は扇子の親骨がミシミシと音を立てるほど強く握りしめ、その切っ先を、目の前に広がる薄暗いスラム街の路地へと突きつけた。


「今すぐ! グランヴェル公爵家の金庫を叩き割りなさい! 王都にある全石材ギルド、全土木ギルド、全職人を力づくで買い占めるのよ!!」

「は、はひっ!? 土木ギルドを……!?」

「聞こえなかったかしら!? この区画の泥道を、端から端まで、一寸の隙間もなく最高級の御影石で埋め尽くしなさいッ!! 水たまり一つ、ぬかるみ一つ、土の粒子一つ残すことは許さないわ! 私の視界に入るすべての地面を、鏡のように平らでピカピカの石畳に変形させなさい!! 金ならいくらでも使いなさい、公爵家の資産が尽きるのが先か、王都の地面が石で埋まるのが先か、勝負よォォォッ!!」


狂気の沙汰だった。

ドレスの裾が汚れた。たったそれだけの理由で、王都の一区画を丸ごと石畳で埋め立てろと叫ぶ公爵令嬢。

私利私欲の極み。

身勝手な癇癪の頂点。

これぞ、歴史に名を残すレベルの暴君、悪徳令嬢の所業である。


(ふふ……ふははは! どうかしら! これなら文句のつけようがない悪行でしょう! ただの我儘で街の景観を破壊し、公共事業を私物化してやったのよ! 早く私を『度を越した我儘女』として貴族院で弾劾しなさい! そして南の島へ追放なさい!!)


私は肩で息をしながら、内心で高笑いをキメていた。

パフェの気分は完全に吹き飛んだが、この特大の悪行をぶち上げられたのなら、ドレスの一着くらい安いものだ。

これで今度こそ、私の悪名は王都中に轟くはず――。


――しかし。

私が怒り狂っていたその現場を取り巻く「空気」は、私の意図とは全く異なる、凍りつくような絶望に支配されていたのである。


***


「……ヒッ……」


薄暗い路地の物陰から、ボロ布を纏った少年が、震えながらその光景を見つめていた。

少年の名はルカ。

王都のスラム街で生まれ育ち、残飯を漁り、路地裏の泥水をすすって生きてきた孤児だった。


スラム街の住人にとって、貴族とは「決して関わってはならない天上の悪魔」だ。

気まぐれに馬車で通りかかり、邪魔な平民を鞭で打ち据え、不敬を理由に衛兵に突き出す冷酷な支配者たち。

その中でも、今、目の前に立っている女性の纏うオーラは、あまりにも規格外すぎた。


深紅の瞳を血走らせ、白磁の肌を怒りに染め、全身から大気を歪めるほどの凄まじい魔力を放つ、絶世の美女。

豪奢な黒塗りの馬車に刻まれた『覇竜と百合』の紋章。

グランヴェル筆頭公爵家。

国王すら頭が上がらない、この国の真の支配者の一人娘――エレオノーラ・フォン・グランヴェル。


「な、なんだ……あのお方は……」

「公爵令嬢様だ……あの悪名高き、我が儘放題の……」


崩れかけた長屋の隙間から、壊れた樽の物陰から、何十人ものスラムの住人たちが、息を殺して震え上がっていた。

彼らの耳に、エレオノーラの怒声が、雷鳴のように響き渡る。


『なんなのこの不潔極まりないドブ道はァッ!』

『端から端まで、一寸の隙間もなく最高級の御影石で埋め尽くしなさいッ!!』

『土の粒子一つ残すことは許さないわ!』


その言葉の意味を、スラムの住人たちは、最悪の形で解釈していた。


「……埋め尽くす……?」

「スラムを……俺たちの住処を……全部、石で埋めるって言ったのか……?」


住人たちの顔から、サーッと血の気が引いていく。

スラム街とは、王都の最底辺に生きる者たちが、法の手の届かない泥濘の上に掘っ建て小屋を建て、身を寄せ合って生きている吹き溜まりだ。

そこを「最高級の御影石で埋め尽くす」ということは――。


「立ち退きだ……! いや、立ち退きですらねえ! 俺たちごと、この街を更地にして塗り潰す気だ……!!」

「あのお方は……俺たちのようなゴミ虫が視界に入るのが許せねえんだ……!」

「ドレスを汚された報復に……スラム街ごと、俺たちを物理的に抹殺するおつもりなんだ……ッ!!」


恐怖。

逃げ場のない、圧倒的な権力者による無慈悲な殲滅宣告。

かつて隣国の軍勢を水流で押し流し、市場の小麦を一夜にして買い占めたという「怪物の令嬢」。

その彼女が、今度はこのスラム街に狙いを定めたのだ。

抵抗などできるはずがない。

公爵家の私兵が動けば、スラムの住人など虫ケラのように踏み潰され、その死体ごと分厚い御影石の下に埋葬されるに決まっている。


「母ちゃん……俺たち、殺されちゃうの……?」

「しっ! 声を出すんじゃないよ……! 目を合わせたら、その場で首を撥ねられるよ……!」


母親が子供の口を必死に塞ぎ、ボロ布の影へと押し込む。

屈強な浮浪者たちすらも、恐怖のあまり膝をガクガクと震わせ、壁に背中を押し当てて息を潜めていた。

誰一人として、逃げ出すことすらできない。

公爵令嬢エレオノーラの放つ、圧倒的な捕食者の覇気。

その前では、ただ震えて、死刑宣告の執行を待つことしかできなかったのだ。


***


「……はあ、はあ。言いたいことを言ったら、少し胸のつかえが取れたわ」


周囲の貧民たちが恐怖で心臓麻痺を起こしかけていることなど露ほども知らず、私は扇子でパタパタと胸元を扇ぎながら息を整えていた。

叫んだおかげで、前世のトラウマによるモヤモヤは八割方解消された。

もちろん、ドレスの泥染みは消えないが、まあ帰ったらリディエに頼んで処分してもらえばいい。


「クリストフ、私の言ったこと、分かったわね?」

「は、はひぃっ……! め、御影石……最高級の石材で、この区画を埋め尽くすのでございますね……! し、しかしお嬢様、この一帯をすべて舗装するとなると、莫大な人手と工期が……!」

「人手? そんなもの、金を積めばいくらでも集まるでしょうが! 工期? 明日よ! 明日の日没までに、私が歩ける綺麗な道にしなさい!」

「あ、明日ァァァッ!?」


クリストフが白目を剥いて卒倒しかけるのを、リディエが冷静に背中を支えて押しとどめた。


「お嬢様、本日のカフェの予約時間まで、あと十分となっております。裏口からの侵入であれば、ドレスの汚れを目立たせることなく個室へご案内可能でございます」

「そうね。パフェを食べなきゃやってられないわ。行くわよリディエ」


私は泥のついたドレスの裾をつまみ上げ、汚れた足元をこれ見よがしに睨みつけながら、大股でカフェの裏口へと歩き出した。


(ふふん、見ていなさいよ。明日には、公爵家の権力を振りかざした横暴な公共工事が始まるわ! スラム街の住民たちも『勝手に道を塞ぎやがって!』って怒り狂うはずだわ! 民衆のヘイトを稼いで、今度こそ追放エンドを勝ち取ってやるんだから!)


未来の自堕落ライフへの希望を胸に、私は意気揚々とカフェの扉をくぐった。

背後で、スラム街の住人たちが「死のカウントダウンが始まった」と絶望の涙を流していることなど、これっぽっちも気づかずに。

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