変わり始めた世界
退勤後、悠月が更衣室で私服に着替えて外に出ると、そこにはすでに澪が待っていた。
「お疲れ!この後一緒に何か食べに行かない?この近くにすごく美味しい居酒屋があるんだよ」
澪は開口一番、そう誘ってきた。
だが、悠月は賑やかな場所があまり好きじゃない。
それにこれから病院に星絵を見舞いに行くつもりでもあった。
「すみません、この後用事がありますので」
「そっか。じゃあまた今度ね」
そう言うと、澪は他の同僚を誘いに去っていった。
(さすが陽キャだな……)
同じく何時間も働いていたはずなのに、悠月はもう疲れてあくびをこぼした。
病院へ向かう途中、悠月はふと道端の木の根元にひっそりと咲く野花に目を留めた。
思わず足を止め、スマホを取り出してしゃがみ込み、写真を撮る。
悠月は綺麗なものや心が和む光景を見つけると、つい写真に収めてしまう癖がある。
どんなに素敵な景色でも、時間が経てばいつか色あせ、やがてこの世界から消えてしまう。写真なら、その時の美しさをずっと残しておけるから。
その少し孤独そうな花をじっと眺めていると、なぜかひまわりの姿がふっと頭に浮かんだ。
(……最近よく彼女と関わってるから、つい思い出しただけなんだろうな)
そう思いつつ、悠月は気にせず歩き続けた。
病室に着くと、ちょうど星絵が病院食を食べているところだった。
来たのが悠月だと気づくと、箸を止めて顔を上げた。
「月、ごはん食べた?」
「まだだよ、今腹減ってないし。残りを僕に押し付けようとするなよ」
「見透かされたか……」
「もっと食べないと、元気にならないぞ」
「あんたおじいちゃんかい?」
悠月は床頭台の上に、また新しいフルーツの盛り合わせが置かれているのに気づいた。
(今日も見舞いに来ていたのか)
その中からリンゴを一つ取り出し、洗面台で洗う。
「そうそう、ひまちゃん今日もお見舞い来てくれたよ」
「うん」
「それでね、今日もたくさん話したんだけど……あの子のこと、知れば知るほど、あんたたちって結構似てるなーって思ってさ。なんて言えばいいのかな……あの子もね、あんたと同じで、自分のためじゃなくて生きてる人なんだ」
そう言われて、悠月は昨日のひまわりとの会話を思い出した。
病室まで送っていく途中、彼女は、家族に決められた道をずっと歩かされ、厳しさに縛られてきたせいで、自分のために生きることができなかったのだと話していた。
けれど、悠月もまた『自分のために生きていない』タイプだが、それはあくまで自分の意志であって、強制されたわけではない。だから本質は全く違う。
「それに、強がりなところもそっくり」
「へぇー、まさかそんなに僕のこと分かってるなんてな?」
「当たり前でしょ。姉なんだから」
からかおうとした悠月に、星絵は威力のないチョップを頭にくらわせた。
「月は昔からあんまり友達がいないし、似てるとこあるあの子とは友達になれるかもよ?」
「痛ぇ……いきなり友達いないとか言われるなんて……」
「ごめんごめん、でもそれは事実でしょ?」
「くっ……!」
悠月は胸を押さえ、苦しそうな顔をしながら大げさに身をよじった。
星絵は時々、無意識のうちに天使のような優しい口調で悪魔みたいなことを言うから、もう慣れっこだ。
それに、友達がいないことなんて、実はあまり気にしていない。だからこれは、ただの演技に過ぎない。
「はいはい。本当にごめんね。ほら、あーん」
星絵はりんごを食べさせながら、自分の言ったことをごまかそうとしている。
目的は丸見えだけれど、悠月は素直に口を開けた。
*
星絵が休みたいみたいだったので、悠月は家に帰ることにした。ついでに、帰り道のコンビニでお弁当を買って、今日の晩ごはんにするつもり。
「……あの、すみません!」
ロビーを通りかかった時、眼鏡をかけたおじさんが悠月を呼び止めた。
「こんにちは、○○新聞の田中と申します。突然で申し訳ないんですが、少しお時間よろしいでしょうか?実はお聞きしたいことがありまして……」
そう言って差し出された名刺を、とりあえず受け取った。
でも、悠月は普段天気予報以外のニュースやテレビ番組を全く見ないので、この上に書かれた会社が本当に存在するのかどうかは知らなかった。
「最近この病院で、この写真の方を見かけたことはありますか?」
その男はスマホの画面をこちらに向けた。
そこに映っていたのは、お洒落な服に身を包み、まるでモデルのようにかっこいいポーズを決めた美少女。
その人は他でもない――ひまわりだ。
(この人、本当に記者なのか? 他人の写真なんか持ってて……なんだかストーカーっぽくない……?)
相手の正体と目的を疑いながらも、悠月の表情は微動だにしない。相変わらずのポーカーフェイス。
「すみません。見たことありません」
悠月にとって、嘘をつくのは呼吸と同じくらい簡単なことだった。
相手の目的が分からない以上、面倒ごとに巻き込まれる気はない。
幸い、田中はそれ以上しつこく食い下がらず、礼を言って別の場所へ歩いていった。
悠月が再び玄関へ向かおうとしたその時、細い人差し指がひょいっと彼の右肩をつついた。
「よっ」
振り返ると、背後にいたのは茶色のパーカーに長ズボンを着た人物。サングラスとマスクで顔を覆っており、どう見ても不審者だ。
「私だよ」
その人は、そっとサングラスを持ち上げ、美しい瞳をちらりと覗かせた。
やっぱりひまわりだった。
「何か用ですか?」
「ここだと話しにくいから、ついてきて?」
まるで悠月が必ずついてくると確信しているように、ひまわりはくるりと背を向け、そのまま歩き出した。
「はぁ……」
悠月はため息混じりに肩を落とした。
仕方なく、その背中を追いかけた。
「よし、ここならもう大丈夫かな」
人目の少ない場所まで来て、ひまわりはようやく足を止め、そのままベンチに腰を下ろした。
ひまわりは隣の席をぽんぽんと叩き、座れと促す。
けれど悠月はどうせすぐ終わるだろと高を括って、立ったままでいる。
「さっき、あの人との会話、聞いていましたか?」
「うん。聞こえちゃった。私のことバラさずにいてくれて、ありがとね」
ひまわりは微笑みを浮かべ、まるで最初からこうなることを予想していたかのような顔をしている。
「あの人はストーカーなんですか?」
「もしそうなら、守ってくれる?」
「……目の前で助けが必要な状況なら、助けるしかありません 」
「もう少し優しい言い方だったら、きっと感動しちゃってたかもね」
その返事に満足しているわけではなさそうなのに、どこか嬉しそうだった。
「他に用がなければ、先に失礼します」
「ちょっと、そんなに急いで行かないでよ!まだ話していたいんだもん」
「ですが……」
「お願い!ちょっとだけでいい!」
あんなに真っ直ぐ見つめられたら、無下にはできない。
悠月は少し迷ったが、結局観念した。
「……はぁ……分かりました。それで、何の話ですか?」
「えっと……」
ひまわりは視線を落とし、言葉に詰まった。どう切り出せばいいのか、迷っているようだった。
一瞬の沈黙の後、彼女は深く息を吸い込み、ゆっくりと顔を上げる。
その目には、さっきまでとは違う、はっきりとした覚悟の色が宿っている。
「ねぇ。医学部の学生だって聞いたんだけど、質問してもいい?」
「うん」
「もしさ、ある人が医者に余命を告げられて、唯一生きる可能性のある治療があったとしても、痛みが伴うから受けたくないと思った場合……その人って、予想より長く生きることってありえるのかな?」
この問題は深く考えなくても答えが出る。
なぜそんなことを聞くのかは分からないが、悠月はとりあえず、現実的な答えを返そうとする。
「一概には言えません。人それぞれ体の状態も違いますし、予想された余命を超えて生きる人も実際にいます。ごくまれですが、治療を受けなくても自然に症状が改善して、予想以上に長く生きるケースもあります。ただ……それは本当にまれなことです。可能性が全くないとは言えませんが、かなりまれだと思ってください」
「そっか……」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ」
ひまわりがわずかに苦笑を浮かべた。
その一瞬で悠月は察した。絶対大丈夫じゃない、と。
今日ファミレスで見た、彼女の母親が涙を流していた光景を思い出し、その想いはますます確信に変わる。
もしかするとひまわりは、治療の可能性がほとんどない病気にかかっていて、残された時間もわずかなのかもしれない。
それでも彼女は、悲しみを一切見せなかった。
平然とした態度を装い、自分は大丈夫なのだと信じ込ませるように。
けれど悠月には見えた。
その瞳の奥に潜む、言葉にならない『恐怖』が。
「人は明日の自分が生きているかどうかなんて予測できません。余命宣告された人も、健康な人も、次の瞬間に死ぬかもしれません。だから、心配するより今この瞬間を楽しむことが大事だと思います」
「おやおや、興味ない相手を慰めるなんて、意外と優しいじゃん」
「……たまたま昔どこかで聞いた話をふと思い出して、つい口にしただけです」
「はいはい、そういうことにしておくわ~。せっかくあなたがそう言ってくれたんだし、これからは一緒に人生を楽しんでくれる?」
「えっ?」
その真剣な表情は冗談を言っているようには見えない。
「だって、一人じゃつまんないもん。だから、付き合ってくれる?」
「……僕のような者と一緒にいても、きっとつまらないでしょう。人生を楽しみたいのであれば、もっと相応しい方がいらっしゃるはずです」
「嫌~だよっ!この役割は、あなたしかいないんだからね」
悠月にとって、ひまわりみたいなタイプは一番苦手だ。
別に頼まれるのが嫌なわけじゃない。ただ、ひたすらに面倒くさい。
でも今の流れを見る限り、これ以上断ったらたぶん逃げられない。
「……君、本当にわがままですね」
「ふふっ」
ひまわりは口元で笑いながら、いたずらっぽく舌をぺろりと出した。
もし、あの雨の日に出会っていなければ、自分の人生も、彼女の人生も、きっと何も変わらず、ただそれぞれいつも通りの道を歩き続けていたのだろう。
その笑顔を見た瞬間、悠月はそう思った。




